山の中で一人遊びをしていた幼少期
冒頭、森下さんと奥山さんの関係が紹介されます。森下さんが学生時代に奥山さんからバドミントンを習い、奥山さんは森下さんから英語を習っていたといいます。
その後、英語力は逆転し、今では奥山さんのほうが英語を話すようになったそうです。現在、奥山さんは山形にある月山ポレポレファームの経営者として活動しています。
奥山さんは山形生まれ山形育ち。標高2000メートル弱の月山という山の真ん中で育ったと語ります。
その環境は、都会育ちの人には想像しにくいものでした。最寄りのコンビニまで車で20分、スーパーまで40分だったといいます。
小学校とか中学校はスクールバスで毎日20分かけて、30人乗りのバスに2人だけ乗って毎日行っていました。
同級生は小学校で12人、中学校でも全部で30人ほど。当時8000人ほどだった町の人口は、今では4500人にまで減っているそうです。
家の周りには人が住んでおらず、最寄りの民家まで徒歩50分。一人っ子だった奥山さんは、基本的に一人で遊んでいたと振り返ります。
お客さんの車のメーカーと型番をひたすら覚える。重機やパワーショベルの仕組みをひたすら絵に描く。そういう鬱屈した子供でした。
楽しくやってはいたものの、家の外の道を見ては「早く都会に行きたい」と思っていたそうです。
父の海外志向とバドミントンとの出会い
当時、ペンションに海外客はゼロでした。ただ、奥山さんの父はホームステイで海外の人を家に招くことがあったといいます。
父は現在74歳。学生運動の時代に大学が閉まっていたため、それには参加せず、バックパッカーとして2〜3年世界中を回っていた人だと語られます。
そんな家庭環境のなか、バドミントンとの出会いは小学校4年生のときに訪れます。小さな学校に赴任してきた担任が、バドミントンの国体選手だったのです。
人しか同級生いないので、じゃあみんなでバドミントンやろうと言って。それが競技との出会いですね。
いきなり出た県大会で1回勝って3位になり、東北大会では大敗して水族館を観光して帰ってきたそうです。
そこでやっぱりアホだったので、あ、この競技ちょろいじゃんと思って。
中学校ではバドミントンを続けたい人が2人だけ。同級生の阿部さんと2人で部活を作ってもらい、所属上はバレー部という形で活動していたそうです。
他校の女子チームに混ぜてもらい、先輩や同級生の女子にボコボコにされながら少しずつ強くなっていったといいます。最終的には山形県で優勝し、東北大会も勝ち抜いて全国大会に出場しました。
聞き間違いから決まった埼玉栄高校への進学
中学で成績を残した奥山さんは、名門・埼玉栄高校へ進学します。その理由には「表向き」と「裏向き」の2つがあったといいます。
表向きの理由は、山形の山の中から仙台まで毎日通っていた練習環境にありました。そこのコーチが強豪校へ選手を送り込む有名な指導者だったのです。
一方で奥山さんは、地元の公立進学校「栄高校」に行くつもりでした。ところが、山形弁のなまりが思わぬ展開を生みます。
「どこの高校に行きたいんだ」と聞かれて「はい、栄高校です」と言ったら、「分かった。俺がなんとかする」と。なんとかできるのかなと思っていたら、埼玉栄高校に進学が決まっていました。
聞き間違いによる進学。奥山さんは「怖くて反論できなかった」と語ります。
それはギャグですか?
いや、マジです。小学生のころに教えてくれた先生に相談したら「体が動くうちはそういうところに行ってもいいんじゃないか」と言われ、レベルもよく分からないまま挑戦することにしたそうです。
地方から来る生徒は全寮制。入学時のレベル差は、想像を絶するものでした。
君、なんでここにいるの?っていうレベルです。
最初の1年間、男子部に入ったつもりが女子部と一緒に練習していたといいます。しかもその女子部にも全国上位の選手がいました。
その人に、11点ゲームで9対0からハンデ9点もらって始めているのに負けるんです。
練習そのものよりも、手や足の皮が全部剥けるほどの肉体的な負荷がきつかったと振り返ります。
じゃんけんで決まった主将と、全国2位
3年生では主将を務めました。ただ、その決め方は意外なものでした。
じゃんけんで負けたんですね。
森下さんは、じゃんけんに参加できる立場に上がるまでが大変だと指摘します。ここで奥山さんは、強豪校ならではの事情を明かします。
バドミントンのようなマイナー競技では予算が少なく、1学年で5人しか入部できなかったといいます。奥山さん自身は「16人目の部員」でした。
同級生が僕も含め全員どうしようもない感じの人だったから、もうじゃんけんで決めるしかねえだろとなって。それだけです。
競技成績としては、全日本ジュニアの男子ダブルスで全国2位まで到達します。中学の全国大会で0点で負けた相手と、高校でたまたまペアを組めたことがきっかけでした。
僕は前で「頑張れ、いいぞ」と言っているだけの役割で、最後その全国2位までダブルスで行けただけなので。
トップ層で感じた「壁」と、大学進学の選択
高校卒業後は東海大学へ進学します。勉強はしていなかったため、すべてスポーツ推薦だったといいます。
当初希望していた大学の枠が「もっとすごい選手が入るかもしれない」という理由でなくなり、監督が探してくれた中から、一番練習が楽そうなところを選んだそうです。
楽なところを選んだ理由は、自分は一線級ではないと気づいていたからでした。試合に出られる環境のほうが楽しいという判断です。
選んでしまったという表現をするということは、一定の後悔があるということですか?
進路については一定の後悔があると語ります。ただ「別にこれで良かったのではないか」とも今は思っているそうです。もっと負荷のかかる選択をしていたら、その道を突っ走って今はなかったかもしれない、とも話します。
森下さんも、高校進学で希望より下の学校を選んだ後悔と、それはそれで良かったという解釈が似ていると共感します。
全国2位まで上り詰めた奥山さんですら、トップ層に対しては「壁」を感じたといいます。
ずっと小さい頃から有名でトップを走っている人たちと自分には、幼少期からの体験で全然違う能力が身についてしまっているんじゃないかと感じる。それをみんな壁っていうんだと思います。
こちらが息を切らして球を打っているのに、相手は圧倒的な空間認知能力と先読みで一歩だけ動いていなす。そんな差を目の当たりにして、寮に帰った後に落ち込んでいたそうです。
ゼミとの出会いから郵船航空、そして帰郷へ
大学2年生までは真面目に競技に取り組んでいましたが、実力もコネクションも足りないと気づき、途中で興味を失っていきます。
転機となったのは、ゼミの先生との出会いでした。ソロモン・ブラザーズでアナリストをしていた東大の先生が、東海大学の経済学部に週2コマだけ教えに来ていたのです。
「競技だけの世界じゃない、世界はもっと広い」という言葉と、父の海外志向が重なり、バドミントンへの興味が急速に失われていったといいます。
就職活動では、ディーゼルや建設機械を作る会社など、男の子が好きそうな会社を受けたそうです。最終的に決め手になった理由は意外なものでした。
成田空港で働けば飛行機が近くで見れて楽しそうという理由で就職を決めています。本当に恥ずかしいです。
入社した郵船航空では、食品を輸入する際の通関業務を担当しました。植物防疫や動物検疫の現場研修を経て、輸入申告の書類作成などを行っていたといいます。
1年目のあと、事務作業が合わず営業に回され、都内の商社や食品会社を3年間回りました。日本企業に対する営業の「型」を、そこで学んだと語ります。
郵船航空はグローバル企業のため、英語が必要でした。ここで、たまたま大学に遊びに来ていた森下さんに英語を教わることになります。
内定をもらって、どうやらこの会社は英語を使うらしいと気づき。英検準2級を取ったまま、あと1個も勉強してないぞ、俺、と。
一方で、幼少期からの海外との接点もありました。スキーでコロラドに行ったり、中学時代に交換留学でアメリカに行ったりしていたそうです。
山の中に住んでいた割には、山の中だからこそ、日本の都市部を飛び越えて、どこかの国の山の中と繋がっている。
ポレポレファームを継ぐことは、入社前からなんとなく考えていたといいます。強い意思というより、サラリーマン生活の辛さもあって「帰りてえな」と思って帰った、という動機だったと語られました。
まとめ
前半では、限界集落での一人遊びに始まり、聞き間違いで飛び込んだ名門校での日々、そしてトップ層で感じた壁までが語られました。環境が人を変える一方で、選ばなかった道への思いも交錯する回想となっています。
- 最寄りのスーパーまで車で40分という限界集落で、一人遊びから観察眼を育んだ幼少期
- 山形弁の聞き間違いから、名門・埼玉栄高校への進学が決まった
- 女子部トップにハンデをもらっても負けるレベルから、全日本ジュニア男子ダブルス2位まで到達
- 主将就任はじゃんけんで決定。強豪校でも1学年5人という少人数の実情があった
- ゼミの先生との出会いと父の海外志向が重なり、郵船航空を経て帰郷を決断していく
