評判を気にしたティトゥスと、暴君化したドミティアヌス
ウェスパシアヌスが死に、息子のティトゥスが皇帝を継ぎます。父ウェスパシアヌスは名君と評されつつも、当時の民衆からの評判は必ずしも良くなかったといいます。
ティトゥスは自分のカリスマ性を強調し、支持者を引きつけようとしました。とくに、元老院の議員を絶対に殺さないという約束をします。
元老院の議員を絶対に殺さないっていう約束をするんですよね。これはだから逆に言うと、やっぱ元老院からすると難癖つけられて殺されるかもってやっぱ思ってるってことだよね。
この約束が必要とされること自体が、当時の空気を表しています。ネロがやりすぎたことの反動も残っていました。
即位前のティトゥスは、色情狂だの貪欲だのと悪口を言われ、第二のネロになるのではと恐れられていました。ところが実際に帝位に就くと暴君ではなく、議員を処刑しないと宣言したことで、いいやつかもしれないという評判を獲得します。
しかしティトゥスの治世は続きませんでした。火災、ペストの流行とされる事態、そしてベスビオ火山の噴火が起こります。
ティトゥスは42歳の若さで病死します。在位はたった2年ほどでした。
跡を継いだのは弟のドミティアヌスです。同じくウェスパシアヌスの息子で、兄が重病で倒れると自ら親衛隊兵舎へ急行し、皇帝であることを宣言させました。
ドミティアヌスは行政手腕に優れた面もありました。賄賂を受け取った陪審員を共謀者ごと罷免し、役人や属州総督の行動を細かく規制したといいます。
一方で、ティベリウスに似た陰険な印象があったとも伝わります。治世後半には見世物や大衆娯楽に巨額を投じて国庫が逼迫し、その財源確保のために有力者の処刑や財産没収を常套手段にしていきました。
樋口さんが読んだ本では、ドミティアヌスは有能だが憎悪された皇帝と評されていたといいます。退廃的とされた当時のローマの風紀を、モラル引き締めのために容赦なく処罰したことが理由に挙げられていました。
冷酷さではネロさえ凌ぐと評され、皇帝自身も憎悪が集まっていることを自覚していました。暗殺を恐れ、散歩コースの廊下の壁をすべて大理石にし、鏡のように背後を確認できるようにしたと伝わります。
怯えながら生きてるってことだよね。でもこれ、この人が自分が怯えたことによって、結構苛烈に反応しちゃうんですよね。
疑わしい家を潰すなどの過剰反応が、さらに密告や弾圧を呼び込みます。恐怖が恐怖を生む負のループに陥りました。
最終的には皇后までもが不安に怯え、側近たちと共謀して宮廷内でドミティアヌスを暗殺します。寝室で刺し殺され、近衛隊長はこれに気づいていながら黙認しました。
暗殺の直前、ドミティアヌスは宮廷内の規律強化のため、まず側近を見せしめに殺していたといいます。ネロの自害に関わったとされる解放奴隷エパフロディトゥスを、28年前の件を持ち出して処罰しました。
この処罰で、他の側近たちも自分がいつ罰されるか分からない恐怖に置かれます。そこから解放奴隷たちが立ち上がり、暗殺へとつながったと語られています。
皇帝に必要な「身体感覚的バランス」
ドミティアヌスの最期について、深井さんは冷静に振る舞えていたように見えつつも、結局バランスを踏み外してしまった点に注目します。暗殺を恐れながら防ぎきれず、信頼していた人にも裏切られていたことが、殺される瞬間に分かってしまったのではないかと語ります。
元老院はドミティアヌスの死を喜び、記録の抹消や像の破壊を行いました。ネロやカリグラと変わらない扱いです。一方で民衆にはパンとサーカスを保証し、軍隊からは人気がありました。
ここで深井さんは、皇帝の難しさをステークホルダーのバランスとして整理します。
なんかどれか一つを踏み外すと死ぬのよ。ちゃんとやらないといけなくて。このバランスってやっぱりね、身体感覚なんだろうなと思うんだよね。
このバランスは頭で理解してできるものではなく、細かいサインや表情を読み取る力、相手と同じ立場に立った経験がないと難しいのではないか、と深井さんは考えます。
成功した皇帝には共通点があると指摘します。アウグストゥスはカエサルの失敗を見て学び、ウェスパシアヌスはネロを見て学んでいました。一方、ドミティアヌスやカリグラは失敗事例を十分に見る機会がなかったのではないかといいます。
失敗事例を理解することは、物事の因果関係を全体的につかむ出発点にもなります。ただし、身体感覚は転びながら覚えるものでもあります。
やっぱりこけないと身体感覚って身につけないじゃん。自転車とかスケボーとかもそうだけど、こけて怪我ちょっとずつしながら覚える系だと思うんですよ。けど皇帝になったら一回こけたら死ぬわけじゃん。
だからこそ皇帝になる前に学んでおく必要があり、本来それを担うのが帝王学だといいます。しかし帝王学を学ばせる文化が十分になかったため、たまたまバランス感覚を身につけて即位した人はうまくいき、そうでない人は失敗する現象が繰り返されてきました。
アウグストゥスはカエサルの失敗を、ウェスパシアヌスはネロの失敗を若い頃に見て、バランス感覚を養う機会があった。
ドミティアヌスやカリグラは失敗事例を十分に見る機会がなく、今しか見ていなかったのではないかと語られる。
この身体感覚をどう確保するのかという問いを抱えたまま、話は五賢帝の始まりへと移ります。ドミティアヌスの次はネルウァが即位し、ここから5回連続で賢帝が続くとされます。
正当性の薄いスタート。ネルウァの即位
ネルウァの在位は短く、西暦96年から98年までの3年ほどです。ドミティアヌスの暗殺で混乱が起き、これまでのフラウィウス家ではない人物が皇帝になりました。ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスと続いたフラウィウス朝は、ここで終わります。
ネルウァは元老院貴族で、元老院に推されて皇帝になりました。近衛兵の暴力による擁立ではなく、元老院があらかじめネルウァを仲間に入れた状態でドミティアヌスを排除したのではないかとみられています。就任は非常にスムーズでした。
実際、ドミティアヌス暗殺後すぐに近衛隊長官がネルウァの登位手続きを進めていた記録があり、長官も手を握っていた可能性が指摘されています。
ネルウァは流刑になっていた者を呼び戻し、没収された財産を返還しました。穀物や土地の分配などの福祉プログラムも実施し、元老院との協調を掲げて財政再建に乗り出します。
ただし、ドミティアヌスは兵士、とくに親衛隊から人気がありました。親衛隊はネルウァに反旗を翻して軟禁し、ドミティアヌス暗殺の首謀者を探し出して殺害します。
さらに親衛隊は、先帝を殺した首謀者を殺したことに対して、ネルウァ自身に公の場で感謝を述べさせました。ネルウァは従うしかありませんでした。
ネルワのような皇帝の継ぎ方をしてしまうと、やっぱり頭が上がらない人がいっぱいいるっていう状態になってるよね。これ元老院にも頭上がんないし、親衛隊にも頭上がってないってことじゃんか。
ネルウァは病弱な上に老齢で、しかも息子がいませんでした。早く信頼できる後継者を探す必要があります。元老院からは人気があるものの軍からの支持がないため、軍に人気のある人物を選ぶ必要を感じていたと考えられます。
そこで後継者に選ばれたのが、ゲルマニアの属州総督トラヤヌスでした。軍人として有能な上、軍人から深く尊敬されていた人物です。ネルウァはトラヤヌスと養子縁組を組み、後継者に迎えます。
トラヤヌスはイタリア半島の外で生まれ、外にいた人物でした。ここで初めて、イタリア半島にいなかった人物が皇帝に選ばれます。それが五賢帝時代の始まりでした。
五賢帝は「賢さで選ばれた」のか
従来、ネルウァはトラヤヌスの賢さを高く評価して選んだとされてきました。しかし樋口さんは、最近の研究では見方が変わっていると紹介します。
実際にはトラヤヌス支持派とライバル支持派の激しい政治闘争があり、その中でネルウァがトラヤヌスを指名したという研究が出ているといいます。賢さを評価して後継者に指名したという従来の見方は、フラットではないと考えられています。
樋口さんによれば、トラヤヌスもライバルのシリア総督ニグリーヌスもスペイン出身で、同じくスペイン出身のスラという元老院議員が政治工作で手を回し、ネルウァにトラヤヌスの指名を促したのではないかという説があります。
ネルウァ自身も、わずか16か月で亡くなりました。本人は、自分がやった仕事は次の皇帝を選んだことだけだ、という趣旨のことを言っていたと伝わります。
それでも深井さんは、トラヤヌスを選べたこと自体にネルウァのバランス感覚を見ます。各ステークホルダーに対してトラヤヌスならうまくやれ、その選択が自分の安泰にもつながるという政治的判断ができていたと考えられるからです。
五賢帝には、各皇帝が血縁ではなく養子を選んでいくという特徴があります。深井さんはこれを、実子がいなかった結果でもあると整理します。
この養子継承は、かつては優れた皇帝制システムのように理解されてきました。賢帝が実力で優秀な後継者を選んだからこそ賢帝が続いた、という通説です。
しかし深井さんは、結論としては運が良かっただけではないかと語ります。政治的理由で選ばれた人物が、運良く5回連続でネロのような失敗をしなかった時代だったという見方です。
結果的に賢帝として機能したけれども、その前の賢帝が次の賢帝を賢さでもって引き立てたっていう、言い切るにはちょっと微妙みたいな。
実際、実子がいれば継がせたかったが、たまたま4回連続でいなかったことが大きいといいます。5人目のマルクス・アウレリウスにはコムモドスという息子がおり、その継承がうまくいかず五賢帝時代は終わります。
深井さんは、五賢帝やパクス・ロマーナという呼び方そのものへの疑問も口にします。ローマ市内の人々は平和だったとしても、ローマ帝国全体が平和だったとは言えず、実際に遠征では戦い続けていたからです。
ドミティアヌスを入れて、ウェスパシアヌスも入れて、ティトゥスも入れて八賢帝でも別にそんなにおかしくなかったと思うし、ネルワが入ってんだったら。
五賢帝という枠組みは、元老院視点で書かれた資料をもとに名付けられた面があります。深井さんは、こうした呼び名に引っ張られず歴史をフラットに見た方が、実態に即した理解ができるのではないかと話します。
最大版図を築いた最良の皇帝トラヤヌス
トラヤヌスは、就任後すぐに親衛隊を自分の手の者で塗り替えました。軍部出身で自前の軍人を持っていたからこそできたことです。
トラヤヌスはスペイン南部のイタリカで生まれました。イタリカは、ハンニバルのライバルとして知られる大スキピオが傷病兵のための居住地として建設し、故郷にちなんで名付けた土地だと伝わります。
トラヤヌス家は代々そこに定住し、父の代になって初めて元老院身分になりました。ウェスパシアヌスが元老院を立て直す際に、属州から連れてきた人々の一人が父だったと考えられます。父はやがてシリア属州総督にまで出世しました。
トラヤヌスは10代後半で父に従い軍務につき、軍団の幕僚を務めます。20代前半で結婚し、法務官を経て軍団司令官として、ドミティアヌスに反乱した軍団の鎮圧に向かいました。
スペイン方面からゲルマニアの辺境まで移動して反乱軍と戦いましたが、到着前に反乱は失敗していたといいます。それでも軍団の移動の速さにドミティアヌスが感心し、トラヤヌスはコンスルにまで出世しました。
父も息子も優秀で、順当に出世を重ねていきました。ローマでは貴族が軍人を兼ねていましたが、この頃には少しずつ両者が分離し、イタリア半島の人々が戦争に行くことが減っていました。だからこそ属州出身のトラヤヌスが皇帝になれた、という背景があります。
ネルウァが死んだとき、トラヤヌスは45歳ほどでゲルマニアにいました。そこで自分が養子になったことを知ったと伝わります。
トラヤヌスは、就任1年半後にようやくローマへ入城しました。それまでは属州方面で地盤固めをしていたとみられます。
樋口さんは、その慎重さにトラヤヌスの賢さを見ます。スペインで生まれ帝国各地で軍人として働いてきた彼は、ローマの事情にはうとかったため、いきなり入城すればハレーションが起きかねないと考えたのではないか、というのです。
深井さんも、こうした状況判断ができる点にトラヤヌスの政治的才能を見ます。元老院、民衆、軍隊という3つの重要なステークホルダーをうまくバランスよく喜ばせられた人物だと評します。
ローマ帰還の2年後には、非公式ながら最良の皇帝という称号で呼ばれるようになりました。ラテン語でオプティムス・プリンケプスです。
3つのステークホルダーを満たす統治
トラヤヌスは、元老院、官僚機構、民衆のそれぞれに配慮した統治を行いました。
元老院に対しては、有能な議員を重用して尊重し、属州に派遣された議員とも書簡を交わして各地域への配慮を示しました。
官僚機構では、都市監督官という新しいポストを設けました。地方都市は基本的に自治に任されていましたが、財政上の問題や人材不足で自治がうまく回らないときに相談できる役割です。
都市監督官は、公金の運用や公共建築物の管理、穀物輸入の資金管理などをサポートしました。ただしトップダウンで地方を支配するのではなく、スポットで関わるのが実態だったといいます。
インフラ整備も積極的に進めました。アッピア街道の大規模改修、ドナウ川への巨大な橋の建設、広場や市場、浴場、水道橋、港の建設などです。退役兵のために北アフリカのティムガドやゲルマニアのクサンテンといった都市も築きました。
民衆に対しては、生活必需品の支給に加え、アリメンタ制と呼ばれる養育基金を設けました。貧しい自由民の子供を扶養するための制度です。
資金を土地所有者に貸す
設定した資金を、低い利率で土地所有者に貸し付ける。
利子を回収する
土地所有者から利子を回収する。
子供たちに支給する
受給資格を持つ貧困層の子供たちの扶養に充てる。
この制度の目的は、イタリアの人口減少に歯止めをかけることだったのではないかとされています。ただし、実際にどれほどの社会的インパクトがあったかは分かっていません。
こうした施策があったからこそ、トラヤヌスは最良の皇帝と呼ばれたと考えられます。
戦争で得た繁栄と、その限界
トラヤヌスの最大の功績は、ローマの最大版図を築いたことです。軍人であるトラヤヌスにとって、戦争は天職ともいえるものでした。治世のほぼ半分をローマから離れた場所での軍事行動に費やしています。
当時は国境付近に厄介な勢力があまりいない時期でもありました。トラヤヌスは自ら遠征に出かけ、ダキア、メソポタミア、アルメニアなどを併合していきます。
とくにダキア戦争が彼を人気にしました。ダキアを支配していたデケバルス王がトラヤヌスを軽んじる行動をとったため、全ローマ軍の3分の1ほどを動員する大規模遠征に踏み切ります。
一度は和平を結び、ダキアの征服者を意味するダキクスの称号を得ますが、デケバルス王が勢力を立て直して再び攻めてきます。トラヤヌスはもう一度攻め入り、デケバルス王を捕らえて倒し、その首をローマへ送りました。
ダキアは豊かな土地で、デケバルス王も莫大な財宝を持っていたため、その接収でローマの国家財政は大きく潤いました。この富が公共事業の原資になっていきます。
深井さんは、この構図をローマ帝政の理想形として整理します。戦争で富を得て、その富でステークホルダーを喜ばせるという仕組みです。ただし、それは攻めるものがあるうちだけ成り立つものでした。
パクスロマーナって波乗りなんだよ、ただの。だから波がそのようにあるうちは乗れるけど、なくなれば乗れないっていうような、人間の人知を超えた外的要因変動とかがあるような中で、パクスロマーナが実現している。
ダキアの勝利を祝う試合は闘技場で長く続き、多数の剣闘士が戦い、大量の動物が殺されたと伝わります。トラヤヌスの記念柱には、その戦いが螺旋状に絵巻のように描かれています。
さらにアラビア領域も征服し、ついに最大版図を実現します。総面積は推定500万平方キロメートル、推定人口は6000万に達しました。ヨーロッパのほぼ全域に加え、アフリカ大陸北部や小アジア、アラビア方面までを含む広大な領域です。
トラヤヌスは性格も親しみやすい人物だったと伝わります。自分の乗る馬車に他に3人を乗せる習慣があり、護衛を連れず市民の家に入って楽しむこともあったといいます。
父の代まで有名な家系ではなかったため、古い貴族のような振る舞いをしなかったとも語られます。夕食会でホスト役を務め、元老院議員からも好かれていました。
一方で、酒癖の悪さや同性愛については眉をひそめる人もいたといいます。深井さんは、ローマにおける同性愛は歓迎も否定もされない絶妙な立場にあり、ローマ皇帝にはバイセクシュアルと思われる人物が多い点を興味深いと語ります。
最大版図を築いた後、トラヤヌスは宿敵パルティアにも戦争を仕掛けます。カエサルやアントニウスも失敗した相手ですが、パルティアの内紛と、緩衝地帯アルメニアの支配によって攻めやすくなっていました。
しかし、ここで限界が訪れます。領土を広げすぎた結果、保持が難しくなり、再結成されたパルティア軍に反乱を起こされ、補給線を攻撃されます。同時期にユダヤ人社会でも大規模な反乱が起き、占領地は失われました。
軍事的には戦ったら勝てるんだけれども、もうその、これほどの広さを治めるあれを持ってないんだよね。政治体制を持ってないんです。
深井さんは、これを小さな政府であることの限界とみます。官僚制が小さいままでは、広大な領域を統治しきれません。加えて、パルティアはペルシャ系で文化が大きく異なり、統治のコストも高かったと考えられます。
この失敗にトラヤヌスは落胆し、健康を害していきます。脳卒中を発症して部分的に麻痺したとされ、初めての挫折に心も弱っていったようです。
妻プロティナや姉の娘マティディアは、イタリア半島以外で死んだ皇帝はいないと言って早い帰還を促します。トラヤヌスもローマへ帰ろうとしますが、途中で急激に体調を崩し、今のトルコ南西部キリキアのセリヌスという港で亡くなりました。63歳でした。
遺骨はローマへ運ばれ、凱旋パレードとともにトラヤヌスの記念柱に納められました。深井さんはこれを非常に名誉なことだと語ります。好かれ、称えられた皇帝でした。
ただし、トラヤヌスにも一つだけ失敗があったとされます。実子がおらず、正式な後継者を用意しないまま亡くなったことです。
死の間際に、いとこの息子ハドリアヌスの名を挙げたと伝わります。ハドリアヌスは映画テルマエ・ロマエにも登場する賢帝ですが、トラヤヌスが本当に指名したかどうかは分かっていません。
樋口さんによれば、トラヤヌスの妻プロティナが遺言を改ざんし、養子の指名を捏造したのではないかという資料も残っています。プロティナがハドリアヌスを気に入っていたことから、さまざまなきな臭い話があるといいます。
ハドリアヌスが好きだから、それを捏造したんじゃないかとか、いろんなね、きな臭い話はあって、今でも真相は闇の中なんですけど、ハドリアヌス賢帝だったんで良かったねとはなってます。
真相は確かめようがありませんが、結果としてハドリアヌスも賢帝でした。次回はそのハドリアヌス帝、さらにアントニヌス・ピウス帝へと話が進み、最後に最も有名なマルクス・アウレリウスへと続いていきます。
まとめ
五賢帝時代の始まりは、賢さで選び抜かれた必然というより、正当性の薄いネルウァの即位と、実子がいなかったという偶然が重なった結果でもありました。トラヤヌスは軍事の才と政治的バランス感覚で最良の皇帝と呼ばれましたが、その繁栄は攻めるべき土地があるうちだけ続く波乗りのようなものでした。
- ティトゥスは評判を気にして議員を殺さないと約束し、弟ドミティアヌスは有能だが恐怖政治に陥り暗殺された
- 皇帝には失敗事例から学び、細かいサインを読むステークホルダーのバランス感覚が必要だと深井さんは語る
- ネルウァは正当性が薄いまま元老院に推されて即位し、軍に人気のトラヤヌスを養子に迎えた
- 五賢帝の養子継承は賢さによる選抜というより、実子がいなかったことと政治的理由が重なった結果と考えられる
- トラヤヌスは最大版図を築き富で統治を支えたが、領土の広がりは小さな政府の統治能力の限界も露呈させた
