なぜ政治の話は古代ギリシャから始まるのか?
民主主義編の本編は、古代ギリシャから始まります。楊さんによると、政治を語る概念の多くは古代ギリシャに起源があり、英語のpoliticsという言葉自体も都市国家を意味するポリス ── 古代ギリシャの都市国家。都市とその周辺の土地からなり、それぞれが独自の政治制度を持っていました。アテナイやスパルタが代表例ですが語源だといいます。
古代ギリシャが重要なもう1つの理由として、アテナイで民主制が徹底的に実践されたことが挙げられます。政治を語るうえで欠かせない事例として、この回で取り上げられています。
さらに古代ギリシャには、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者がいて、国の政治はどうあるべきかを考え抜きました。ソクラテスがアテナイの民衆裁判で死刑を宣告された衝撃から、弟子のプラトンは理想の国家を考え、その後のアリストテレスはまた別の理論を示したと紹介されています。
バトンリレーみたいな感じでね。
公務員はくじで選ぶ、アテナイの徹底した民主制
最盛期のアテナイの民主主義は、昔の話とは思えないほど徹底していたと語られます。例として、一部の例外を除いて公職、つまり今でいう公務員が抽選で選ばれていたことが挙げられます。
樋口さんは、日本の裁判員制度 ── 一般の国民がくじで選ばれ、刑事裁判に参加して裁判官とともに判決を考える日本の制度。2009年に始まりましたでいきなり裁判員に選ばれる話に近く、そのルーツのようなものだと説明します。公平性を重視した結果、役職をくじで決めていたわけです。
アテナイでは最終的な決定権を持つ民会という機関があり、民会の外で重要な決定がなされることはなかったといいます。裁判も上位の為政者や専門の裁判官ではなく、規範やルールを共有する平等な市民が陪審員として担っていました。
もう1つ重要なのは、アテナイの人々が自分たちの民主制に自覚的で、強いプライドとアイデンティティを持っていたことです。
これは僕たちのスタイルなんだ、これはみたいな。これが俺らスタイルなんだみたいな感じでやってるんですよね。
楊さんは、アテナイ民主制の黄金時代の将軍・政治家ペリクレス ── 紀元前5世紀のアテナイの政治家・将軍。民主制の最盛期を率いた人物として知られ、戦没者追悼演説が有名ですの言葉を紹介します。自分たちの政体は隣国の真似ではなく、むしろ他の人々の模範であり、少数ではなく多数によって治められているから民主制と呼ばれる、という内容です。
このペリクレスの言葉について、深井さんは「スタートアップ企業が、俺たちフラットな組織だよね、と言っている印象」とたとえています。新入社員でも古株でも平等に意見を言えるのがイケている、という自負に近いというわけです。
王から貴族へ、そして平民の台頭はなぜ起きたか
アテナイの民主制が生まれる前にも、貴族による民会や裁判は行われていました。当初は王もいましたが、貴族に対して少し優位に立つ程度で、絶対的な権力は持っていなかったそうです。
やがてアテナイの王は没落し、貴族たちが共同でポリスを治め、交易や防衛にあたるようになります。そしてアテナイでは次第に平民が台頭していきました。
平民が台頭した理由は、端的には戦争だと説明されます。周囲と戦うには平民の力が必要で、戦争に平民が参加すれば平民の声を聞かざるを得なくなり、社会が民主化していくという流れです。
戦争の危機
周囲との戦いで平民の力が必要になる
平民の参戦
重装歩兵として武具も自前で用意して戦う
運命共同体意識
「この国を守ったのは俺らだ」という意識が芽生える
発言権の拡大
貴族も平民の声を無視できなくなる
アテナイの重装歩兵は武具を自分で用意しなければならなかったため、なおさら発言権が増したといいます。楊さんは、第二次世界大戦後に民主主義国が増えたことや明治維新にも同じ流れがあると指摘し、樋口さんも「再現性のある現象」と応じています。
暴君か独裁者か、僭主ペイシストラトスの登場
平民が台頭すると、既得権益を守りたい貴族と権利を主張する平民の対立が深まりました。その中で登場したのが、僭主 ── 正当な王ではないのに、実力で君主の地位を奪って支配する人物。ギリシャ語でティラノスと呼ばれますのペイシストラトスです。
樋口さんによると、ティラノスはティラノサウルスの語源でもあり、力で好きなようにするという意味合いがあるそうです。ペイシストラトスは武力によるクーデターでアテナイの統治権を得ました。
ペイシストラトスは貴族出身でしたが、クーデターの成功は平民の支持によるものでした。そのためペイシストラトスは平民に親しい政治を展開し、独裁制でありながら平民のための政治が行われていた状態だったと説明されます。
ところがペイシストラトスの息子ヒッピアスは、平民に恩義を感じておらず圧政を敷き、アテナイを追放されます。1人の支配者の恣意的な政治で生命が脅かされる恐怖を経験した市民は、独裁者はもう嫌だと考え、自分たちで治める道へ進みました。
樋口さんは、王を嫌って権力分散体制をとったローマとの共通点を挙げつつ、ローマが共和制に向かったのに対し、アテナイはここで民主制を確立したと整理しています。
いやー、経験してるっていうのがでかいな、国がね、なんか失敗を。
役職なしのカリスマ、クレイステネスの改革とは?
アテナイの民主主義を確立した人物とされるのがクレイステネスです。クレイステネスは特別な役職にも就かず、特別な権力も持っていなかったといいます。
単純に民主主義している民衆の中でめっちゃ多分カリスマだったんだよね。
クレイステネスは一市民として民会に提案を行い、それが採択されることで次々と改革を進めました。これがクレイステネスの改革で、特に有名なのが十部族制の導入と五百人評議会です。
十部族制では、それまでの血縁から選ばれる行政の仕組みに代えて、地縁や血縁を生かせない形で行政区を作り直しました。もともと10の部族がいたわけではなく、無理やり10部族を作るような感覚だと説明されます。
たとえば沿岸部の人と山間部の人は、困りごとも欲しいものも違います。クレイステネスの改革は、こうした利害の異なる人たちをわざと1つのデーモスという区分に入れ、利害関係が均等になるようにしました。
樋口さんはこれを「福岡県と香川県をくっつけて、そこからランダムに選ぶ」ようなものとたとえます。こうした区から抽選で人を選んで評議会を作ることで、血縁をベースに結託して一部の利益だけを突出させる動きを防いでいたと考えられます。
この既得権益ムーブみたいなのがもう仕組み上できないとか、既得権益がそもそも生じないみたいなものをシステマチックに考えてるっていうことになりますよね。
同じ手法で逆の目的、秦の商鞅との比較
楊さんは話を少しそらし、同じことをアジアでやった人物として秦の商鞅 ── 中国・戦国時代の秦で活躍した法家の政治家。法による統治と改革を進め、のちに秦が中国を統一する基盤を築いたとされますを挙げます。ただし商鞅の目的はアテナイとは逆で、君主に権力を集中させるためでした。
当時の中国は血縁で固まった氏族制の社会で、個人は親や家長、地域の権力者に従わなければなりませんでした。君主と地域の権力者が対立したとき、個人は身近な側に従うため、君主は地方の個人を直接コントロールできず、君主のために命をかける軍隊も生まれにくかったといいます。
そこで商鞅は血縁ネットワークをバラバラにしようとしました。その1つが分異の令 ── 一定数以上の成年男子がいる家に分家を命じた、商鞅の改革で出された法令の1つとされるものですで、次男以下を家から出し、国が指定した見知らぬ土地へ移らせたと紹介されます。
移った先では縁のない家族を組にして互いに監視させ、不正がないかを見張らせました。商鞅は間に立つ権力者や血縁の壁を取り除き、トップダウンで君主に権力を集めていったのです。
利害の違う人を同じ区に混ぜ、個人を自由に発言させて既得権益を生じにくくする
血縁ネットワークから個人を切り離し、君主に権力を集中させる中央集権国家を作る
樋口さんは、両者の共通点を地縁や血縁のしがらみから個人を切り離すことにあると整理します。アテナイでは、利害の異なる人々が地域で牽制し合いながら出した意見が中央に上がるため、既得権益が作りづらい状態が続くと説明されています。
民会6000人、五百人評議会、民衆裁判所の仕組み
クレイステネスの改革の結果として成り立った制度が、立法・行政・司法に分けて紹介されます。立法機関は民会で、市民全員が参加でき、全員が平等に発言し、平等な1票を持つ最高議決機関でした。
最盛期の市民は4〜5万人ほどでしたが、重要な決議の際に民会に集まるのは6000人ほどだったそうです。歩いて1日以上かかる人もいて、民会は年に40回ほど開かれていたため全部に参加するのは難しく、会場の遺跡からも6000人ほどと考えられているといいます。
なお、女性と奴隷には民会に参加する権利がありませんでした。その意味で、今日的な民主主義をそのまま当てはめるのは正確ではないと確認されています。それでも2000年ぐらい前にみんなの意見をなるべく平等に出そうとしていたことは、センセーショナルだと語られます。
| 機関 | 役割 | 選ばれ方・規模 |
|---|---|---|
| 民会 | 立法・最高議決機関 | 市民全員が参加可能、重要な決議で6000人ほど |
| 五百人評議会 | 行政(民会の決定の実施) | 10部族から30歳以上の市民を50人ずつ抽選、任期1年 |
| 民衆裁判所 | 司法 | 抽選で選ばれた任期1年の陪審員6000人 |
五百人評議会の評議員はほぼ毎日通う必要があり、選ばれると他の仕事はできなかったと考えられます。民会で決まったことの実施を担い、実質的な政府の役割を果たしていたとされます。
民衆裁判所では死刑の判断も行われ、ソクラテスもこの民衆裁判所で死刑になりました。樋口さんは、多数決だったのではないかと話しています。
弾劾裁判と陶片追放、なぜ目立つ者が追放されるのか?
アテナイの人々は権力集中を避けるため、さらに2つの仕組みを持っていました。1つ目が弾劾裁判で、政治の有力者でも行為の責任を追及され、有罪になれば死刑など厳しい処分もありえたといいます。
樋口さんは現代の例として、トランプ大統領の弾劾裁判が話題になったことにも触れています。政治家が不正を行ったり徒党を組んだりすることを、弾劾裁判がまず牽制していたわけです。
もっと強烈なのが陶片追放 ── 割れた陶器の破片に名前を書いて投票し、票が一定数集まった人物を国外に追放する制度。オストラシズムとも呼ばれますです。僭主になる危険がある政治家の名前を書く仕組みで、その人が良い人か悪い人かは関係なく、独裁的になりそうなら書いてよかったといいます。
一定の票が集まると10年間追放されました。市民権や財産などの所有権は守られ、10年経てば影響力が弱まったとして帰国できましたが、それまではアテナイ以外の場所で暮らさなければなりませんでした。
民会で目立ったら追放されるんだよ。
本当にみんなから人気があれば投票されないため、実際には「こいつ危ないぞ」と思われた人が追放されたのではないかと樋口さんは推測しています。指導者層や民会で発言力のある人は、常に弾劾裁判や陶片追放の危険と緊張感の中で発言しなければならなかったのです。
樋口さんは、ここまで徹底し、ルール化・制度化した民主制を行っていたのは古代ギリシャだけだったと話します。ただし「民主主義的とは何か」の定義は見解が分かれるため、あとで扱うとしています。
デマゴーグとソクラテスの処刑、民主制批判は最初からあった
アテナイの民主制には、実は常に批判者がいました。民主主義の問題点を指摘し、その存続を疑う声は、民主主義が生まれた瞬間からあったと樋口さんは言います。
その代表が、扇動者を意味するデマゴーグ ── 大げさな言葉や振る舞いで民衆の感情に訴え、支持を集めて権力を握ろうとする政治家。現代のポピュリズム批判にも使われる言葉ですです。野心に従って大げさな言葉で注目を集め、民衆におもねって権力を握るデマゴーグがはびこり、アテナイの民主主義は衰退したと言う人がいたのです。
例としてよく出るのが、スパルタとのペロポネソス戦争 ── 紀元前5世紀後半に、アテナイを中心とする勢力とスパルタを中心とする勢力が争った戦争。最終的にスパルタ側が勝利しました中のシチリア遠征です。アテナイは空前の規模の軍をシチリアに送りましたが、大敗しました。
指導者の不在
ペリクレスのような圧倒的な指導者がいなかった
民衆への迎合
指導者たちが民衆の意見に迎合した
場当たりの判断
未来を考えず、その場の感情で動いた
大敗
勝てるはずのない戦争で負け、アテナイは衰運へ
この見方を示したのは、同時代の歴史家トゥキディデスだと紹介されています。遠征を支持したのは民衆だったという点が、ポピュリズムとして批判されたわけです。
もう1つよく挙げられるのがソクラテスの処刑です。ソクラテスは「賢い」と自称する人たちに問答を重ね、実は何も知らないという結論へ導いていき、あらゆる人にそれを続けた結果、ひどく嫌われて民衆を扇動した罪で処刑されました。
プラトンは、あんなに賢い人を処刑するなんて民衆は愚かだと考え、哲人政治 ── 哲学を身につけた知恵ある人物が国を統治すべきだとする、プラトンの国家論の考え方ですを唱えます。樋口さんは、要は民主主義をやめてしまえという主張だと説明しています。
樋口さんは、今も民主主義の危機を指摘するのは主にインテリ層だと話します。SNSで簡単に惑わされる人が投票権を持つことへの危機感は、制度や金融、国際情勢を理解していない人が国を動かしているという構図として、民主主義が生まれた瞬間から全く同じだというのが樋口さんの見方です。
アリストテレスはなぜ衆愚制を「一番マシ」としたのか
アリストテレスは、支配体制には民主制、貴族制、独裁制の3つがあり、それぞれにダメになった形があると考えました。統治する人が公共の利益ではなく私的利益で動くことで、どの形態も堕落するという議論です。
| 支配体制 | 堕落した形 | 堕落形態の中での評価 |
|---|---|---|
| 独裁制 | 専制 | 一番最悪 |
| 貴族制 | 寡頭制 | その次に悪い |
| 民主制 | 衆愚制 | 一番マシ |
堕落形態の中で専制を最悪とする評価について、樋口さんは「独裁制が嫌いなアテナイ人っぽい」と話し、衆愚制を一番マシとする点はチャーチルと似たことを言っていると指摘します。
楊さんによると、アリストテレスにとって民主制は多数の貧しい民衆による支配というネガティブな面も持っていました。それでもプラトンよりは民主制を比較的肯定的に評価していたと言われるそうです。
アリストテレスが挙げた民主制のメリットの1つは、一人ひとりは優れていなくても、全員が集まれば全体として少数者に勝ることがあるという点です。互いに持ち寄って補い合えば、全体としてベターなものになりうるという考え方です。
もう1つのメリットは、専門家でなくても正しく判断できる可能性です。アリストテレスは、家の良し悪しは建てた人だけでなく使う側がよく判断できることもある、とたとえています。楊さんは、これはあくまでアリストテレスの論点で、反対意見もいろいろ言えるだろうと添えています。
プラトンが嫌った「雄蜂」とは誰のことか
プラトンは民主主義にとても批判的で、多数者の決定だからといって正しいとは限らないと考えました。政治家は自ら道徳的であるだけでなく、人々をさらに道徳的にする力を持つべきで、それができるのは哲人と呼ばれるレベルの人間だけだという主張です。
番組では、哲人は「哲学の哲」であって料理の鉄人ではない、という脱線も挟まれています。
プラトンが持ち出した概念が雄蜂、つまりオスの蜂です。雄蜂にあたる人たちは、寡頭制や貴族制の世では役立たずとしてのけ者扱いされますが、民主制の世になると急に元気になり勢力を広げるといいます。
雄蜂の中には針を持った者が現れて演説をし、ほかの雄蜂は演壇の周りでブンブンと同調します。雄蜂たちは金持ちに群がって蜜を吸い、働き蜂である民衆を扇動して物事をダメにしていく、というたとえです。
この雄蜂っていうなんかずるい奴が、その金持ちにもいい顔し、民衆にもいい顔し、どちらともから蜜を吸いながらやってるってことになりますよね。
樋口さんは、この雄蜂はデマゴーグを指していると説明します。プラトンの記述には感情がこもっていて、よほど嫌いだったのだろうという反応もありました。
迷走の後の最盛期、そしてアレクサンドロスによる終焉
シチリア遠征の失敗後、アテナイは迷走します。旧貴族派が巻き返して寡頭政治が成立し、専制が出てきたり寡頭政治を繰り返したりしながらも、最終的には民主制が復活しました。
スパルタに負けてスパルタが作った政権は寡頭制でしたが、アテナイの人々は民主主義に誇りを持っていたようで、民主制を取り戻します。楊さんは、一度成功体験があるからだろうと話しています。
民主制の再建では、寡頭派と和解して報復の連鎖を断ち、民会や民衆裁判所で民主主義の原則を確認しました。通常の民会の決議と法を分けて考えるなど、法の地位も確立したといいます。
興味深いのが、違法な提案への告発制度であるグラフェ・パラノモン ── アテナイで、民会などに法に反する提案をした人物を告発できた制度。認められると決議は無効になりましたです。法に反する提案をした人を告発でき、議案は廃案、決議は失効しました。樋口さんは、憲法がない時代の違憲立法審査権のようなものだと説明します。
憲法がないのに共通して大事なものがあったことへの驚きに対し、文字で書かれた法や憲法のほうが歴史は浅く、自然に形成された慣習や倫理感で動くほうが古いという話も出ています。
こうしてシステムとしての最盛期を迎えたアテナイですが、番組では、その80年後にアレクサンドロス大王に滅ぼされ、帝国のもとで民主制は完全に終わったと語られています。
樋口さんはアテナイの民主制を、支配者の座につく個人を許さない仕組みだとまとめます。任期は1年程度で、権力を委ねられた人も違法提案の告発や陶片追放、弾劾裁判があるため下手なことはできず、公職者に強い責任を課す考え方が根づいていたといいます。
だって下手な発言すると10年間追放されるのが全員適用されてるわけだから。すごい責任じゃないですか。
次回は、アテナイの民主制と比べながらローマの共和制を扱い、その後ヨーロッパが王政や皇帝の時代に入る中で、ローマやイタリアで続いた共和制がどんなものだったかを説明する予定だと予告されています。
まとめ
アテナイの民主制は、戦争で発言権を得た平民と僭主政治への反動から生まれ、クレイステネスの改革で抽選と利害の混ぜ合わせによる仕組みを整えました。一方で、デマゴーグやソクラテスの処刑を理由にした批判も最初からあり、その構図は現代の民主主義の危機論とも重なると語られています。
- アテナイでは公職の多くが抽選で選ばれ、最終決定権は市民全員が参加できる民会にあった
- クレイステネスは利害の違う人を同じ区に混ぜて既得権益を生じにくくし、秦の商鞅は似た手法を逆に君主への権力集中に使った
- 弾劾裁判や陶片追放によって、目立つ者や独裁の恐れがある者は追放され、発言には強い責任が伴った
- プラトンは民主制を否定して哲人政治を唱え、アリストテレスは衆愚制を堕落形態の中で一番マシと評価した
- 迷走の末に民主制は再建され最盛期を迎えたが、アレクサンドロス大王によって終わりを迎えた





