鹿児島へ戻った西郷軍は、なぜまだ戦えたのか?
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死を覚悟していた西郷隆盛は、政府軍の包囲を突破して鹿児島まで帰ってきます。深井さんは、全員が命をかけすぎていたからこそ、ここまでたどり着けたのだろうと話します。
楊さんによると、鹿児島市内に突入した時の西郷軍は372名で、そのうち銃を持っていたのは150名ほどにすぎません。それでも西郷軍は、占拠されていた鹿児島市内の中心部だけを取り戻しました。
まだ戦う気力があるのすげえな。
西郷隆盛にとっては7ヶ月ぶりの帰還でした。この時、西郷軍は政府軍や県庁の役人に暴力をふるったり、病院を略奪したりもしています。
西郷軍はわずかな兵力を私学校、県庁、照国神社、城山などに配置して堀を築きました。岩崎谷には弾薬製造所を設け、民家から金属製の壺や活字の類まで集めて弾丸を作ったといいます。
政府軍の砲撃を避けるため、西郷隆盛は洞窟に身を落ち着けました。楊さんによると、この洞窟は今も残っていて、名跡になっています。
助命嘆願と「回答の必要なし」
政府軍が陸路と海路から援軍を得て盛り返してくると、西郷軍の中から西郷隆盛の命を救うための助命嘆願をしたいという人たちが現れます。西郷隆盛はこれを黙認しました。深井さんは、どうにもならないと思っていたのか、生き延びてまた何かしようと思っていたのかはわからないと話しています。
軍使2名は政府軍の防衛線に入り、翌日、海軍中将の川村純義 ── 薩摩出身の海軍軍人。明治海軍の創設に関わり、のちに海軍卿も務めましたと面会します。軍使たちは、自分たちが兵を起こしたのは西郷暗殺を企てた者の罪を問うためだったと訴え、政府が追討する趣旨を尋ねました。
西郷隆盛の親戚でもある川村純義は、暗殺計画が事実なら、相手が内務卿の大久保でも大警視の川路でも告訴する道があるはずだと答えます。捕まえた中原の口述だけを信じて武力に訴えること自体が、根本的に間違っているという指摘です。
やっぱ(法で訴える道に)思いが至らないっていうのは、鹿児島が旧体制の、封建時代を引きずってるからだよね、この時代に。
鹿児島だけ江戸時代みたいになっちゃったんだよ。
一番活躍したのにね、明治維新で。
川村純義は、以前に自分と西郷隆盛との面会を私学校が阻止したことが戦争の原因だと告げます。そのうえで、命乞いは今となっては遅いとし、翌朝4時に総攻撃をかけるので、言いたいことがあれば今日の午後5時までに回答するよう伝えました。
軍使は、西郷隆盛の息子である菊次郎が生きているという情報も持ち帰ります。しかし西郷隆盛の返事は「回答の必要なし」だけでした。
これ(回答の必要なし)もうだから総攻撃を受け入れます。
西郷隆盛は使者2人について、法廷で自分たちの正義を語ってくれるはずだと送り出しています。そのうえで、城を枕に決戦するので後世に恥を残さないよう覚悟せよと、決死の覚悟を示しました。
助命嘆願
西郷隆盛の黙認のもと、軍使2名が政府軍へ向かう
川村純義との面会
挙兵は法ではなく武力に訴えた点で誤りだと指摘される
最後通告
翌朝4時の総攻撃と、午後5時までの回答期限が示される
回答の必要なし
西郷隆盛は何も求めず、決死の覚悟を示す
山県有朋が送った「自決を願う手紙」
総攻撃の直前、山県有朋から書状が届きます。内容は、西郷隆盛が自決すれば何人かの命が助かるので、総攻撃の前に自ら最期を遂げてほしいというものでした。
楊さんによると、この山県有朋の手紙は名文とされ、新聞記者に書かせたという説もあります。手紙には、西郷隆盛に謀反の心はなく、挙兵に名分も勝機もないことは本人もわかっているはずだと書かれていました。
さらに手紙は、西郷隆盛が育てた血気盛んな若者たちを制御できなくなり、故郷の旧友に義理堅い西郷隆盛が一身を犠牲にしようとしているのだと、その苦悩を思いやります。
楊さんが注目するのは、西郷隆盛の心の奥底を理解できる者は自分を含めて誰一人いないだろう、という一節です。楊さんは、山県有朋が西郷隆盛の孤独な気持ちに思いを致していると受け止めています。
ただ深井さんによると、この手紙はおそらく西郷隆盛に届かなかったようです。深井さんは、届いていたら自決していたかもしれないとしつつ、400人弱の兵は結局全員が死ぬまで戦った気もすると話しています。
決別の宴から城山総攻撃へ
総攻撃の前夜、西郷隆盛たちは盛大に決別の宴を開きます。琵琶が奏でられ、村田新八はアコーディオンを演奏しました。政府軍もこの晩は発砲をやめ、花火を打ち上げて演奏を行ったといいます。
(宴は死の恐怖を)誤魔化すためなのか、最後の思い出になるためにやるのか。
最後の思い出なんだろうね。
しかし宴を閉じた幹部たちが守備位置に戻る午前1時頃には、政府軍はひそかに薩摩軍の陣地に迫っていました。午前3時55分、3発の号砲を合図に総攻撃が始まります。
兵力は5万対300でした。実際に戦闘に加わったのは1500名余りの攻撃隊で、大半の兵士は薩摩軍の兵が一人も脱出しないよう周囲を見張っていたといいます。
戦闘のどさくさで島津久光の邸宅が焼けてしまいます。深井さんによると、西郷隆盛が討たれたことを喜んでいた島津久光も、自分の家を焼かれたことには山県有朋らに抗議したそうです。
「もうここらでよか」西郷隆盛の最期とは?
午前6時までに、薩摩軍は殺されるか、敗走するか、降伏していきます。西郷隆盛は桐野利秋や村田新八ら40名の将士を整列させ、突進させました。
弾丸の雨の中で、西郷隆盛は腹と股に銃撃を受け、路上に倒れて歩けなくなります。深井さんによると、ここから先にはいくつかの説があります。
通説では、そばにいた辺見十郎太が自決を促したものの、西郷隆盛は「まだまだ」と前進を続けました。再び被弾したところで別府晋介に「晋どん、もうこの辺でよか」と言い、介錯されて亡くなったとされます。
一方、当時の新聞は目撃談として、ひざまずいた西郷隆盛の首を桐野利秋がはねたと伝えています。深井さんは、真実はよくわからないものの、敵に捕らえられることを恐れた別府か桐野がとどめを刺したのだろうと話しています。
別府晋介に「もうこの辺でよか」と言い、介錯される
目撃談として、桐野利秋が首をはねたと伝える
西郷隆盛は51歳で生涯を閉じました。深井さんは、ほかの私学校の幹部たちの壮絶な最期も紹介します。
村田新八は西郷隆盛の死を悲嘆し、立ったまま腹を切って亡くなりました。別府晋介は、辺見十郎太と刺し違えて亡くなったとされます。
桐野利秋は堡塁の上から敵兵を狙い撃ちし、接近した兵を斬り倒して銃を構えた瞬間、至近距離から撃たれて亡くなりました。こうして西南戦争は終結します。
山県有朋は西郷隆盛の首に何を語ったか?
政府軍の将校は、薩摩軍幹部の遺体の見分に次々と訪れます。首のない胴体でしたが、巨体や右腕の傷などから西郷隆盛だと確認され、午前9時頃には首も見つかって本営に届けられました。
山県有朋は西郷隆盛の首を丁重に捧げ、「私のことをあなたほどよく知っている人はおらず、私ほどあなたのことを知っている人はいない」という意味の言葉をつぶやいたといいます。
山県有朋そんな仲良かったかなとは思ったけど、なんか文章のうまい人だなって思いますね。
もしかして我々が把握してないエピソードがこの二人の間にはあるかもしれないですね。
深井さんは、高杉晋作も美しい言葉を残していたと振り返り、楊さんは「松陰チルドレンのたしなみかな」と応じています。
山県有朋は西郷隆盛の首の目や口の中を見て、容貌は平常と少しも変わらず、髭は1日か2日前に剃られたようだと語りました。涙を流しながら髭をなで、かつて西郷隆盛の恩顧を受けたこと、方向を誤ってこの境遇に陥ったことが遺憾でならないと泣いたといいます。
400名弱の薩摩兵のうち159名が死亡し、200名ほどは降伏しました。ただし、傷病兵や投降兵が政府軍に虐殺され、遺体から衣類が剥ぎ取られた様子も記録されています。
南州墓地と勝海舟の歌
西郷隆盛以下、薩摩軍幹部の遺体は丁重に葬られました。楊さんによると、現在の鹿児島の南州墓地では中央に西郷隆盛の墓があり、それを守るように桐野利秋や村田新八らの墓が建てられています。
墓地の北側にある南州神社には、勝海舟 ── 幕臣として江戸無血開城の交渉にあたった人物。新政府軍を率いた西郷隆盛と会談し、江戸での全面衝突を回避しましたの歌を刻んだ歌碑があります。
歌は「濡れ衣を干そうともせず子供らがなすがまにまに果てし君かな」です。濡れ衣を晴らそうともせず、私学校の学生たちに担ぎ出されて賊臣として命を落とした西郷隆盛が気の毒でならない、という意味だと紹介されています。
江戸無血開城で西郷隆盛と濃いやりとりをした勝海舟が、西郷隆盛を思い出して残した歌です。樋口さんは、西郷隆盛がそれだけ惜しまれていたのだと受け止めています。
朝敵から国民的英雄へ、西郷隆盛の再評価
朝敵とされた西郷隆盛は、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う特赦で賊としての扱いを解かれ、正三位 ── 朝廷が与える位階の1つ。上から数えて5番目にあたる高い位で、死後に贈られることもありますを追贈されます。
明治31年(1898年)には、上野に着流しで犬を連れた銅像が建てられました。当初は馬上の軍服姿が予定されていましたが、反逆者だったことから平和な姿の像になったといいます。
上野の西郷隆盛像のお披露目では、西郷隆盛の妻が「うちの人でなか」と、全然似ていないと声を上げたという逸話も残っています。
どんな顔だったんだよ。知りたい。
その後、勝海舟、中江兆民、内村鑑三らが西郷隆盛を持ち上げ、歴史家も忠君愛国の士として描きます。日露戦争の時代には、征韓論を唱えた大陸進出の先駆者という側面が大きく喧伝されました。
楊さんは、現代の西郷隆盛人気には司馬遼太郎さんの影響が大きいと指摘します。明治維新100年の1968年前後、司馬遼太郎さんの歴史小説に勇気づけられた人々が明治維新を賛美し、西郷隆盛もヒーロー化されたといいます。深井さんは「あくまで小説なんですけどね」と添えています。
大久保利通は戦後処理に何を考えていたか?
話は大久保利通の最期へ移ります。大久保利通は西南戦争の最中から、戦況を見ながら戦後処理を考えていました。
楊さんによると、大久保利通は熊本と鹿児島の政治を立て直す人事を部下に指示し、熊本の被災者救援のための特別な支出を大蔵卿の大隈重信に何度も求めました。救援しなければ民心を収めることはできない、という考えからです。
一方で、鹿児島への支援について大久保利通はジレンマを抱えていました。鹿児島出身の自分が故郷を特別扱いしていると見られることを、公僕として警戒していたのです。
大久保利通は部下に、自分の処置のバランスが欠けていれば遠慮なく指摘してほしいと伝えています。また西郷軍の兵士の裁判では、伊藤博文とともに拷問による取り調べをやめるよう求めました。
西南戦争直後に開かれた内国勧業博覧会
西南戦争の終結直後、大久保利通は東京の上野公園で内国勧業博覧会 ── 明治政府が国内産業の振興を目的に開いた博覧会。第1回は1877年に上野で開催され、以後も回を重ねましたを開きます。国産奨励と輸出振興を目指し、ウィーン万博に学んだ国家的イベントでした。
8月31日に開会し11月30日に閉会したこの博覧会は、日本で最初の本格的な博覧会とされ、出品点数8万4353、入場者数45万4000人という大成功を収めました。
楊さんによると、大久保利通は博覧会を、国内の隅々から人や物、知識を集める場として設計しました。国が支援するに値する商品を選び、出品者同士が学び合う場をつくり、内戦による国家の分断を克服しようとしたのではないかと考察されています。
西南戦争直後で九州の被害も癒えていないことから、博覧会の延期も議論されました。それでも大久保利通は開催を決行しています。
めちゃくちゃ考えてちゃんと動いてるって感じだよね。
暗殺当日の朝に大久保利通が語った「30年構想」
近代化に尽力した大久保利通は、西南戦争の翌年に暗殺されます。暗殺当日の朝6時、大久保利通は訪ねてきた福島県令と話をしていました。
大久保利通は、明治元年からの10年は兵事が多い創業の時代であり、次の10年は内治を整え民産を興す建設の時代で、自分が尽くすべき仕事だと語ります。さらにその先の10年は、優秀な後輩が明治の日本を発展させてくれるだろうと話しました。
うわぁ、これ(次の10年)見たかったろうなぁ。
楊さんは、大久保利通が藩という枠組みから人々を解き放ち、統一国家の構成員にする道筋をつけることを自らの政治的使命としていたと説明します。国民国家をつくるという思いが大久保利通の中にあったといいます。
紀尾井坂の変と会津からの反応
同じ日の午前8時頃、大久保利通は馬車で出勤する途中、現在の清水谷公園付近で、石川県士族の島田一郎ら6名の征韓派士族に襲われます。刀傷は頭部に集中し、手や腕の傷は素手で懸命に防いだ跡とみられています。大久保利通は49歳でした。
楊さんによると、大久保利通は西南戦争中、部下からリンカーンを引き合いに出した忠告を受けていました。南北戦争の直後に暗殺されたリンカーンと重ね、警備を厳重にしてほしいというものでしたが、歴史はそのとおりになってしまいます。
駆けつけた人は、骨が砕け、頭蓋骨が裂けた無残な現場を前に、怒りのあまり涙も出なかったと伝えています。
深井さんは、会津出身の柴五郎が大久保利通暗殺の報を聞いて残した言葉を紹介します。会津を血祭りにあげた元凶であり、国家の重臣であっても許すことはできないとし、西郷隆盛と大久保利通の非業の最期を当然の帰結として喜んだという内容です。
でも大久保さんは大久保さんで頑張ってましたよね。
楊さんによると、青山霊園の大久保利通の墓には、暗殺時に馬車の御者をしていた中村太郎と、殺された馬の墓も寄り添うように建っています。こうして維新の三傑が全員亡くなり、時代は以前扱った日露戦争編へとつながっていきます。
樋口さんが感じた「全員がかっこいい」という感謝
本編を終え、深井さんは「もうこの辺でよかです」と西郷隆盛の最期の言葉をもじって締めます。収録は朝9時から深夜2時まで続いていました。
エンディングで樋口さんがまず挙げたのは、江戸無血開城での勝海舟と西郷隆盛のやりとりです。あの場面で日本の行く末が決まっていたところが面白かったと振り返ります。
出てくる人たち、いろんな思いでいろんなことやってるけど、全部やっぱかっこいいなと思っちゃって。
この人たち全員が今の日本につながってるんやなって思ったんですよね。
樋口さんは特に大久保利通に「本当に頑張ってくれた」という思いを抱いたと話します。深井さんも、シリーズを通して大久保利通は過小評価されすぎだと感じたといいます。
深井さんは、大久保利通は責任感も能力もすごく、特に後半は西郷隆盛よりだいぶ深く考えていたと評価します。
理想の上司かと問われた樋口さんは、西郷隆盛は筋が通っていて毅然としているものの、メンタルが不安定なところは上司として不安だと答えます。自身も上司としてメンタルの不安定さで部下を振り回した経験があるからだといいます。
樋口さんは、西郷隆盛がずっと隠居したいのに時代に駆り出されている印象があったと話し、深井さんも「お役目感」があり、島津久光や私学校の生徒たちとの人間関係に苦しんでいたと応じます。
苦しみの物語としての西郷隆盛
これ(西郷隆盛編)はやっぱ苦しみの物語ですね。
楊さんは、この時代の転換点では西郷隆盛だけでなく多くの人の苦しみが物語として残ってきたと話します。かつては偉人を美化して憧れる読み方をしていたものの、人々の状況や気持ちを細かく見ていくと、簡単には美化できないと感じたといいます。
自分のモチベーションを上げるため、偉人を美化して憧れる
状況や気持ちを細かく見て、簡単には美化できないと感じる
楊さんは、西南戦争の前年に西郷隆盛が霧島で書いたとされる漢詩「失題」を紹介します。子が母を慕うように主君を思う心をどこへ向ければよいのか、昨日まで温情をかけてくれた人が今日はつれない、という内容です。
楊さんは、この漢詩が島津久光にわかってもらえない西郷隆盛の苦しみを歌ったものではないかと考えています。
(西郷さんは久光に)わかってほしかったのかも。
深井さんは、長州の人々、薩摩の人々、会津の人々と、全員の人生が切なかったと振り返ります。楊さんは、激動の時代には丁寧なコミュニケーションの余裕もなく、身分やしがらみからすぐにモードを変えられない人々が引き裂かれていったのだと話します。
全員死ぬ気で本気で生きてるから切ないっていうのもめっちゃあったな。
適当にやってたら「はい、もう仲良くしとこう」で終われるけど、そうはできないんですよね。
情報の非対称性は、なぜ罪深いのか?
深井さんがシリーズ全体を通して感じたのは、情報の非対称性の深刻さです。私学校の暴発も、薩摩にいれば妥当な意見に聞こえていただろうと話します。
樋口さんは、これをプロパガンダとエコーチェンバーの話だと整理します。深井さんは、大久保利通が私利私欲を満たしていないのにそう見なされて恨まれたことも、政治家に限らず起こりうると話します。
深井さんは、大久保利通を殺したのが元会津藩士なら納得感があるものの、実際は石川県の征韓論者だったと指摘します。
ただし、全員が同じ情報を得るのは難しいと深井さんは続けます。大久保利通が征韓論に反対したのも、海外に行けたからでした。樋口さんは、当時は学べるリソースが人によって違いすぎ、構造的な差があったと応じます。
深井さんは、もう少しコミュニケーションすることも大事だったと感じています。大久保利通も西郷隆盛も手紙を書けばよかった場面があり、樋口さんも、互いの勘違いで戦うことになった場面があったと振り返ります。
「うまくやる」より意志を貫くこと
深井さんは起業家としての視点から、徳川慶喜と西郷隆盛たちの違いを強く感じたといいます。深井さんは徳川慶喜を「めちゃくちゃ優秀な意思のないやつ」と表現します。
深井さんは、うまく生きることは意味がないと考えて生きていると前置きし、これは自分のパーソナリティによる個人的な見方だと強調します。そのうえで、激動の時代にうまくやろうとした人と、非合理でも意志を貫いた人とで分岐していたのがわかりやすかったと話します。
徳川慶喜のように優秀でも、激動の時代には意味をなさない
非合理的でも、その思いが世の中を動かしていく
深井さんは、幕末と現代を安易に重ねたくないとしつつ、技術の発展でこれからいろいろなことが起こると見ています。
深井さんは、これはバイアスのかかった個人の学びであり、みんなにこう思ってほしいわけではないと繰り返しています。また、西郷隆盛の緩やかに死にたいという気持ちにも共感したといいます。
システムを作る実務家が恨まれる構造
樋口さんが切ないと感じたのは、動乱の時代に大きくシステムを変えたり作ったりした実務家が恨まれる構造です。
樋口さんの説明では、システムを変えると得する人と損する人が必ず出てきます。得する人は何も言わず、損する人はシステムを作った人が悪いと考えるため、実務家は必ず恨まれるといいます。
だからシステム作る実務やる人って絶対悪(役を)食うなっていうのが分かりました、今回。
樋口さんは、文句を言わないことが正しいとは思わないとしつつ、判断する前に実務家の苦労を想像するひと呼吸を挟みたいと話します。深井さんは、解像度が低いときほど想像と偏見で語ってしまうと応じます。
解像度が低いってマジ罪なんだよな。
樋口さんは、コテンラジオは解像度を上げる活動をしていると話し、今回のシリーズで幕末の解像度は上がったと締めくくります。
西郷隆盛編の参考書籍
最後に深井さんは、シリーズでお世話になった3冊の書籍を紹介します。
- 家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』ミネルヴァ書房
- 磯田道史『素顔の西郷隆盛』新潮新書
- 瀧井一博『大久保利通 知を結ぶ指導者』新潮選書
家近良樹さんの本は500ページ以上あり、非常に詳しく書かれているそうです。磯田道史さんの『素顔の西郷隆盛』は、深井さんにとって一番読みやすかったといいます。
深井さんは、コテンラジオを支えるCOTEN CREWの制度も紹介しています。月1000円以上で参加でき、すでに1万2000人以上がクルーになっているとのことです。
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まとめ
西郷隆盛編の最終回では、城山での西郷隆盛の最期と、その翌年に暗殺された大久保利通の姿を通して、明治維新を担った人々の本気と苦しみが描かれました。振り返りでは、出演者それぞれが切なさや情報の非対称性、生き方についての学びを語っています。
- 西郷隆盛は300人ほどで5万の政府軍に囲まれ、「もうこの辺でよか」と言って介錯されたとされる
- 死後、西郷隆盛は特赦や銅像、司馬遼太郎さんの小説などを経て国民的英雄になっていった
- 大久保利通は戦後処理や博覧会で国家の立て直しを進めたが、その先の10年を見ることなく暗殺された
- 出演者は、全員が本気だったからこその切なさと、知らないことの罪深さを語った
- システムを作る実務家は構造的に恨まれやすく、判断の前にその苦労を想像することが大切だと話された




