成績最下位、総会のスライドにも載らなかった新人時代
山下さんが「トップティアに行きたい」という考えを変えたのは、新卒で入った組織人事コンサルティング会社リンクLinkでの経験がきっかけだったといいます。
山下さんは新卒で新規事業に配属されました。同期は30人いて、3ヶ月に1回の査定と表彰がありましたが、山下さんは1年半、一度も表彰されず、売上ランキングでは最下位だったそうです。
当時の山下さんは毎日辞めたいと思っていました。次男なのに「父が倒れたので長男として家業を継ぎます」という言い訳まで考えていたと振り返りますが、実際には辞めませんでした。
新規事業が苦しかった理由の一つは、営業のやり方の違いです。会社の主力はリクルートとのアライアンスで案件を得るモデルで、同期は既存案件にアサインされていました。一方で山下さんの事業部はゼロから顧客を開拓する必要がありました。
山下さんは1日100件のテレアポをかけ、9時から17時まで2時間おきに5件の商談を入れ、夜は徹夜で翌日の提案書を作る生活を半年ほど続けました。それでも「社会人1年目がコンサルですと電話して誰が受けてくれるのか」という状況で、達成率は30%ほどだったといいます。
決定的だったのは2007年12月の年末総会です。達成率が低すぎたため、山下さんの事業部は発表スライドから漏れてしまいました。最下位としてすら載らなかったことに、山下さんは半分泣きそうになりながら経理に抗議したそうです。
週7日会社にいて、床で寝るほど働いても成果が出ない。この経験から山下さんは、どれだけプロセスを頑張っても、結果を出して価値を還元しなければ報われないという経済の厳しさと、自分の非力さを痛感したと話しています。
3年で25億円の事業に。Jカーブを生んだ「100本ノック」
山下さんたちの新規事業は、1年半やり続けた末に顧客がつき始め、3年で約25億円の売上規模に育ちました。当時の会社全体の売上は約80億円で、その3年後には約150億円になっていたといいます。
山下さんはこの成長を「Jカーブ」と表現します。奇跡があったわけではなく、顧客を1社ずつ積み上げ、新しいサービスやツールを作り、3C分析や4Pといった基本に立ち返ってポジショニングや差別化を考え抜いた結果だそうです。
山下さんたちの勉強の場は、当時の八重洲ブックセンターでした。JALの再生案件で3万5000人規模の組織変革に関わったときも、航空業界の専門書を朝から晩まで読み、業界の構造をパワーポイントにまとめたといいます。
5人ほどの小さな部隊だったため、担当業界を分けることもできませんでした。そこで各自が調べた業界地図を夜11時ごろに共有し合い、互いの知識を吸収していったそうです。
山下さんは、組織人事の支援は「儲ける」という事業と接続しなければ意味がなく、お金も出ないと話します。若手がコンサルタントを名乗るなら、事業を理解していることが欠かせなかったということです。山下さんはこの日々を「100本ノックを永遠にやっている感じ」と表現し、業界ごとの構造や歴史から「世の中のゲームのルール」が見えてくる面白さを感じたと語っています。
メッシが11人いても勝てない。マネージャーとしての挫折
山下さんはリンクに7年3ヶ月在籍しました。前半3年の新規事業の後、年間1億〜2億円規模で数万人の組織を変革する大手企業向けの部隊に移り、26歳で同期の中で最年少のマネージャーに昇格します。
しかし山下さんはマネジメントで大きくつまずきます。失敗の原因を聞かれ、山下さんは一言「人の気持ちがわからない」と答えています。
新卒中心の4人の部下を持った山下さんは、全員に細かく指示を出すマイクロマネジメントを続けました。半年間めちゃくちゃに働いた結果、5人のチームの成果は、山下さんが1人のプレイヤーだった頃の3分の1ほどにとどまり、チームの状態もボロボロになったといいます。
山下さんはこのままではマネジメントはできないと考え、すぐに方向転換しました。本を大量に買い、社内で人を育てるのが上手いと評判のマネージャーに片っ端から教えを請いに行ったそうです。鼻をへし折られていたので、プライドはあまりなかったと振り返ります。
そのとき先輩から受けた助言が、サッカーのたとえでした。「お前はメッシかもしれないが、メッシが11人いるチームは強いか」。全員に自分と同じドリブルを強要しても、メッシのドリブルはメッシにしかできないという指摘です。
先輩はさらに、プレイヤー兼マネージャーではなく、外から俯瞰する監督として、個人に合わせて個性を伸ばす育成と、適材適所のチーム戦術の2つを考えるよう伝えたといいます。
全員に自分と同じやり方を求め、細部までマイクロマネジメントする。矢印が自分に向いている
監督として俯瞰し、個人の個性を伸ばしながら適材適所でチームを組む。矢印を相手に向ける
山下さんは「論理的に正しいことを言っているのだから、やれば成果は出る」と考えていましたが、人間はそういうものではないと気づきます。矢印を自分ではなく相手に向けることが必要だったと語っています。
それでもすぐに成果が出たわけではなく、チームとして人並みに成果を出せるようになるまで1年〜1年半かかったそうです。
空気を読む日本人がグローバルで活躍していた
チョコレートでの起業につながる最初のきっかけは、2010〜2013年ごろに大手企業の間で流行した「グローバル人材育成」の仕事でした。日本人は多国籍の会議で発言できない、という課題意識が背景にあったといいます。
山下さんは、グローバルで活躍している社員の分析として、北米支社長などに1ヶ月ほど同行し、会議に同席していました。そこで気づいたのは、日本人だから成果が出ないわけではないということです。
山下さんによれば、アングロサクソンの人たちは場にボールを投げるように意見を出す教育を受けていて、発言に責任は取らないそうです。ただし空気を読まない人がこれをやると、結論が出かけた場面で議論を蒸し返してしまいます。
一方で活躍する日本人は、発散させる場面ではうまく意見を出させ、出そろったところで基準を置いて収束させるファシリテーションに長けていたといいます。山下さんは、空気を読む日本人の特性はグローバルで稀有な強みになりうると感じたそうです。
もう一つのきっかけは、30歳を前にした将来への思いでした。建築士の父のもとでものづくりに触れて育った山下さんは、自分がやりたいことと社会に意味があることが重なる仕事をしたいと考え始めます。
前提
GDPは労働人口と生産性で決まり、日本の労働人口は減っていく
量では勝てない
中国やインド、アフリカに比べ、日本は量の経済で勝てない
質で勝つ
日本の技術や哲学を活かした高品質なものを作る
世界へ広げる
日本発のブランドが外貨を稼ぎ、日本のプレゼンスも上げる
政治には関心がないという山下さんは、経済のゲームの中で日本の豊かさを次世代に残すことに貢献したいと考えました。その答えが「ものを作って、それを広げていくこと」だったと話しています。
コーヒー好きがチョコレートに出会い、2ヶ月で起業
山下さんは29歳で退職を告げています。当時はチョコレートと決めていたわけではなく、転職や、アメリカのDスクールへの留学も考えていたそうです。
転機となったのはコーヒーでした。山下さんはスペシャルティコーヒーのムーブメントに詳しく、自分の中のコーヒーの概念を変えられた経験があったといいます。当時の日本はまだ丸山珈琲やオニバスONIBUS COFFEEくらいしかない黎明期でした。
2010年ごろにニューヨークのブルックリンを訪れた際にマストブラザーズMast Brothersのチョコレートに触れていた山下さんは、2013年ごろ「チョコレートでも同じことが起こりうる」と改めて気づきます。
さらに、コーヒー店を営んでいて山下さんが客として通っていた、現在Minimalで製造責任者を務めるアサヒアサヒさんが、独自にチョコレートを作り始めました。それを食べて衝撃を受け、カカオを発酵させることなどを調べるうちに「これは自分にやれと言われている」と感じたそうです。
2014年6月に退職した山下さんは、アメリカ西海岸からニューヨークまでBean to Barの工房を巡り、ブラジルのカカオ農園やヨーロッパも訪ねる旅に出ます。LinkedInやFacebookで約80通のメッセージを送り、30人ほどから返信があったといいます。
手触り感を意味する「タンジブル」という言葉が好きだという山下さんは、現地で見たムーブメントから、Bean to Barは必ず日本に来ると肌で感じました。
「これじゃ世界は変わらない」KPIをカカオ取扱量に
創業から3年ほど経ったころ、山下さんは「これでは世界は変わらない」と気づきます。小さな店が知られ、おしゃれな人たちに支持され、経営も安定していく一方で、それは池に小石が落ちて波紋が立った程度だと感じたそうです。
カカオ産地の農家の貧困も目の当たりにしていました。Minimalはすべてフェアトレード以上の価格でカカオを買っていますが、仕入れる量が少ないため、数倍の価格で買ってもインパクトはほとんどないといいます。
2017年か2018年ごろの年末の経営合宿では、「自分たちの自己満足ではないか」という意見と、「今のやり方にも意味がある」という意見で5人ほどのメンバーが大きく割れました。その場では結論が出ず、定期的に議論を重ねたそうです。
最終的な結論は、日本の豊かさに貢献し、クラフトチョコレートを大衆化させて、100年後に当たり前の文化にすることでした。そのためには、自分たちの気持ちいい規模にとどまらず、拡大しなければならないと決めたといいます。
そこで設定したのが、扱うカカオ豆の量をKPIにするという方針です。当時の取扱量は12〜13トンほどで、コンテナ1つ分程度。まず50〜100トンを目標に置き、ものづくりの質は保ったまま事業をスケールさせると決めたのが5年目ごろでした。
今の規模で着実にやっていくことにも意味がある
世界を変えるなら、もっと大きな勝負をしなければならない
10年目を迎えた今も、山下さんは「まだまだ」だと話します。規模が大きくなると人に任せる場面が増え、自分が思うクオリティのものが出てこないという細かな悩みは尽きないそうです。ものづくりへのこだわりがどこで培われたのかという問いは、後編に続きます。
まとめ
山下さんの歩みは、結果の出ない新規事業、人の気持ちがわからなかったマネジメントの失敗、そして自己満足への問い直しという挫折の連続でした。そのたびに学び方や視点を変え、チョコレートを世界を変える手段として拡大する決断に至っています。
- どれだけ頑張っても、結果を出して価値を還元しなければ報われないことを新人時代に痛感した
- 地道な顧客開拓と業界研究の「100本ノック」が、3年で25億円の事業を生んだ
- 「メッシが11人いても勝てない」という助言で、矢印を自分から相手に向けるマネジメントに変わった
- 日本は量ではなく質で勝つべきだという考えが、ものづくりでの起業につながった
- 「これでは世界は変わらない」と気づき、カカオ豆の取扱量をKPIにして拡大へ舵を切った





