フィクションから見えてくるブッダの三つのエピソード
前回は、文献が残り史実に近いと考えられるノンフィクション寄りの話が中心でした。
今回は逆に、フィクションではないかと言われているエピソードを三つ取り上げて、ブッダがどういう人だったかを感じ取ろうという回です。
三つとは、ブッダも予言を受けていたという話、女性の誘惑を受けたというハニートラップの話、そして悪魔から囁かれたという話です。
モテモテだね。
そう、悪魔のささやきが聞こえるの、ブッダは。
きょうすけは、今の私たちからすれば悪魔がいるかどうかもわからないと前置きします。
そのうえで、後世の人がブッダをどう語り継いだのかを感じてほしいと話します。
ソクラテスやプラトンのようなロジカルな西洋哲学と、物語的なブッダの話。その質感の違いを味わうのも、この回の狙いだと語られています。
いわゆるその西洋哲学的なロジカルな部分と、ちょっとこういう物語チックなところ。でもそれはそれですごく深いものが両方にあるなと思うんで、そういうのも感じてもらえたら嬉しいなと思います。
生まれた時の予言と、四人との出会い
当時のインドでは、生まれた子を占い師や占星術師に見てもらうのは当たり前だったと説明されます。
王族であるブッダの家にも、大臣車書き起こしの音声から起こした呼称で、王に仕える仙人のような占い師を指すと語られています。表記は{要確認: 大臣車}です。立派な仙人が予言のために呼ばれました。
その仙人は、生まれたばかりのゴータマ・シッダールタ王子を見て、微笑んだ後に泣いたといいます。王様は理由を知りたくて動揺しました。
王様めっちゃビビるわけよ。言ってよって感じで。だって笑った後に泣かれたら、ちょっとドキドキするじゃん、こっちも。
仙人によれば、微笑んだのはこの子が悟りを開くほどの人になると見えたからでした。
泣いたのは、自分が生きているうちにその教えを聞けないと分かったからだと言います。
さらに、もし悟りの世界へ行かなければ、この人はきわめて優れた王になるだろうという予言もありました。俗世に生きるか捨てるかで未来が分かれる、二つの道です。
当然、王様は息子に俗世を捨てられては困ります。そこで幼い頃から、適切な教師をつけて王として育てていったと語られます。
予言にはさらに続きがあり、シッダールタが出家するには四つの兆候があるとされました。老人、病人、死人、そして苦行者との出会いです。
なるほど、面白いね。ただちょっとざっくりしすぎな気もするけどね。病人とかってさ。
面白いのは、王様が権力を使って対策を打つところです。監視人を配置し、老人や病人、苦行者を一切近寄らせないようにしました。
従者は若い人だけ。風邪をひいた人すらそばに置かない、超過保護な生活だったと語られます。
四門出遊と、出家への決意
二十九歳の頃、ブッダは物思いにふけるようになります。結婚や子どもをめぐる出来事などがあったのではないかと語られます。
ここからは伝説色が濃くなります。ある日、シッダールタは遠回りをして東の門から出かけ、疲れ切った老人と出会いました。
白髪で歯が抜け、肌もガサガサ。従者が「あれは老人です」と説明します。人は皆年を取るのだと言われても、初めて見た王子は驚き、宮殿に戻ります。
そっか、そこまでずっと遠ざけられてたから、初めて見るのか。おじいちゃん、おばあちゃん。
次に西の門から出ると、地面でうめく病人と出会います。健康なら大丈夫だと言われても、王子は納得できずに帰りました。
さらに南の門を出ると、葬儀の行列に出会います。動かない遺体と泣く人々を見て、王子は「死ぬ」ということを初めて知りました。
最後に北の門を出ると、頭を剃りオレンジの衣をまとった托鉢の苦行者と出会います。その穏やかで神聖な姿に、王子は強く心を動かされます。
従者があれは苦行者ですと。そういう人の苦しみとかを超えて、人生の謎を解明しようとして俗世を捨てた人ですよって答えちゃうのね。
王子は「自分もこの苦行者のようにならなければ」と思い、出家の道を選びます。こうして四人との出会いという予言がすべて的中しました。
これが有名な四門出遊城の東西南北の門から出た王子が、老人・病人・死人・修行者と順に出会い、人生の苦しみを知って出家を決意したとされるブッダの伝説です。です。生まれた時の予言が、ここで回収される構成になっています。
快楽から苦しみへ、逆走したブッダの特殊さ
ここではやとが、ブッダの出自の特殊さに強く反応します。
普通の人は、まず苦しみがあって、そこから逃れるために快楽や楽しさを求めます。順番としては苦しみが先です。
ところがブッダは、予言のせいで苦しみに一切触れないまま、最上の幸福だけを浴びて育ちました。そして二十歳を過ぎてから、初めて老いや病を知ったのです。
最上の幸福を先に知ってから苦しみを見たときの振れ幅と順番。その逆転こそが特殊だと、はやとは語ります。
この特殊さを理解しないと、ブッダの言葉と解釈がずれてしまうとはやとは指摘します。
たとえば「一切皆苦この世のすべては苦しみであるという仏教の基本的な考え方を指します。番組では、この言葉の重みがブッダと私たちでは全く違うと語られています。」という言葉。私たちも軽く口にできますが、その土台がまったく違うというのです。
なんかブッダと肩組んじゃいそうなんだよね。だよねって。
あ、そうそうそう。違うんだよね。そういうことじゃないんだよね。
私たちにとって苦しみや老い、病、死は身近な存在です。しかしブッダにとっては、地球外生命体やゴジラに出会うような驚きだったのではないか、とはやとは例えます。
きょうすけは、そこにさらに怖さを付け加えます。ゴジラは自分と別のものですが、病人と自分は同じものだという点です。
自分とは全く違うと思ってた概念、自分になかった概念が、実はそれも全て自分であるっていうところの怖さ。
自分にはなかったはずの苦しみが、実は自分自身にも訪れる。その気づきが、価値観や人生観を根本から崩したと考えられます。
悟った後の悪魔の囁きと、悟りはゴールかスタートか
三つ目は悪魔の話です。ハニートラップは、ブッダの活躍を妬んだ者が女性を使い、教えを説く場で「ひどいことをされた」と言わせた、という権力争い的なエピソードとして紹介されます。
悪魔の話で面白いのは、ブッダが悟った後に悪魔から囁かれる点だと、きょうすけは言います。
普通、悟った後はそうした穢れとは無縁のイメージがあります。しかし実際はそうではないと語られます。
言われればそうだよね。確かに悟ったって、もうそういうものを乗り越えたりとか、超越した感じは確かにするのに。
悪魔はブッダに問いかけます。言うことを聞く人には教え、聞かない人を憎むなら、あなたにはまだ執着や欲望があるのではないか、と。
ブッダは、自分が教えを説くのは人々への思いやりからであり、聞いてくれるかどうかは自分の範囲外だと答えます。
さらに悪魔は、教えるという行為自体が知識を植え付けたいというエゴではないか、と迫ります。それに対しブッダは、やりたいからでもなく、慈悲心からやっているのだと応じます。
教えを説くあなたには、まだ執着やエゴがあるのではないか。
ブッダは、自分は思いやり(慈悲心)から説いているだけであり、届くかどうか、聞いてくれるかどうかは自分の範囲外だと答えます。私心のない状態から行っていると語られます。
はやとは、この悪魔の囁きは自問自答だったのかもしれないと解釈します。悟るほど自分を俯瞰でき、絶えず自分のエゴを点検していたのではないか、というのです。
だから超内省力だよね。
つまり悟りとは、一切汚れない境地というより、常に自分を点検し、真心からやっていると言える状態で生き続けることではないか、とまとめられます。
この流れから、はやとは「悟りはゴールなのか、スタートなのか」という問いを立てます。
きょうすけは、後の時代の話として、悟りたいと出家した人に「そのままのあなたが仏であり悟りだ」と答えるやりとりを紹介します。禅宗に近い考え方だと語られています。
フィクションと物語が持つ力、そして次回へ
当初「楽しく聞けるフィクションの回」と思っていたはやとは、ノンフィクションの回以上の学びがあったと驚きます。
物語は言葉を使いながら、言葉以外のもの、その人のエモーショナルな部分に直接作用し、身体的な理解を助けるのではないか、とはやとは考えます。
物語は言葉じゃなくて、物語というパッケージが身体的な理解、それ自体が体験なのかもしれない。哲学か?これ。
きょうすけは、詩人の力を神の力とみなす思想が西洋にも東洋にもあると補足します。詩は言葉を使いながら言葉以外の真理を表すというのです。
だからこそ伝説にも尾ひれがつき、本来ブッダが伝えたかったことが伝わらなくなる悲劇も起こりうると語られます。
そしてそのたびに「本当にブッダが言ったことに戻ろう」という動きが起きる。西洋哲学のルネサンスと同じで、思想も繰り返し回っていくのだと話されています。
二人は、こうした面白いエピソードだけを集めた独立回もやりたいと語り合います。あわせて、リスナーそれぞれの解釈を概要欄のフォームで教えてほしいと呼びかけています。
次回は、ブッダが実際に語ったことに触れ、人間存在と苦しみの関係をより哲学的に取り上げていく予定だと締めくくられました。
まとめ
今回は、予言・ハニートラップ・悪魔という三つのフィクション寄りのエピソードから、ブッダの特殊な出発点と悟りの意味が語られました。快楽を先に知り苦しみを後から知るという逆転、そして悟りがゴールではなくスタートかもしれないという視点が印象的な回でした。
- 王族に生まれたブッダは、予言により苦しみを遠ざけられ、最上の幸福だけを与えられて育ちました。
- 四門出遊で老人・病人・死人・苦行者と出会い、初めて苦しみを知って出家を決意します。
- 快楽から苦しみへという逆の順番ゆえに、ブッダの苦しみへの驚きは私たちの感覚とは根本的に異なると語られました。
- 悟った後の悪魔の囁きは、絶えず自分のエゴを点検する内省の姿として読み解かれ、悟りはゴールでなくスタートとも考えられます。
- フィクションや物語は、言葉を超えて身体的な理解や体験をもたらす力を持つ、という気づきで締めくくられました。
