mRNAワクチンの母・カタリン・カリコ ── テディベアに全財産を隠してアメリカへ渡った「諦めない科学者」の物語
サイエントークのレンさんとエマさんが、2023年ノーベル生理学・医学賞を受賞したカタリン・カリコハンガリー出身の生化学者。mRNAの医療応用に関する基盤技術を開発し、2023年ノーベル生理学・医学賞を受賞。ビオンテック社の上級副社長を務めた。さんの半生を紹介するエピソード。ハンガリーでの幼少期からアメリカでの20年以上にわたる苦闘、そしてmRNAワクチン実現までの大逆転劇を、3つの時代に分けて語っています。その内容をまとめます。
ハンガリー成長編 ── mRNAとの出会い
カタリン・カリコさんは1955年、ハンガリーの人口約1万人の小さな町で生まれました。父親は精肉業、母親は事務員という普通の家庭で育ちましたが、科学に関心の高い母親の影響もあり、小中学校の頃から生物学にのめり込んでいったそうです。
大学でも優秀な成績を残し、そのままハンガリーの生物学研究センターで博士課程に進みます。そして1970年代の大学生時代、カリコさんは運命の分子──mRNAメッセンジャーRNA(messenger RNA)の略。DNAの遺伝情報をタンパク質合成の場であるリボソームに運ぶ役割を持つ核酸の一種。A(アデニン)、U(ウラシル)、G(グアニン)、C(シトシン)の4文字の配列が、タンパク質の設計図となっている。と出会います。
しかし、当時のmRNA研究は大きな壁に直面していました。mRNAは非常に不安定で、しかも体に注射すると激しい炎症が起き、実験用のマウスが死んでしまうことも多かったのです。研究資金も打ち切られ、ハンガリー国内ではこの研究を続けることが困難な状況に追い込まれていきました。
テディベアに全財産を隠してアメリカへ
研究を続けるため、カリコさんは1985年にアメリカへ渡る決断をします。当時のハンガリーは共産主義の一党独裁体制ハンガリーは第二次大戦後、ソ連の影響下でハンガリー社会主義労働者党による一党独裁が続いた。国民の出国や外貨の持ち出しには厳しい制限があった。1989年の民主化まで続いた。で、お金を国外に持ち出すことが極めて難しい状況でした。クレジットカードも持っていなかったカリコさんが取った手段は、なんと2歳の娘のテディベアのぬいぐるみの中に全財産(約900ポンド)を隠すというものでした。
もしかしたら飛行機のチェックの人がテディベアのお金に気づいてたら、今私たちの中にはワクチンいなかったかもしれないね
アメリカには特につてもなく、頼れる人もいない状態。夫と幼い娘を連れ、テディベアひとつに希望を託しての渡米でした。
アメリカ奮闘編 ── 20年の下積み
渡米後、カリコさんはペンシルベニア州のテンプル大学ペンシルベニア州フィラデルフィアにある私立総合大学。1884年創立。医学部や薬学部でも知られる。、その後ペンシルベニア大学1740年創立のアイビーリーグ校の一つ。医学・生命科学分野で世界トップクラスの研究大学。で研究を続けます。しかし、設備は十分に整っておらず、上司も厳しく、研究成果もなかなか出ませんでした。インタビューでは「ハンガリーに戻りたいと思っていた」とも語っています。
研究費の申請は何度も却下され、ついに上司からは「mRNAの研究はお金も取れないし、成果も出ない。別の研究テーマに切り替えるか、アシスタント並みの給料で今の研究を続けるか選べ」と迫られます。渡米から10年以上が経っていました。
普通ならば、これだけ成果の出ない研究を10年以上続けて、さらに給料まで下げられるとなれば、テーマを変えるのが合理的な判断かもしれません。しかしカリコさんは「mRNAは世界を変える技術だ」という信念を貫き、給料が大幅に下がることを受け入れてでも研究を続ける道を選びました。
ちなみに、カリコさんの家族について興味深い話も。夫はエンジニアとして家計を支え、テディベアに入って渡米した長女は、後にボート競技カリコさんの長女スーザン・フランシアは、2008年北京オリンピックと2012年ロンドンオリンピックのボート競技でそれぞれ金メダルを獲得した。で2008年北京五輪と2012年ロンドン五輪で金メダルを獲得しています。レンさんは「研究は体力勝負でもあるから、カリコさんも間違いなく体力はあったはず」と語っていました。
コピー機での運命的な出会い
1998年、転機が訪れます。ペンシルベニア大学のコピー機の前で、たまたまドリュー・ワイスマンアメリカの免疫学者。ペンシルベニア大学教授。カリコさんとともにmRNAの修飾技術を開発し、2023年ノーベル生理学・医学賞を共同受賞した。という研究者と居合わせたのです。カリコさんは最初、助手と間違えられたそうですが、自己紹介でmRNAの研究をしていると話すと、ワイスマンは強い関心を示し、「一緒に研究しよう」と申し出ました。
カリコさんはワイスマンの研究室に移り、ここでようやくブレイクスルーを掴みます。mRNAの構成要素であるウリジンRNAを構成する4種のヌクレオシドの一つ。mRNA中のウリジンは免疫システムに「異物」として認識されやすく、強い炎症反応を引き起こす原因となっていた。をシュードウリジンウリジンの化学修飾体。自然界にも存在する物質で、mRNA中のウリジンをこれに置き換えると免疫系に認識されにくくなり、炎症を抑えてタンパク質を効率よく作らせることができる。カリコとワイスマンの最大の発見。に置き換えると、免疫系に異物として認識されず、炎症が起きないことを発見。2005年にこの成果を発表しました。
mRNAを体内に注射 → 免疫系が異物と認識 → 激しい炎症・マウスが死亡
mRNAのウリジンをシュードウリジンに置換 → 免疫系をすり抜ける → 炎症なしでタンパク質合成に成功
しかし、ここからすぐに大成功とはなりませんでした。mRNA研究自体が当時すでに下火で、多くの研究者が撤退済み。論文もさほど注目されず、ベンチャー企業を作ってみたものの投資もなかなか集まらない状況が続きました。渡米から20年──ようやく技術的突破口を見つけたものの、世間の評価はまだ追いついていなかったのです。
ドイツ躍進編 ── ビオンテックとmRNAワクチンの実現
2005年の論文に注目していた企業が実は2社ありました。ドイツのビオンテックBioNTech SE。2008年にドイツ・マインツで設立されたバイオテクノロジー企業。mRNA技術を基盤に、がん免疫療法や感染症ワクチンの開発を行う。新型コロナウイルスワクチンをファイザーと共同開発した。と、アメリカのモデルナModerna, Inc.。2010年にアメリカ・マサチューセッツ州で設立されたバイオテクノロジー企業。社名はModified RNAに由来。mRNA技術を用いた医薬品・ワクチンの開発で知られる。です。
興味深いことに、カリコさんが所属していたペンシルベニア大学は、この技術の特許権を外部の企業に売却してしまっていました。結果的にビオンテックもモデルナもそのライセンスを利用してmRNA技術を発展させることになり、独占状態にはなりませんでした。
2013年頃、ビオンテックはカリコさんをドイツに招き、上級副社長として迎え入れます。当時カリコさんは50歳前後。一方、モデルナもまた独自にmRNA医薬の研究を進めていきました。カリコさんはビオンテックでインフルエンザなどさまざまな病気へのmRNAワクチン応用を研究し続けます。
そして2020年、新型コロナウイルスが世界を襲います。ビオンテックのCEOは、カリコさんが何十年もかけて培ってきたmRNA技術を一気に投入。これまで一度も正式承認されたことのなかったmRNAワクチンが、史上最速のスピードで緊急承認を獲得しました。
2020年12月、完成したワクチンの接種を受けたカリコさんとワイスマンさんには、医療従事者たちから拍手喝采が送られたといいます。テディベアに全財産を詰めて渡米してから、実に35年。mRNAの可能性を誰よりも信じ続けた科学者が、ついに世界を変えた瞬間でした。
現在、カリコさんはアメリカのTime誌「世界で最も影響力のある100人」にも選出されています。エマさんは「初め一文無しでアメリカに行って、普通だったら諦める状況でも諦めずに頑張り続けた。こんな綺麗な現実のサクセスストーリーはなかなかない」と感嘆していました。
まとめ
カタリン・カリコさんの物語は、科学における信念と忍耐の力を教えてくれます。ハンガリーからテディベアに全財産を隠してアメリカへ渡り、20年以上の下積みを経て、mRNAワクチンという世界を救う技術を生み出しました。コピー機の前での偶然の出会い、mRNA分野が下火になる中での孤独な研究継続──いくつもの奇跡のような出来事が重なって、今日私たちが受けるワクチンにつながっています。2023年、カリコさんとワイスマンさんはノーベル生理学・医学賞を受賞。「諦めない」ことの価値を、最も壮大なスケールで証明した科学者の物語です。
- カタリン・カリコさんは1955年ハンガリー生まれ。1970年代にmRNAと出会い、その医療応用に人生を捧げた
- 1985年、共産主義体制下のハンガリーからテディベアに全財産を隠してアメリカへ渡った
- アメリカで20年以上、研究費の打ち切りや降格を経験しながらもmRNA研究を続けた
- 1998年にドリュー・ワイスマンとコピー機の前で出会い、共同研究を開始。2005年にmRNAのウリジンをシュードウリジンに置換すると炎症が起きないことを発見
- ビオンテックに招かれ、2020年の新型コロナ禍で何十年もの蓄積が一気にmRNAワクチンとして実用化された
- 2023年、カリコさんとワイスマンさんはノーベル生理学・医学賞を受賞した

