怒涛の収録を終えた深夜1時に浮かんだテーマ
番外編は、本編の収録を終えた深夜の空気の中で始まります。散歩を終えた二人が、いま浮かんだテーマを切り出します。
新創造論番外編。私、なりりんと。
しゅんすけ。
がお送りします。深夜1時。キャンドルナイトだね。さっきまで怒涛の収録を終えたわけですけど。どうですか、今の気分は。
居心地がいいですね。体を抜けてった感じ。これまで言葉にしきれなかったことが言葉となって出てったから、なんか楽な感じがあるかもしれない。
え、便秘すっきり的な?
どっちかっていうと毛穴から出たみたいな。
ああ、デトックスじゃん。
出るものが出るって大事ですね。
ああ、そうね。でも僕もなんか同じ感覚で。公園も歩いて一周して、色々とつらつら話してたんですけど、二人で今浮かび上がったテーマが、通り過ぎることについて。
僕は実は、しゅんちゃんたちと関わりたいと思い続けている一番の動機が、思い込みや争いを超える普遍性を見出したいっていう動機がすごくあって。
僕は東京都葛飾区で生まれ育ち、なかなか言葉の通じない人たちに囲まれて生きてきたので。だからめっちゃ受験勉強頑張ったんですよ。高校行って進学校で、偏差値が高くなると言葉が通じるんですよね。びっくりしたんですよ。なんか殴る前に喋ってると思って。
手が出る前にね。
いい人たちもいたけどね、葛飾区からね。大学に進学して開発経済学とか勉強して、貧困削減しなきゃみたいな大きな物語を感じて、卒論もそういうテーマで書いたし、NPO活動もしてた。でも今またそこに戻りたいかっていうと、全然そうは思えなくて。
今どちらかというと、争いとか暴力、思い込みを超える普遍性って何なんだろうっていうのを突き詰めて考えていくと、アート合宿に行き着くんだよね。だからすごい関わっていきたいなって改めて思ったし。
留まりやすい3つの居場所
しゅんちゃんは、人が身を置いて安定してしまう場所には、大きく3つのポイントがあると切り出します。
なんだけど、人は誰しも、自分の理想を掲げて何かやってたことがあるかもしれなくて。そこから通り過ぎていくっていうのはいかにして可能かっていう。さっきしゅんちゃんが言ってた、3つの通過ポイント。
僕が目撃している範囲において、そして僕自身もそうであった、人がそこに身を置くことで安定する場所ですね。
そうだ、思い出してきた。今日の収録で、適切なフィードバックって超大事だよねっていう話があって、その後しゅんちゃんが、適切なフィードバックをくれる人って自らも変容し続けてる人だよねって。
ああ、確かに。そうだそうだ。
自分が変容しているからこそ、他人の変容の痛みとか、そこで何が起きてるのかもつかめて、共感しながら適切なフィードバックをくれるんじゃないかっていう。でも変容するのってやっぱ怖い。ヤンキーも同じだと思うんだけど、奇抜で怖い格好をすることが共同体の仲間から認められて、安心安定する。
別の共同体から抜け出る手段とする行為そのものが、別の共同体に入る一つの承認ってことだもんね。
そうそう。僕の場合だと葛飾区のヤンキー、マジそれなんで。みんなズボンにチェーンぶら下げて、財布につないでケツに入れてんの。それかっこいいみたいな。そこから遠ざかるのってやっぱり怖いよねっていう。
自分の身の置き所が大きく見てみると3つあるかもしれないよねっていう話をナリスにして。一つ目が、大いなるもの。
スピリチュアリティに代表される、何かとつながっているとか、霊的なものを感じれているっていう。縄文だったり、レムリア、アトランティスっていう描写だったり、別の星とのつながりを自分の居場所とする、心の置き所にするっていうのが一つ。
もう一つが、数字で測れる世界。SNSのいいねもそうだし、資本主義におけるお金だったり、ありとあらゆる数値化するものに安心感を覚える世界。
もう一つは、世界のある痛み。世界のある痛みに対して何かできている私であるという。この3つの、私以外を起点とする身の置き方、心のよりどころっていうのは誰しもがあると思うし、そしてとどまってしまうものであるかな。
そこにとどまってしまうことの、僕からすると恐怖。とどまってる人に届かないっていうことの虚しさとか畏れとか、もうだから距離を置くしかねえみたいな。でも自分もいつだってそういう場所に身を置くこともあるし、実際あったから。自分の痛みを動機として動いてた時もあるし、数字を出せないんだったら自分には存在価値がないって思ってたし。
通り過ぎるとは、内側から通路を作ること
しゅんちゃんは「通り過ぎる」という言葉に込めた質感を、憧れていた人物の話から説明します。
通り抜けていけるかね。この通り過ぎるっていう言葉はどういう質感で言葉にしたかを先に話したいんだけど。すごく好きな社会起業家的な動きもしつつ、社会を変革している、憧れてかっこいいなって思っている人がいて、その人が大麻だったっけな、意識に作用するものをやっているということで捕まって、活動が止まったっていうのを見たことがあって。
希望や素晴らしさを見ていた分、僕はちょっと残念な気持ちになったんだよね。その時に思ったのが、何かを変える人は、その何かのルールの範囲内にいることが大事なんだなって。ルールの外に行ってしまうと、あなたは外の人だからねってなった途端に、共にいる人ではなくなる力学が働くのかもしれないと思って。
内側から破るか、外側から破られて変化が起こるかは随分違うって話をしてて。内側は自分の力で世界に出ていく変化。外側からは壊されるだとかっていう変化だから、正しい変化っていうのは内側からのプロセスなんじゃないか。
そのことをある研究者の人に話をした時に、「留まってることがダサいよね」っていう話をしたのがすごく印象的だったの。法律的にいい悪いはあるけど、そこは「通り過ぎるものでしょ」っていう。それを肯定するでも否定するでもなく、プロセスの一部でありとどまることではないっていう感じがすごく素敵だなと思って。
なので、なぜそこにとどまってしまうのかもそうだけど、僕らはどうやって通り過ぎることができたのだろうかっていうのは、話してみても面白いかなと。
自分がとどまっている世界と相手がとどまっている世界が異なった時に、解決する方法が殺すしかないっていうのは、もうなんか「えー」って。せっかく言葉を持っている人間が、それしか手段がないんですかっていうのを、僕はこの4年、5年ぐらいずっと疑問に思って探求してきたんですよね。
とどまってる時にちゃんとそこを通り抜けて、人の体の内側と自分の体の内側がつながる通路を作りたいなってめちゃめちゃ思って。非常口みたいな。
痛みをアイデンティティとしない
話は、なぜ人がそこに留まってしまうのか、という根源へと進みます。しゅんちゃんは、痛みを自分の拠り所にすることの危うさを語ります。
根源的にある、無意識無自覚な痛みの救済措置として、外部の居場所を必要とするという構造は、人間は持っているものなのかなって思うんだよね。自分自身にいられない、無価値感があるってなった時に、別の承認を得ることで自分を正当化するっていう力学が働きやすい3つのポイント。
これは『自分なんてないから』っていう本を書かれたシンメイPさん。
はいはい、あの東大卒のニーチェの人でしたっけ。読みました。
冒頭のニーチェは晩年布団の中で発狂しながら亡くなったみたいな話がすごい印象的で。あの有名な言葉を残したニーチェでさえそうだったのかと思うと、俺はまだまだだなみたいな。
やだー、しゅんちゃんが発狂して布団に引きこもるのちょっとやだな。
彼のYouTubeを調べて、高木晋平さんっていう方と対談してたのかな。そこで印象的だったのが、「痛みはアイデンティティとしない」っていう言葉。痛みは固有のもので、それをアイデンティティとする限り抜け出せない。でも世の中に同じような痛みで苦しんでいる人がいると知ってしまった時に、それがアイデンティティにできなくなることってあり得るなと思って。
自分だけの痛みっていう風にしてしまうと、やっぱちょっとつらいなって思って。自分と同じ痛みを抱えている人に役立つために社会起業家になりますっていう人もいるけど、それって自分の痛みがあるからできるってことになってしまうから、永遠に痛みが消えることはないっていう自己ループに入って抜け出せないなぁって。
僕もNPO法人の活動やった時に、自分みたいな福祉施設で育った子供たちに未来がないのは嫌だ、子供たちの未来を作るんだってやった時があるけど、なんか辛い。それって自分の痛みがあるからできるんですよね。原体験を起業のピッチで喋った方が響くよっていう指導も実際あるし。
なんかそれを絶対としない、そこを絶対としてとどまらないっていう軽やかさがないと、見てて辛い。いつまでもそのままだと発狂して布団に引きこもることになってしまうので。
今言ってくれた、痛みがあるからこそアクションができるって、人間の持ってる強い優しさだと思うんだよね。自分が受けた痛みを後世に残したくない、痛みを知ってるからこそ起こる優しさ。そこは本当に人類のすごいことだと思う。ただ危険だなって思うのが、それがいつの間にか正しさになる。
そうなんだよ。あなたはこの痛みを知らないからつって、部外者を排除しようとする力学になるんだよな。
痛みが強ければ強いほど守りたいし、触られたくない。痛みを正当化するために誰かを悪にするっていう構造はどうしても働いてしまう。
そうなんだよね。分かり合うための通路が閉ざされてしまうんだよな。
スピリチュアリティなら、あなたはわかってないからね、信じてる神様違うからねっていう分断を、自分が正しいと思うには正しくないが必要だなっていう。
数字だと達成してるかしてないか、大いなるものだと信じるか信じないか、痛みに立脚するとその痛みを抱えているか抱えていないか。
安心を作るために何かしら悪を想像する、敵を見つけるというプロセスが、なんかこうヘルシーじゃない。
もうさ、嫌だよね。それ発狂するわ。
神は死んだ、むき出しになった個人はどう生きるか
なりさんは、しゅんちゃんの話とニーチェの思想が急につながったと話し、剥き出しになった個人の弱さについて語ります。
今の話聞くと、ニーチェが発狂した気持ちもわからんでもないと思ってて。ニーチェって神は死んだって言って、世界の存在よりも先に、個人の認識によって世界が生成されているっていう言い方をしているんだよね。すみません学者じゃないんで突っ込まないでほしいんだけど。
ニーチェの晩年に多分起こったのは、大いなるものを剥がされて剥き出しになった個人が、自分の主体だけで世界を認識しなきゃいけないっていう怖さ。人間ってそんな強くないから弱いんだよね。その弱さからくる嫉妬や攻撃をルサンチマンって呼んだわけだけど、それを超える超人になる方法がわかんねえよっていう。
しゅんちゃんの話を聞いて、急にニーチェの悲しみにシンクロしちゃったというか。その弱さのリアリティを捉えないと、3つのポイントへの立脚から出ろつったって無理な話だよねって思ってて。共同体って自分の身を守ってくれる安全な基地でもあるんだよね。ホームベースというか。
その共同体の中での役割を逸脱しなければ、ルールの内側にいさえすれば、掟さえ守っていればあとは自由っていう。やっぱりそれは魅力的なんだよね。
そしてその共同体の中においてのピラミッド構造が必ずあるはずで。駆け上がっていく魅力だったり、特権が増えていくっていう安心感。
だってさ、みんな王のものだもんね。個人っていうものは存在しないもんね、そこに。
抱えきれない矛盾と出会い、居場所が安全でなくなるとき
通り過ぎる契機として、しゅんちゃんは「抱えきれない矛盾との出会い」を挙げます。安全だと思っていた場所が、そうでなくなる瞬間についての対話です。
どうやったらそこを抜け出すという表現でもなく、間違ってたとするでもなく、自分に内包しながら、それを自分の中の権威とせず、その共同体に所属してるってことを自分の居場所とすることなく通り過ぎれるのだろうか。
僕は質感的には通り抜けるっていう方がしっくりきてて。通路を作る感覚なんだよね。居場所を壊すことはしなくてもいい。今の仕事辞めなきゃとか生活変えなきゃとか、そんなことしなくていいよ、今の生活世界を保ったまま、でも自分とつながる、他者と表現を認め合う通路を作る感覚なのかなって。
そういう通路を作っていけば、時たま通り抜けて。のび太くんちの机の引き出しみたいに、よっつって。
僕は通り過ぎる一つの大事な機会として、抱えきれない矛盾と出会うことっていうのはあると思うんだよね。
それちょっと僕、すごいラディカルに言うと、一回滅びるっていう、一回破局するっていう感覚に近いかも、僕の中では。
自分の居場所でありながら、自分の安全を保証してくれる場所でありながら、そうでない事実を目撃してしまった時に、それはもう安全な場所ではなくなる。
結構ね、共同体も血が流れるぜ。本当に高知県で農業やってた時、大変だったんだから。自分が安全な場所だと思ってたのに安全じゃねえじゃんって。
その矛盾が孕んでるって構造を目撃してしまった時に、見ていた世界が一変してしまうよなぁと思うんだよね。
なんか足元がグラグラ揺らいでいく感じをね。会社の中でのパワハラ、セクハラ現場目撃とか、それに近いかもしれない。
僕も、安心安全のコミュニケーションを教えている人が全然暴力的なコミュニケーションをしてるのを見た時に、あ、ここはまずいなって。
僕が一番ゾワッとするのはね、すごい優しい口調で愛が大事だよって言っている人が、あなたはこういうことができる人ですって断定するの。それすごい暴力的じゃない?って思って。断定しきることへの無自覚の権力的な関係。え、怖と思って。
すごいそれを見た時に、自分も気をつけなきゃいけないことではあるなと思った。アート合宿を主催する一人として、容易に権威になれる。だからある種黒子に徹して、その人がその人を掴むっていうことがすごく大事だなと思ってて。
『夜と霧』が答えたこと、経験だけは奪えない
なりさんは、最も好きな本として『夜と霧』を挙げ、剥き出しになった個人が生きる意味にどう答えるかを語ります。
一番好きな本が『夜と霧』なんだけど。ヴィクトル・フランクルっていう博士が、ナチスの収容所に収容されて、奥さんも子供もガス室に連れて行かれて。本人は生き延びたんだけど、心理学の博士なんだよね。極限状態での人の心がどういう働きをするのかを書き記した手記なんだよね。
今でも覚えてるシーンが一つあって、全ての尊厳を奪われた丸裸の囚人が問うわけ。俺たちが生きている意味は何なんだ?って。博士はこう答えたんだよね。私たちは問うのではなく、問われているのだって。お前の生きる意味は何なんだと問われているんだって。
それに対して答える方法はたった一つしかないと。あなたの経験だけは他のどんな力にも奪えない。そこから答えていくしかない。今までの人生の積み重ね、体験、選択してきたことから本質を取り出して、キーワードでもいいから出して、分かち合っていく。それでしか生きる意味に応える手段がないっていうのを、その本に書いてあったんだよね。
おいおいと思って。ニーチェ読んでるか?と。いたぞここに。全てを剥がされ、むき出しになった個人がどう生きるのかを言ってるぞ、ここにみたいな。
それ以上の背後にはもう何もないから。そこからしか、居場所が違う人同士が始まることができない。
居場所が違うってことは、正しさが違うし。
そうそう。異なる数字を見ている、異なる痛みを抱えている、異なる大いなるものを信じている。それぞれの正しさと正しさがぶつかり合っている。所属先が違う人たち同士が話を始めるにはそこからしかないっていう。その起点を大事にしないコミュニケーションは、破滅しかない。残るは手段は殺すしかない。
今の聞いてて、2つ思い浮かんだのが、何かの代弁者になっていませんかということと、自分の尊厳をあなたはちゃんと守れているかっていうのは、すごい大事な立脚ポイントだなって思うよね。
秋葉原のヘイトスピーチと、相手の勇気を認めた日
なりさんは、自由の相互承認という原理を、コロナ禍の秋葉原で体験した出来事を通して語ります。
相手の尊厳を認めているから自分の尊厳が守れるんだよね。一言で言うと、自由の相互承認。あなたの自由が私の自由、あなたの尊厳があることが私に尊厳を認めて存在させるっていう、この原理をまだ誰も覆せない。
それを体験で実感した時があって。コロナの時、秋葉原駅でめっちゃヘイトスピーチしてるおっさんがいて。内容は、在日韓国人がすべての問題の原因だから全員殺せっていう内容だったのね。母親韓国人だからさ。マジで言ってることが理解できないと。
でもここで見て見ぬふりをしたら変わらない気がすると思って。自分に危険が及ばない範囲で一旦こいつの話聞いてみようと思って、12月の木枯らしが吹く中、僕以外に足を止める人は誰もおらず、7分ぐらい聞いたね。
言ってることは理解できないし、理解したくもない。でもたった一つだけわかることがある。こんな寒空でコロナの中、誰も通らない駅前で何かを思って声を上げている。その勇気は認めてやろう。
何を話してるかは別として、その態度をね。
そう。言った。あなたの言ってることは意味が理解わからん、理解したくもない、でもその勇気は認めると。そして私の母親は韓国人だって。そしたらそのおっさんが「俺が間違ってた」とか言って。やばくない?これさ、実話だぜ。
それはすごいね。
「お前の母親を傷つける意図はなかった」つって。じゃあなんでこのヘイトスピーチしたの?みたいな。でも今の状態のおっさんとだったら多少話はできるかもしれない。相手の表現を認めることが、自分の表現を分かち合うための原理だよね。
どうしてそこに橋を架けれたの?
評価価値判断を一回全部手放した時に、まず思ったのが寒いなって。こんな寒い中で、こいつよく誰もいないところで一生懸命喋ってるなと思って。それがなんか直に入ってきたというか。
なんで手放せたのかはよくわからないんだけど、分かり合いたいっていう根本的な関心があるのさ。自分を誰かに受け取ってもらいたいし、他の誰かのことも受け取ってあげたい。でも口で言うのは簡単だけど、心理的安全を大事にしましょう、それではスタート、でできたら苦労しねえよと思って。
ちょうど娘が生まれた時だな。どうやったら認め合えるんだ、分かり合えるんだって考えてた時に、その関心があったから、秋葉の駅前でヘイトスピーチしてるおっさんが目に入ってきたの。今までも通ったかもしれないけど、全く見えてないから存在すらしてなかった。初めて目に入ってきた感じがあった。
手放すという態度は個人の意思で可能だと思うけど、言葉をかけるとその人との関係性が生まれるじゃない。言う怖さがあったと思うし、勇気が必要だったと思う。それはなんで可能だったの?
自分の関心が強かったのがまず一つ。もう一つは、相手の勇気を認めたら、声かけても大丈夫かなと思ってきた。こいつ気合入ってるから、なんか行けんじゃね?みたいな。
しかもあれだよね。相手の表現を否定するためのコミュニケーションじゃなくて、称えたんだもんね。
そう。相手を傷つけようと思ってかける言葉じゃないから、リスペクトさえ持ってれば、いけんじゃね?みたいな。ある意味一番ハードルの低い声かけをしたなと思う。相手を認めるって。
自由の相互承認と、留まる人も肯定する通路
話は歴史へと広がり、自由の相互承認がいかにして生まれてきたかへ。そして二人は、留まる人も肯定したうえで通路をつくることを語ります。
相手の自由を認めることでしか自分の自由は生まれねえんだなって。今の憲法もそうだと思う。表現の自由や信仰の自由が実現できるのは、みんなが自分の表現も相手の表現も尊重しようねと合意したから。それが言葉として憲法に表れて、今うちらが自由な表現活動ができてる。
宗教戦争でヨーロッパで何億人って人が死んで、さすがにやりすぎたねつって、ウェストファリア条約を結んで、信仰の自由っていう概念が初めて生まれた。異なる信仰をしてもいい自由をお互いに認めますってなった瞬間、宗教戦争が一旦落ち着いて。そこから、もっといろんな自由認め合いたくね?っていう営み、すごい大事なことだなって思うわけ。
今またそれを忘れて争いが増えようとしている。マーケティングやビジネスやってると、どうしたって格差が生まれちゃうんだもん。本当に大事なことを叫んでる人にはお金も人も行かないようになってんだよ。それは数字で測るってことを居場所にしたら、そうなるよねっていう。
でも争った後、虚しくなって、やっぱ違うよねってなった時に、立ち上がるときの原理はさっきの3つのポイントから生まれないと思ってるの。また新しい大いなるものを作って、新しい社会的な指標を作って、この痛みを糧に二度と繰り返さないってやる、そういうところからじゃないと思うんだよね。
僕も3つの領域を通り抜けるだけ通り抜けてきた。大いなるものは、悪く傾くとご都合主義でご自愛主義なんだよね。私を愛する、私の叶えたいことを叶える。一方で痛みに立脚する場合、社会がっていう私以外の世界に対しての愛情のコミットなんだよね。僕はここのテクノロジーが交わったらいいと思っている。
世界の痛みに対してコミットしてる人たちは、現実を動かす力、人を巻き込む力がとてつもない。でもあなたが愛されていい、傷を癒していいっていうテクノロジーは別のところが持ってる。逆に、私の幸せがっていう人たちに、現実は作れるよ、もっと広くやれるよっていうガッツは反対の人たちが持ってる。
僕はそこが交わる通路ができることで、お互いが変わることなく、より平和になっていくよなと思うんだよね。その間にある種のシャーマニック的な立場として、アートとか対話とか想像する力が通路になるっていうのは、すごく望みたいなと思っている。
その望みがあるから、多分僕は書かれたいんだろうね。三つのポイントに留まっている人たちも、その中に溶け合っていく。キーポイントはやっぱりワクワクとか喜びとか楽しさだろうなって思っていて、未知の可能性に向かっていきたいなっていう人たちは、各共同体にも必ず数人はいると思うんだよね。
全体の1割でもその通路を見つけて来てくれたら、そこに希望があるんじゃないか。通路を伝って別の世界を見た人が戻ってきた時に、今までと全然見え方が違う、もっとこうしたらいいのにって思い始めて、内側から変えていくっていう力がそこから生まれることを願っている。
あなたの世界もいいよ、通路へ誘う
深夜1時半近く。二人は、かつて3つの領域に留まっていた自分に向けた言葉と、留まる人への最後のメッセージを交わします。
その3つの領域に留まらざるを得なかった自分に対して言いたいのは、大いなるものの領域に対しては、自分とか神とか言ってないで現実を見ろと。目の前がお前だと思うし、社会が、世界がっていう人に対しては、一旦お前を愛そう。数字がとかお金がっていう人に対してはわかんない。
僕は明確にあって。数字とか測れるもの以外信じないのであれば、じゃあその数字が達成できなかった瞬間、あなたは誰なんですか?っていう。それを問いたい。それを自分のアイデンティティにしているからね。存在価値なんだよみたいな。
でも3つのコメント全部に共通して、やっぱり僕が言いたいのは、あなたの世界もいいよと。その居場所にいるのもいいんだよって。
その居場所にいることでしか。
そう、生きられない人たちもいるから。全員を無理に居場所から引き剥がす権利を持ってるわけでもないし、苦しめたいわけでもない。それはそれでいいんだけど、でもちょっとでも違和感があるなら、それ尊重しようよ。うちらはそれ尊重するよって。
居場所も違和感も両方尊重して、直感に従ってみた時にピンと来たら、感性にひれ伏してこちらへおいでよつって。通路へ誘う。トンネルを抜けるとそこは点点点みたいな、と思います。
なんかいいな。話したいなって溜まってたものがあらかた出た気がする。自分の体験から来る言葉で紡ぎ直してポンって出せた感じがするから、ありがてえっす。
こちらこそっす。
じゃ、おやすみなさい。最後まで聞いてくださった方がいたら本当にありがとうございます。嬉しい。じゃあね。またね。
おやすみなさい。
まとめ
この番外編では、人が留まりやすい「大いなるもの」「数字で測れる世界」「痛みと社会課題」という3つの居場所と、そこから通り過ぎることが語られました。二人が共有するのは、居場所を壊すのではなく、内側から自分や他者へつながる通路をつくるという姿勢です。相手の表現や勇気を認めることが、自分の表現を分かち合う原理になる。その実感が、体験に根ざした言葉で紡ぎ直されていきました。
- 人は不安や無価値感から、大いなるもの・数字・痛みという居場所に留まりやすい
- 痛みをアイデンティティにし続けると、いつの間にか「正しさ」になり、他者を排除してしまう
- 居場所を壊さず、内側から通じる「通路」をつくることが通り過ぎるということ
- 相手の尊厳や表現を認めることが、自分の自由と表現を分かち合う原理になる
- 「あなたの世界もいいよ」と肯定したうえで、違和感を持つ人を通路へ誘う




