やや燃えがちなテーマ「体験格差」への違和感
第三シーズンのテーマは「体験格差」です。最近メディアでよく目にするようになった言葉ですが、二人はまず「議論を呼びやすく、やや燃えがちなテーマだ」と口をそろえます。
特に清野さんには、この言葉への率直な引っかかりがありました。メディアで語られる「体験」は、海外旅行や派手なイベント、塾通いといった華やかなものになりがちです。群馬県のみなかみという山奥で育った清野さんは、そうした体験をほとんどしてこなかったと振り返ります。だからこそ「体験格差」と言われると、自分が「ない側」「格差がある側」だとレッテルを貼られるような感覚を覚えてしまうのだといいます。
私は格差がある側なんですか?熱っ、みたいな。今日はちゃんと体験格差について知りたいなという思いで臨んでいます。
ドラマ『対岸の火事』が描いた習い事論
前田さんが「体験格差」という言葉の象徴的な例として挙げたのが、多部未華子さん主演のテレビドラマ『対岸の火事』です。この「火事」は火が燃える方ではなく「家事」と「仕事」を掛けたタイトルで、さまざまな社会問題を扱う作品でした。その第5話で登場したのが、まさに体験格差だったといいます。
ドラマでは、育休を取得するほど意識の高い官僚のパパ(ディーン・フジオカさん扮する隣人)が、専業主婦の主人公に習い事の重要性を熱弁します。まだ小さな娘のために、火曜はバスケに水泳に英会話、水曜はロボット教室に絵画教室、木曜はサッカーにピアノ……とびっしり予定を詰め込んでいるのです。
親が多くの体験をさせる
習い事を詰め込むことが子への「ギフト」であり「武器」だとされる
専業主婦の主人公はショックを受ける
自分は娘に大事な体験を提供できていないのではと悩む
ママ友の言葉で救われる
「専業主婦としてずっとそばにいてあげられているものもある」「体験は習い事だけじゃない」
前田さん自身は、この話に強く共感したといいます。少年時代の前田さんは、習い事らしい習い事といえば野球くらい。それ以外はしておらず、精神的に落ち込んだ時期もありました。そこから「このループから脱出したい」と死ぬ気で勉強し、ゼロから大学へ進学したのだそうです。
勉強一本で逆転できた時代と総合型選抜
ドラマのディーンさんが習い事を重視していたのには、合理的な理由もあると前田さんは指摘します。かつては前田さんのように、ペーパーテスト一本で逆転できる時代でした。「それさえあれば逆転できるんだから、なんていい世界なんだ」と当時は感じたそうです。
しかし文部科学省の入試改革によって、総合的な人間力を見る選抜が広がっていきました。いわゆる総合型選抜かつてAO入試と呼ばれた選抜方式。学力試験だけでなく、志望動機や活動実績、面接などを通して受験生を多面的に評価する入試のこと。です。
方向性そのものは前田さんも理解できるといいます。ペーパーテストだけできればいい人間かといえば、そうではないからです。ただ問題は、学生の時点で面接などでどう差別化するのかという点にありました。そこで注目されるのが「どんな体験をしてきたか」なのです。
勉強さえしていればよかった。ペーパーテストで逆転できた。
勉強だけでは不十分。「どんなカードを持っているか」が問われる。
「海外留学したことあるんですか?」——そんな問いに象徴されるように、体験が"カード"のように扱われる。二人は、そのカードを集めること自体が目的になり、カードがない人は格差がある側だとする論理は「乱暴だ」と語ります。そして、フローレンスが目指す体験格差は、そういうものではないと強調します。
なぜ「体験格差」という言葉を使い続けるのか
ここで前田さんは、ひとつのジレンマを打ち明けます。「体験格差」という言葉は、団体ごとに意味が少しずつ異なります。フローレンスの捉え方も、ドラマのディーンさんが語る習い事的な体験格差とは別物です。それでも同じ言葉を使うため、「習い事をやらせてあげないと可哀想」という文脈で誤解され、批判を受けることもあるといいます。
では、言葉を変えればいいのではないか——実際にチーム内でそう議論し、やめかけたこともあったそうです。しかし、そこには大きな壁がありました。
事業を続けるには、人の力も寄付も必要です。関心を集めなければ、課題感を共有することも期待を集めることもできません。もし「自己決定機会の格差」といった独自の言葉で発信しても「は?」となってしまい、メディアも取り上げてくれない。そうなれば事業はしぼんでしまいます。
実際、昨年の夏にはほぼすべての大手メディアがフローレンスの事業を取り上げてくれましたが、それはまさに「体験格差」という文脈だったからこそでした。だからこそ二人は、この言葉の認知そのものを変えていきたい——それがラジオで話をしている理由の一つでもあると語ります。
本質は「自己決定の機会」の格差
では、フローレンスの考える体験格差とは何か。前田さんが先に結論を示します。それは「自己決定の機会(オポチュニティ)の格差」です。
習い事や旅行など「体験のカード」を何枚持っているか。カードがないと格差がある側とされる。
自己決定の機会(きっかけ)の格差。日常生活そのものも体験と捉える。
この考え方では、体験の「体験」とは習い事のことではありません。子どもが日々の中で何を考え、感じ、しているか。友達と遊びに行くことも、野山を駆け巡ることも、立派な体験です。だから、みなかみ育ちの清野さんも、習い事をしてこなかった前田少年も「体験がなかった側」だとは言い切れない、というのです。
そうなると当然、「それなら勝手にやればいい。体験格差なんてないじゃないか」という問いが出てきます。清野さんはここで、話の核心を突きます。
体験っていうのはみんなあるし、誰しもがあるんだけど、やっぱりチャンスがないことが起こり得るってことですね。
草花を見る親か、スマホを見る親か
では「チャンス」とは何なのか。前田さんは、それを「何かをしたいという思いや動機を持てるかどうか」だと説明します。子どもが「これをやりたい」と思う、その興味関心はどこから生まれるのでしょうか。
前田さんが引き合いに出すのが、哲学者ピエール・ブルデューフランスの社会学者・哲学者。人々の趣味や行動が、育った環境や階層によって形づくられることを論じた。主著に『ディスタンクシオン』がある。の考え方です。人の行動や興味関心は、日々の大人や友達、きょうだいとの接点によって規定されていく、という視点です。
前田さんは、とてもわかりやすい例を挙げます。親と手をつないで野山を歩くとき、道端の草や花に興味を示す親なのか、それともスマホをポチポチ見ながら歩く親なのか。それによって、子どもが何に関心を持つかは大きく変わってくるというのです。
ところが、今の子どもたちは、こうした自己決定の機会がかつてと比べて著しく制限されているのではないか——前田さんはそう問いかけます。番組では、いくつかの具体的なデータが紹介されました。
大切なのは、これは子ども自身のせいでも、親のせいでもないという点です。前田さんは、社会環境の変化によって自己決定が制限されている子どもが増えている、と指摘します。フローレンスがやりたいのは、みんなにカードを配ることではなく、「自分はこんなことに興味関心があるんだな」と気づくきっかけを提供すること。そして子どもが自己決定をしやすくなる社会環境をつくることだ、と語ります。
清野さんは最後に、こうした「繰り返される」「環境によって規定される」という構造的な話は、実はある本に描かれていると紹介します。それが、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』です。難しそうなタイトルながら「すごく面白い本」だといい、次回はこの本を紐解いていくと予告して、この回は締めくくられました。
まとめ
「体験格差」という言葉は、しばしば習い事や派手なイベントの有無で語られ、そのために誤解や反発を招きます。しかしフローレンスが問題にしているのは、体験そのものの量ではなく、子どもが「何かをしたい」と気づき、自分で選べる——その自己決定の機会(きっかけ)に生じている格差でした。
友達と遊ぶことも野山を駆け巡ることも立派な体験です。問題は、その体験に出会うきっかけが、社会環境の変化によって多くの子どもたちから奪われつつあることにあります。それは子どもや親の責任ではなく、社会の構造の問題である——二人はそう投げかけました。次回は、その構造を読み解くヒントとして『ディスタンクシオン』が取り上げられます。
- 「体験格差」は習い事や旅行の有無で語られがちだが、それは誤解を招きやすい捉え方である
- フローレンスが考える体験格差は「自己決定の機会(きっかけ)の格差」であり、体験のカードを配ることではない
- 入試改革で「どんな体験をしたか」が問われるようになり、体験が"カード"化する風潮がある
- 興味関心や自己決定は、親や友達など人との関わり・環境によって形づくられる(ブルデューの視点)
- 今の子どもは平日の外遊びや放課後に遊ぶ友達が少なく、自己決定の機会が制限されている
- これは子どもや親の責任ではなく社会環境の変化による構造的な問題である
