留学経験ゼロ。「超ドメスティック」な神戸育ちの原点
番組前半のテーマは、木村さんがどんな経緯で映像プロデューサーになったのかという歩みです。まず語られたのは、意外なほど海外と縁のない生い立ちでした。
もう私めちゃくちゃドメスティックな人で、日本で生まれて、神戸市なんですけど、生まれて。
海外留学経験も実は、大学で自分でお金を貯めて行くまではなかったんですよ。
家族や親族に海外赴任者は一人もおらず、神戸の公立中学、公立高校と進んだといいます。英語で苦労したとき、そうした環境に行かせてほしかったと感じたそうです。
うちは家族全体がすごくドメスティックで、海外赴任とか誰もいなくて、親族含めて。
話は神戸のローカルな思い出にも及びます。坂本さん自身も神戸の学校出身で、六甲道や東灘区といった地名で会話が弾みました。
神戸高校って面白い学校で、いまだに文武両道っていうんですけど。毎朝登山で。
英語のために上智一本。「滑り止めなし」の激しさ
高校で英語が好きになった木村さんは、アメリカの大学に行きたいと親に伝えます。しかし返ってきたのは、はっきりとした拒否でした。
親に留学したいって言ったんですね。アメリカの大学とか行きたいって言ったら、もう絶対にダメだと言われ。
そこで木村さんが選んだのが、授業がすべて英語で行われる上智大学の学部でした。海外留学と同じような教育を国内で受けられる点に惹かれたといいます。
驚くのはその受け方です。滑り止めも受けず、この一校だけに絞りました。
そこ一本しか受けなかったですね。もう思い込んだらすごい激しい性格なので。
学校の先生からは白い目で見られたそうですが、無事に合格します。ただし入学後も英語では苦労が続きました。
入った時に日本語と英語の試験を受けさせられるんですね。6ヶ月は英語のプログラムを取らないといけなかったんです。
さらに、日本語のテストにも落ちてしまったといいます。英語も日本語も追加で学ぶことになった経緯を、木村さん自身も不思議そうに振り返りました。
親との「念書」と、映画祭バイトが開いた扉
大学進学にあたり、木村さんは親とある約束を交わしていました。この念書が、その後の就職先を関西に定める理由になります。
大学に入る時に念書を書かされたんです、親に。就職は地元でやりますっていう。
映像の道へ進むきっかけは、大学2年でのめり込んだ映画でした。レンタルビデオ店で借りては、毎日のように映画を見ていたといいます。
そんな中で応募したのが、東京国際映画祭の作品を審査する部門のアルバイトでした。世界各国から集まる作品をひたすら見る仕事です。
もともとそうですね、大学2年生の時だったかな。すごい映画にハマって。世界各国から応募されてくる作品をひたすら見てたらいいっていう。
下っ端の立場だったため採点はせず、作品として基準を満たしているかを確認する係だったと説明しています。この仕事がきっかけで、映画会社の人々と知り合っていきました。
なぜ映画ではなくテレビ局へ進んだのか
映画好きが高じた木村さんですが、就職先はテレビ局でした。その背景には、当時の映画業界の状況と、映画会社の人からの助言があったといいます。
映画会社の方から、その時はまだそんなに映画が元気じゃなかったので、テレビ局の方がいいんじゃない?と言われて。
ところが、関西のテレビ局を受けるとほぼ全部が一次で落ちてしまいます。原因は、木村さんがテレビをほとんど見ない人だったことでした。
好きなアナウンサーは?とか好きな番組は?って聞かれたら答えられないっていう。
映像や映画は好きでも、テレビというフォーマットにはなじみがなかったのです。就職対策もほとんどしていなかったと打ち明けています。
そんな中、最後まで好きな番組を問われなかった読売テレビだけが受かりました。NHKも進んでいましたが、配属先が読めない点を理由に途中で辞退したそうです。
こうして木村さんは、親と交わした念書のとおり関西の企業への就職を果たしました。
立ち上げマニアの片鱗。1年目での新番組プロデュース
読売テレビでは、報道は避けたいという理由から、番組を宣伝する広報部を希望しました。ここで、木村さんの「立ち上げ好き」が動き出します。
学生時代からその傾向はあり、上智大学ではチアリーディングチームを立ち上げ、初代主将を務めています。テレビ局在籍中には、アロマセラピーの資格を取り、自然療法の学校の初代校長も務めたといいます。
坂本さんは、その起業家精神がどこから来たのかに関心を寄せます。保守的な家庭で育ちながら、なぜ次々と新しいものを立ち上げるのか、という疑問です。
保守的な家なんですけど、私の意思はすごく尊重して。上智に行きたいって言ったら、それは応援をしてくれて。
安全面から海外は反対されたものの、本人の意思は尊重される家庭だったと木村さんは説明します。人と群れず、自分の好きなことに突き進む性格は幼い頃からのものでした。
漫画にのめり込んだ変人少年時代
子ども時代の木村さんは、テレビよりも本と漫画に夢中でした。図書館へ行くのが1週間で一番の楽しみだったといいます。
もうずっと漫画が大好きでした。図書館行くのが1週間の一番の楽しい時間みたいな。
好きになるとどこまでものめり込むのも特徴でした。萩尾望都さんの『ポーの一族』にハマった際のエピソードは、その熱量を象徴しています。
自分もヴァンパイアになりたいと思って、自分の血を取ってみたりとか、バラの花をみてみたりとか。
自分自身は変わっているとは思っていなかったものの、周囲とは違う子どもだったと振り返ります。高校では水泳部の仲間に恵まれる一方、部室に漫画を持ち込み、嫌いだった物理の授業をサボって単位を落としかけたそうです。
好きな分野には突き進み、そうでないところには合わせない。この一貫した姿勢が、後のキャリアの原動力になっていきます。
ドラマ制作へ。「合わない」を突き抜けた末の異動
広報部でも立ち上げ熱が発揮され、木村さんは入社1年目にして新番組の立ち上げを上司に直談判します。
その立ち上げ熱が出てきて、新番組を立ち上げたいって突然上司に1年目とかで言って。
タイミングも合い、京本政樹さんや鈴木紗理奈さんらを起用した大阪の広報番組を立ち上げ、2年間プロデューサーを務めました。通常なら1年目では難しいことですが、宣伝部という立場だからこそ実現できたと説明します。
ドラマの現場を取材するうちに、木村さんは「作ること」への強い興味を抱くようになります。
これは作るってすごい楽しそうだなっていう。
当時、読売テレビのゴールデンタイムのドラマは東京で作られていました。木村さんはその事実すら知らず、番組がすべて自局制作だと思っていたと明かします。
そこで東京への異動を希望しますが、すぐには通りません。まずは大阪のバラエティ制作へ配属され、これが本人には合わなかったといいます。
私バラエティを見ない人なので、自分自身が面白いと思えないものを無理やりやるっていう。
それでもドラマへの希望を言い続けた結果、東京の制作部への異動が実現します。ここから、木村さんのドラマ制作のキャリアが始まりました。
まとめ
前編では、留学経験のない神戸のドメスティックな家庭に育った木村元子さんが、英語への情熱と自分の意思を貫きながら、映像プロデューサーへの道を歩み始めるまでが語られました。後編では、東京でのドラマ制作からアメリカでの活動へと話が広がっていきます。
- 家族に海外経験者はおらず、木村さんは留学経験のない「超ドメスティック」な神戸育ちだった
- 英語漬けの上智大学を滑り止めなしの一本勝負で受験し、意思の強さを見せた
- 親との念書で就職は地元と決め、映画祭バイトを経て読売テレビに入社した
- チアリーディングやアロマの学校など、幼少期からの「立ち上げマニア」な性格がキャリアの原動力になっている
- バラエティが合わずとも希望を言い続け、念願の東京・ドラマ制作へと異動を果たした


