ホテルビジネスを「納品」する会社とは?
龍崎翔子さんは19歳で会社を始め、約10年前から世に出ていた起業家です。高木新平さんは、龍崎さんが結果的に世代を代表するようなポジションになっていることに驚きを示しています。
龍崎さんが率いる株式会社水星は、普段は「ホテルをやっている会社」と説明されています。実際には自社ホテルの経営・運営に加え、他社のホテル開発も手がけています。
水星への相談は、不動産会社や、遊休地を持つ中小企業から来るといいます。新規事業としてホテルを始めたい企業に対して、龍崎さんはそれを「ホテルビジネスを納品する」と表現しています。
ホテル、ホテルビジネスを納品するみたいな(ことを)実は結構やったりしてます。
水星の自社運営ホテルは現在4件です。京都のホテルC京都、大阪のホテルC大阪、金沢の光輪郷、そして産後ケアに特化したかふねです。ブランドの整理や増減は常にあるといいます。
龍崎さんは、世の中にすでにあるホテルを再生産しても意味がないと考えています。水星だからこそ生み出せるホテル、社会に新しい選択肢をもたらすホテルに力点を置いている点で、一般的なホテル会社とは設計思想が違うかもしれないと話しています。
高木さんは、多くのホテルはブランドを広げ、同じようなものを作って安心感を出していると指摘します。龍崎さんもそれを「経営的にはめっちゃ正しい」と認めています。
アメリカ横断ドライブで見た「同じ部屋」の失望
水星の設計思想の原点について、龍崎さんは9歳ごろ、小学2年生ぐらいの体験を挙げます。当時、家族で半年ほどアメリカに住んでおり、帰国前の最後の1ヶ月でアメリカ横断ドライブをすることになりました。
龍崎さん一家は東海岸のピッツバーグから、帰国便の出るサンフランシスコまで、観光をしながら3週間ほどかけて移動したといいます。1日に立ち寄るスポットが1つしかない日もざらにあったそうです。
そのドライブ中、1日の最終目的地はホテルでした。龍崎さんは毎日、今日のホテルはどんなところだろうと楽しみにしながら車内で過ごしていました。
いざホテルに着いて、客室のドアを開けた先の景色って、昨日のホテルとも変わらないし、一昨日のホテルとも変わんないし、日本で泊まったことがあるホテルとも全然同じだなみたいな。
なんでホテルってこんなおもんないんやろみたいなところが自分のスタート地点なんですよ。
龍崎さんにとって、チェーンオペレーションのホテルが嫌だという感覚は、この旅で同じホテルに飽きた経験から来ています。テキサスとユタでは街の違いがあるのに、1日で一番長く滞在するホテルが、その街の空気感や情緒を全部塗りつぶしてしまうと感じたといいます。
龍崎さんは、ホテルがそうなっているロジックも理解していると断ったうえで、一旅行者としての感性が塗りつぶされる感覚が強くあったと話しています。
学者一家と「両親教師の子は起業家が多い」説
アメリカ滞在の理由について、龍崎さんの両親はともに学者でした。父は経済学の教授で、サバティカル ── 大学教員が一定期間、通常の授業や業務を離れて研究や在外研究に専念できる制度。取得の間隔や期間は大学ごとに異なりますという制度を使ってピッツバーグ大学に行っていました。母は歴史学の研究者です。
龍崎さんの家は祖父の代からの学者家系だといいます。若くして起業したことで「親が経営者なのでは」「実家が太いのでは」と疑われがちですが、文化資本はあっても生活は清貧で質素だったと話しています。
高木さん自身も両親が教師で、「両親とも教師の子どもは起業家が多い」という説を持っています。高木さんはその理由を3つに言語化しています。
| 理由 | 中身 |
|---|---|
| 親が社会を知らない | 経済活動に関わる銀行員などと違い、教師は社会の仕組みを知らない |
| 家では細かく言わない | 学校で散々教えているので家では言いたくなく、結果として放任になる |
| 似た両親への反発 | 本ばかり読む似た者同士の両親が嫌で、逆に振り切る |
高木さんは、一方で知的資本や文化資本によって一定の社会へのリテラシーは身についたとも振り返ります。龍崎さんも、大学で見渡すと地方出身で面白い人はだいたい親が教師だと応じています。
龍崎さん自身は、4〜5歳のころの一番の趣味が「勉強ごっこ」だったといいます。親が本を読み、勉強している姿を真似したくなるよう、うまく導かれていたのではないかと振り返ります。
社会のすでに世の中にある情報をやっぱこう取り入れて、それを自分なりに咀嚼するみたいなことがやっぱすごいなんか身についたんかな
昭島、アメリカ、京都。どこでもよそ者だった感覚
龍崎さんは「東京生まれ京都育ち」と名乗っていますが、実は小6まで東京の昭島に住んでいました。子どものころは立川が最寄りの大都会だったといいます。
龍崎さんは大人になって東京に戻ってから、昭島を不毛地帯に突如ある中継都市のような場所だと感じるようになったと話しています。
中学・高校は、親の仕事の関係で京都市内に移りました。龍崎さんがまず受けたカルチャーショックは、教師が関西弁で話していることでした。
その自分の喋り方のことを東京弁って言われたのがショックで。
京都では「あの子東京やしな」という扱いを受けたものの、龍崎さんにはそう言われるほど東京的な生活を送っていない、昭島だし、という思いもあったといいます。
龍崎さんは、アメリカでは英語が話せないアジア人としてアウェイを感じ、帰国すると「アメリカ帰りの子」、京都では「東京の子」として扱われました。
京都で最終的に住んだのは七条で、京都駅の少し北です。龍崎さんによれば、京都は1000年前に誰が住んでいたかで町の格が決まっており、五条に近いほど格が高いとされます。
京都駅って、その京都人が認識してる京都のなんかこう、本当に辺境守護隊みたいな感じで
七条に住んでいると話すと、友達の親から「大丈夫、そこまでは京都やから」と言われるような空気があったといいます。
龍崎さんは、こうした土地への屈折した感情が、ホテル作りでその土地の空気感をどう作り上げるかに反映されていると話します。表参道や銀座のようなティア1の場所に愛着を持てないという感覚があり、ティア3、ティア4の場所の価値を自分の力で知ってもらいたいという思いがあるそうです。
ズッコケ三人組が教えた「ホテルを経営する仕事」
アメリカ旅行の体験は、龍崎さんにとってあくまで原体験でした。「ホテルはおもんない、自分ならもっと面白いホテルができるのに」と漠然と思っていた段階です。
転機は帰国後の小4、小5ごろに読んだ児童書ズッコケ三人組 ── 那須正幹による児童文学シリーズ。ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの3人の小学生が、さまざまな事件や冒険に巻き込まれる物語で、長く読み継がれていますでした。3人がガムの懸賞に当たり、子どもだけで2週間ハワイに行く巻です。
ハワイでトラブルに巻き込まれたハチベエを助けたのが、日系人のホテル経営者のおじいさんでした。龍崎さんはこのとき初めて、ホテルを経営するという職業があると知ったといいます。
それ見た瞬間、めっちゃもうなんか天啓みたいな感じ。ピンと来て。
子どもには、フロントや清掃といった表面の仕事しか見えません。ホテルを作る人、営む人がいると知ったことで、龍崎さんは「こんなホテルがあったらいいのに」という感情を自分で解決できると気づきました。
いや、ズッコケ三人組でそこまでいけるって、やっぱりリテラシー高いな。
人生変えられてるんですけど、ズッコケ三人組に。
父の「君面白いね」と、母の歴史学者プレゼン
龍崎さんはホテル経営の夢を親に伝えました。父は「君面白いね」と面白がり、前向きな反応だったといいます。
一方で母は心配しており、ポジティブではありませんでした。大学の研究職は休みも長く社会的ステータスもあり、好きなことに没頭できる素晴らしい仕事だと母は考えていたと、龍崎さんは推測しています。
女の子が一人でビジネスの世界と戦うのって絶対つらい思いするから、なんかそんな(こと)しなくていいんじゃないみたいな。
龍崎さんの母は表立って反対はしませんでした。ただ、その後10年間、「歴史好きでしょ、歴史学者いいと思うよ」とプレゼンし続けたといいます。高木さんは、自分の仕事が好きな親がいるのは子どもにとってプラスだと受け止めています。
龍崎さんが今振り返って親のすごさを感じるのは、家に遊びに来た父の友人たちに娘の夢を紹介し、アドバイスを求めていたことです。アカデミアの大人たちも真剣に「こうしたらホテル経営できるのでは」と考えてくれたといいます。
大人に夢を紹介される
父が家を訪れた友人に娘の夢を伝え、助言を求める
自己紹介が定まる
社会との接点で毎回「将来ホテルをやりたい翔子です」と名乗る
アイデンティティになる
夢がぶれずに自分の一部になっていく
龍崎さんは、家に来る大人が自分と社会の接点であり、そこでの自己紹介が夢をぶれさせなかった理由だと考えています。高木さんの「自己洗脳大事だからな」に、龍崎さんは「自己洗脳です。マジで」と応じています。
視座を上げるための東大、ビリから得た楽観性
龍崎さんは中学・高校時代、学校行事に本気で取り組み、いろいろなことを企画していました。当時を知る人は、今と変わっていないと言うだろうと話しています。
早くホテルをやりたくならなかったのかという高木さんの問いに、龍崎さんには当時のライフプランがありました。大人たちのアドバイスはホテルスクール、コーネル大学のホテル経営学科、不動産業からなど、点でバラバラだったといいます。
自分の視座が高くないと、そこ(ホテル経営への道)の地形が見えないなっていうのを思ったので
王道の登り方がないなら、自分で道を見つけるしかありません。そのために龍崎さんは、自分より優秀な人がいる場所で揉まれて視座を上げると決め、小5ごろから東大進学を目標にしました。
ただ、小5で通った国立の中学受験塾では、龍崎さんは最初ビリのクラスでした。小学校では一番賢い子だったのに、賢い人がたくさんいると知って打ちのめされたといいます。
誰よりも努力すればいけるんやみたいな。そういうなんかいい意味での楽観性みたいなものが手に入れられた
龍崎さんは一番下のクラスから一番上のクラスに上がった経験から、努力すれば上に行けるという楽観性を得ました。高木さんは、自分がそれに気づいたのは高校だったので遅かったと振り返っています。
東大合格後の迷子と、大学時代の挫折
龍崎さんは現役で東大に合格しましたが、合格後は本当にどうしたらいいかわからなくなったといいます。その先の頑張り方を描けておらず、それを描くための大学期間だと考えていました。
中学・高校ではホテルをやりたいと言えば応援されましたが、東大の先輩に話すと反応が違ったそうです。
じゃあ君はその夢を叶えるために具体的にどんな努力をしてるの?みたいな感じで。
「どう差別化するつもりなの?」と聞かれることもあり、龍崎さんは当時マウントを取られていると感じたといいます。今思えば、先輩たちは興味を持って聞いていただけかもしれないとも話しています。
さらに龍崎さんは、「女子は夢を追いかけられるからいいよね」と言われるなど、ミソジニー ── 女性に対する嫌悪や蔑視を指す言葉。露骨な差別だけでなく、女性を軽んじる何気ない言動も含めて使われますのようなものも感じ、純粋に夢へ向かう気持ちになれなかったと振り返ります。
大学1年だった2014年、龍崎さんは香港へのおむつ輸出や、秋葉原のメイドカフェ併設ドラッグストアのインバウンド施策といった仕事を経験しました。大学のOBと学生が語り合うイベントで知り合った人から紹介されたものです。
しかし実際にやってみると、龍崎さんは自分の業務能力の低さを痛感し、どこからホテルを始めればいいかも余計にわからなくなりました。その年の秋口以降、腐ってしまったといいます。
確かにね、早めにワクチン打てたみたいなところもあるかもしれないですね。
高木さんは、普通は社会人になってから経験する挫折を早いうちに経験したと受け止めています。そして龍崎さんは、目をかけてくれた人から得た視点と、「2つのウェブニュース」が人生を変えたと語り始め、前編はここで終わります。
まとめ
龍崎翔子さんのホテル経営の夢は、9歳のアメリカ横断旅行で感じた「ホテルはどこも同じでおもんない」という違和感と、ズッコケ三人組で知った職業から始まっています。家庭環境と視座を上げる選択が夢を支えましたが、大学で最初の挫折を迎えました。
- 水星は、既存ホテルの再生産ではなく社会に新しい選択肢をもたらすホテルを目指している
- 原点は、街の空気感を塗りつぶすチェーンホテルへの子どものころの失望
- 各地でよそ者だった経験が、土地の空気感を大切にするホテル作りにつながっている
- 王道のない道を進むため、視座を上げようと東大を選び、塾での逆転から楽観性を得た
- 大学1年の挫折を経て、2つのウェブニュースが転機になったことが後編へ続く





