黒船の前から幕府はなぜ弱っていたのか
高杉晋作が活躍した幕末について、深井さんはまず「黒船が来る前から幕府の権力はかなり落ちていた」と指摘します。背景にあるのは、世界的に封建制が崩れていく流れでした。
深井さんによれば、幕末はフランス革命の数十年後にあたります。農業生産力が上がり、その余剰を生かした人々が新しい富を生み出すと、その富を誰が吸収するかで揉めるという構図が、江戸時代末期の日本でも起きていたといいます。
自給自足的な農業経済に商品経済が浸透し、新しい富が生まれます。商人に富を吸収させれば封建制が崩れ、封建制の側が吸収すれば、実力を持った裕福な人たちが反発します。
生産力の向上
農業生産力が上がり、余剰が生まれる
商品経済の浸透
余剰を生かした人々が新しい富を生み出す
富の取り合い
新しい富を商人と封建制のどちらが吸収するかで対立する
封建制の崩壊
実力ある人々の反発から、崩壊が始まっていく
深井さんは、この流れが表に出た例として大塩平八郎の乱 ── 1837年、大坂の元町奉行所与力・大塩平八郎が、飢饉に苦しむ民衆の救済を掲げて起こした武装蜂起。幕府の元役人による反乱として衝撃を与えましたを挙げます。ただし、先ほどの論理からは少しステップがある話だとも補足しています。
天保の改革はなぜ失敗し、雄藩が台頭したのか
治めきれなくなった状況に対し、幕府は1830年から1843年ごろにかけて天保の改革 ── 老中・水野忠邦が主導した幕府の改革。倹約令や株仲間の解散などを進めましたが、反発を招き短期間で挫折しましたを行います。
深井さんは、天保の改革がうまくいかなかった理由として、270年近く続いた幕府の腐敗と柔軟性の欠如を挙げます。加えて、力をつけたブルジョアたちが幕府を通さず、薩摩藩や長州藩などの藩と直接つながり始めていました。
ガバナンスが効かないってよく僕言うんだけど、要は言うことを聞かせられない状況が出来上がっちゃってて、この改革が思いっきり失敗するんですよ。
天保の改革の失敗で、幕府主導で世の中を変える試みはいったん挫折します。一方で各藩は、それぞれが抱える同じような悩みに対し、藩ごとの改革を進めていきました。
深井さんによれば、藩ごとの改革に成功した人たちこそが、幕末に台頭してくる雄藩 ── 幕末期に経済力や軍事力を蓄え、政治的に大きな発言力を持った藩。薩摩・長州・土佐・肥前などが代表格ですです。薩摩、長州、土佐などがその代表として挙がっています。
明治維新はフランス革命と何が逆なのか
深井さんが面白いと感じたのは、明治維新とフランス革命のベクトルの違いです。フランス革命が民衆の力で王権や貴族を倒していく構図だったのに対し、明治維新は天皇を掲げて、より強固な王権を作り直そうとする動きだったといいます。
天皇陛下の方が将軍よりさらに偉いんだぞっていう話をして、そこの権力構造にすべてを組み替えるっていうやり方なんですよ。
深井さんはさらに、明治維新の担い手が農民や民衆ではなく、下級武士やごく一部の雄藩だった点を強調します。フランス革命が生存権のような考え方を確立した革命だったのに対し、明治維新は封建制度をある意味保ったまま近代化を進める革命で、それが一定成功したと深井さんは見ています。
民衆が王権や貴族を倒す。生存権のような考え方を確立していった
下級武士や雄藩が担い手。天皇を掲げて強固な王権を作り直し、封建制をある意味保ったまま近代化を進めた
深井さんは、明治維新の性格が今の日本にも影響していると話します。日本では封建制が一度も崩壊していないかもしれず、ポジションを大切にするヒエラルキー構造が残っているという見方です。
上の言うことが絶対みたいなところありませんか?
楊さんは、その傾向をたまたまの国民性だと思っていたと打ち明けます。深井さんは国民性もあるとしつつ、西洋が民主主義的な革命を起こしたのに対し、明治維新がそのタイプではなかったことは大きかったと答えています。
俺ちょっと今変な汗じとって書いてんですけど、なんか僕目覚めようとしてるんですかね。
深井さんは、明治維新も天皇を上位に置くという別のイデオロギーから生まれたものだと整理します。そのうえで「いい悪いじゃない」と繰り返し、日本の権力構造の特徴を理解することが目的だと念を押しています。
ペリー来航を幕府は本当に知らなかったのか
ペリー来航については、幕府が何も知らなかったように語られがちです。しかし深井さんによれば、幕府は来航を事前に察知していました。
中心にいたのが、35歳で筆頭老中を務めた阿部正弘 ── 福山藩主で、幕末に老中首座を務めた人物。ペリー来航時の対応や、人材登用などの安政の改革で知られますです。深井さんは、25歳で老中、35歳で筆頭老中というのは、今でいえば25歳で閣僚、35歳で内閣総理大臣のようなものだと例えます。
阿部正弘はオランダから、1〜2年以内にアメリカの艦隊が来るという情報を得ていました。ただ、深井さんは「良くも悪くも対策はしてなかった」と話します。
そういうところあるんだよね、やっぱ日本人って。来たらやばいな。でも来ないかな、来なかったらいいなと思ってたら来ちゃった。
楊さんは、江戸幕府には優秀な人材が多く集まり、情報収集力は天下一品だったと補足します。それでも各藩へのガバナンスが弱まっていたため、海防をしっかりしろと幕府が命じても、藩の側が乗り気にならない場面もあったといいます。
国として全く統一はできてないですよ。幕藩体制の下では。
みんなに意見を聞いたことが、なぜ崩壊の始まりになったのか
ペリー来航を乗り切るために、阿部正弘はすべての藩から意見を聞き、朝廷も巻き込んで全員の力で対応しようとします。権利を独占するのが基本だった封建制の中では、それまであり得ないやり方でした。
背景には、幕府がアヘン戦争に詳しかったことがあります。深井さんによれば、幕府は麻薬漬けにされて金を吸い取られ続ける隣の大国の状況をよく知っており、あのようになってはいけないと考えていました。
で、朝廷と雄藩を集めていろんな意見を聞きます。実はここからですね、幕府が崩壊が始まるんです。
深井さんはこの展開を、フランス革命の三部会 ── フランスで聖職者・貴族・平民の3身分の代表を集めた身分制議会。1789年の招集が、フランス革命の発端になりましたになぞらえます。意見を聞かれた側が政治に参与する意識を持ち、流れが加速していったという点で、同じことが起きたという見立てです。
それまで朝廷や雄藩にとって、中央政治に口を出すことはおこがましいことでした。しかし幕府に意見を求められたことで、朝廷や雄藩が政治に関わることが当たり前になっていきます。
朝廷や雄藩が中央政治に口を出すのはおこがましいことだった
朝廷も雄藩も政治に目覚め、政治への関与が当たり前になり、流れが加速していく
深井さんは、阿部正弘は優秀だったとしたうえで、これを「システムの敗北」と表現します。昔のものを守り、権利を独占することで成り立つ封建制の最大能力を、アメリカの来航という事案が超えてしまったという見方です。
楊さんは、権力にアクセスする機会を与えてしまった結果、誰が国のガバナンスを担うかという争いになり、最終的に幕府が競り負けて長州と薩摩が明治政府を作ったと流れをまとめています。
開国の判断は、なぜ妥当だったのか
幕府はペリーと不平等な和親条約を結びます。深井さんは、この時の幕府は実はすごく妥当な判断をしていたと話します。
幕府は情報収集によって、アメリカや西洋には絶対に勝てないことを最初から知っていました。一方で攘夷 ── 外国を打ち払い、排除しようとする思想。幕末には天皇を尊ぶ尊王論と結びつき、尊王攘夷運動として広がりましたを唱える人々は、鎖国で海外の情報がなく、実力差を理解していなかったと深井さんは見ています。
さらに当時の幕府は財政が枯渇しており、戦争をするわけにはいきませんでした。深井さんは、この点もブルジョワジーの勃興と関係し、フランス政府と同じ状況だったと指摘します。
強硬に条約を求めるアメリカにどう対応するか、幕府は全員の合意形成を取ろうとしましたが、まったく取れませんでした。楊さんは、その理由として情報を全員が正確に認識できていなかったことと、幕府の権力が落ちていたことを挙げます。
幕府に逆らったのは誰で、なぜだったのか
各藩が独自の意見を持ち始めたとき、その中身を作ったのはごく少数の知識人でした。深井さんは佐久間象山や、長州の長井雅楽といった人物を挙げ、儒学者のような人たちが作った大戦略を藩が採用する形で、藩の方針である藩論が決まっていったと説明します。
そして藩論の次の担い手として出てくるのが下級武士たちです。深井さんは、幕府に反対的に動く人々の正体を、封建社会の中で虐げられていた人たちだと整理します。
幕府を助けない人たちとは誰か。甘い蜜が吸えない人たちってことですね。これが下級武士とか、あと幕末の雄藩は全員そうです。この人たちは関ヶ原の大戦で負けた人たちです。
長州藩は、関ヶ原の戦いで西軍の大将を務めた毛利輝元の家です。深井さんによれば、石田三成は位が低かったため輝元を大将にしており、長州は徳川家康にとって最大の敵でした。薩摩も関ヶ原で負けた側の外様大名 ── 関ヶ原の戦い前後に徳川家に従った大名。江戸から遠い地に配置され、幕府の要職からも遠ざけられることが多かったです。
この人たちはずっと幕府のことが大嫌いだったんですよ。江戸時代初期からずっとね。
関ヶ原から約260年が経っていたことに、樋口さんは驚きます。当時の人間は全員死んでいるのに、意識だけが残っているのが面白いという反応です。
下級武士たちは封建制の中で出世もできず、そのエネルギーが爆発していきます。ただしフランス革命との明確な違いは、下級武士が封建社会の上の人たちの力を借りた点です。坂本龍馬は大名から資金を集め、高杉晋作も毛利の殿様の援助を受けながら動いたと深井さんは話します。
楊さんは、長州藩内の藩論がある時期は尊王攘夷に、ある時期は幕府を生かしたまま開国や変革を進める佐幕派 ── 幕府を助け、その存続を支持する立場。倒幕を目指す勢力と対立しましたに揺れ動いたことにも注目すると、高杉晋作たちの動きを理解しやすいと補足します。
深井さんは、この重なりを「古い権力を、同じく古い権力のもう少し下の人たちが倒し、さらに一番古かった権力を持ってくる」構図だとまとめています。
ペリーはなぜ日本に来たのか
後半は楊さんが、ペリー側の事情を説明します。マシュー・ペリーは日本に来た時点でかなりの年配で、日本の開国はキャリア最後の仕事でした。
ペリーは十何歳から海軍一筋の軍人で、アメリカ海軍に蒸気船を導入した偉人として、今のアメリカでも尊敬されているといいます。
マクロの背景は植民地の時代です。西洋列強がアジアに進出し、植民地や租界を持つことが当たり前とされた弱肉強食の時代に、建国して間もないアメリカは出遅れていました。
アジアへの進出には船の補給が欠かせませんが、当時アジアの港のほとんどはイギリスのものでした。楊さんによれば、イギリスから独立したアメリカにはライバル意識があり、いつ物資を止められるかわからないリスクを抱えていたため、自前の港をアジアに作りたかったのです。
当時の日本は中国とオランダ以外との貿易を制限していました。その扉を開け、戦略的な条約を結ぶ役割を国から命じられたのがペリーでした。
深井さんは、ペリーが日本について出版された本をすべて読み、賢くてプライドが高い民族をどう説得するかを研究してきたと補足します。楊さんも、ペリーが天皇が権威を、幕府が権力を担う日本の二重権力構造を理解していたと話します。
鯨の油と遭難者の扱いは、日本選びにどう関わったのか
楊さんによれば、ペリー以前にも日本の周辺には各国の船が接触していました。アメリカの遭難者を江戸幕府が受け入れた際、広い牢屋をあてがい、布団や食事を欠かさなかったことから、話のわかる民族だと見られたといいます。
最終的に遭難したアメリカの水兵みたいな人が、いや、船の上よりも牢屋の方が良かったぜみたいなことを言ったと言われてます。
もう1つの理由がエネルギーです。産業革命で工場が夜も稼働するようになり照明需要が急増しましたが、石油が見つかる前、照明の主な燃料は鯨油でした。
楊さんによれば、日本の周りではアメリカの捕鯨船だけで年間300隻ほどが活動していたといいます。遭難した捕鯨船員の保護や、捕鯨船の補給基地として港を開いてほしいというニーズもありました。
産業革命
工場が夜も稼働し、照明需要が急増する
鯨油の需要
石油の発見前、照明の主な燃料は鯨油だった
捕鯨船の増加
アメリカの捕鯨船だけで日本の周りに年間300隻ほど
港のニーズ
遭難者の保護と補給基地のため、日本に開港を求める
深井さんは、補給地、捕鯨、開港、植民地が残っていない焦りなどが重なった複合的な理由だったとまとめます。当時のイギリスは中国やインドで苦労していたこともあり、日本に戦争を仕掛けたいという感覚ではなかったとも話しています。
攘夷の精神は、結果的に日本を守ったのか
攻めてきたわけでもないのに攘夷派は過剰反応したという本もありますが、深井さんは「とんでもねえな」と反論します。ペリーの態度は対等ではなく、まったく失礼だったという見方です。
深井さんは、攘夷はロジカルではなかったとしつつ、あれぐらいの姿勢で臨んだことが結果的にブランディングになったのではないかと話します。楊さんも、ペリーが手紙の中で日本を開国させるには脅ししかないと書いていたと紹介します。
深井さんによれば、アメリカは日本をもっと簡単に脅せると思っていましたが、思ったより日本側が反撃してきたため、好きにできるという感覚がなくなっていったといいます。
楊さんと深井さんは、実力差を自己分析できず、規模に比べて反抗も少なかった清と比べ、江戸幕府はよくやったと評価します。
あの制約条件ではいどうぞ。じゃあ江戸幕府この条件で経営してください。ボンって渡されたらいや、むずいだろうね。
楊さんは、列強が他国と結ぶ関係は列強同士、植民地、不平等条約の3つほどしかなく、植民地にされなかったこと自体がすごかったと話します。深井さんも、この時代に生きた人は誰もバカではなく、全員が本気で考えた結果だと締めくくりました。
樋口さんは「やっと時代背景がインストールされた」と語り、次回からはいよいよ高杉晋作の人生を幼少期から深掘りしていくことが予告されました。
まとめ
高杉晋作が登場する幕末は、封建制が世界的に揺らぐなかで、幕府のガバナンスが弱まり、ペリー来航という想定外の事案に直面した時代でした。深井さんは、明治維新を封建制を保ったまま近代化を進めた「システムの変更」として捉えています。
- 江戸時代末期には商品経済の浸透で新しい富が生まれ、その取り合いから封建制が揺らいでいた
- 明治維新は民衆が王権を倒したフランス革命とは逆に、下級武士や雄藩が天皇という古い権力を掲げた変革だった
- 阿部正弘は来航を事前に知り、朝廷や雄藩に意見を求めたが、それが政治参加の意識を広げ幕府崩壊の始まりになった
- ペリー来航の背景には、出遅れたアメリカの焦り、補給港の必要、鯨油を求める捕鯨船の保護といった複合的な理由があった
- 深井さんと楊さんは、植民地にならなかった江戸幕府の対応を「よくやった」と評価している


