上海に住んでみたら、なぜか一番なじめなかった
Mark Maoさんは中国で生まれ、1998年、小学5年生のときに家族で日本に移住しました。今年で日本歴は28年目になります。
小中高から大学まで日本の学校を出て、日本の会社に就職。最初の会社では市場調査をグローバルに手がけ、渋谷のオフィスで2年ほど働いた後、上海支社の立ち上げのために現地へ渡りました。
ところが、中国出身であるにもかかわらず、上海での生活にはなじめなかったといいます。
なかなか上海現地の生活に全く慣れなくて、日本に帰ってきたんです
つまずいたのは事業ではなく、日々の生活だったと振り返ります。食べ物やマナーなど、日本人の感覚から見た文化的な違いに、当時はまだ大人になりきれておらず、時折イラッとしてしまったそうです。
会社からしてみたら、もともと中国人だしマークさんいけるでしょって送り込んでみたら、いや中国厳しいですって帰ってきちゃったわけですね
事業的な厳しさよりも、プライベートの厳しさですね。生活面において
上海語が出てこない瞬間、田舎者になる
象徴的なエピソードとして挙げたのが、上海語の話です。
上海では地下鉄やタクシーでトラブルが起きたとき、相手がまず上海語で話しかけてくるといいます。それにきちんと反応できれば上海人と見なされマウントは取られませんが、上海語が出てこなかった瞬間、上海人ではないと判断されてしまう。それが日常茶飯事だったそうです。
上海は基本的に、中国の中でも上海人以外はみんな田舎者という扱いをします
北京の人であっても例外ではないとのこと。北京と上海は経済の中心と政治文化の中心という関係で、非常に仲が悪いのだといいます。GDPでは上海のほうが若干上だったりもするそうです。
後の会社では、Maoさんのチームに上海人と北京人のメンバーがいて、案の定バチバチだったと明かします。坂本さんが「大阪人が巨人ファン嫌いよりさらに激しそう」と例えると、Maoさんも「そういうノリです」と応じました。
「ゲームは好きか」から始まった広告のキャリア
日本に戻ったMaoさんは、渋谷の広告会社に入社します。当時は中国のゲーム会社が日本に進出し、アプリゲームをリリース・プロモーションしていく黎明期でした。
入社のきっかけは、面接での上長からの一言でした。
「お前ゲームは好きか」みたいに言われて。小さい頃からファミコンやスーファミ、プレステをずっとやってたんで、好きですって話をして
まさかゲーム関係が自分の仕事になるとは思わなかったといいます。そこでアプリゲームのプロモーションや広告の知識、ゲームアプリの知識を学んでいきました。
その後はインフルエンサーマーケティングの会社へ移り、日本事業に加えて海外のゼロイチ業務にも携わります。ここで、次のキャリアにつながる出会いが訪れました。
10人から1000人へ、ByteDance Japanの急拡大
インフルエンサー会社時代に案件相談を通じてTikTokと接点を持ったMaoさんは、ByteDanceが日本に進出するタイミングで入社します。2018年7月、当時の日本オフィスは10人ほどの規模でした。
そこから約5年在籍し、辞めるころには社員が1000人ほどになっていたといいます。
当時のTikTokは、まだ世界的に爆発する前でした。USでヒットしたのはミュージカリーを買収して合併させたことが一つのターニングポイントで、それも2018年のことだったと振り返ります。
日本では当時、TikTokは「胡散臭い中国アプリの一つ」という扱いだったといいます。ところがインフルエンサー会社時代にしっかり深掘りしてみると、月に数千万ほどの売上が実際に上がっていたそうです。
TikTokの起源は、実はニュースアプリだった
話は、ByteDanceそのものの成り立ちに移ります。
中国では、日本のスマートニュースやグノシーにあたるニュースアプリ「トウティアオ(今日头条)」があり、それがByteDanceが最初に始めた事業だったといいます。
最初エンタメじゃなかったんですね
坂本 達夫 さんからの質問
最初はエンタメではなく、ニュースアプリでした。強みであるレコメンド機能をまずニュースに応用し、それを動画に応用したことでTikTokが生まれた、という流れです。
Maoさんによれば、ByteDanceのレコメンド機能は非常に強く、それがニュースから動画への展開を支えたといいます。
強いレコメンド機能
ユーザーに合わせて最適な情報を出す技術が核
ニュースアプリ(トウティアオ)
レコメンドをニュース配信に応用して最初に事業化
TikTok
同じレコメンドを動画に応用して誕生
さらにMaoさんは、創業者チャン・イーミンさんにまつわる「都市伝説的なエピソード」を紹介します。旧正月に故郷へ帰る鉄道チケットがなかなか取れなかったとき、エンジニアである彼が自らコードを書き、うまくチケットを確保した——それが最初のインスピレーションだった、という話です。
ただしMaoさんは、これは本で読んだ話で、本当かどうかはわからないと断っています。本人に確認する機会があったかを坂本さんに問われると、覚えているか怪しかったので聞けなかった、と笑って答えました。
中国企業なのにアウェイ感が少なかった理由
日本の学校で育ち、日本の会社でキャリアを積んできたMaoさんにとって、中国企業であるByteDanceへの入社はどんな感覚だったのか。坂本さんは、どちらが母国でどちらが外国のように感じるのか、と踏み込みます。
Maoさんは、当時それほど強く意識していなかったといいます。
バイトダンスはローカライズした組織運営をかなりしているので、日本であれば日本のやり方、アメリカだったらアメリカのローカルに根付いたやり方を基本方針にしているんです
そのため大きなギャップは感じなかったものの、日本企業にいるときよりは多少のアウェイ感はあったと認めます。すでにMaoさん自身にとっては、日本の文化のほうがホームに近い受け取り方になっていたようです。
中国語コーチを呼んで、みんなで野球
中国企業らしさを感じた場面として挙げたのが、本国の上層部が来日した際のチームビルディングでした。
企画されたのは、みんなで野球をするというものでした。
チームビルディングで野球をするというところで、コーチを中国から連れてきたんです
日本で探すとコーチが日本語になってしまうため、あえて中国語で教えられるコーチを中国から呼んだといいます。
もっとも、中国では野球は身近なスポーツではありません。Maoさんのいた学校にも野球部はなく、卓球やバスケ、バレーのほうがポピュラーだったそうです。それでも、野球は日本の文化でチームワークが大事という意識から選ばれたのだといいます。2日ほど練習して、しっかり試合までしたとのことです。
差別された経験が、差別化の感覚を育てた
話は生い立ちに戻ります。Maoさんの両親はともに中国生まれ育ちの中国人で、当時、中国経済より進んでいた日本で子育てをし、事業をやろうと考えて移住したといいます。
日本の公立小学校に入った当初、Maoさんは日本語が一言もわかりませんでした。
最初の日がちょっと雨の日で、なぜかそこだけ鮮明に覚えてるんですけど、最初の3分だけ通訳の方がいて、そこから3分したら「じゃあ」って
それでも日本語は1年ほどで普通に話せるようになったといいます。一方で、子どもだったからこそ「自分が中国人で周りが日本人」という違いをあまり意識せず、そのことが逆に当時の苦労につながった面もあったと振り返ります。
たとえば修学旅行で4人の班を作るとき、なかなか班に入れてもらえなかったといいます。日本人か中国人かというより、「ちょっと違うやつが来た」という距離感だったようです。
そうした経験が、Maoさんの中に独特の感覚を残しました。
人種差別的な扱い自体は良くないことだと前置きしつつ、周りと違うという状況に置かれたことで、事業や仕事における他者との差別化を当たり前のように考えるようになった、とMaoさんは語ります。
当時は正直苦しいことも多かったものの、今ではその環境に感謝していると話します。
自然と、というところもあり、嫌でも覚えさせられたという
坂本さんも、長い付き合いの中で、Maoさんが「中国人であること」と「日本語やビジネス文化への理解」の両方をうまく強みに変えている印象があると応じます。その礎は、まさにこの子ども時代の体験にあるとMaoさんは認めました。
自身も海外で子育てをしている坂本さんは、こうした考え方を子どもにも伝えたいと語り、前半のインタビューを締めくくりました。後半では、中国企業のブリッツスケーリングの裏側が語られる予定です。
まとめ
前編では、Mark Maoさんの生い立ちからByteDance Japan立ち上げまでがたどられました。上海での戸惑い、広告やインフルエンサーマーケティングでの経験、そしてByteDanceの急拡大と、その根底にある「違い」を強みに変える感覚が、一本の線でつながっていました。
- Maoさんは中国生まれで小学5年のときに日本へ移住し、日本歴は28年目になる
- ByteDance Japanには2018年7月に10人規模で入社し、約5年で社員1000人規模まで急拡大した
- ByteDanceは強いレコメンド機能を持ち、最初はニュースアプリ「トウティアオ」から始まり、それを動画に応用してTikTokが生まれた
- 子ども時代に「周りと違う」経験をしたことが、後のビジネスにおける差別化の感覚の礎になったと語られた






