新刊『資本主義と、生きていく。』と人文知の3原則
品川さんの新刊『資本主義と、生きていく。』は、コミュニティで議論を重ねながら書き上げた一冊です。品川さん自身、この本を通じて「資本主義とは何か」「自分は何に追われているのか」を読者に考えてほしいと語ります。そして、その考えた結果を「めちゃめちゃ喋りたい」という思いから、いま多くのポッドキャストに出演しているといいます。
リチャードさんが特に惹かれたのは、序章にある「人文知を人生に活かす三つの原則」でした。この3つは、資本主義を語るためだけでなく、地に足をつけて生きていくために必要な視点だと品川さんも語ります。
リチャードさんは、この原則がSNSとの付き合い方にも通じると語ります。「頭の良さは遺伝で決まる」といったもっともらしい言説を鵜呑みにせず、距離を取ること。そして、勉強すればするほど「知らないことが増えていく」感覚に絶望しそうになるとき、それでも希望を見出す──そんなメンタリティーの大切さを、この本から受け取ったといいます。
品川さんの「困りごと」を掘る
今回のテーマは、いつも解説を求められる立場の品川さんの「困っていること」を聞くこと。西洋哲学も東洋哲学もカバーし、資本主義のしんどさの正体まで解き明かす品川さんですが、他人事と自分事は違うもの。冷静沈着なイメージの裏側を見たい、というのがリチャードさんとかがやきさんの狙いでした。
解決の糸口がいつでも見えていて、冷静沈着で対処しているイメージがあるんですよ。そうじゃないところを見たいなっていうことで。
品川さんはまず、下の男の子3人の「やんちゃさ」へのイライラや、自分のやりたいことへの切実な思いを挙げますが、それらは「もう過去」だと語ります。乗り越えた困難はどこかスイートで、当事者の生々しい困りごとには聞こえない──そんなやり取りのなかで、話は「いま」の塊へと進んでいきます。
レット症候群の長女と暮らすリアル
品川さんが「Nowの塊」として語り始めたのは、長女のことでした。長女にはレット症候群主に女児に発症する先天性の神経疾患。運動機能や言語の発達に重度の影響が出るが、周囲を見たり人と目を合わせたりする力は残る。という障害があります。小学4年生で特別支援学校に通い、毎日車で送っているといいます。
いま一番の心配は、年末から年始にかけて体調を崩し、てんかん発作を繰り返して何度も入院していること。背骨が歪む「側弯」によって臓器が押しやられることが一因ではないかと語ります。入院の見守りと、男の子3人の世話を夫婦で手分けする日々。「困ってはないんだけど、かわいそう」という、率直な言葉が印象的でした。
一方で品川さんは、長女がいること自体は「完璧に、結構いいこと」だと強調します。暗い話がゼロになってしまうほど、家族の中心的な存在なのだといいます。かがやきさんも、自分の娘が通う公立校の「知肢学級(特別支援学級)」の子どもたちとの交流を例に、障害のある子がいることで生まれる「調和」について語りました。
障害の方がいることによって、なんか調和が生まれてるような感覚があるんですよね。そういう役割を持って、もしかしたら生まれてきたのかなとか。
「オランダへようこそ」とユニークさの再定義
品川さんは、車椅子で長女と出かけるとき「誇らしい」と感じるといいます。パッと見て障害があるとわかる。でも近づけば目を合わせ、ニコッとしてくれる。その姿がなぜか誇らしく、嬉しいのだと。この感覚は人によってさまざまで、「一緒に出かけるのが嫌だった」「恥ずかしかった」という体験談もあることを、品川さんは丁寧に添えます。
その誇らしさの正体を探るなかで出てきたのが「オランダへようこそ障害のある子を育てる経験を「イタリア旅行を計画していたのに、着いたらオランダだった」という比喩で描いた詩。米国で書かれ、日本ダウン症協会などが紹介している。」という詩でした。イタリア旅行を楽しみにしていたのに、空港で「オランダへようこそ」と言われて驚く──それが障害児が生まれるときと似ている、という内容です。
この詩をきっかけに、品川さんは自分が「ユニークさ」に価値を感じていることに気づきます。かつては「一味違うね」と言われたい強迫観念のようなものがあった。でもいま、ユニークな家族がいることそのものが誇らしい。リチャードさんは、その質感が「俺ユニークだぜ」ではなく「優しいユニークさ」だと感じたと語りました。
生産性で測れない「存在の価値」
ここで話は「存在の価値」へと深まります。フリーランスとして働くリチャードさんは、うまくいかないとき「稼いでない俺に価値はあるのか」という思いに囚われることがあると打ち明けます。息子には「生きてるだけでいい」と思えるのに、その眼差しを自分に向けるのは難しい、と。
品川さんは、かつて「名誉」や「一目置かれること」に価値を感じていた時期があったと語ります。しかし、何もできなくても表情豊かで、目で何かを訴えかけてくれる長女の存在は、資本主義的な世界のなかで立ち止まって考える時間をくれる、といいます。
お金・名誉・成果。より高く、より速く、より強く。生産性や評価で価値を測る。
ただ、いること。生きているだけで嬉しい、尊い。生産性では測れない眼差し。
興味深いのは、レット症候群には「退行」という現象があること。かつてできたことが、できなくなっていくのです。品川さんの長女もハイハイができていた時期がありましたが、いまは自分で座ることも難しくなってきています。品川さんは新刊で「成長しなければいけない」という囚われを論じる際、この「退行しても価値がある」という感覚を頭に置いていたと語りました。
リチャードさんは、AIの登場で「一息入れている間にできたはずのこと」が増えすぎ、無償で誰かのために何かする時間のコストが勝手に大きくなる「優しくない世界」への違和感を語ります。そのプレッシャーは若者ほど強く、より優秀に・より秀でなければという圧力にさらされる──だからこそ、その仕組みを認識することが大事だと締めくくりました。
優しさの出所は浄土の教えにあった
対話の最後、品川さんは自分の優しさの半分は長女から来ているかもしれないと認めます。20代最後から今日まで、30代を丸ごと長女と過ごしてきたことで「性格も変わった」と。そして話は思想へと収束していきます。
前回のテーマが禅自力で修行し、自らを整えていくことを重視する仏教の一派。品川さんが番組前回で扱ったテーマ。だったのに対し、今回の「悲しみ」や「苦しみ」をテーマにする仏教は浄土の教え南無阿弥陀仏を唱え、阿弥陀仏の力(他力)に救いを委ねる教え。法然・親鸞・一遍らによって展開された。だと品川さんは語ります。
品川さんは西田幾多郎近代日本を代表する哲学者。「善の研究」などで知られる。「哲学は悲しみから始まらなければいけない」という言葉が引用された。の「哲学は悲しみから始まらなければいけない」という言葉を引き、人間は結局悲しくてつらいという仏教的感覚を語ります。そのとき、自分を律していく禅に対し、「もう無理だ」と他力に委ねる浄土の教えがある、と。品川さんは自分を形作るものについて「半分は長女、半分は阿弥陀様」と結びました。
自力。自分をシャキッと整えて、いい方向へ行こうとする教え。
他力(他力本願)。人間の悲しみ・苦しみを前提に、阿弥陀仏の慈悲に委ねる教え。
浄土宗を勧める一冊として、品川さんは柳宗悦民藝運動を提唱した思想家。『南無阿弥陀仏』などの著作がある。の『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)を挙げます。法然に始まり親鸞に受け継がれ、一遍で完成するという浄土の教えの流れを描いた薄い本で、20代半ばの品川さんは「魂を揺さぶられた」と語りました。奇遇にも、リチャードさんの母方の実家は浄土宗のお寺だといいます。
僕が悲しくなるのは違えなと思ったんですね。だって本人が、家族がこうやって楽しい話なんだって言ってシェアしてくれてる話だから。
まとめ
今回の対話は「困りごとを聞く」という切り口から始まりましたが、たどり着いたのは悲劇でも美談でもなく、「事実として、いてくれて嬉しい」という静かな確信でした。品川さんは長女のことを「自慢したい」「もっと世に出ていってほしい」とまで語ります。
生産性や成果で価値を測る資本主義の眼差しの外側に、「ただ、いること」を尊ぶ眼差しがある。それは特別な人だけのものではなく、少し見方を変えるだけで誰もが共有できる誇らしさなのかもしれません。「Care Today, Cure Tomorrow」──今日をケアするというシンプルな標語が、思いのほか深く響く回となりました。
- 新刊『資本主義と、生きていく。』の核となる「人文知の3原則」(個人視点・バランス・希望)は、SNS時代の処世術としても有効。
- レット症候群の長女との暮らしを、品川さんは「かわいそう」ではなく「ユニークで誇らしい」と捉え、家族の中心的存在だと語る。
- 「オランダへようこそ」という詩の「ユニークな経験」という言葉が、品川さんの価値観を象徴している。
- 何もできなくても「ただ、いること」に価値がある──生産性で測れない存在の価値が資本主義の外側にある。
- 品川さんの優しさの源は「半分は長女、半分は阿弥陀様」。悲しみを前提に慈悲に委ねる浄土の教えが根底にある。
