SANUが作るのは「ホテル」ではなく「ホーム」
今回のゲストは、株式会社SANUの代表取締役CEOを務める福島弦さんです。聞き手の高木慎平さんは福島さんと昔からの知り合いで、東大からマッキンゼーへ進んだ福島さんが、なぜ自然をテーマにした事業に使命を感じているのかを、アイデンティティのレベルまで聞いていきたいと話します。
福島さんによると、SANUは「Live with Nature(自然と共に生きる)」を掲げるライフスタイルブランドです。事業の柱は共有型の別荘サービス「SANUセカンドホーム」で、月額制のサブスクリプションと共同オーナー型の2つのサービスを展開しています。
収録時点で拠点は全国に29ほどあると福島さんは話します。山側では軽井沢、八ヶ岳、那須、湖の近くでは山中湖、河口湖、長野の白樺湖、海側では千葉・内房の館山などが挙げられました。
福島さんが強調するのは、SANUが作っているのはホテルというよりホームだというコンセプトです。そのため使い方は多様で、エンジニアが1日こもってプログラミングする仕事場として使う人もいれば、週末に子どもと訪れる家族もいます。
始めてみて意外だったのは、シニアの夫婦が旅をするように各地の拠点を巡る使い方だったそうです。福島さんは、東京で忙しく過ごす人が、自然の中で解放されてのびのび過ごしたいときに利用するものがSANUセカンドホームだとまとめています。
サウナとウッドデッキのある家で育った「モテる」少年
高木さんは、福島さんがSANUを「好きなもの、信じるものを仕事にしている」ように見えると話し、その出発点を掘り下げていきます。福島さんが生まれたのは北海道の岩見沢で、札幌から1時間半ほどの町に4歳ごろまで住んでいました。
福島さんの父親は、祖父が作ったカメラの現像所のような会社を継いだ人でした。美大を目指したこともあったそうで、家にはサウナやウッドデッキがあり、ホームパーティーを開くのが好きな父親だったといいます。
高木さんが「別荘みたいな家」と表現すると、福島さんは、ある種「非日常的日常の混ざり合ったような家」だったのかもしれないと振り返ります。幼稚園には1時間かけて通っていたらしく、それほど広い田舎町だったそうです。
母親は富山県高岡市の出身で、東京に出たのち専業主婦をしていました。福島さんは2歳上の兄がいる次男です。通っていた「ともえ」という幼稚園は昼寝の時間がほとんどなく、その日何をするかを自分で決めて遊ぶ自由な園だったといいます。
小学校時代について福島さんは「とにかくモテた」と笑います。同級生の男子からは「顔がそんなにかっこいいわけでもないのに、何でモテるのかわからない」と言われていたそうです。
小学5年生で転校した初日には、隣のクラスの女の子たちが見に来るという漫画のような出来事もあったといいます。高木さんが「野生感」を指摘すると、福島さんはその頃までは野生感があり、おちゃらけたキャラクターだったと認めています。
小学校ではチームに所属してスキーを続け、中学ではサッカーを始めました。ただ、福島さんのサッカーチームは12対0で負けるような弱小チームで、国立の学校だったためスクールバスで帰らねばならず、部活の時間は30分ほどしかなかったそうです。
ラグビーだけが許してくれた「怒り」の爆発
福島さんは札幌南高校に進学し、そこでラグビーを始めます。福島さんは、人生を振り返っても、あれほどキレたり怒ったり、タックルで肉体的に感情を表現したりした経験は、ラグビー以外にほとんどないと話します。
背景にあるのは、福島さんが今でも抱えるコンプレックスです。福島さんは、強く怒ったり激しい感情を表に出したりすることがあまりないタイプだといい、高木さんも「イメージがない」と応じています。
ところがラグビーをしていた福島さんは、パスを落とす後輩に「何やってんだよバカ」と声を荒らげ、相手選手に「おら」とタックルしていたそうです。福島さんは、そこにやらされている感覚はまったくなく、感情を爆発させられた経験が本当に良かったと繰り返しています。
東大経済学部から、なぜマッキンゼーだったのか
ラグビーを終えた福島さんは、北海道を出たいという思いと、家庭の事情で私立は難しいという判断から、国立の東大を目指します。後押ししたのは、福島さんが「人生の師匠」と呼ぶ塾の先生でした。現役では不合格となり、1年の浪人を経て東大に入学しています。
東大時代について福島さんは、明確に何かをやりきった記憶はあまりないと話します。高木さんは、都会の人の多さや情報量に圧倒された時期だったのではないかと重ねています。
就職先を考えるとき、福島さんには経営者になりたいという感覚がありました。父方と母方の祖父がともに小さな会社を経営していたことや、母親から経済は面白いという話を聞いて育ったことが理由だといいます。
東大でも経済を学んだ福島さんは、経営に関わりたいという思いに加え、海外に出たいという思いも強く持っていました。大学3年生のころ、食堂で先輩から「マッキンゼー ── マッキンゼー・アンド・カンパニー。企業の経営課題の解決を支援する、世界的な経営コンサルティング会社ですというマフィアのような集団がいて、新卒はあまり採らないらしい」と聞いたのが入り口でした。
福島さんによると、当時の新卒採用は7人ほどでした。リーマン・ショック ── 2008年に米投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに起きた世界的な金融危機。日本でも企業の採用抑制が広がりましたの時期で、採用がかなり少ない年だったそうです。
なぜ福島さんが受かったのかという問いに、福島さん自身は、志望動機を書いたり話したりするのに長けていたと答えます。自分で言うのはおこがましいとしながらも、ビジョンやストーリーを作るのが上手だったのだと思うと振り返っています。
「論評」で身についた、物語を作る力
福島さんがストーリーを作る力を身につけたきっかけとして挙げたのが、大学時代の読書です。何もしていなかったという大学時代にも、本はたくさん読んでいたといいます。
福島さんが参加していたのは、オーラル・ヒストリー ── 政治家や関係者に直接聞き取りを行い、その証言を記録して歴史研究に生かす手法。御厨貴さんは日本におけるこの分野の第一人者として知られますで知られる御厨貴さんのゼミでした。1冊の本を読み、それぞれが無記名で論評を書いてくる形式だったそうです。
福島さんの家では、母親と兄が大量の本を読んでおり、『ローマ人の物語』が全巻そろっているような環境でした。ただ福島さん自身は中高時代、最初の30ページで寝てしまうタイプで、本から吸収して言葉を発することの大切さは「景色として」知っていた程度だったといいます。
高木さんも、本好きの両親に反発して本を読まなかったものの、大学で一人暮らしを始めてから本の面白さに気づいたと自分の経験を重ねます。福島さんは、自分は本を読むことより、読んだ結果として文章を書くほうが好きなのかもしれないと話しています。
福島さんが今でも自慢にしているのが、御厨ゼミで丸山眞男の本について書いた論評です。御厨先生はその書き出しを「鮮烈な一文だ、この一文で単位をあげてもいい」と評したそうです。
正確な文面は覚えていないとしつつ、福島さんが書いたのは、丸山眞男を深く読み込んだわけではないが、表面をなぞっただけだからこそ瑞々しい感度で感じたことを述べる、という趣旨の書き出しだったといいます。高木さんは、その書き方が玄人から見て新鮮だったのではないかと読み解きます。
何が書かれていたかをまとめ、どう思ったかを述べる。ただし深くは行きにくい
まだわかっていないと認めたうえで、表面から自分なりに捉えた部分を瑞々しい感度で述べる
高木さんは、こうした文章を書いてきたからこそ、相手に対して何をどう示せばよいかへの嗅覚が鋭くなったのではないかという仮説を示し、話をマッキンゼー時代へ進めます。
会議で一言も話せなかったマッキンゼーの2年間
福島さんがマッキンゼーに在籍したのは4年半ほどです。最初の2年間はまったく活躍できず、「全然ダメ」が口癖の上司から「全然ダメ」と言われ続けていたといいます。
同期がいいパフォーマンスを出すなか、中学・高校・東大と「まあまあいけちゃう」感じで来た福島さんにとって、本当に通用しない経験は初めてでした。福島さんは、ミーティングで発言できないことがこんなにつらいのかと感じ、発言を求められるほど話せなくなっていったと振り返ります。
転機は2年目ごろに訪れます。福島さんは語学研修でサンフランシスコに派遣されたものの、語学学校が楽しくなく、現地のNPOで活動していました。それが会社に知られ、研修費を全額自己負担するよう求められて、当時としては大きな借金を抱えることになります。
さらにマッキンゼーには、昇進できなければMBAに行かなければならないような制度があり、その学費もかかる状況でした。福島さんは「やばい」と一念発起し、3年目ごろからパフォーマンスが上がっていきます。
高木さんに理由を聞かれた福島さんの答えは、追い込まれたからだというものでした。加えて、マネージャーがものすごく優秀なわけではないプロジェクトにたまたま入ったことも大きかったといいます。
福島さんによると、とても強い人と働くと自分の居場所を作るのが難しい一方、そのプロジェクトでは自分が頑張らなければという状況がちょうど重なりました。1つのプロジェクトがぐんと伸びると好循環に入り、開始5分からドキドキして発言できなかった状態がまったくなくなったそうです。
低迷期
最初の2年間は活躍できず、会議で発言できない
研修費の自己負担
サンフランシスコ研修中にNPO活動をしていたことが知られ、大きな借金を抱える
追い込まれる
昇進できなければMBAの学費も必要になり、一念発起する
好循環へ
自分が頑張るべきプロジェクトで成果を出し、発言への恐れがなくなる
中竹竜二さんへの一通のメッセージから始まったラグビーの仕事
調子が上向いたにもかかわらず、福島さんはマッキンゼーを辞めます。もともと長くいるつもりの会社ではなく、最後に中東ヨルダンでの長期プロジェクトに入ったことで自由な時間ができ、次に何をするかを考えていたといいます。
福島さんの頭に浮かんだテーマの1つが、日本にやってくるラグビーワールドカップでした。コンサル出身で早稲田大学ラグビー部の監督も務めた中竹竜二さんを思い出して検索すると、U20日本代表のヘッドコーチをしていると知り、Facebookのメッセンジャーで連絡したところ、すぐに会おうと返事が来たそうです。
帰国した福島さんは、まず中竹さんのもとでU20日本代表チームの主務のような仕事に就きます。3〜4か月後には、国内初のプロラグビーチームを作るプロジェクト、のちのサンウルブズ ── スーパーラグビーに参戦するため2016年に発足した日本拠点のプロラグビーチーム。日本代表強化の役割も担いましたの立ち上げに加わり、3シーズン目ごろまで関わりました。
その後、福島さんは兼務の形でラグビーワールドカップの組織委員会にも移ります。しかし、自分がもっとやりたいことと組織のさまざまなバランスとの間で難しさがあり、辞めようかと相当悩んだ時期もあったそうです。
そんなときに巡り会ったのが、大会で唯一新しいスタジアムを建設する岩手県釜石市での準備・運営の仕事でした。福島さんは、被災地にスタジアムを作り、ワールドカップを開いて少しでもポジティブな力になれるなら、自分が語って誇らしい仕事だと感じたと話しています。
ワールドカップの後、SANU創業へ向かう分岐点
ラグビーワールドカップという巨大イベントが終わったとき、福島さんには、ラグビーを日本やアジアに広げることにもう少し時間をかける選択肢もあったといいます。ラグビーの仕事を続けることも少し考えていました。
一方で福島さんは当時、のちにSANUを共に創業する本間隆宏さんが営むバックパッカーズジャパンのサポートもしていました。そこから、本間さんと一緒に会社を立ち上げようという話になっていきます。
高木さんが、SANUがメインに切り替わった瞬間はあったのかと尋ねると、福島さんは、腹を決めた背景には「アカレンジャーをやりたい」という思いがあったと語り始めます。その意味は後編で明かされます。
まとめ
前編では、自然の中で育った野生的な少年が、ラグビーで感情を解き放ち、東大とマッキンゼーで知性の世界の厳しさを味わい、ラグビーの仕事を経てSANU創業の入り口に立つまでが語られました。
- SANUは「ホテルではなくホーム」を掲げ、全国の自然の中で多様な暮らし方ができるセカンドホームを提供している
- 福島さんにとって高校ラグビーは、強い感情を表に出せた人生でも数少ない経験だった
- 大学の論評で磨いたストーリーを作る力が、マッキンゼー入社の背景にあったと考えられる
- マッキンゼーでは2年間の低迷と借金を経て、追い込まれたことで好循環に入った
- サンウルブズ、ワールドカップ組織委員会、釜石を経て、SANU創業の決断は後編で語られる


