起業家なのに大企業の専務、という珍しいキャリア
飯塚勇太さんは、サイバーエージェントの専務執行役員です。同時に、化粧品ブランド「Norganic」を展開するシロクの社長も務めています。
さらに飯塚さんは、マッチングアプリ「タップル」の取締役など、サイバーエージェントのいくつかの子会社で取締役を兼ねていると自己紹介しています。
聞き手の高木新平さんは、飯塚さんと同世代の起業家です。高木さんの会社ニューピースは、シロクのブランドキャンペーンを一緒に手がけてきました。
高木さんが飯塚さんに注目する理由は、起業家として出発しながら大企業の中で出世し、大きな組織とお金を動かしている点にあります。高木さんの周りには起業家は多くても、そうした人はまだ少ないといいます。
近いキャリアの人として、飯塚さんは以前ヤフーにいた小澤さんの名前を挙げました。何度か起業してバイアウトし、ヤフーの社長も務めた人物です。ただ、飯塚さんは直接の面識はないと断っています。
「テレビより楽しいか」で動く、戸塚の無気力少年
飯塚さんの出身は横浜の戸塚です。飯塚さん自身は、一般にイメージされる横浜とは対極にある、普通のベッドタウンだと表現しています。
飯塚さんの父親はゼネコンに勤めるサラリーマンで、母親は専業主婦でした。飯塚さんは自分のことを「超一般的な家庭で生まれた普通の子供」だったと振り返ります。
子ども時代の飯塚さんは無気力で、何かをするかどうかを「家で座ってテレビを見るより楽しそうか」で比べていたといいます。習い事も幼稚園も、その基準では楽しそうに見えませんでした。
飯塚さんはこうした自分を、いろいろなことに理由を求める「ちょっと面倒くさい普通の少年」だったと話しています。
小学校では野球をやらされましたが、飯塚さんが入ったのは2つあるチームのうち弱いほうで、練習は週1回少しあるだけだったそうです。
小学校5、6年ごろになると飯塚さんは背が伸び、友達も増えました。みんなが楽しく過ごす輪の中にいることが多くなった一方で、無気力さは変わらなかったといいます。
将来の夢を聞かれても、飯塚さんは周りの大人がサラリーマンと先生ぐらいしかいなかったため、自分も当然サラリーマンになるものだと思って過ごしていました。
三木谷さんと堀江さんは「サラリーマンの頂点」だった
飯塚さんが変わるきっかけは、中学2年生ごろに起きたプロ野球球団をめぐる騒動でした。近鉄の球団買収をめぐって、楽天とライブドアが一気にテレビで取り上げられるようになった時期です。
当時の飯塚さんにとって、サラリーマンは具体的な職種のようなイメージでした。疲れた様子で朝出かけて帰ってくる、少しダサいものに見えていたといいます。
そんな中でテレビに映った三木谷浩史さんと堀江貴文さんを見て、飯塚さんは「この人たちがサラリーマンの頂点なのか」と感じたそうです。
周りの大人はサラリーマンと先生ばかりで、サラリーマンは疲れて朝出て帰ってくる少しダサいもの
三木谷さんや堀江さんを見て、起業家にスポーツ選手へ向けるような憧れと興味を初めて抱く
野球選手にも戦隊ものにも興味を持たなかった飯塚さんが、みんながスポーツ選手に抱くような憧れを初めて感じた相手が、起業家だったといいます。
高木さんは当時の空気を、得体の知れないものが現れてメディアも警戒し、ナベツネさん ── 読売新聞グループの経営者だった渡邉恒雄氏の通称。プロ野球界にも強い影響力を持ち、球界再編の議論でも発言が注目されましたのような重鎮とも戦う若者のようだったと振り返ります。飯塚さんは、その「アナーキーな感じ」にカルチャーショックを受けたと話しています。
受験の挫折から、経営者を輩出する大学へ
飯塚さんの人生にとって次の転機は高校受験でした。成績はそこそこ良かったものの、県立高校に落ち、併願していたマンモス校に進むことになります。
進学したマンモス校の空気は、飯塚さんには合いませんでした。そこで飯塚さんは2つのことを考えたといいます。
1つ目は、このまま負け続けるのは嫌だということです。スポーツにも打ち込んでこなかった飯塚さんにとって、受験は初めて個人として評価され、しかもダメだった経験でした。
2つ目は、高校に馴染めないからこそ、ゴールを持って何かに打ち込まなければということです。次の受験である大学受験に向けて、飯塚さんは目標を決めることにしました。
ビジネスに興味があった飯塚さんは、経営者を多く輩出している大学と学部を調べました。そこで、慶應義塾大学の経済学部が経営者輩出で上位だとパンフレットに出ているのを見つけます。
飯塚さんは高校入学後、その目標だけを決めて勉強を続け、慶應義塾大学経済学部に合格しました。ただ本人は、それも「小さい目標」だったと控えめに話しています。
日給1000円の会社で見た、しらけた全社総会
飯塚さんは大学1年生の5月から、会社でアルバイトを始めました。当時はインターンのメディアもなく、そうした学生はほとんどいなかったといいます。
飯塚さんは高校時代に、サイバーエージェント創業者の藤田晋 ── サイバーエージェントの創業者で代表取締役。20代で起業し、同社を上場させた経験を著書にもまとめていますさんの本を読んでいました。大学に入ったらどう動くかも、入学前から考えていたそうです。
経営やビジネスに興味はあっても、やったことがないので分からない。そこで飯塚さんは、とりあえず会社に転がり込んで働くことだけを決めていました。
飯塚さんが見つけたのは、日給1000円で交通費も出ない会社でした。IT系の上場企業の、立ち上がったばかりの子会社で、テキスト入力や連絡の代行といった雑務をこなしていたといいます。
実際に働いてみて、飯塚さんは会社の「敷居が低い」と感じました。飯塚さんの中の会社のイメージは、ずっと文化祭前夜のような熱気のある場所だったからです。
ところが、上場という高いハードルを越えたそこそこの規模の会社なのに、全社総会に行くとしらけていたそうです。この体験から飯塚さんは、この規模でこの感じなら、自分も頑張ればいけるかもしれないと思ったといいます。
年100万円を稼ぐ。ティッシュ配りから生まれた最初のビジネス
飯塚さんは、いいアルバイト先を見つけるハードルが高いと感じ、大学2年生になるころには自分でお金を稼いだほうが早いと考えるようになります。
飯塚さんが目安にしたのは、扶養を外れる限度額でした。高木さんが「130万の壁 ── 年収が約130万円を超えると、家族の社会保険の扶養から外れて自分で保険料を負担する必要が出る目安のこと」と補うと、飯塚さんは年100万円ほど稼げばバイトを頑張るのと同じぐらいだと考え、自分で100万円を稼ぐと決めたと話します。
飯塚さんの初めてのビジネスは、資格学校への学生の斡旋でした。きっかけは、慶應の日吉駅前で資格学校が毎日のように配っていたティッシュです。
鼻炎の飯塚さんはティッシュをよく受け取っていましたが、資格学校には行きませんでした。ティッシュ配りは無駄が多くお金もかかっているので、自分が学生を送り出して報酬をもらえばいいのでは、と考えたといいます。
飯塚さんが調べると、経済学部の学生が資格の勉強を始めるかを決めるのは大学1年生の最初でした。決め手は、慶應高校から上がってくる内部生がどこへ通っているかだったそうです。
内部生の選択
慶應の内部生が一番多く通う資格学校が、日吉でブランドになる
外部生の追随
外部から入学した学生が噂を聞き、同じ学校に入る
1位が固まる
その資格学校がシェア1位になる
飯塚さんの仮説
シェアを取れていない学校に高校生を送客すれば報酬がもらえる
飯塚さんがこの仮説を、シェアの取れていない資格学校に直談判しに行くと、先方は強い興味を示しました。その後、飯塚さんはサークル活動のような雰囲気で慶應高校に行き、会計士などの仕事を知ってもらうセミナーの告知をさせてもらえるようになります。
セミナーの裏側では資格学校への送客を行い、飯塚さん自身のゴールに対してはうまくいったといいます。高木さんは、原価をかけず手元のアセットだけを使った点を「むちゃむちゃ商売人」だと評しました。
飯塚さんは自分の商売の感覚について、人と違うものの見方をしてみたい、少し屁理屈な指向性があると説明します。みんなが当たり前にやっていることを、別にこれじゃなくてもいいよなと疑う傾向が強いのだといいます。
教習所ビジネスの失敗で腹落ちした、インターネットの強さ
飯塚さんは資格学校の斡旋について、学生という立場を使った「ちょっとズル」で、多少嘘もある後ろめたいものだったと振り返ります。そこで次は、学生かどうかに関係ないビジネスを考えました。
飯塚さんが思い出したのは、大学1年生のときの自動車免許合宿で、とにかく暇だった記憶です。教習所には若い世代しかおらず、夏休みに地方へまとまって集まり、授業の合間に時間を持て余しています。
飯塚さんは、教習所に飲み物や消費財のサンプリングを置けば使われそうだと考えました。教習所に置けなければ広告主も呼べないため、まず教習所に営業したそうです。
しかし教習所の営業では、1つ1つの教習所の距離が遠すぎるという問題に直面しました。当時はオンライン商談もなく、いきなり契約書を持って行っても押してもらえなかったといいます。
飯塚さんは教習所のビジネスを一度やめましたが、この失敗で大きな気づきを得ました。当時数字を作っているすごい経営者はほぼIT系で、その理由を腹落ちできていなかったのです。
拠点ごとに足を運び、1つ1つからお金をもらうので、距離と手間のコストが重い
お金のやり取りや接客がネットで完結すればレバレッジが効き、原価も下がって利益が出る
飯塚さんは、この「当たり前のこと」にやってみて初めて気づき、インターネットのビジネスを自分でやるべきだと考えるようになりました。ただ、自分はエンジニアでもデザイナーでもないという壁もあったといいます。
AR企業への直談判と、創業メンバーとの出会い
当時はスマホが登場し、AR技術がホットな話題でした。飯塚さんは、エンジニアの社長が1人で運営していた会社に、募集もないのに直談判して働かせてもらいます。
このAR企業で飯塚さんは、アプリをローンチする進め方を間近で見て、自分にもできそうだと感じる一方、サービスを運営する難しさも知ったといいます。大学3年生の夏ごろのことでした。
その時点で飯塚さんの選択肢は、小さな会社にそのまま就職する、どこかの会社に入る、自分で別のことをする、の3つだったそうです。
飯塚さんは高校時代から、藤田さんをはじめとするサイバーエージェント役員のアメーバブログをすべて読んでいました。ブログブームの時代で、社長や役員のブログを読むのが好きだったといいます。
サイバーエージェントやDeNAの中が気になっていた飯塚さんは、インターンなら「合法的に」中へ行けると考え、参加した会社の1つがサイバーエージェントでした。
サイバーエージェントのインターンで組んだ5人のチームはとても仲良くなりました。飯塚さんは、終了後に賞金50万円ほどのビジネスプランコンテストを見つけ、価値観の合うメンバーを誘ったところ、2人が乗ってきたといいます。
このコンテストで飯塚さんたちは優勝して50万円を獲得しました。さらに同じ時期、飯塚さんはエンジニアだと思われてプログラミングコンテストに誘われ、作れないと伝えると、作れる学生を紹介されます。その学生が、のちのシロクのCTOです。
ただ、当時はみんな就活生だったため、一度ビジネスのことは忘れて就活しようという空気になりました。結果的に4人中3人がサイバーエージェントに入ることになり、飯塚さんも迷ったうえでサイバーエージェント入社を決めたといいます。
全員が就活を終えたあと、卒業まで1年ほど残っていたため、4人は最後にもう1つサービスを作ることにします。それが「マイサンロク」でした。この先の展開は後編で語られます。
まとめ
前編では、テレビより楽しいかどうかで物事を選んでいた無気力な少年が、起業家への憧れと受験の挫折をきっかけに目標を持ち、学生時代に小さなビジネスの成功と失敗を重ねていく過程が語られました。その根っこには、当たり前を疑う飯塚さんの屁理屈な視点があります。
- 中学2年ごろ、楽天・ライブドアの球団買収騒動で見た三木谷さんと堀江さんが、飯塚さんが初めて抱いた「憧れ」でした
- 上場企業のしらけた全社総会を見て、飯塚さんは「自分もいけるかもしれない」と自信を持ちました
- 資格学校の斡旋と教習所サンプリングの経験から、飯塚さんはインターネットビジネスの強さを体感で理解しました
- サイバーエージェントのインターン仲間と紹介されたエンジニアが、のちのシロクの創業メンバーになりました





