一度は「不要」になっていた奴隷制
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リンカン編も6回目に入り、今回のテーマは南部の綿花産業です。楊さんは、綿花産業の拡大に伴って黒人奴隷制が発展していく経緯を追いたいと切り出します。
前提として、アメリカでは1808年の段階で奴隷貿易がすでに禁止されていました。北部では奴隷制自体も段階的に廃止が進んでいたと楊さんは整理します。
ただ南部は事情が違いました。奴隷を使わない産業がなく、奴隷労働が経済基盤そのものになっていたためです。奴隷制の禁止は、生活と仕事を根こそぎ奪う話とほぼ同じ意味を持っていました。
なんかはい、インターネット使っちゃダメですみたいな。いやいやいやみたいな。どうやって仕事するん?みたいな。
楊さんによれば、奴隷制の廃止が全米で合意できなかった一方で、奴隷貿易の禁止だけは合意できました。その理由は、当時すでに奴隷人口が産業に対して過剰になっていたからだと言います。
当時のプランテーションは藍やタバコを作っていましたが、それらが斜陽産業になりつつあり、奴隷の価格も下落していました。「これ以上入れる必要ない」という状態だったのです。
「堕落」から「擁護」へ、ある政治家の変節
南部の意識を象徴する人物として、楊さんはバージニア出身のプランター政治家ジョン・ランドルフを挙げます。奴隷制がいずれなくなると考えていた頃、彼は「奴隷制はこの世の堕落である」と語っていました。
楊さんは、経済的な実利がなければ奴隷制は恥ずべき行為だという認識が、南部にもあったと見ています。奴隷制反対は当時の世界的な潮流でもありました。
今で言う法律を超えた残業をさせてはいけないけれども、でも残業させないと会社持たんしなみたいな、そんなシチュエーションですね。
ところが綿花が登場して産業が大爆発すると、ジョン・ランドルフは態度を一変させます。「今や時代は変わった」と言って、奴隷制の熱烈な擁護者になっていきました。
楊さんは、この変節を一人の問題として片づけていません。生活が維持できないのに理念を先行させるのはよほどのことで、多くの人は同じ道をたどるはずだと話します。
綿花はなぜ爆発的に広がったのか
綿花が南部で拡大した背景には、まず巨大な需要がありました。同時期のイギリスでは産業革命が進み、綿花への輸出需要が急増していたのです。
さらにアメリカ国内でも需要がありました。独立革命以降、イギリスからの布の輸入が途絶えていたため、自分たちで綿花を作って供給する必要が生まれていたと楊さんは説明します。
この二重の需要に応えるため、綿花の品種改良と技術革新が進みます。従来の長繊維のシーアイランドコットンから、短繊維のアップランドコットンへと主力が移っていきました。
この品種転換の効果は栽培エリアの拡大でした。栽培に必要な暖かい期間が短くて済むようになり、南部と北部の境界付近でも作れるようになったのです。
従来の長繊維品種。栽培に暖かい期間が300日ほど必要で、栽培できる地域が限られた
新しい短繊維品種。暖かい期間が200日ほどで済み、単位面積あたりの生産量も大きかった
楊さんは具体例として、暖かい日が210日ほどしかないミシシッピのある都市を挙げます。シーアイランドコットンでは無理でも、アップランドコットンならぎりぎり栽培できたと言います。
綿繰り機が生んだ「投下するほど儲かる」構造
栽培が広がったこと自体だけでなく、収穫と加工の性質も奴隷需要を押し上げました。綿は勝手に弾けて実が割れ、割れたらすぐ採集しないと雨などでだめになってしまうためです。
単位面積あたりの生産量が大きいぶん、収穫は短期間に一気に行う必要がありました。これが綿花栽培を短期集中の労働集約型にしていったと楊さんは説明します。
さらに、集めた綿を糸にする工程を効率化する綿繰り機が技術革新で登場します。手でくるくる回すだけの機械でしたが、生産性はおよそ1000倍になったと言われます。
重要なのは短期間に労働集約型で一気に栽培しないといけないということで、人材需要がボーンって上がっていくんだよね。
楊さんは、この構造を「投下すればするほどお金が儲かる」のが一番大事なポイントだと強調します。人手をかけるほど収益が伸びるため、黒人奴隷の数がそれまでの何倍も必要とされていきました。
楊さんによれば、こうして拡大した綿花産業は西部開拓とも結びつきます。西部の南寄りの土地を開拓してプランテーションを作り、奴隷を保有すれば儲かるという流れが生まれました。
輸出先のほとんどはイギリスでした。綿花の供給を止めればイギリスが崩壊するとまで言われ、南部の人々は「綿花は王者である」と自賛したと楊さんは紹介します。
そうそう、綿花王国とか言ってね、コットンキングダムだつってね。あんだけ王政嫌いって言ってるのに。
南部の中の南部「ディープサウス」と奴隷人口の急増
綿花栽培は南部に均等に広がったわけではありませんでした。南部はおおまかに北寄りの南部と、より南の地域に分けられ、綿花に適した気候の南側ほど奴隷を多く抱えていました。
南部の中でも南寄りの地域では、奴隷人口が全人口の40%ほどに達していたと楊さんは説明します。とくにサウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの5州は綿花栽培が盛んで、ディープサウスと呼ばれました。
この労働集約型の産業に伴い、黒人奴隷の数は急増しました。1800年に約89万4000人だった奴隷人口は、60年後の1860年には約395万4000人にまでふくらみます。
ここで楊さんが引っかかるのは、奴隷貿易が禁止されていたにもかかわらず、60年間で5、6倍にも増えている点です。ディープサウスの需要に応じて、国内では北部から南部へ奴隷が売られていく現象も起きていました。
家畜のように「増やされた」奴隷たち
なぜ貿易禁止下で奴隷が急増したのか。楊さんは、密輸も行われていたが、それだけでは説明がつかず、大部分は「自然増」だったと言います。ただし、この語には強い語弊があると断ります。
当時の奴隷主は、奴隷を家畜のように扱い、繁殖のような感覚で子供を産ませていました。楊さんは、参考文献に「つがい」を作らせると書かれていたことに引いたと語ります。
奴隷の繁殖みたいな感覚で子供を産ませまくってんですよ。
さらに、生まれた子供は早い時期に母親から引き離され、年老いた黒人女性に世話をさせたうえで、成長すると畑仕事や奴隷労働を仕込まれました。奴隷の生産・育成・輸出が州をまたいだ仕組みとして確立していたのです。
性行為も強要され、多く子供を産める女性奴隷は高く売り買いされました。楊さんは、実際に残された当事者の証言を紹介します。
(奴隷主は)奴隷を買うよりも育てる方が安上がりだと考えていました。
ある奴隷女性は、台の上に立たされて子供たちを周りに並べさせられ、いかに早く子供を作ったかを見せられたうえで、値をつり上げて売られたといいます。楊さんは、当時こうしたやり取りが実際に行われていたと語ります。
引き裂かれる家族、性奴隷という現実
子供を多く産める者や力の強い男性が高く売れる構造は、家族の分断を生みました。10歳未満の子供が母親から引き離されて売られることが、繰り返し起きていたのです。
楊さんは、アーカンソー州の奴隷だったマティ・ファネンという女性の述懐を紹介します。子供が売られると、母や兄弟姉妹は家族の死と同じくらいつらい悲しみを味わったといいます。
家族が引き裂かれると、何世代にもわたって深刻なトラウマになったそうです。
もう一つ、楊さんは聞くのがつらい人は飛ばしてほしいと前置きしたうえで、性奴隷の存在に触れます。一般には力の強い男性奴隷のほうが高価でしたが、唯一の例外として、最も高く売られたのは美しい少女だったと言います。
白人との混血の子供も、当時の扱いではすべて黒人奴隷でした。多くは主人によるレイプで生まれた子供であり、その子たちがさらに性奴隷として売られていくことも起きていたと楊さんは語ります。
深井さんは、独立宣言で自由と平等をうたいながら性奴隷を売買するメンタリティーの奇妙さを指摘します。楊さんは、それが南部という枠の中では成り立っていた点に注目します。
違うだろってなったから北部は奴隷制やめてんだけど、南部では成り立ってるってことですね。
一方で構造は複雑でした。南部の綿花は北部の港を通じて輸出されており、奴隷労働で生まれた利益は北部にも落ちていたのです。
綿花に依存しすぎた南部の産業
南部では綿花があまりに儲かるため、他の産業が育ちませんでした。奴隷を使って綿花を作るのがコスト面で最も有利で、工業に投資する動機が生まれにくかったのです。
楊さんによれば、南部は輸送すら自前で持てなくなっていきました。ロジスティクスを北部のビジネスに任せる一方で、その手数料をめぐって北部に不当に取られていると感じるようになります。
南部も一度は工業に挑もうとしました。転機になったのは1837年の経済恐慌です。北部は工業を軸に早く立ち直りましたが、綿花しかない南部は回復が遅れ、北部との経済格差が開き始めました。
南部の不満には根拠もありました。綿花の流通に加え、金融・保険・売買契約の手続きまで北部、とくにニューヨークに集中していたためです。輸入品も北部経由で買っており、南部は二重に収奪されていると映りました。
産業多角化の機運
北部への依存を減らそうと、綿花加工の工業や独自の流通を育てようとした
綿花価格の回復
綿花の収益モデルが確立していたため、資金は結局そちらに流れた
商人もプランター
南部の商人の多くがプランターで、流通より生産のほうが儲かった
綿花への固執
新領域への投資リスクを避け続け、産業も社会も遅れていった
結局、産業多角化は失敗します。綿花の価格が回復したことで、確立した収益モデルにキャッシュが流れ込み、リスクのある新領域に踏み込む動機が失われたためです。
既存事業で十分儲かるって確約があるのに、新規事業にアクセル踏めないですもんね。
楊さんは、この状況を意志の問題だと語ります。儲かるから、再現性があるからと同じことを続けてしまい、状況を打破できないという構図です。
技術を持たせたくない、という奴隷制の矛盾
工業がうまくいかなかった最大の理由の一つは、工場で誰を働かせるかにありました。労働力としては奴隷が想定されますが、綿花で収益を上げている奴隷を工場に回すハードルは高かったのです。
樋口さんは、工場には機械の操作スキルが必要になると指摘します。そのスキルを黒人に付けさせると、彼らの発言力や価値が上がりすぎることも、奴隷主にとってはリスクでした。
楊さんは、そもそも技術を付けさせすぎたくないという意識があったと補足します。当時の白人は黒人を知能が低いと本気で見下しており、その状態にとどめおくことを正当化していました。
彼らから見て愚かであるという状態にとどめおきたいと。
技術を身につけた奴隷が北部へ逃げれば、そのまま工場労働者として雇われてしまう恐れもありました。楊さんは、奴隷制と資本主義は相性が悪く、あちこちで不具合が生じたと語ります。
白人社会の内側にあった大きな格差
最後に南部の白人社会の実像です。全員が奴隷を持っていたわけではなく、多くの奴隷を保有していたのはごく一部でした。
楊さんは1850年のデータを紹介します。南部の白人住民618万人のうち、奴隷を所有していたのは約35万人で、全体の5.6%にすぎませんでした。
さらに、その35万人の過半数は5人未満しか奴隷を持たない零細な所有者でした。20人以上を持つ、いわゆるプランターと呼べる人はわずか3万8000人ほどだったといいます。
楊さんは、こうした奴隷所有者を「IPOした起業家たち」にたとえます。政治家や医者、弁護士なども、南部の上流階級であるためには綿花生産のプランターであることが求められました。
一方で、成功しなかった多くの白人は貧しく、農業に不向きな山岳地帯などに追いやられていきました。この下層の白人たちは「ホワイトトラッシュ」と呼ばれたと楊さんは紹介します。
楊さんは、南部が一枚岩ではなかったと整理します。交通革命への姿勢一つ取っても、プランターとホワイトトラッシュでは利害が一致せず、内部に大きな溝を抱えていました。
それでも五分の三条項によって奴隷を多く持つ者ほど票数を持ち、社会を牛耳る貴族社会のような構造ができました。ただし彼らは世襲でありながら叩き上げの新興ブルジョアジーであり、今の起業家に近いと楊さんは見ています。
楊さんは次回も引き続き黒人奴隷制を扱うと予告します。ここまでアメリカの複雑な状況を理解したうえでリンカンの言動を見ると、腑に落ちる部分が多いはずだと話します。
マジで絶対に同じ立場になりたくないっていうタイプの恐ろしい立場の人です。
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まとめ
一度は不要とされた奴隷制が、綿花の技術革新と巨大な需要によって再拡大し、南部社会を綿花に依存したいびつな構造へと固定していった回でした。次回、ようやくリンカンが登場します。
- 1808年に奴隷貿易は禁止されたが、綿花の登場で奴隷制はむしろ拡大した
- 品種改良と綿繰り機により、綿花は「投下するほど儲かる」労働集約型産業になった
- 奴隷は家畜のように「増やされ」、家族の分断や性奴隷という残酷な現実があった
- 綿花が儲かりすぎたため、南部は工業や流通が育たず北部への依存を深めた
- 奴隷を持つ白人はごく一部で、南部の白人社会は内部に大きな格差を抱えていた







