やるべきことを先延ばしする話ではありません
先に言っておくと、やるべきことをダラダラ先延ばししていいという話ではありません。
今日言いたいのは、まだ決めなくてもいいことを、焦って決めないでおくということです。
決めないというのも、一つの決断なんじゃないかと思うんですね。
合理化とかタイパとか、そういう言葉が当たり前になっていて、何でも早く、手前の段階で決めてさっさと片付けることが、全ていいことのように語られています。
でも、急いで決めなくていいことまで急いで決めてしまっていないか。そこに愛はあるのか。そこを問いかけたいんです。
墓じまいや仏壇の相談で感じること
私が具体的にそう感じるのは、墓じまいや仏壇の相談を受けるときです。
最近は田舎でも、大きい仏壇を小さくしたり、位牌を一つにまとめたり、古いものを処分したいという相談が結構あります。
もちろん事情があってどうしても必要な方はいらっしゃいますし、それはケースバイケースなんです。
ただ中には、必要以上に全部処分したがる人もいるんですね。
誰もそんなに困っていないのに、置いておいても邪魔にならないものなのに、今のうちに全部片付けて綺麗にしないと、と急いでしまう。
理由を聞くと、だいたい決まっていて、「子供の迷惑になるから」なんです。
子供に迷惑をかけたくないという気持ち自体は立派な思いかもしれません。だからこそ、この問題は取り扱いが難しくて、私も話しづらいところではあります。
でも、たとえば新しい仏壇に十分に位牌が入るスペースがあるのに処分したいという話になると、「入るなら入れた方がいいですよ」と私は言うんです。
すごく恨みや嫌な思いがあるわけでもなくて、ただ「さっぱりしたいから」という理由だけなら、取っておいた方がいい、と私は思います。
さっぱりしすぎたものが良いとは限らない
若い頃は「そうですか」となかなか言いづらかったんですが、最近は年齢も住職歴も重ねてきたせいか、少しずつそういった話もできるようになってきました。
何でもさっぱり綺麗にするのが好きな世代の人たちが、だんだんそういうことをやる年代になってきているのかもしれません。
なんでも、必要以上に綺麗さっぱりさせることって、決して良くないと思うんです。
雑多な感じの中に、言葉にできない何かがある。家庭の仏壇なんかにも、そういうものがあるように私は思うんです。
ここで一応言っておくと、私みたいな立場の者が「墓じまいを急がなくていい」「仏壇は残した方がいい」と言うと、ポジショントークにしか聞こえないですよね。
墓じまいが減ればお寺は収入を守れる立場でもあるので、そういう利害の中にいるのは事実です。
でも、何でもやめろと言っているわけじゃなくて、長く受け継いできたものを焦ってプツンと切らせる必要はないんじゃないか、という話なんです。
こういった仏事に限らず、できるだけ選択の余白を未来に残すということが大切だと思うんです。当然何でもかんでも残せばいいといっているわけでは無いです。
今は価値がわからないものがある
こういうことは、お寺だけじゃなく、いろんな業界や現場で起きているんじゃないかと思います。
終活や生前整理でも、業者が「早めに」と煽る構造が、透けて見えています。過剰にビジネス優位に進んでいる状態が散見されています。
実は私自身も処分してしまって後悔していることがあります。学生時代や若い頃に集めたCDやレコードを9割方処分してたんです。
でも、やめときゃよかったなと思っています。別に置く場所がなかったわけじゃないので。
古い資料も、何十年後かに価値がわかることがあるかもしれない。地域の祭りや行事も、担い手がいないからと畳んでいくと、実は町の求心力を失うことにつながるかもしれません。
古い家も、崩れて近隣に危ないなら壊すことが必要でしょう。でも直しながら住めるなら、大切に直して住む文化も大事なんじゃないかと思うんです。
その時点では価値が見えていないけど、未来につながる価値の種みたいなものが、今の目の前にあるものの中にあるかもしれない。
仏教には「縁起」という考え方があります。ものの意味はそれ自体にあるのではなく、関係の中で立ち上がってくる。
今の自分の判断だけ、その一点だけを見ていては、価値を測りきれないものがあるんです。
そして世の中は無常で、状況も自分も変わり続けます。だからこそ、慌てて不要な判断までしていないか、自分にも問いかけていいんじゃないかと思うのです。
簡素化と悲しみの経過
以前の放送で、葬儀の簡素化とグリーフ、つまり悲嘆の関係についての研究を紹介したことがあります。
儀礼や手を合わせることをきちんとやることが、悲しみの経過に影響を与えるという研究結果も出ているそうです。
散骨などをした後に、どこに向かって手を合わせればいいのかわからない、という戸惑いが実際に起きているという話もあります。
だから終活や断捨離が流行る中で、何でも処分するのを煽る風潮には、正直ちょっと辟易しているんです。
特に終活絡みは過剰に煽っていて、それが高齢者のストレスになっているんじゃないかと思うんです。
決めないという決断の中身
とはいえ、何でも先送りしろと言いっぱなすつもりはありません。
体力と判断力があるうちにある程度片付けておくことは必要ですし、残せば子供が本当に困るものもある。それは現実的な理由です。
だから条件を考えてみると、まず、今もしばらく先も、物理的にも金銭的にも誰も困らないもの。それは先送りしていいんじゃないかと思います。
次に、判断する材料を残しておくこと。由来や費用、関係先の窓口など、子が将来決めるときに困らない情報を書き残し、伝え残しておく。伝達、申し送りをきちんとするということですね。
そして、「任せる」ときちんと明言してあげること。片付けても構わないし、残しても構わない、どうするかはあなたに任せる、と伝えておくんです。
全部片付けて渡すのではなく、留保するものも含めて、判断する材料と自由を渡す。未来の世代に負債としてではなく、余白として残す。これが「決めないという決断」の美学の中身ではないかと思います。
まとめ
私自身、住職をしていると、お寺の何を残して何を自分の代で片付けるかを、ここ数年ずっと考え続けています。バサッと樹木も全部切ってさっぱりするのが手が掛からなくていい、ということでは決してないですし、なんでも新しくコンパクトにすればそれで良いということでもありません。皆さんも自分の身の回りのことで、ぜひ考えてみてください。
- まだ決めなくていいことを焦って決めない、というのも一つの決断
- 今は価値が見えなくても、未来につながる種が目の前のものの中にある
- 「さっぱりしたいから」という理由だけなら、邪魔にならないものは残していい
- 全部片付けて渡すのではなく、判断する材料と「任せる」自由を、負債としてではなく余白として次の世代に渡す



