仏教の全体像を僧侶に聞く──苦・楽・慈悲の本当の意味
歴史を面白く学ぶコテンラジオ(COTEN RADIO)の番外編に、実験寺院 寳幢寺京都にある寺院。松波龍源氏が設立した、現代社会に生きる仏教を模索する「実験寺院」という位置づけの寺。僧院長の松波龍源さんがゲストとして登場。深井龍之介さん・樋口聖典さんとともに、仏教とは何を目指す教えなのか、「苦」「楽」「慈悲」の正確な定義から紐解いていきます。密教の実践者という立場から語られる仏教の輪郭を、初学者にもわかるようにまとめます。
ゲスト紹介──なぜ「お坊さん」に学ぶのか
今回のゲストは、真言律宗奈良・西大寺を総本山とする仏教宗派。真言密教の教えと律宗の戒律を融合させた宗派で、鎌倉時代の叡尊が中興の祖。総本山西大寺で得度・伝法灌頂を受けた松波龍源さんです。中国・北京での5年間の武術修行を経て、ミャンマーやチベットの高僧にも師事し、密教の瞑想法を探求してきた実践者です。
深井さんは約4年前、空海・最澄平安時代初期に活躍した二大僧侶。空海は真言宗の開祖、最澄は天台宗の開祖。コテンラジオでも過去にシリーズとして取り上げられた。のシリーズを制作した際に仏教哲学の奥深さと難解さに直面し、「本だけでは絶対に理解できない」という確信を得たそうです。そこから龍源さんを紹介され、ここ3年間は毎月京都に通って問答を重ねてきたとのこと。
めちゃくちゃ成功したビジネスパーソンでも、お金持ってるけど苦しんでる人たちがいっぱいいる。その人たちに「苦しいですよね。じゃあ行きましょう」って言ってます
深井さんが龍源さんを高く評価するポイントは、学者とは異なる「実践者としての回答力」にあるといいます。ビジネスの現場で俗世にまみれている自分が「これって仏教から見たらどうなんですか?」と問いかけると、修行の身体性に裏打ちされた答えが返ってくる。その問答の質が、他では得がたいものだったのだそうです。
仏教は一枚岩ではない──3+1の分類
本題に入る前に、龍源さんから重要な前提が示されました。「仏教」という言葉は便利な概念だが、実は中身がまったく異なる「3+1」の仏教が含まれている、というものです。
まず「+1」にあたる別格の存在が、原始仏教ゴータマ・シッダルタ(釈迦)が直接教えを説いていた時代の仏教。経典や宗派が成立する以前の、ライブの教えそのもの。──つまりお釈迦様がまだ生きていて、直接聞けばよかった時代の教えです。サンスクリットでブッダバーダサンスクリット語で「ブッダ(悟った人)が語った言葉(バーダ)」の意。漢訳で「仏教」と訳された元の語。(仏の教え)と呼ばれるこのオリジナルのソースは、もはや誰にも完全には検証できないものです。
残りの「3」は、このソースに対する解釈の違いとして分かれていきました。
龍源さんによれば、上座部仏教テーラワーダ仏教とも。パーリ語で「長老たちの教え」の意。タイ、ミャンマー、スリランカなど東南アジアに広がる。出家修行を通じた個人の悟りを重視する。は「僧院の奥深くで修行に専念できる人向けの解釈」という面があります。それに対して大乗仏教マハーヤーナ(偉大な乗り物)とも。特殊な修行環境にいない一般の人々も含め、あらゆる衆生を救済の対象とする。日本・中国・韓国などに広がった。は「出家していない普通の人にも適用できるはず」と考えた人々が打ち出した解釈です。そして密教は、大乗の哲学はそのままに「理念だけでなく、自分の体を使って実際にやっていこう」という実践重視の立場として生まれました。
仏教っていうのは使いこなしてなんぼだと思う。ガラスケースの中に入って、崇め奉るものではない
「欲を捨てなさい」と言われたら経営者は会社が潰れてしまう──そんな誤解が生まれるのは、この3つの立場を混同しているからだと龍源さんは指摘します。密教の立場からは「欲を捨てろ」とは教えない、というのがこの回の重要な前提です。
悟り・解脱・涅槃・成仏の違い
仏教の目的といえば「悟りを開く」こと──多くの人がそう思っているはずです。しかし龍源さんは「悟りを開く」「解脱する」「涅槃に至る」「成仏する」の4つの言葉がほぼ同義に使われがちな現状を問題視します。実はそれぞれ、プロセスの異なる段階を指しているのです。
龍源さんは「崖を登ること」に例えて説明しました。
ここに上座部仏教と大乗仏教の違いがはっきり表れます。上座部の目標は「涅槃に至る」──つまり自分が崖の上に立つことがゴールです。大乗はそこからさらに進んで、まだ苦しんでいる人に「崖の登り方」を教え、力を付与できるようになることを目指します。
ここが一神教との大きな違いだと龍源さんは強調します。一神教における救済は「神が引っ張り上げてくれる」ニュアンスが強いのに対し、仏教では「あなた自身でもできるはず。やり方がわからないなら私がアドバイスする」というポジションを取るのです。成仏とは、そのフルサポートができる状態に到達することだといいます。
「苦」とは何か──一切皆苦の本当の意味
では、仏教がいう「崖を登る」とは具体的に何なのか。それが「苦からの脱却」です。
龍源さんによる苦の定義はこうです。認識力を持つ生命が何かを望み、それが叶わない・得られないことによって発生する心理作用。つまり「ペイン」や「ストレス」といった重い意味だけでなく、お腹が空いているのにご飯が食べられない、部屋がちょっと暑い、蚊に刺されて痒い──そんな些細なものまですべて「苦」に含まれます。
すごくしょうもないことから、超ド級のものまで全て苦に入る
ここで重要なのが「一切皆苦仏教の根本的な教えの一つ。「すべてが苦である」と訳されがちだが、龍源さんの解釈では「すべてのものの中に苦の種がある(可能性が0にならない)」という意味。」の正確な意味です。龍源さんは「お釈迦様は"すべてが苦だ"とは言っていない」と指摘します。正しくは、すべての物事の中に苦につながる可能性が0になることはありえない、ということ。苦の種は常にそこにあり、生きている限りそこから完全に逃れることはできない。
ただし、お釈迦様が問題視しているのは小さな苦そのものではなく、苦が「成就」する──つまり絶望へと向かっていくことだといいます。タクシーが捕まらない程度なら「しょうがない」で済む。しかし、人生を左右するような局面で行き詰まり、絶望に至ると、暴力につながっていきます。
小さな苦
お腹が空いた、部屋が暑い、蚊に刺された
苦の蓄積・増幅
望んでも得られない状態が続き、心理作用が強まる
絶望
「もう終わりだ」という心理状態に到達
暴力
自分に向かえば→うつ・無気力・自死。他者に向かえば→攻撃・犯罪・テロ
深井さんは自身の体験として「本当にしょうもないことで、すごくちゃんとストレスを持てる」と語ります。脳科学の観点からは、そのストレスは脳神経の炎症──つまり「起こす必要のない炎症を自分に対して起こし続けている」状態であり、これもまた自分への暴力だと気づいたそうです。
同じ現象が起こっても、苦の方向に持っていくことも、持っていかないことも可能である。そこに選択の余地があるという認識が、仏教の出発点なのです。
「楽」とは何か──満ち足りた状態の心理作用
苦の対概念が「楽」です。しかしこれも、日本語の「ラクちん」「何もしなくていい」というイメージとは異なります。楽の定義は、これ以上もう求めるものがない状態──満ち足りている、満たされている状態から生じる心理作用です。
龍源さんは、大好きな食事を心ゆくまで食べて、環境も良くて、食後のお茶も美味しくて「もう満ち足りた」という瞬間を想像してほしいと語ります。その状態で突然「ディズニーランドに行きたくてたまらない!」という欲求は普通湧きません。それが楽の状態です。
何かを望み、求めて、得られない・叶わないことから生じる心理作用
これ以上求めるものがない、満ち足りている状態から生じる心理作用
ただし人間は「高等」であるがゆえに、楽の形が複雑に「よじれる」ことがあります。成長のためにあえてストレスが欲しい人がいる。ボディビルダーに筋トレを禁止したら、それは「楽すぎて苦になる」。つまり、何がその人にとっての楽かは、人によって、状況によって、刻々と変わるのです。
楽はコロコロ変わる。だから仏教は、楽を追求するよりも、楽を妨げている苦の方にフォーカスした方が分かりやすいんじゃない?という考え方なんです
ここが仏教の戦略です。楽の対象は無限にバリエーションがあるからキリがない。だから楽を直接追い求めるのではなく、楽を妨げている苦を取り払うことにフォーカスする。苦がなくなれば、自然と満たされた状態──楽──に移行するはずだという発想です。だから仏教はペシミズム悲観主義。世界や人生を本質的に悪いもの・苦しいものと捉える考え方。仏教は苦にフォーカスするため悲観主義と誤解されがちだが、苦の除去を通じて楽を実現する実践的な思想。(悲観主義)ではない、と龍源さんは強調します。
慈と悲──苦を抜き、楽を与える
苦と楽の定義が揃ったところで、仏教の核心的な概念「慈悲」の話に入ります。
漢訳経典には「抜苦与楽ばっくよらく。苦を抜き、楽を与えること。他者に対する慈悲の行為を指す仏教用語。」(苦を抜き、楽を与える)と「離苦得楽りくとくらく。苦から離れ、楽を得ること。自分自身に対する解放のプロセスを指す。」(苦から離れ、楽を得る)という対句があります。龍源さんの解釈では、抜苦与楽は他者に対して苦を取り除き楽を付与する行為、離苦得楽は自分自身が苦から離れ楽を得ること。この自他両面が一致した境涯・願い・祈りのことを「慈悲」と呼ぶのだそうです。
しかし実は「慈悲」という一語は、オリジナルのサンスクリット・パーリ語には存在しない漢訳の造語だといいます。元々は「慈」と「悲」という別々の概念でした。
そこにある苦しみを取り去ろうとする心
マイナスを0に戻す方向
喜び・楽を与えようとする心
0からプラスに積み増す方向
方向は同じだけれど、フェーズが違う。悲が「マイナスを0に」、慈が「0からプラスに」。中国の翻訳者がこの二つをまとめて「慈悲」としたことで、概念の輪郭がぼやけてしまったと龍源さんは指摘します。
この慈悲を原則に、自分の行動の選択を考えていくこと。それが龍源さんの考える「基本の仏教」です。次回以降は、ではどうやって苦から離れるのかという具体的な方法論──中観哲学ナーガールジュナ(龍樹)が大成した大乗仏教の根本思想。あらゆるものは固定的な実体を持たず「空」であると説く。仏教哲学の中核をなす思想体系。の話に入っていくとのことです。
まとめ
今回は仏教の全体像を掴むための「前提編」でした。「仏教」という一語の中に、原始仏教・上座部・大乗・密教という異なる立場が混在していること。悟り・解脱・涅槃・成仏はそれぞれ別のプロセスであること。そして仏教がフォーカスする「苦」は、日常の些細な不満から人生の絶望まで、あらゆる「望んでも得られない」心理作用を包含する概念であること。これらの前提を共有した上で、次回はいよいよ「どうやって苦から離れるのか」という実践論に入ります。
- 「仏教」は一枚岩ではなく、原始仏教(別格)+上座部・大乗・密教の3つの立場がある。今回は密教の実践者の視点から語られている
- 悟り(力を得る)→ 解脱(実際に登る)→ 涅槃(頂上に立つ)→ 成仏(他者に力を与える)は、それぞれプロセスの異なる段階
- 仏教の「苦」は「望んでも得られないことから生じる心理作用」全般を指し、些細なものから深刻なものまで含む
- 「一切皆苦」は「すべてが苦」ではなく「すべてのものに苦の可能性が0にならない」という意味
- 「楽」は「満ち足りて、もう求めるものがない状態」から生じる心理作用。仏教は楽を直接追うのではなく、楽を妨げる苦を取り除く戦略を取る
- 「慈悲」は本来「慈(楽を与える心)」と「悲(苦を取り去る心)」という別の概念。マイナスを0にし、0からプラスにする二段構え
