『中動態の世界』は、言語の歴史から何を明かす本なのか?
今回、しゅうへいさんが持ってきたのは、国分功一郎 ── 日本の哲学者。『暇と退屈の倫理学』などで知られ、スピノザ研究を専門の一つとしていますさんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』です。テーマ「あなたの知らない歴史」に合わせ、言語の歴史を扱った本として選んだといいます。
しゅうへいさんは同じ著者の『暇と退屈の倫理学』にはハマったものの、この本は買ったまま手が出せずにいたそうです。読み始めてからも難しさに挫折しかけ、6600万年前の隕石の話、つまり恐竜の歴史に切り替えようかと考えたほどだったと明かします。
でもこれね、ほんとね、読んでよかった。もうこれ(本つまの企画が)なかったら読んでなかったんじゃないかな。
しゅうへいさんによれば、この本を一言で言うと「言語の歴史を解き明かすことで、本当の自由がわかる本」です。さらに、読むと今の世界は危ういのではないかと思えてくる点が、前の回で紹介された『万物の黎明』とも通じるといいます。
しゅうへいさんは、その危うさは陰謀論ではなく、私たちが言葉からものすごく影響を受けていることから来ると説明します。もちろん社会の側も言語に影響を与えている、と補足しています。
本題に入る前に、しゅうへいさんは「自由」のよくある勘違いを指摘します。フリーランスは自由だと思われがちですが、住む場所を選ぶような自由はあっても、好き勝手できるわけではないというのです。
なんだかんだ意外にやることも多いし、自分で決めなければいけないというね。
しゅうへいさんの考えでは、自由とは何でも好きにできることではなく、制限の中でどうするかということです。体は自由に動かせても、腕を3本にはできない、という例えが添えられました。
そのうえで、中動態という言語の形式の歴史を紐解くと、私たちが本当に求めるべき自由が見えてくるとして、3つのポイントで紹介が進みます。朝4時まで準備していたというしゅうへいさんに、イケハヤさんは「今までで一番頭良さそうな回」と茶化していました。
能動でも受動でもない?カツアゲと一目惚れが示す文法の穴
1つ目のポイントは「そもそも中動態とは何か」です。しゅうへいさんが英検準一級の幸あれこさんに似た言葉を尋ねると、「ハンバーガー食べたい」「半導体」と珍回答が続き、イケハヤさんが「わざとやってるでしょ」とツッコむ場面もありました。
しゅうへいさんの説明では、今の世界の文法は能動態と受動態、つまり「する」と「される」で成り立っています。中動態 ── 能動態・受動態と並ぶ「態」の一つ。古代ギリシャ語などに見られ、動作の過程が主語の内側で起こることを表すとされますは、昔は存在したのに忘れられた文法形式の一つだといいます。
「ボールを投げる」「ボールを投げつけられた」のように、多くの出来事は能動と受動で説明がつきます。私たちは普段、それ以外の形が必要だとは思いません。
しゅうへいさんがその危うさを示す例に挙げたのがカツアゲです。幸あれこさんがイケハヤさんに「ちょっと飛んでみいや」とカツアゲを演じ、500円を出させる寸劇のあと、しゅうへいさんは「500円を出したのは能動か受動か」と問いかけました。
私が出してって言って出したから受動かな。いやいやいやでもそれでもやっぱり(イケハヤさんが)500円を差し出したのは能動なのかな。
しゅうへいさんは、この迷いこそがポイントだと言います。能動と受動だけでは、カツアゲをうまく説明できないのです。
しゅうへいさんはさらに、財布を忘れて弁当を買えない幸あれこさんに、イケハヤさんが親切で500円をあげる場面と比べます。どちらも「差し出した」ことに変わりはなく、文脈の違いは誰にでもわかるのに、文法では区別しきれないという指摘です。
脅されて差し出しているが、文法上は「あなたが差し出した」になる
困っている相手を助けるために差し出している
しゅうへいさんは、海外で銃を突きつけられてiPhoneを差し出した人が「あなたが出したんですよね」と責任を問われかねない世界だ、とも話します。授業中の居眠りも同じで、家で勉強していた、あるいは家計を支えるために新聞配達をしていたといった事情を知ると、「お前の意思だろ」とは言いにくくなります。
しゅうへいさんは、アルコール依存や薬物依存も「お前が飲んだだけだろ」としか説明できない、と例を広げます。もう一つの例が「惚れる」で、英語では「fall in love」、つまり「落ちる」と表現されます。
だから一目惚れとかもまさに説明がつかないんですよ。だってこう一目惚れしようとしたわけでもないし、向こうが一目惚れさせようとしたわけじゃないですよね。
しゅうへいさんは、「する・される」以外にも見るべき視点があり、それが中動態だとまとめます。中動態がある世界の見方を知れば、私たちが失った視点を取り戻せるというのが、1つ目のポイントでした。
中動態はなぜ消えたのか。1万年の言語の歴史とキリスト教神学
2つ目のポイントは、中動態という文法形式がなぜ失われ、今は学ばれないのかです。しゅうへいさんは、約1万年の言語の歴史を大きくまとめると、出来事を描写する言語から、誰がしているかという行為者を確定する言語へ変わった、と説明します。
出来事を描写する言語。能動と中動が対立し、誰がしたかはあまり問われない
行為者を確定する言語。能動と受動が対立し、したのか・されたのかをはっきりさせる
しゅうへいさんが挫折しかけたのが、この古代ギリシャ語の文法を扱う部分だそうです。それでも、著者の国分さんが古代ギリシャ語の授業を受けに行ったうえで書いていることに、前提をきちんと固める姿勢を感じたといいます。
本の中では、英語やラテン語、ロシア語、オランダ語などの元になった言語が出てきます。しゅうへいさんによれば、このインド・ヨーロッパ語族 ── インドからヨーロッパにかけて広がる言語の大きなグループ。共通の祖先となる言語(祖語)から分かれたと考えられていますでは、もともと「能動と受動」ではなく「能動と中動」が対立していました。
しゅうへいさんは、受動態は後から生まれた形式で、中動態の位置を受動態が置き換えていったと説明します。言語の考古学のように調べていくと、そのことがわかるのだといいます。
その変化の背景について、しゅうへいさんは、出来事を誰がしたのかを問う社会への変化があったと話します。中でも大きいのがキリスト教神学の罪の概念で、善と悪のどちらを選ぶのか、やったのはお前の責任だ、という世界観が広がったと説明します。
そういうような世界観になったから、つまりそのやった出来事を誰がやったのかっていうのを明確にしていかないといけなかったと。
しゅうへいさんは「すごく難しい」と前置きしつつ、中動態は「する・される」ではなく、物事が主語の外で起こるのか、内で起こるのかという違いだと説明します。自分にも影響が及ぶ出来事なら中動態、自分の外に影響するなら能動、という整理だったといいます。
しゅうへいさんによれば、中動態の視点は私たちの中から完全には消えていません。恋に落ちる、一目惚れをする、物思いにふけるといった経験を、私たちは能動とも受動とも言えないまま、なんとなく理解しているのだといいます。
スピノザが最後に登場するのはなぜか?「神に外側はない」世界観
3つ目のポイントは、中動態を学ぶとなぜ本当の自由につながるのかです。ここで登場するのが、17世紀の哲学者スピノザ ── 17世紀オランダの哲学者。主著『エチカ』で、神と自然を同一視する独自の哲学を展開しましたです。
しゅうへいさんによれば、スピノザ自身は中動態に直接言及していません。ただ、スピノザはヘブライ語の文法書を書いており、その中で7つ目の動詞の態として「内在原因」というものを提唱していたといいます。
スピノザの哲学では、実体は神しかなく、あらゆるものは神が形を変えた姿だとされます。しゅうへいさんは、スピリチュアルに聞こえて癖があると言われがちだが、国分さんはスピノザが文法のスペシャリストで、中動態のような視点を持っていたと書いている、と紹介しました。
しゅうへいさんは別のインタビューで聞いた話として、国分さんの考えも紹介します。もしスピノザが当時のメインの哲学者になっていたら、私たちは今とは全然違うOSで生きていただろう、という趣旨です。
スピノザの考えでは、神すなわち自然には外側がありません。しゅうへいさんに「自分に外側はあるか」と問われた幸あれこさんは、細胞の外側なのか、常在菌まで含めるのかと戸惑い、イケハヤさんが助け船を出しました。
自然、自然そのもの。自然ってものの外側って想像、全部自然じゃん。
しゅうへいさんは、神に外側がないなら、私たちは常に何かの影響を受けて存在しているのだから、全部受動なのではないか、という疑問を投げかけます。そのうえで、答えは「そうではない」と続けます。
しゅうへいさんの例では、イケハヤさんの『万物の黎明』の話を聞いて歴史観が変わったのは、確かにイケハヤさんの影響です。けれど、聞いた話が自分の中で熟成し、考えが変わっていく過程は内側で起こっているといいます。
幸あれこさんは、これを呼吸に例えました。酸素が入ってくるのは受動的だけれど、体の中では意外と能動的に何かを作っている、という見立てに、しゅうへいさんも「確かに」と応じています。
しゅうへいさんは、外から影響を受けたあと内側で変わっていく働きをスピノザは「コナトゥス ── スピノザの用語で、それぞれのものが自分の存在を保ち続けようとする力。その人らしさや本性のようなものとも説明されます」と呼んでいる、と説明します。スピノザは能動を良いものとし、受動はなるべく少ない方がよいと考えていたそうです。
しゅうへいさんは、国分さんの考察として、コナトゥスとは影響を受けて変わる力、つまり「変状する能力」だと紹介します。安定した会社に入れと言われても独立してブログやNFTに取り組んだイケハヤさんには、そうしたコナトゥスがあるのだろう、と例えていました。
農耕馬と競走馬の違いは、なぜ馬と牛の違いより大きいのか?
しゅうへいさんがコナトゥスの説明として「非常にわかりやすい」と挙げたのが、本に出てくる馬の例えです。農耕馬と競走馬の違いは、農耕馬と牛の違いよりも大きい、というものです。
しゅうへいさんの説明によると、同じ馬でも、農耕馬は重いものを引く能力を、競走馬は人を乗せて速く走る能力を獲得していきます。生き物の種類よりも、どんな影響を受けてどう変わる力を持つかの方が、そのものを特徴づけるという見方です。
畑で働き、重いものを引く能力に合わせて変わっていく
レースに出て、人を乗せて速く走る能力に合わせて変わっていく
しゅうへいさんは、本当の自由とは、自分の中で起こるこうしたプロセスを理解することだと話します。「好きに生きる」と決めたときも、自分が勝手に決めたのではなく、社会の変化や周りの声を受けながら決めた過程が必ずあるといいます。
しゅうへいさんは、この見方で最初のカツアゲの例も説明がつくと話します。困っている人に渡すときは「人が喜ぶのはいい」と思う自分の価値観が内側にあり、脅されて渡すときは受動的な力が強く働いている、という違いです。
でも寄付とかするっていうのは、どちらかというと中動態的な視点でいうと、そういう何かいろんな影響受けて自分の中で変わっていったものが、人にやっぱりいいものを渡した方がいいなと(思える)。
イケハヤさんは、言語の歴史から始まり、最後は国分さんの得意なスピノザ哲学で、自由や責任や意志の話にまとめる構成に興味を示しました。しゅうへいさんは、スピノザは中動態のようなものを理解していた、というのはあくまで国分さんの考察だと確認しています。
自転車を乗りこなすように生きる。自由は「支配」ではない
しゅうへいさんは最後に、自由のもう一つの例えとして自転車を挙げます。自転車を乗りこなすとき、人は力ずくで支配しようとはせず、自分の体を自転車に合わせて変えていく、という話です。
だからそういう風に、なんか自由っていうのは、なんか自転車を力ずくで支配するのではなくて、自転車と一体になって自由にいろんな場所に行けることが自由だと。
イケハヤさんは「しゅうへい史上一番ちゃんと難しい」と笑いつつ、この本のメッセージを自分なりにまとめます。文法という観点から意志や責任を描き直し、心の中の能動に気づくことで、ある種の自由に気づいていこうという本なのだろう、という受け止めです。
幸あれこさんは、受け身のまま生きていると出てこない考え方で、「これってどっちなんだろう」と日頃から問う癖がないと思いつかない、と感想を話しました。
自分が決めたとか、なんかそう、あなたの責任でしょ、あなたの意思でしょじゃなくて、いろんなもう影響を僕らは受けまくっていて、
かつその受けてるんだけど、その内側のプロセスもまたあるから、なんかそれの結局相互作用でしかないっていう。
しゅうへいさんが「昼まで寝るのも自分の意志ではない可能性がある」と言うと、幸あれこさんは、この本を読んで気が楽になったと何度も話していた理由がわかったと応じます。イケハヤさんも「言い訳を与えてくれる一冊なのか」と乗っかりました。
しゅうへいさんは、言い訳にするのとは違うと否定します。先延ばしをしてしまう自分の性質を知り、変わる力をうまく形成していけば、変えられるかもしれない、という捉え方だと説明しました。
先延ばしまくって今日の朝4時までやってたやつの言うことじゃねえ。さすがに。
最後は朝4時まで準備していたしゅうへいさんへのツッコミがオチとなり、次回は幸あれこさんがウェルビーイングの歴史についての一冊を紹介すると予告して締めくくられました。
まとめ
『中動態の世界』は、能動と受動だけで世界を切り分ける今の言語の危うさを、失われた中動態の歴史とスピノザ哲学から照らし出す本として紹介されました。しゅうへいさんの読みでは、本当の自由とは好き勝手することではなく、影響を受けながら内側で変わっていく自分のプロセスを理解することです。
- カツアゲと親切で500円を渡す違いや一目惚れは、能動と受動だけでは説明しきれない
- インド・ヨーロッパ語族ではもともと能動と中動が対立し、受動態は後から生まれたとされる
- 誰がしたのかを問う社会への変化、特にキリスト教神学の罪の概念が中動態の衰退に関わったと紹介された
- スピノザのコナトゥスは、外から影響を受けて内側で変わっていく「変状する能力」として説明された
- 自由とは自転車を力ずくで支配することではなく、一体になって乗りこなすようなものだと語られた





