「ポスト嵐」は成立するのか
話は嵐の解散ライブから始まります。SMAP、嵐と続いた「国民的アイドル」というポジションが、いま空席になっている。そこで「ポスト嵐は誰なのか」が話題になっているわけです。しかし赤川さんは、その問い自体に「古い感覚」を直感的に抱いたと語ります。系譜を引きたがるのは批評家や商業サイドの要請ではないか、という指摘です。
では成立する条件があるとしたら何か。赤川さんが挙げたのは「幼少期からすべてのナラティブが国民と共有されている人」という要件でした。マイケル・ジャクソンアメリカのポップスター。幼少期からジャクソン5として活動し、成長過程が世界に共有されていた。愛用のチンパンジー「バブルス」も有名。のように、誰もが自分ごととして触れられるタッチポイントを持つ存在なら、インターネット以降・スマートフォン以降でも成立し得るというのです。
その具体例として挙がったのがジャスティン・ビーバーカナダ出身の歌手。13歳頃にYouTube発でデビューし、成長過程が世界的に共有されてきた。のコーチェラでのステージです。前日のサブリナ・カーペンターアメリカの歌手・女優。コーチェラのヘッドライナーを務めた。が「ザ・アメリカンエンターテインメント」的な豪華なセットだったのに対し、ビーバーは真っ白なステージで一人。しかもデビュー当時のYouTube映像を流しながら、現在の自分が「一人デュエット」するという演出でした。それでもインプレッションはビーバーの方が上回ったといいます。
このセルフナラティブ感は本物のスーパースターじゃないとできない。ここまでいくと国民的スターと言っていいのではないか。
VTuberと「年を重ねる」ことの難しさ
成長過程を共有できることが国民的スターの条件なら、見た目の変わらないVTuberバーチャルYouTuber。CGアバターを使って活動する配信者。2017年頃から「四天王」と呼ばれる存在が登場し、大きなムーブメントになった。はどうなのか。米村さんの問いに、赤川さんは「ディナーショー的であることを求められやすい業態になっているかもしれない」と応じます。
四天王の登場から約8年。演者自身は常にアップデートし続けるのに、ファンは「昔のクリシェ(お約束)」を求めがちになる。映像的な見た目のアップデートが起こらないため、過去の型を出してほしいという顧客欲求と戦う構図になりやすい、という分析です。
興味深いのは、かつて「見た目が変わらないこと」はVTuberの強みとされていた点です。スキャンダルがない、炎上しない、中の人を入れ替えれば継続できる――そうした当時の言説を、赤川さんは「全部大嘘やったやん」と振り返ります。一緒に年を取ってきた感覚が、見た目が変わらない構造ゆえに意外と作りづらいのではないか、というのです。
見た目が変わらないのは強み。炎上しない、スキャンダルがない、中の人を替えれば継続できる。
変化がないゆえに共通体験や成長の実感を得にくい。ノスタルジーと戦う構造になりがち。
ここから話は「揺らがない存在」へと展開します。シド・ヴィシャスセックス・ピストルズのベーシスト。21歳で死去。パンクの象徴的存在。や27クラブジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、カート・コバーンら、27歳で亡くなったミュージシャンたちの通称。のように早世した人たちは、価値が毀損されず「揺らがなくなる」。元パンクスの赤川さんは、レジェンドたちを「IP」と呼んでしまう自分に辟易しつつも、現役で居続ける限り毀損やキャンセルはいつでも起こりうる、と語ります。
ある種どこかのタイミングで、獲得していくものじゃなくて、失われていくものになっていく。欠けていく、削れていくというか。
忘れられる権利と「記録される地獄」
「忘れられる」ことをめぐる議論は、この回の一つの軸になっています。米村さんが率いるKAI-YOUインターネット発のカルチャーを扱うポップポータルメディア。VTuber、ヒップホップ、ゲームなど幅広いジャンルを取材している。では、公開から18か月以上経った記事を有料会員限定にする施策を導入したといいます。これは「忘れられないため」の動きだと米村さんは言います。
背景には、Googleの評価軸が新しいコンテンツを優遇する方向へ変化し、古くて良い記事が読まれづらくなっているという事情があります。目的のない人には届きにくくなったからこそ、あえて有料化して価値をつける。「残したい」という根本的な気持ちがあると米村さんは語ります。
この「消えたら本当に消える」問題は、インターネット文化全体に及びます。ソーシャルゲームのサ終、ウェブメディアの閉鎖、そしてXやブログの削除ボタン一つでの消滅。紙の本とは情報の残り方が根本的に違う、というわけです。一方で、米村さんは「忘れられる権利」も重視します。過去に取り上げた人から記事削除を求められれば、古いものなら応じることも多いといいます。
やっぱりかわいそうっていうか、忘れられる権利もあるだろうなって。
赤川さんは、これからの5年で「忘れられる権利」問題が大きく変わると予測します。AIエージェント時代に入り、ミーティングを全部録音してAIに入れるような行動が当たり前になれば、「空気の振動として消えていった音が全て記録される地獄時代」になる。学生時代の飲み会の失言まで切り取られてキャンセルされうる恐怖のなか、忘れられる権利を持たない人類の最適解は「黙る」になってしまう――これは由々しき事態だと言います。
面白いのは、二人の見立てが「真逆」になる点です。赤川さんが「すべて記録される時代」を警戒するのに対し、米村さんは「500年後にはこの時代の文化の記述がほぼなくなっている」と見ます。ネットの情報はすぐ消え、後から参照されない「ブラックボックスの時代」に入りつつあるのではないか、というのです。X社がなくなれば、みんなが毎日しているポストも見られなくなる。国会図書館のような公的アーカイブがなければ、いま「空白の時代」が起きているのではと危惧します。
赤川さんは、技術的には「地球上の記述のサブセットを保存する」ことは原理的に可能になりそうだと見ています。むしろ焦点を当てるべきは、尊厳や権利の議論の側だ、と。この論点をめぐって、二人の視点はきれいに補い合っています。
すべてが記録される「地獄時代」。掘り起こしとキャンセルの恐怖。技術より尊厳・権利の議論が重要。
ネットは消えやすく、後から参照されない「ブラックボックスの時代」。文化の記録が空白になる危惧。
米村さんはよく「1000年後に残る漫画」を考えるといいます。自信をもって挙げたのはハンター×ハンター冨樫義博による漫画。革新的な設定・展開で知られる。この回では「1000年後も残る」作品として語られる。。売れたからではなく、革新性ゆえに研究され、誰かがつないでいくから残る、という論理です。プラトンやソクラテス古代ギリシャの哲学者。売れたからではなく、引用・研究され続けたことで後世に残った例として挙げられている。のように、引用・参照の回数こそが後世への継承を支える、という見方が語られました。
関連して、赤川さんは高輪ゲートウェイで観た火の鳥手塚治虫の代表作。生命や輪廻をテーマにした長編漫画。「未来編」ではAIによる核戦争が描かれる。のライブ演劇に触れます。漫画は読むペースや目のつけどころが人それぞれで、時間軸をそろえた「共体験」が最も難しいジャンルだと考えていたそうです。その挑戦的な舞台を観て感じたのは、演出以上に「手塚治虫がすごい」ということ。AIが核ボタンを押し合う未来編の切迫感は、現在にリアルすぎると語ります。
「犯罪者をメディアに出すな」は正しいか
後半の中心テーマは、ラッパー・REAL-T大阪市生野区出身のラッパー。4〜5年服役し、出所後に音楽ナタリーがインタビューを掲載。この回のきっかけとなった。の出所後インタビューです。集団暴行など過去の犯罪内容を音楽ナタリー音楽ニュースを扱うメディア「ナタリー」の音楽版。この記事の編集姿勢が議論の対象になっている。のインタビューが赤裸々に語っており、暴力や犯罪を「ブランド化」するような語り口になっていたことが話題になりました。ここから「犯罪者をメディアに出すな」という論が持ち上がった、というのが議論の出発点です。
赤川さんの立場は明快でした。犯罪と芸術、そして人生の記録は切り離して考えるべきだ、と。教科書にビートルズの曲を載せているが、ポール・マッカートニービートルズのメンバー。1980年、大麻所持で日本での初来日公演が中止になった。は初来日公演を大麻で中止にした人物でもある。作品と本人の罪は別の話だ、というわけです。ただし「犯罪者をメディアに出すのは勘弁してくれ」という感覚も同時に持っていると言います。
赤川さんは、日本では「自分たちの手の届かないところで起こったことならOKだが、身近な人だと途端に暴力的になる」傾向があると指摘します。とくにラップシーンは在日コミュニティなどとも近いため、極端な正論が出やすい問題もある、と。それでも、人の生きた記録が後世に副作用(インスピレーションや反省)を生む「相互性」を否定したところに人類の進歩はない、と語ります。
この副作用相互性を否定したところに人類の進歩はないと思っている。でもメディアに出すのはもう勘弁してくれよって感じ。
ヒップホップだけが追求する「リアル」
ここから議論はヒップホップの「特殊性」へ深掘りされます。米村さんは、REAL-Tが聴かれ続けてきたのは暴力的な側面があるからではない、と強調します。生野区という街の情景、そこで培われた語彙や関係性――それらすべてを含めての「リアル」なのだと。悪いことをしたから「リアル」なのではない。今回のナタリーの記事は、暴力・犯罪だけに重心が置かれ、「リアルを履き違えている」というのが米村さんの見立てです。
米村さんは、いまや社会全体が「真実か・フィクションか」より「好きか・嫌いか」で駆動しつつあると言います。そんな中でヒップホップだけは「リアル性」を強く求め続けており、それが今も継続していることが極めて特殊だと語ります。米村さんにとってリアルとは、その人が見ている風景・人間関係・匂いまで追体験できる身体的なもの。リアルさがその追体験を補強しているのです。
赤川さんは「真正さ(authenticity)」をブランド論から補強します。『新ラグジュアリー』ラグジュアリーブランドの価値を論じた書籍。ブランドが時間をかけて信頼を裏切らずに培われることを説く。を引きつつ、ルイ・ヴィトンのブランドは長年信頼を裏切らずにやってきたからこそ保たれている、と。中国企業が今日スーパーな製品を出しても、ブランドは時間軸の長い信頼の積み重ねでしか培われない。この「真正さ」の議論は、ヒップホップの「リアル」とも通じるものです。
さらに赤川さんは日本のヒップホップ史をたどります。佐野元春やいとうせいこう、ZEEBRA、RHYMESTER日本のヒップホップ黎明期を担ったアーティストたち。比較的恵まれた出自から始まった側面がある。ら黎明期は、いわゆるストリートの「リアル」からは遠い、ある意味「フェイクから始まった」文化だった。そこからANARCHY、KOHH、BAD HOPリアルなストリート性を体現し、日本のヒップホップに説得力をもたらしたとされるアーティストたち。らが登場し、耕された土壌の上でスキルと物語のリアルを獲得していった。折しも日本社会でも貧富の格差が現実の問題として立ち上がり、その「追体験装置」としてヒップホップが補強されていった、というのです。
米村さんが問題視するのは、この「暴力・犯罪」の側面だけに焦点が当たってしまうこと。本来なら、なぜその環境が欲望されるのかまで考えるべきだ、と。ただし、アーティストとリスナーはそこまで考えなくてもいいくらいに思っているとも言います。責任を負うべきは、それを広く届ける「第三者」であるメディアだ、というのが米村さんの結論です。ヒップホップはフィクションではなく、実際に被害者がいる以上、慎重であるべきだと語ります。
赤川さんは、メディアの問題を「発信するときについて回る想像力の問題」に帰結させます。プラットフォームは誰かの言説をエンパワーする存在だからプロバイダ責任制限法ユーザーが投稿した内容について、プラットフォーム側の責任を一定範囲で制限する日本の法律。で守られる。しかし何かを「主張」し始めた瞬間、そこに責任が伴う。X以降のTwitterはアルゴリズムレベルで主張が出始めており、その範疇に収まらない危険性がある、と指摘します。
議論はVTuberやアイドルにも及びます。VTuberは年齢すら言えない。エンターテインメントは「嘘の比率が圧倒的に高い」――誰かが作った物語を、騙されているとわかって楽しむプロレス的な構造です。それに対し、ヒップホップは年齢を一つ偽っただけでも冷められてしまう。だからこそ「作品と事実を分けたい」赤川さんと、「分けられないんだよな」という米村さんの立場が交わります。
基本的にエンターテインメントって嘘の比率が圧倒的に高いんですよね。っていう観点から考えても(ヒップホップは)特殊だなあって。
赤川さんは、これは音楽ジャンルの問題というより日本的な問題かもしれないと言います。「音楽に政治を持ち込むな」という反発が日本で特に強いのは、リアルを持ち込まれるのが嫌だという感覚があるからではないか。海外ではブルース・スプリングスティーンアメリカのロックミュージシャン。社会的メッセージを込めた楽曲でも知られる。がICE(移民税関捜査局)関連の事件の翌日に曲を出すことも成立する。日本ではヒップホップという輸入文化だけが「暴力の肯定」と強く結びついた形で受容された、というのが赤川さんの見立てです。
呪い・運命・1億総五月病社会
終盤は「コミュニティ」と「呪い」の話に展開します。米村さんはコミュニティを維持するには宗教や儀式が必要だと語ります。自身が育ったのは、コンビニまで徒歩15分、祭りも神社も墓もない「ニュータウン」。文化のない場所で育ったことが、いまの関心に強く影響しているといいます。東京で神輿を担ぐ人を見て「めっちゃリアル」だと感じたのも、そうした背景からです。
宗教的なものとか儀式的なものがないと、人を繋ぎ止められないんだなっていうのを結構感じますね。
赤川さんは、メディアやカルチャーの真ん中にいなければならないという感覚を「呪い」と表現します。話題のものを体験せずに語るのはダサい――そう思ってしまうこと自体が呪いだ、と。ここで「ハンター×ハンター」が回収されます。制約を受ける表現の方がパワフルになる。ものが溢れる時代に埋もれないためには、自らに呪い(制約)をかけるしかない。一方で「そうでなくてはいけない」という呪いに苦しむ人も多い、という両面が語られます。
ここで「運命」観の違いが浮かび上がります。米村さんは「心がギャル」だと自称し、運命や宿命が「決まっていてほしい」タイプ。自分がなぜ生きているのかが決まっているとテンションが上がるといいます。コロコロコミックの『運命の巻戻士』コロコロコミック連載のループもの漫画。何千回も時間を巻き戻し、決められた運命からの脱却を描く。を読んで「運命あった方が良くね?」と感じるほど。一方、パンクスの赤川さんは「最初から決まっている予定調和はクソくらえ」と真逆の反応です。
運命・宿命が決まっていてほしい。呪いや制約があった方が生きられる。
決まっている予定調和はクソくらえ。ただし大きな物語に回収されがちな自分に葛藤も。
この違いは「人生の美学」の問題であり、答えの出るものではないと二人は確認し合います。米村さんは、運命に立ち向かうより「決められた道を嫌う」マインドが今の主流になってきているとし、それは日本社会が貧しく暗くなっていることの反映かもしれないと語ります。異世界転生もの現世で亡くなった主人公が別世界に転生し、活躍する物語のジャンル。「ここではないどこか」への逃避や希望が特徴とされる。も、ここではないどこかを求める逃避であり、それでも希望を語っている点で「まだみんな折れていない」と赤川さんは受けます。
最後は、赤川さんの「経営者らしい悩み」に着地します。2026年のポストAIの社会は、無気力化しやすい――「俺がやる意味なくない?」がこれほど存在する瞬間は人類史でもそうそうない、と。AIが「それ秒でできます」と差し出してくる中で、五月病に陥らざるを得ない度合いが過去一高い、というのです。焼け野原なら「建てるしかねえか」となれるが、いまはそうならない。
今年過去一の五月病だった可能性が、僕個人じゃなくて、列島全体的に。
真綿状態なんじゃないですか、日本の社会は今。別に明日死ぬわけじゃない。
米村さんは、日本は「真綿で首を絞められる」状態にあると表現します。明日死ぬわけではないから危機まで行きづらい。人口の中心層が高齢化し、社会のエネルギー総量が下がり、変化が起きづらくなっている。震災直後のような「盛り上げなきゃ」というテンションではない今、必要なのは自分にとっての意味を見出すことだ、というのが二人の共通認識でした。
締めくくりに赤川さんは、AIもTikTokも日本の会社ではなく、日々使うことで「人生の舵をなんとなく失っている可能性」を自覚しておくといい、と語ります。とはいえ、それらを使わずに過ごすのはもはや難しい。結局は「いかに自分に舵を取り戻すか」――呪われてでも、でかいことを語らないと夢がない、というラップ的な熱をもって、第一回は幕を閉じます。
- 「ポスト嵐」が成立するとしたら、幼少期からのナラティブを国民と共有できる存在。ジャスティン・ビーバーのセルフナラティブがその一例として語られた。
- VTuberは「見た目が変わらない」という強みが、逆に共通体験や成長の実感を作りにくくする構造を抱えているかもしれない。
- 「忘れられる権利」をめぐり、赤川さんは「すべて記録される地獄」を、米村さんは「後から参照されないブラックボックスの時代」を危惧。視点は真逆ながら補い合う。
- 「犯罪者をメディアに出すな」に対し、赤川さんは犯罪・芸術・記録を切り離すべきと主張。ただしメディアが暴力を垂れ流すことには慎重であるべきとした。
- ヒップホップの「リアル」は暴力そのものではなく、環境・人間関係・情景を追体験させる身体的なもの。エンタメの多くが「嘘」である中で特殊な価値を持つ。
- 2026年のポストAI社会は無気力化しやすい「1億総五月病」状態。呪い(制約)を引き受け、自分に人生の舵を取り戻すことが鍵として語られた。
