蒸気機関のルーツは1世紀の「おもちゃ」だった
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今回のテーマは汎用動力です。蒸気機関やエンジンがどういうもので、どう発明され、社会にどんなインパクトを与えたかが語られます。
蒸気機関が発明されるのは17世紀以降ですが、そのルーツはずっと昔にさかのぼります。1世紀のギリシャ、アレクサンドリアで発明家のヘロンが、蒸気を利用した仕掛けを考えていたと紹介されました。
ただし、それは実用的な機械ではなく、遊ぶ目的のおもちゃだったと考えられています。深井さんは、玉が蒸気でくるくる回るような、意味のない遊びだったと説明します。
頭のいい暇人しか作れないもん。
17世紀に入り、科学革命が起こる中で、蒸気機関につながる発見が生まれます。その一つが真空でした。
真空とは周りよりも大気圧が低い状態で、空気は大気圧が高い方から低い方へ流れます。深井さんは、こうした性質の発見が蒸気機関の発明につながっていったと話します。
火薬では無理だった動力を、蒸気で作れると気づいた人物
蒸気機関の直前に登場するのが、オランダの数学者で自然学者のホイヘンスです。土星の輪や衛星タイタンの発見、振り子時計の発明などでも知られる人物です。
ホイヘンスは、汎用的に使える動力を火薬で作れないかと考えました。しかし火薬で動力を作るには連続的に爆発させ続ける必要があり、それがうまくいかなかったといいます。
この実験に助手として参加していたのが、フランスの物理学者で発明家のパパンです。パパンは火薬の実験を見ながら、蒸気ならできるのではないかと思いつきます。
その原理はこうです。液体の水を水蒸気にすると体積が1000倍以上に膨張します。さらに急激に冷やして水に戻すと、膨張していた部分が真空状態になり、また別の動きを生み出せます。
つまり、蒸気で押し上げ、冷やして真空にすることでピストンが戻る。上げて戻るという往復運動が水蒸気で作れる、という発想でした。パパンは重いものを引き上げる実験までおこなっていたそうです。
同じ名前の2人のトマスが作った、2種類の蒸気機関
パパンの実験を知った人物が2人いました。イギリスのトーマス・セイバリと、同じくイギリスのトーマス・ニューコメンです。たまたま同じトーマスというだけで、関係はありません。
この2人が別々に機械を作り上げます。セイバリが作ったのがセイバリ機関、ニューコメンが作ったのがニューコメン機関と呼ばれます。
VHSとベータみたいな。なんかね、2つの。
セイバリは軍事技師でした。当時、製鉄に石炭が使われるようになり、石炭の需要が急増していました。深く掘ると地下水が出てくるため、それをくみ上げる重労働が問題になっていました。
セイバリは、蒸気の力で40メートルほどの深さの水をくみ上げられるのではないかと考え、実際に機械を作ります。これがセイバリ機関で、1698年、17世紀末期のことでした。
ただしセイバリ機関には問題が多く、高圧の水蒸気に金属部分が耐えられず破裂したり、ボイラーが爆発したりしました。実際にくみ上げられる深さも10メートルほどが限度だったといいます。
蒸気機関の「安全性」は、後から付け足された価値だった
深井さんはここで、ボイラーの安全性について脇道にそれた話を紹介します。安全性という価値は、蒸気機関の技術に対して後から付与されたものだというのです。
19世紀のアメリカでは、ボイラーの安全性が問題になり、蒸気船の爆発による事故死も起きていました。しかし安全性の規制を提案しても、実際に導入されるまで30年ほどかかったといいます。
その理由は、規制が非効率で経済的に良くないのではないか、という観点からでした。危険がわかっていても、経済的な理由で安全対策の導入は遅れたわけです。
一方で、一度規制が導入されると、ボイラーに対する価値判断そのものが変わりました。それ以前の水準のボイラーはもはや正常なものとはみなされず、それを使うことは犯罪と見なされるようになったといいます。
樋口さんは、これはいろんな分野でありそうだと応じます。先に物が出てくるが、その危険性を判断できないため、なかなか社会実装されない、という構図です。
科学者ではなく職人が起こした「産業革命」
セイバリからほぼ10年後、トマス・ニューコメンが同じイングランドで独立して登場します。ニューコメンは金物商、つまり金属製品を売る人だったといいます。
深井さんは、産業革命を起こしたのはこういう人たちであり、科学者ではなかったと指摘します。一方で蒸気機関の可能性を最初に示したパパンは科学者でした。
パパンが蒸気機関作れるんじゃないって考えて実験したじゃん。あの実験はすげえ大事だったんだよね。
つまり、科学者パパンの実験があったからこそ、セイバリやニューコメンといった職人が「これで儲かるかも」と考え、実験を繰り返して機械を作れた、という流れです。科学フェーズと技術フェーズの間に時間が空いていた時代でした。
ニューコメンは48歳、1712年に自作の機械をロンドンで披露します。これはセイバリ機関よりも優れていたようです。大気圧を超えない構造で、金属同士の継ぎ目もなかったといいます。
継ぎ目がなかったのは、石炭で製鉄できるようになり鋳鉄技術が向上したおかげであり、ニューコメンが金物商だったこととも関係している可能性があります。ボイラーの破裂もなく、2世紀近くにわたって鉱山の排水に使われました。
ここでやっぱ金属の発達っていうのが関係してくるんですね。
ワットの単位で有名なジェームズ・ワットは何者だったのか
ニューコメン機関には弱点がありました。ピストンの上昇運動と下降運動の速さが違うため、いびつで不安定な動きになり、水汲みぐらいにしか使えなかったのです。
ここで登場するのが、単位のワットで知られるジェームズ・ワットです。1738年、スコットランド生まれで、セイバリもニューコメンもワットも全員イギリス人でした。
ワットの家系は技術者で、父親は船などの修理をする工房をやっていました。しかし経営が悪化したため、ワットはグラスゴーに出て科学機器の製造業者のもとで働き、やがて大学の科学機器製造部門に所属します。
大学の職員になったとはいえ、ワットも科学者ではなく技術者でした。深井さんは、もし父親の経営が悪くならなければワットが蒸気機関を改良することはなく、単位の名前も違っていたかもしれない、と偶然の連なりに触れます。
何が幸運で何が不運かわかんないですね。
散歩中にひらめいた、シリンダーを冷まさなくていい仕組み
ワットは21歳頃から蒸気機関に関心を持っていました。転機が来たのは25歳頃、大学職員として働いていたときにニューコメン機関のモデルの修理を頼まれたことでした。
おーいいね、修理から入るんや。
ワットは修理をしながら、ニューコメン機関が大量の燃料を必要とすることや、上昇運動と下降運動に差があることに気づきます。現場から課題を見つけていくプロセスでした。
ニューコメン機関は、水を熱して蒸気にしてピストンを押し上げ、急激に冷やして真空を作りピストンを下げる、という往復を繰り返します。急激に熱して急激に冷やすため、エネルギー効率がとても悪いという課題がありました。
この課題をどう解決できるか考え続けたワットは、29歳のとき、散歩中にいきなり思いつきます。
いやもう天才のやつやん。
ひらめいたのはシンプルなアイデアでした。ピストン構造の中で冷やすのをやめ、蒸気を別の場所へ逃がしてそこで冷やす、というものです。深井さんは、一言でいうとシリンダー部分を冷まさなくてよくなったということだと説明します。
シリンダーを高温に保ったまま、別の場所で蒸気を冷やして真空を作れる。これにより、上下運動をエネルギー効率よく安定して動かせるようになりました。
同じシリンダー内で熱して冷やすため、急激な加熱と冷却が必要でエネルギー効率が悪い
冷やす場所を別に分けることでシリンダーを高温に保て、効率よく安定して動かせる
上下運動だけでは売れなかった、汎用性を生んだ2つの発明
効率のよい動力を思いついたワットは、これを事業にしようと考えます。しかし蒸気機関を作るには資金がいり、一人ではできません。ビジネスパートナーを探すことになります。
最初のパートナーは別の事業で失敗して破産し、開発が一時中断します。妻を亡くすなどの不幸も重なりましたが、新しい出資者を見つけて蒸気機関を完成させ、特許も取得しました。
ところが、特許を取ったにもかかわらず、まったく売れませんでした。
なんで?
売れなかった理由は、当時のワットの動力が上下運動だけだったからです。使えるところが限られすぎて、汎用性がなかったのです。
そこで必要になったのが、回転運動機関と平行運動機関の発明でした。これらは新しい科学というより、上下運動を回転運動や平行運動に変換する技術的な工夫でした。
回転運動と平行運動ができるようになったことで、上下・左右・回転のすべてに対応できるようになりました。汎用性が一気に高まり、蒸気機関はここから爆発的に売れていきます。
最初に売れたのは織物業や綿工業でした。糸を紡ぐ回転運動やシャツを作る平行運動に使われ、製粉工場などの製造業でも利用されました。
馬力もワットも、実はジェームズ・ワットが作った単位
汎用動力が広く使われるようになると、その強さを示す単位が必要になります。それまで動力といえば人間や馬の力だったため、馬力という言葉が生まれました。
この馬力という単位を作ったのも、実はワットでした。さらに、仕事量の単位であるワットも後に加わっていきます。
馬は重要な動力源だったので。
楊さんは、鉄道と蒸気船に使われることで蒸気機関のパフォーマンスが最大限に発揮されるようになった、と書かれた本もあると紹介します。次はその蒸気機関車の話に移ります。
重すぎて道がぐちゃぐちゃ、蒸気機関車が抱えた課題
蒸気機関ができた時点で、多くの人が最終的にはこれで移動できると考えていました。イメージはできていたものの、実現には多くの課題がありました。
最初にイギリスのトレビシックが蒸気四輪車を作ります。トロッコのようなものに蒸気機関をつけたものですが、鉄の塊に鉄の塊を乗せたため非常に重く、舗装されていない道はぐちゃぐちゃになってしまいました。燃費も悪く、速度も遅かったといいます。
道路の技術とかインフラを作る技術とか、いろんな技術がネットワークされてる状態じゃないと、この技術が生かせない。
楊さんは、重い車が普通に道路を走るには、車の技術だけでなく道路を作る技術など、さまざまな技術が組み合わさっている必要があると指摘します。
道路を作るのが難しかったため、重いものを簡単に動かす方法として考えられたのがレールでした。レールがあれば重い物を動かしやすい、という発想です。
ベッセマー製鉄法がなければ鉄道は実現しなかった
別の人物がレールを作り、その上で走らせてみると成功しました。しかし、このレールが作れるようになるには前提が必要でした。
その前提が、前回登場したベッセマー製鉄法です。鉄を大量に安価に作れなければ、レールを大量に敷くことはできませんでした。
鉄が高価なままなら、鉄でそんなことはできないと止まっていたはずでした。安く大量に鉄を作れたからこそ、行きたいところまで線路をつなぐという発想が現実になったのです。
樋口さんは、現実味がないと人間は発想できないという点を面白がります。動いているものを見ているからこそ、それを応用したアイデアが浮かぶ、という指摘です。
累積的に技術が積み重なっていってる状態の中で、新しい技術であったり、技術の新しい使い方であったり、そういうものが生まれていく。
時速24kmでも「新しい時代」を感じさせた鉄道の父
レールを敷けばよいというところまで来たあと、登場するのがジョージ・スティーブンソンです。鉄道の父と呼ばれる人物で、貨物と人の両用の機関車を設計しました。
スティーブンソンは実際にイングランド北部で公共鉄道を開通させます。ストックトンとダーリントンの間を結び、石炭を運ぶために使われました。実用レベルに到達したのです。
鉄道が人の移動にも使えると考えられ、リバプール近辺で鉄道を通す話が持ち上がります。どの列車を走らせるかはコンペティションで決められました。
そこでスティーブンソンのロケット号が、リバプールとレインヒルの間の競争で時速24キロを超えて優勝しました。今の感覚では遅く感じますが、当時はそれでもすごいことでした。
人間が走ったらそんぐらいちゃう。
それでも物も人も運べるうえ、スティーブンソンの鉄道はエネルギー効率が良かったといいます。馬の力を使わずに人が移動するという事実が、新しい時代の到来を強く感じさせました。
これはスティーブンソン自身が鉄道の将来について語った言葉です。郵便も鉄道で動くようになり、歩くより鉄道で旅行する方が安くなる時代が近づいている、という予言はおおむね当たっていました。
鉄道が起こした交通革命と、通販・大企業の誕生
深井さんは、当時の人たちが感じた感動を体験してみたいと語ります。生き物がいないのに動くという光景は、VRを初めて体験したときの3倍ほどの衝撃だったのではないか、と表現します。
鉄道は1830年ごろから一気に広がり、イギリスからヨーロッパ、アメリカへと広まりました。そして1830年代に交通革命を起こします。
鉄道によって大量の人間が移動できるようになり、物資も短期間で大量に送れるようになりました。その結果、通販事業やカタログ販売も可能になったといいます。
マーケットが一気に広がったことで大企業が生まれるなど、あらゆる影響が出てきました。深井さんは、この影響については次回さらに詳しく話すと予告します。
個別の移動を変えた内燃機関、電気や水素の車もすでにあった
鉄道は大量輸送を変えましたが、個別の交通手段ではありませんでした。人類は個別の移動には引き続き徒歩や馬などを使っていたのです。ここに革命を起こすのが内燃機関のエンジンでした。
巨大なボイラーを小さくして個別の自動車を作りたいという欲求は、鉄道が動いている時点ですでにありました。持ち運べるくらい小さくできれば革命的だと考えられていたのです。
1863年、ベルギーの発明家ルノワールが世界初の内燃機関を作ります。それ以前にはフランスのキュニョーが蒸気機関の車を時速3.2キロで動かしていましたが、歩くほうが早いほどの速度でした。
ルノワールは内燃機関を使ってパリから11キロほど走らせました。この時点で電気自動車や水素自動車を作ろうとした人もいましたが、いずれも実現しませんでした。アイデアはあったものの、個別の移動には内燃機関が最も適していたわけです。
開発競争を制したベンツと、大量生産で価格を変えたフォード
その後、自動車の開発競争が起こります。ダイムラーなど多くの人が挑む中、ほとんど差がない僅差で勝ったのが、ドイツ人エンジニアのカール・ベンツでした。メルセデス・ベンツのベンツです。
ベンツは4ストロークエンジンで特許を取り、世界初の3輪自動車を作ります。妻のベルタが往復194キロをこの車で走ったといい、実用に耐えるレベルに到達していました。1886年のことでした。
自動車には道路もガソリンスタンドも必要で、鉄道よりハードルが高いものでした。それでも見せつけたい裕福な人は買いました。ただし1886年から1893年までの7年間で売れたのは69台にとどまりました。
その後は伸びていきます。1900年代までには1709台、1906年までには35000台と、どんどん台数を伸ばしていきました。それでも当時のベンツは高価な車でした。
ターニングポイントとなったのが、1908年に生産が始まったアメリカのT型フォードです。ベルトコンベアを使ったライン生産方式という大量生産方式で、価格を一気に引き下げました。
当時の自動車が2000ドル前後だったのに対し、フォードは850ドルでした。半額以下です。これによって、今まで手が届かなかった人でも買えるようになりました。
生産ラインを徹底的に合理化し、安価に提供。一度買えば永久に使える道具としての自動車という思想
ファッションとしての自動車。グレードを分け、モデルチェンジや最新デザインで買い替え需要を作り出した
大量生産が生んだマーケティング、そして20億個のエンジン
1920年代に入ると、フォードの販売台数は毎年100万台にのぼり、アメリカ人の10人に1人が持つ状態になっていきました。
楊さんは、大量生産技術と対をなすように発達した技術としてマーケティングを挙げます。大量に作れるようになった以上、それを捌く必要が生まれたからです。
その象徴が、フォードとゼネラルモーターズ(GM)の競争でした。フォードは安価な道具としての自動車を志向しましたが、GMはファッションとしての自動車という戦略を取りました。
どうすれば一人の人に何度も何度も車を交わすことができるのか。
GMは自動車をいくつかのグレードに分け、高級車から大衆車まで用意しました。安いクラスを買った人が、より高いクラスに目を向ける心理を利用し、モデルチェンジや最新デザインで買い替え需要を生み出したのです。
楊さんによれば、1930年にはGMがフォードを抜いて自動車産業のシェアのトップになったと書かれた本もあるといいます。買い替え需要を作るマーケティングは今も使われている手法です。
人間が本来必要とするレベルの以上の欲っていうのを刺激する技術。
楊さんは、行動を解析して最適な広告を出すインターネットやSNSの手法の走りが、自動車業界にあったかもしれないと指摘します。作る側が発達すれば売る側も発達する、という連鎖です。
内燃機関が自動車として広がったことで、舗装された道路やドライブスルー、郊外の店舗といった生活様式全体が変わりました。内燃機関は自動車に限らず、芝刈り機やコンテナ船などあらゆるものに使われています。
深井さんによると、今や世界には約20億個のエンジンがあり、そのうち14億個は自動車、残り6億個はそれ以外に使われているといいます。それだけ普及した技術が汎用動力でした。
今回は汎用動力が出てきた経緯を中心に語られました。深井さんは、次回はこの汎用動力をメインとした産業革命の影響について話すと予告します。
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まとめ
蒸気機関から内燃機関までの汎用動力は、科学者の発見を職人が実用化し、金属加工や道路・レールといった他の技術と組み合わさることで、地道な改善の積み重ねとして発展してきました。動力の変化は交通、産業、そしてマーケティングまで、社会全体を作り変えていきました。
- 蒸気機関はパパンの原理をセイバリとニューコメンが実用化し、ワットが効率を大きく改善した
- 上下運動だけでは売れず、回転・平行運動への変換で汎用性が生まれ爆発的に普及した
- 鉄道の実現にはベッセマー製鉄法による安価なレールが不可欠で、技術は相互に依存している
- 内燃機関の自動車はベンツが実用化し、フォードの大量生産とGMのマーケティングが普及を加速させた
- 技術は天才の閃きだけでなく、累積的な改善と技術同士のネットワークによって社会を変える




