西郷隆盛、最期の七日間 ── 鹿児島帰還から城山での死、そして名誉回復まで
深井龍之介、樋口聖典、楊睿之の3人が幕末史を語る歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)。西郷隆盛編の最終回となる今回は、鹿児島への帰還、城山での最期の宴、介錯による死、そして大久保利通の暗殺までを扱います。激動の時代を生きた人々の苦悩と、情報の非対称性がもたらした悲劇を丁寧に追います。その内容をまとめます。
鹿児島への帰還と最後の抵抗
西南戦争で熊本城攻略に失敗し、各地を転戦してきた西郷隆盛率いる西郷軍は、政府軍の包囲網を突破して鹿児島に帰還します。7ヶ月ぶりの帰郷でした。
この時点で西郷軍の戦力は372名、うち銃を持っていたのはわずか150名ほど。政府軍に占領されていた鹿児島市内の中心部だけを取り戻し、市学校、県庁、照国神社、城山などに兵を配置します。民家から金属製の壺や活版印刷の活字までかき集めて弾丸を製造し、まだ戦う姿勢を見せました。
政府軍も援軍が到着し、陸路と海路から薩摩軍を包囲。この段階で、西郷の助命嘆願が政府軍の一部から出始めます。西郷はこれを黙認しますが、自ら命乞いをすることはありませんでした。
決別の宴と総攻撃前夜
政府軍の総攻撃が翌朝4時と決まった前夜、西郷軍は決別の宴を盛大に開きます。琵琶が奏でられ、村田新八がアコーディオンを演奏し、政府軍も砲撃をやめて花火を打ち上げました。敵味方を超えた、死を前にした静かな別れの時間でした。
これはやっぱ苦しみの物語ですね。西郷だけの苦しみじゃなくて、いろんな人の苦しみが、やっぱこの時代の転換点において、すごく物語として残ってきた。
宴が閉じ、幹部が守備位置に戻った午前1時頃、政府軍はすでに薩摩軍の陣地に密かに接近していました。そして午前3時55分、3発の号砲を合図に総攻撃が開始されます。5万対300の戦い。実際に攻撃に参加したのは1500名ほどでしたが、残りの兵士は薩摩軍が脱出しないよう包囲を固めました。
西郷隆盛の最期 ── 「もうここらでよか」
2時間の戦闘の末、薩摩軍は殺戮されるか降伏するかの状況に追い込まれます。西郷隆盛は桐野利秋、村田新八ら40名とともに突進を試みますが、腹部と股に銃撃を受けて路上に倒れました。
傍らにいた辺見重郎太が自決を促しますが、西郷は「まだまだ」と前進を続けます。再び被弾し、動けなくなったところで、別府晋介に対して「もうこの辺でよか「もうこのあたりでよいだろう」という薩摩弁。西郷隆盛の最期の言葉として伝えられている。」と告げ、介錯されて死亡しました。51歳でした。
他の幹部たちも壮絶な最期を遂げます。村田新八は立ったまま腹を切って死亡。別府晋介は辺見重郎太と差し違えて死亡。桐野利秋は大塁の上に立って敵兵を狙い撃ちしていましたが、至近距離から撃たれて顔面が破裂し、一つの目は上を向き、もう一つは下を向いた凄まじい形相で倒れました。
西郷の死後 ── 名誉回復と国民的英雄化
政府軍の将校たちが薩摩軍幹部の遺体を確認に訪れます。西郷の首のない胴体は、その巨体、右腕の傷、皮膚病、寄生虫で肥大化した睾丸から本人と確認されました。午前9時頃、胴体の近くで首も発見され、山縣有朋に届けられます。
山縣有朋は西郷の首を丁重に捧げ、「世を知る沖永にしくはなく、沖永を知る世にしくはない「私のことをあなたほどよく知っている人はおらず、私ほどあなたのことを知っている人はいない」という意味。山縣有朋が西郷隆盛の首と対面した際につぶやいた言葉。」とつぶやきました。私のことをあなたほどよく知っている人はおらず、私ほどあなたのことを知っている人はいないという意味です。山縣は涙を流しながら西郷の髭を撫で、「不幸にして方向を誤り、今日の悲しい境遇に陥ったのは誠に遺憾に堪えない」と語りました。
西郷隆盛は当初、朝敵(天皇に反逆した賊)として扱われましたが、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う特赦により賊としての扱いが取り除かれ、正三位が追贈されます。明治31年(1898年)には上野に着流しで犬を連れた庶民的な姿の銅像が建てられました。当初は馬上の軍服姿が予定されていましたが、反逆者だったことを考慮し、平和な姿に変更されたのです。
お披露目された瞬間にね、西郷さんの妻の糸さんが大声でね、「全然似てない。うちの人でなか(違う)」って言ったっていう。
勝海舟、中江兆民、内村鑑三といった著名人たちが西郷を持ち上げ、歴史家も西郷を忠君愛国の士、国家のために命を捧げる尚武の鑑として描きました。明治30〜40年代には、大陸への雄飛を求めた先駆者としての側面が大々的に喧伝され、日露戦争の時代に征韓論を主張した彼が再評価されました。こうして西郷隆盛は、戦前戦後を通じて最も人気のある歴史上の人物となったのです。
大久保利通の戦後構想と暗殺
西南戦争が続く間、大久保利通はすでに戦後処理を考えていました。部下に熊本と鹿児島の復興のための人事取りまとめを指示し、大蔵卿の大隈重信に被災者救援のための特別な支出を求めます。「民心を収集するためには適切な救援が必要だ」と何度も要請し、結果的に被災した住民は適切な保護と豊富な食料を得ることができました。
一方、鹿児島への支援については、故郷を特別扱いしているという声が上がることを警戒し、部下に「私の処置がバランスを欠いているようだったら遠慮なく指摘してほしい」と伝えています。また、西郷軍参加者を裁判にかける際、拷問による取り調べをやめるよう伊藤博文とともに求めました。
西南戦争終結直後の明治11年8月、大久保は東京・上野公園で博覧会を開催します。出品点数84,353点、入場者数45万4千人という大成功を収めたこの博覧会は、産業促進のネットワークを構築し、内戦による国家分断を克服する狙いがありました。国内の隅々から人・物・知識を集結させ、国がサポートすべき商品や技術を選別し、お互いが学び合う場として設計されたのです。
そして明治11年5月14日、大久保利通は暗殺されます。この日の朝6時、福島県令の山吉盛則が訪ねてきた際、大久保は次のように語っていました。
この日の午前8時頃、大久保は馬車で出勤中、赤坂見附から徒歩3分ほどの清水谷(現在の清水谷公園)で、石川県士族の島田一郎ら6名の征韓派士族に襲われ、滅多刺しにされて死亡しました。享年49歳。
傷は頭部に集中しており、犯人の殺意と憎悪の激しさを物語っています。手や腕に負った傷は、懸命に素手で防戦した証でした。救護に駆けつけた者は、「返上の痕跡は惨美を極めた。私は茫然自失し、立ち尽くすこと数分。まなじりが裂けるほどの怒りに襲われ、かえって涙も出なかった。肉が飛び、骨は砕け、また頭蓋骨が裂けて、脳がまだピクピク動いているのを見た」と記録しています。
皮肉なことに、西南戦争の最中、大久保の部下はリンカーンを引き合いに出して警備の強化を進言していました。「リンカーンも南北戦争という内戦の直後に暗殺された。大久保さんも警備を厳重にしましょう」と。歴史は部下の不吉な予感の通りになったのです。
幕末を振り返る ── 切なさと情報格差の罪深さ
維新の三英傑である西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が全員亡くなり、時代はさらに変転していきます。3人が振り返って語るのは、この時代を生きた人々の苦悩と切なさでした。
出てくる人たち、いろんな思いでいろんなことやってるけど、全部やっぱりかっこいいなと思っちゃって。ものすごい思いと覚悟と、命かけてやってるじゃないですか。この人たち全員が今の日本につながってるんやなって思ったんですよね。
特に大久保利通については、「過小評価されすぎている」「ずっと全体のことを考えていたし、視座が高かった。間違ったことをしていない」という評価が出ました。責任感も能力も高く、特に後半は西郷よりも深く考えていたのではないかという指摘もあります。
一方で、西郷隆盛のイメージは大きく変わったといいます。「ものすごく繊細」「ずっとさせられてる感じ」「モチベーションが隠居したいのに駆り出されている」という印象。人間関係で苦しみ、久光や私学校の生徒たちとの関係に悩んでいた姿が浮き彫りになりました。
子供が母親を慕うように、主君を思う深い我が心をどこに向かって伸ばすことができようか。青雲が遥か遠くにあって、親しみ近づくことができないのは遺憾の至りである。貧乏人が金持ちに、金持ちが貧乏人になったりと、まるで水の泡、儚い夢のように、昨日まで温情に扱った人も、今日は初めて出会った時のようにつれなくなってしまうのは、なんと情けないことであろうか。
── 西南戦争の前年、霧島で詠んだ歌。久光にわかってもらえない苦しみを歌っている。
深井龍之介が最も強く感じたのは、「情報の非対称性」の罪深さでした。薩摩にいたら私学校の暴発は妥当な意見に聞こえたはずだし、大久保が私利私欲を満たしていると見なされて恨まれることもありうる。これは現代にも通じる問題です。
殺さなくていい人殺してさ。もう少しコミュニケーションするってすごい大事なんだなっていうのもすごい感じた。手紙書きゃいいだけだったじゃん。
海外留学ができたから大久保は征韓論を反対したわけで、当時はYouTubeもなく、情報を得るリソースが人によって違いすぎた。構造的な情報格差があったのです。「知らないってすげえ罪深いな」という深井の言葉が、この時代の悲劇を象徴しています。
もう一つの学びは、「うまく生きることの無意味さ」でした。徳川慶喜は優秀だったが意志がなく、うまく生きようとした。激動の時代にうまく生きることは意味がなく、本人も満足していなかったのではないか。一方、非合理的に見えても意志を貫いた人間が世の中を変えていったという現象がわかりやすく起こっていた、と深井は語ります。
まとめ
西郷隆盛は鹿児島に帰還し、わずか300人余りで最後の抵抗を試みました。政府軍の総攻撃前夜、決別の宴を開き、翌朝の戦闘で腹部と股に銃撃を受けて倒れます。「もうここらでよか」と告げて介錯され、51歳の生涯を閉じました。
当初は朝敵として扱われましたが、明治22年に特赦により名誉を回復し、上野に銅像が建てられるなど国民的英雄となります。勝海舟、中江兆民、内村鑑三らが西郷を称賛し、戦前戦後を通じて最も人気のある歴史上の人物となったのです。
一方、大久保利通は西南戦争の最中から戦後復興を構想し、博覧会を開催して産業促進ネットワークの構築を図りました。「これから先の十年は、内を治め、民産を興す建設の時代で、これは私の尽くすべき仕事である」と語った当日、石川県士族に暗殺されます。49歳でした。
この時代を振り返ると、全員が切なく、全員が本気で生きていたことが浮かび上がります。情報の非対称性が悲劇を生み、大久保のように実務を担った人間が恨まれる構造も見えました。そして、うまく生きようとすることよりも、意志を貫くことが世の中を変えるという教訓も残されています。
西郷隆盛編を通じて、激動の時代を生きた人々の苦悩、情報格差の罪深さ、そして非合理に見えても意志を貫く勇気の大切さが浮き彫りになりました。
- 西郷隆盛は鹿児島に帰還し、わずか300人余りで最後の抵抗を試みたが、政府軍の総攻撃を受けて介錯により死亡した
- 「もうここらでよか」という最期の言葉が伝えられ、当初は朝敵だったが明治22年に名誉回復し、国民的英雄となった
- 大久保利通は西南戦争中から戦後復興を構想し、博覧会で産業促進ネットワークを構築したが、征韓派士族に暗殺された
- この時代を生きた人々は全員が本気で命をかけており、その切なさと情報の非対称性が悲劇を生んだ
- うまく生きることよりも意志を貫くことが世の中を変える、という教訓が浮き彫りになった

