Bean to Barとは何か? チョコレート業界の分業制を崩す
今回のゲストは、クラフトチョコレートブランド「Minimal」を展開するBASE代表取締役CEOの山下貴嗣さんです。聞き手の高木晋平さんは、山下さんを「日本から世界を代表するブランドを作る」と本気で考えている人だと紹介します。
山下さんは1984年生まれで、今年40歳になります。30歳のときに、チョコレートの世界的な新しい潮流に乗って「Minimal」を創業し、ブランドは10年を迎えました。
Minimalの拠点は、都内の店舗が4つ、製造拠点が2つの計6拠点です。このほかにECとBtoBの販売も手がけています。
山下さんによると、チョコレートは歴史的に分業制の産業です。原料のカカオは赤道付近で育ち、それをヨーロッパのバリーカルボウのような大企業が大量に仕入れて、チョコレートの生地を作ります。
明治やロッテのようなお菓子メーカーも、ピエール・マルコリーニ ── ベルギー発の高級チョコレートブランド。創業者のピエール・マルコリーニ氏はショコラティエとして知られますやジャン=ポール・エヴァンのような高級ショコラも、多くはその工場で作られたクーベルチュール ── カカオバターの含有量が多い製菓用のチョコレート生地。ショコラティエやパティシエがこれを溶かして加工しますを買って加工するといいます。
商社
産地からカカオ豆を仕入れて運ぶ
工場
大量のカカオからクーベルチュールを作る
メーカー・ショコラティエ
生地を仕入れて加工し、お客さんに売る
この3ステップに対し、Bean to Barは「豆(Bean)から板チョコ(Bar)まで」を自社で手がけるスタイルです。山下さんは、製造小売りやダイレクト・トゥ・カスタマーとも言える形だと説明しています。
バーがお酒飲むとこじゃなくて板チョコとのことなんですね。タブレットとかバーってヨーロッパで言うんですけど。なので豆から板チョコまで作る。
ガキ大将のサッカー少年は、なぜ頭を使うボランチになったのか
山下さんは岐阜県の出身で、両親と男3兄弟の5人家族の次男です。父は建築士としてゼネコンなどで働いたあと独立し、78歳の今も事業を続けています。母は農家の娘で、専業主婦をしながらお弁当の監修もしていたそうです。
少年時代の山下さんは、本人いわく「ガキ大将」のような子どもでした。やんちゃが過ぎて、親に警察署の剣道部へ入れられたこともあります。
警察署の中に剣道部があるんですよ。で、そこに地域のちょっとやんちゃな人とか親に入れられて、もうむちゃくちゃしごかれるわけですよ。
剣道部の練習が嫌でたまらなかった山下さんは、隣の小学校でサッカーをしているのを見て、「剣道に行ってきます」と嘘をついてサッカー場へ向かいました。これが小学5年生から始めたサッカーのきっかけです。
進学した中学校は、暴走族やヤンキーが多い地域の学校でした。サッカー部は県で優勝して東海大会に進むほど強い一方、体罰もある厳しい部で、顧問は「パンチ」というあだ名で呼ばれていたといいます。
山下さんのポジションはボランチで、自身をイタリア代表のガットゥーゾ ── イタリア代表として活躍したミッドフィルダー。激しい守備と闘志あふれるプレーで知られます型だと表現します。運動神経はそこそこ良くても、サッカーのセンスはあまりないと感じていました。
それでも試合には出たい。そこで山下さんは、自分より上手い選手や足の速い選手がいる中で、頭を使ってポジションを取る方法を考えます。
自分がどういうふうにこうその中へ出るかっていうことをめちゃくちゃ考えたら楽しかったですね。中学校。
ピークの代で地区大会敗退。不完全燃焼が勉強へ向かわせた
中学3年の最後の大会で、山下さんの代のサッカー部は地区大会で敗れました。3年間で一度も地区大会で負けたことのないチームにとって、あり得ない結果だったといいます。
敗因は部活の崩壊でした。体罰やえこひいきのある顧問に反発した部員が衝突し、流血沙汰になる事件が起きた結果、最後の大会にレギュラーの半分以上が出場できなくなったのです。
山下さん自身は問題を起こした側ではなく、試合に出場していました。それだけに、キーパーのキックミスから失点して負けた試合は、恥ずかしいほどの負け方として今も記憶に残っているそうです。
こんなことってあるんだっていう、なんか何が悔しくてどこに当たっていいかもよくわかんないし。
サッカーで高校の推薦も受けていた山下さんですが、「もうやりたくない」と感じて推薦を断ります。そのとき中学3年の担任が、エネルギーの向け先を示してくれました。
お前そのエネルギーあるんだったら中途半端なことやらずに勉強で1番目指せって言われたんですよ。
山下さんは夏から猛勉強を始め、岐阜県で一番の進学校である岐阜高校を目指します。1年生のころの生活態度が響き、内申点は45点満点で平均31程度と、目安の36には届きませんでした。
それでも山下さんは合格します。本人によると、定員400人に対して受験者は410人で、落ちるのは10人だけでした。一番の進学校なので、受験をためらう人が多かったからです。
部活崩壊
顧問との衝突でレギュラーの半分以上が出場できなくなる
地区大会敗退
ピークの代で、不完全燃焼のまま中学のサッカーが終わる
担任の一言
「勉強で1番を目指せ」と言われ、推薦を断って猛勉強を始める
岐阜高校へ
内申点の不利をテストで補い、県で一番の進学校に合格する
裏原と古着とクラブ。田舎のダサ坊が東京に憧れた日々
山下さんは、今チョコレートを手がけていることの根っこに、サブカルチャーへの強い愛着があると話します。中学時代はライブハウスに通い詰め、メロコアに夢中になりました。
中学3年ごろには、世の中で裏原 ── 東京・原宿の裏通りを中心に1990年代に広まったストリートファッションの潮流。少量生産のブランドに行列ができるほどの人気を集めましたがブームになります。同級生の父親が名古屋で大きな古着屋「RUN'SLA」を営んでいたことが、山下さんにとって大きな出会いになりました。
その父親は、サンフランシスコやヒューストンへ古着の買い付けに通っていた人物です。中学生の山下さんたちがサッカーで優勝すると、買い付けの旅に連れて行ってくれたといいます。
で、倉庫行ってでっかい倉庫行って、お前らのセンスで好きなコーディネートしてこいと。これ買ってやるからとかって言って、バーってみんなで行って。
16歳ごろからは、自分でアルバイトをして深夜バスで東京へ通い、HECTICやGOODENOUGHといった裏原ブランドの行列に並びました。ラジオで知った沖野修也さんのイベント会場「ROOM」を探し歩き、東京の空気に触れたこともあります。
山下さんは自分のことを、好きなものをずっと掘るのが好きなマニアックな性格だと表現します。この「とことん掘る」気質が、後のチョコレートづくりにもつながっていると考えられます。
東大A判定落ちでも浪人しなかった理由とは
東京への憧れから、山下さんは大学は東京一択と決めました。岐阜の人は大阪や名古屋に出るのが一般的で、県民性として保守的な面もある中、東京の大学しか受けなかったといいます。
当時の山下さんは「何でも一番を目指す」と考えていて、東大を受験しました。結果は不合格でしたが、判定は合格まで5点以内とされる「A落ち」でした。
高校の先生や親は浪人を強く勧め、予備校の特待生の話もありました。それでも山下さんは、早く自立して自分で稼ぎたいという思いから浪人を選びませんでした。
私立は早稲田の政経、慶應の商学部、慶應の経済学部に合格し、「どこでもいい」と鉛筆で決めて慶應の商学部に進みます。慶應を選んだ理由の一つは、授業料の安さでした。
親の反対を受けた山下さんは、半ば家出のような形で高校の卒業式を迎え、友達の家を渡り歩きながらアルバイトで資金を貯めて上京しました。大学ではベルファールでのアルバイトやクラブイベントも楽しんだといいます。
高木さんがその独立心の源を尋ねると、山下さんは次男として放っておかれたことを挙げます。長男は親のプレッシャーを受け、末っ子はかわいがられる一方、次男は自由だったという見方です。
まあでも次男だからほっとかれたんですよね。
兄は金融の仕事に就き、弟は海外でホテルマンや客室乗務員として働いてきたそうです。山下さんは、親に構われた記憶はあまりないものの、愛情不足を感じたことはなく、そこは親に感謝していると話しています。
外資金融を目指した先で見えた「ルールをハックしたい」欲求
就職活動で、山下さんはまず外資系金融を目指しました。三枝匡さんのV字回復の経営 ── 経営者の三枝匡さんが企業再生の過程を物語形式で描いたビジネス書。コンサルタントや経営者に広く読まれていますなどのビジネス書を読み込み、世の中で一番優秀な人は投資銀行業務(IBD)に行くという価値観に影響を受けていたからです。
大学3年の夏からインターンに参加しましたが、IBDの内定は得られず、債券セールスなどのポジションで内定を得ます。ただ、IBDの人たちを見て「そんなにかっこよくない」と感じたといいます。
山下さんが気になったのは、反射神経を強く求められるキャリアの息の短さでした。そこで働く先輩の夢が、南の島で今でいうFIREのような生活を送ることだと聞き、面白くないと感じたそうです。
やっぱ仕事をずっとしてたいと思って。そう、経済、市場の中で経済価値をちゃんと出し続けて、何か新しい社会課題を解決するとか。
それが困難なゲームであればあるほど、やっぱ燃えるんですよね。
山下さんは、ゲームの構造やルールを理解したうえで、そこをハックするのが昔から好きだと話します。中学のサッカーで、センスの差を戦術で埋めようとした姿勢とも重なる話です。
仕組みの誤差や情報格差を利用して儲ける
大きな産業構造にハックを仕掛け、新しい産業を生み、経済価値を出し続ける
ただし山下さんは、20歳前後の当時からここまで整理して話せたわけではないとも付け加えています。今振り返って言語化すると、こうなるという話です。
起業する同級生とリンクアンドモチベーションとの出会い
山下さんの周りには、在学中から起業したりビジネスコンテストに出たりする同世代がいました。フリーペーパーのタダコピを手がけた菅澤さんも同級生で、大学時代によく一緒に遊び、ビジネスの話をしていたといいます。
そうした仲間は、経済の中でどう稼ぐかだけでなく、社会にどんな価値を還元したいかも語っていました。外資金融で挫折した山下さんは、自分は何をやりたいのかを改めて考えることになります。
周りが広告会社や商社を受ける中、山下さんもとりあえずエントリーを始めました。そのとき、当時付き合っていた女性が「ぴったりの会社を見つけた」と勧めてくれたのが、リンクアンドモチベーションでした。
山下さんが社会に出たのは2007年で、同社が新卒採用に力を入れ始めた少しあとの時期です。コミュニケーション力があり、頭も良く、熱い先輩たちが楽しそうに働く姿に惹かれたといいます。
モチベーションってちょっと一個間違えたら宗教みたいな感じじゃないですか。
ちょっと怪しいものを商売しながらコンサルティングやってるとかっていう、その危うさみたいなのがすごい自分の中で好きで。
一番になれなかった人生が、なぜ仕事を楽しくしたのか
高木さんは、大学選びや外資金融志望に共通する「トップティアへのこだわり」を指摘します。山下さんは、若いころは自信がなかったのだと思うと答えたうえで、今の仕事が楽しい理由をはっきり語りました。
サッカーでは一番になれず、高校も学年一位ではなく、東大にも入れなかった。山下さんは、人生で一度も一番を取れていないことを自ら振り返ります。
それでも山下さんを突き動かしてきたのは、挑戦そのものへの欲求でした。若いころはやりたいことがなく、自分は薄っぺらいと感じていたからこそ、世の中で一番高いと言われる山を登ろうとしたといいます。
高ければ高い山の方が道中じゃないけど、やっぱ登ってる気持ちいいでしょ。
山下さんは、今は一番になりたい、誰かより目立ちたいという気持ちはまったくないと話します。若いころは何者でもない焦りがあり、わかりやすく一番高い山を制覇すれば何者かになれると思っていたのだろう、と振り返っています。
何者でもない焦りから、一番になって目立つために高い山を目指す
一番や目立つことへの欲求はなく、挑戦と好奇心そのものを楽しむ
考えが変わったきっかけについて、山下さんは「リンクアンドモチベーションに入ってから」と答えます。そこで何があったのかは、後編で語られます。
まとめ
前編では、Minimalの山下貴嗣さんが、一番になれなかった経験を重ねながら、頭を使って戦う姿勢と、好きなものを掘り下げる探究心を育ててきた過程が語られました。挑戦の動機が変わったリンクアンドモチベーション時代の話は、後編に続きます。
- Bean to Barは、商社・工場・メーカーの分業が一般的なチョコレート産業で、豆から板チョコまでを自社で手がけるスタイル
- センスで劣るサッカーを頭脳戦で補った経験が、ルールを読み解いてハックする志向の原点になっている
- 部活崩壊による不完全燃焼と担任の一言が、勉強と進学校、そして東京への道を開いた
- 外資金融に違和感を覚えたのは、情報格差で儲けるより、産業構造に挑んで価値を出し続けたかったから
- 一番になれなかったことが、何者かになりたい焦りと挑戦への原動力になった


