自分の話し方を録音して聴くという発見
金子さんが最近気づいたこととして切り出したのは、Podcastの編集作業で自分の声を繰り返し聴いているうちに、自分の話し方の「生意気さ」が客観的に見えてきたという話です。
一つ一つの語彙の選び方や、言葉の抑揚。何度も聴いているうちに、「こいつ大丈夫かな」と思う瞬間が何度もあったといいます。
一つ一つの語彙、言葉の選びとか、言葉の抑揚の感じが。なんかこいつ生意気だなって思う瞬間が何回も。
斎藤さんも子どもの頃、自分の声を録音で聴いて「こんな声だったのか」と衝撃を受けた経験を語ります。今はもうどうでもよくなった、と笑いながら。
金子さんは、大人になったからこそ一度自分の会話を録音して聴いてみることを勧めます。治るかどうかは別として、気をつけようとは思える、と。
「いや」から入る癖と、リベロ斎藤
斎藤さんが思い出したのは、高校の同級生に、何を話しかけても「いや、それは違う」と否定から入る人がいたという話です。本人はテンション高く話しているものの、よく聞くと同じことを言っている。ただ癖で「いや」から入ってしまう。
金子さんも自分にそうした節があると認めます。盛り上がるほど「でも」「いや」で切り返してしまう。返す刀でパンと跳ね返してしまうタイプだ、と。
一方の斎藤さんは、金子さんから見ると「一回球をクッションさせてくれる」タイプ。バレーで言えばリベロのような存在です。
一回斎藤さんはこう、肯定とまでは言わないけど、バレーでいうこう一回球をクッションさせてくれるっていうか。一回、「あ、そうだよね」とか、「そう、そうかもね」とかって、こう一回クッションさせてくれるから話しやすい。
主導権を取りたくて切り返してしまうラリーの気持ちよさもあれば、一度受け止めてもらえるセーフティーな会話もある。話す環境や雰囲気が大事だと二人は確認し合います。
夜逃げ「SUPER EXPRESS」と、走るリズムの話
話題はASIAN KUNG-FU GENERATION、通称アジカンに飛び、斎藤さんが最近ハマっているという曲の話へ移ります。
夜逃げ京都出身の3ピースロックバンド。ボーカルの牛丸ありさを中心に活動し、疾走感のあるサウンドとエモーショナルな歌詞で知られる。2025年にアルバムを発表している。の「SUPER EXPRESS」という曲。斎藤さんはYouTube Musicで偶然出会い、繰り返し聴いているといいます。
これはですね、夜逃げのSUPER EXPRESSっていう曲なんですよ。2025年のアルバムの一曲目らしいんですけど、YouTube Musicでランダムで聴いてた時にパッと飛び込んできて。「むむ!」ってなった。「これは好きなやつだな」ってなって。
斎藤さんはこの曲を「女版アジカン」と表現します。ドラムやメロディラインが速いのに、サビのボーカルはゆっくり歌う。アジカンの「夕景」などにもある構造で、そのスタイルの女性ボーカル版として響いたのだと。
金子さんはそれを、単に「◯◯版アジカン」と括るのではなく、斎藤さんの中で刺さっているポイントが共通しているのだ、と整理します。
モーターのリズムと体のリズム
斎藤さんが好きなのは、疾走感のあるドラムやベースの下で、ボーカルはゆっくり歌うタイプの曲。走るような鼓動がどこかで聴こえていないと落ち着かないと言います。
金子さんはそれを、木工の作業風景と結びつけて考えます。工具は高回転で速いリズムを刻むが、自分の身体はゆっくり固定して支える。そのズレが心地よさにつながっているのではないか、と。
ドラム、ベース、モーター音、工具の回転。疾走感を担う要素。
ボーカルのメロディ、木材を保持する身体の動作。抑制的で持続する要素。
金子さんは音楽の拍の話に踏み込みます。4拍子のタンタンタンタンの間にも、細かく刻めばタタタタタタタタが存在する。どの粒度で拍を取るかは人によって違い、細かく刻んでいくほど滑らかな線に近づいていく、と。
モーター音的な、エンジンとかのドライブしてる、そこに多分シャシャ、早くてもシャシャシャシャくらいじゃないですか。もし削っていくとしたら。その体のそのラーっていう中にシャったったったっていうのが合うのが気持ちいいんじゃないですか。
斎藤さんはこの解釈に強く反応します。機械の力で回る工具を、木材にちょうどいい角度と強さで当てる。その振動を身体でグッと保持する感覚は、まさに速いリズムと抑制的なボーカルの関係に近い、と。
スピーチ予行練習・木と人間の長い付き合い
ここから斎藤さんが、週末のイベントに向けたスピーチの予行練習に入ります。アーティスト9人と、神経科学・幾何学・流体力学などの研究者8人が山口に集まり、秋吉台国際芸術村山口県美祢市にある芸術文化交流施設。国内外のアーティストのレジデンスや発表の場として活用されている。とYCAM山口情報芸術センター。メディアアートを中心に、展示・上映・研究開発を行う山口市の文化施設。で対話するイベントです。
斎藤さんはそこで、10分ほどで自分の関心とレコアという作品について話す予定。金子さんに聞いてもらい、フィードバックをもらうことにしました。
スピーチはまず、人間と木の長い関係から始まります。人間は猿から進化した動物で、目が前についていて奥行きを見られること、親指と他の指が向かい合ってものを掴めることは、木の上での生活に適合してきた身体の作りだ、と。
植木屋さんが木を見て、「いや、あの木は本当に登りやすそうな形してるし、ほんと木って人間が登りやすそうな形してるよね」っていうような言い方でこう話してて。その時に、「いや、木が登りやすそうな形してるっていうよりも、僕らの体が木登るようにできてるっていうか、じゃないのかな」って思ったのがすごい印象に残ってて。
石器時代、青銅器時代、鉄器時代と時代区分はされるものの、それらすべてを貫いて「木器時代」でもあった。木の道具の先に、より硬い石や金属を取り付けてきた歴史がある、というのが斎藤さんの強調したいポイントです。
現代では、木に見えて実は木ではないものが多い。プリント合板や、木目を印刷したプラスチックなど。斎藤さんは、そうした「木のようなもの」ではなく、実際の丸太や木材から作品を作っていきたい、と話します。
フィクションが変わる時代と、レコアという作品
後半、斎藤さんは未来の話へ移ります。人間は文明とともに変わっていく生き物であり、それは時代ごとに信じられている「共通のストーリー」、いわばフィクションが入れ替わっていくからだ、と。
かつてはキリスト教的世界観や封建的な身分制度があり、今は資本主義的なルールが一つの大きな筋になっている。ただし今は、その大きな筋が揺らぎ、何を信じてもいい時代でもある、と金子さんが整理します。
その上で斎藤さんが提示するのが、遺伝子操作の話です。2010年代以降、CRISPR-Cas9遺伝子の狙った箇所を切って書き換えることができる技術。2020年にノーベル化学賞の対象となった、ゲノム編集の代表的な手法。のような技術によって、人間の遺伝子に介入することが現実的になってきている、と。
「レコア」はこの第三段階、人間があえて動物的な姿を選び取っていく未来をイメージした作品です。斎藤さんはそれを、遺伝子操作された人間たちが生まれる直前の「過渡期」に位置する2020年代のアートとして提示したいと考えています。
今私が作っているレコアっていうものは未来の動物っていうタイトルなんだけども、あれはちょっと遺伝子を操作して、人間が動物の姿になった姿みたいなのをイメージして作ってるというのが一つの自分の興味と作品制作の動機というか、そういうテーマで作ってる。
金子さんのフィードバック・意味は必要か
聞き終えた金子さんの感想は率直でした。前半の合板の話は削っても構造は成立するのではないか。中盤以降、レコアと遺伝子操作の話にもっと分量を割いた方がいい、と。
そしてもう一つ、金子さんが強く投げかけたのは「意味は必要か」という問いでした。
僕は意味は別になくていいと思うんですよ。それって意味あるんですか?って。もう僕の嫌いな言葉の何か上位に入るくらいの。意味なんてねえよって。
金子さんが作品を見るときに惹かれるのは、意味の説明ではなく、その人が何を見て、何を美しいと感じ、何を気持ちいいと感じているかという、その人の視線そのものだと言います。
その人が見てない、見えてない、なんかこう何かがあって、なんかそれが形になって。その人が見てる物語とか、その今現実には起こってないかもしれないけど、その先にあるなんかフィクションみたいな、その人が見えてるものって何なんだろうっていうところに結構惹かれたりとかするんですよ。
だから、遺伝子操作の説明が過度に前面に出ると、逆に「そこに意味を持たせているのかな」と受け手が身構えてしまう。ただ、話す場や相手によってバランスは変わるので、そこは難しい、と金子さんは補足します。
現実の先にフィクションはある
話は再び、フィクションと現実の関係へ戻っていきます。金子さんは、2026年のアーティストは現代特有のものと結びついている方が強い、という斎藤さんの前提に少し違和感を示します。
今の現実の先に僕はなんか結構フィクションとかってあると思うんですよね。SFとかっていうのも。今の生活とか今の何か転換期だったり、何かがあった時に、その想像力が働いて、もしかするとこういう未来があるかもしれないって、未来予知的な、今はない、今は目の前にないけど、何か見えた何かみたいな。
現実の先にフィクションがある、というのは創作行為に共通する自然な構造ではないか、と。
斎藤さんも、コロナワクチンを打つ・打たないをめぐって社会が大きく割れたことを例に、遺伝子操作のような選択肢が現実になったとき、人々は同じように鋭く分かれるだろうと語ります。
病気にかからない、より強い身体を望み、技術を積極的に受け入れる立場。
オリジナルの身体のままでいたい、リスクを引き受けたくないと考える立場。
欠損から広がるイメージと、作品を作りながら物語が広がっていくこと
話はレコアの造形へと戻ります。上面が平らに削られているのは、もともとは「椅子としても使えるように」「丸太をスパッと切る技術を見せたい」という実務的な理由から始まったといいます。
その後、生き物なのだから必ずしも平らである必要はないと丸いバージョンも作ってみた斎藤さん。ただ、フォルムとしてはやはり切断されたようなフラットな形の方が好きだ、と。
金子さんは、その「スパッと切れている」感じにこそ想像力をかき立てられると言います。ミロのヴィーナスやサモトラケのニケも、最初から欠損を目的に作られたわけではないのに、欠けているからこそ想像が広がっていく。
欠損してるからこそ補えるみたいな。理性というか、そういう人間の合理性の否定みたいな、なんか人間なのに人間の形じゃない動物になるっていうのは結構錯乱してる。反知性的というか、反理性的なことじゃないですか。それをのメタファーとして。頭がない、こうスパッと切られてて、ボディしかないっていうような形になってるんですよっていう説明も後付けではできる。
「後付け」という言葉に対しても、金子さんはそれを否定的には捉えません。作っている過程で物語が膨らんでいくこと自体が、創作の自然な姿ではないか、と。
作ってる過程でその物語がどんどん進んでいくじゃないけど、よく言えば。それに対してなんかこう、どんどんどんどんその物語がこう膨らんでいくっていうのは。伝える必要があるかどうかっていうのは別だとして、自分の中でなんかその膨らんでいくっていうのは、僕はなんかすごく言わなくてもいいと思うし。
作品が四本足から三本足へと変化していくのを見ると、そこに何か作者の中の動きがあるのだと感じる。文明が人間を変容させていくという斎藤さんの話と、作りながら自分自身も変容していく作家の姿は、実はきれいに重なっていると金子さんは指摘します。
頭でっかちな部分を切り捨てたい、という斎藤さんの感覚も、頭で考えることの限界と、フィジカルなものを求めてしまう自然さの表れとして、金子さんは受け止めていました。
まとめ
話し方の癖という日常の気づきから始まり、リズムと身体、木と人間の長い歴史、そしてレコアという作品と未来観にまで話が伸びていった一回でした。斎藤さんのスピーチ予行練習に金子さんが率直に応じることで、意味づけと感覚、作品と物語の関係が浮かび上がっていきます。
- 自分の会話を録音して聴くことは、自分の話し方の癖を客観的に見直す機会になる。
- 速いリズムと抑制的な動きの重なりが、音楽の心地よさと木工の身体感覚の両方に通じている。
- 人間は木と共に進化してきた動物であり、道具の歴史も長く「木器時代」として貫かれていたと捉えられる。
- 遺伝子操作が現実味を帯びる時代のアートとして、「レコア」は人間が動物的な姿へ向かう過渡期を象徴する作品として構想されている。
- 作品の意味を先に決めなくても、作りながら物語が広がり、作り手自身も変容していくこと自体に創作の面白さがある。
