奴隷制はなぜアメリカ南部だけの制度になっていったのか
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今回のエピソードでは、リンカン個人の歴史からいったん離れ、南北アメリカの分断がなぜ避けられなくなっていったのかに話が移ります。
楊睿之さんはまず、奴隷制をめぐる時代背景を整理します。リンカンが政治の道を歩み始めた1830年代は、奴隷制の転換点だったといいます。
この時期、アメリカ北部や南米を含む多くの地域で、奴隷制が縮小・廃止される流れが生まれていました。国際的にも奴隷制終焉の動きが広がっていたのです。
19世紀半ばになると、奴隷制は事実上アメリカ南部だけに残る独特の制度になっていました。世界の潮流のなかで、南部が孤立していく状況です。
ただし、奴隷制の廃止はスパッと一気に進んだわけではありません。経過措置を設けたり、所有者への補償金制度を作って損失を補填したりと、段階を踏んで進められました。
穏健なリンカンと、急進的なアボリショニズムの登場
楊睿之さんによれば、奴隷制廃止運動は1830年代の前後で毛色が変わっているといいます。
1830年代以前の廃止運動は、一般的に穏健でした。奴隷制そのものを批判するというより、解放を促進する状況を作り出すことを重視していたのです。
リンカンもこのスタンスでした。奴隷制は良くないから、徐々に拡大しないようにしようという立場です。奴隷解放で財産を失う所有者への補償にも賛成していました。
それも人権だからね。
所有者の財産権を毀損することになるため、即時解放という立場を取らないことで、奴隷所有者の不安を和らげ、抵抗を減らす効果もあったと考えられます。
ところが1830年代以降、より急進的な廃止運動が本格化します。それがアボリショニズムです。
急ぐ、そう、すぐやめろってことです。段階とかねーよ、なし崩しはダメだっていう考え方ですね。
深井さんは、アボリショニズム自体は昔からあったものの、1830年代を境に本格化したと説明します。理由は、世界的に世論がそうなっていたからです。
そしてその世論に、産業レベルでも唯一置き去りにされていたのがアメリカ南部でした。
即時・無償廃止を掲げたギャリソンと、南部の反発
急進的な廃止論の有名な活動家が、ジャーナリストで社会改革者のウィリアム・ロイド・ギャリソンです。
ギャリソンは仲間とともにニューイングランド反奴隷制協会を設立し、北部全域にパンフレットを配布しました。そこには、すべての個人がいかなる束縛からも即座に自由になれる権利を持つと書かれていました。
その主張の核心は、奴隷制は直ちに無償で廃止されなければならない、というものでした。財産権の補償は不要で、なぜなら人間は財産ではないからだ、という論理です。
それはそうだよね。
しかし南部からすれば、これは受け入れがたい主張でした。自分のビジネスを即座に辞めた上に、なんの補償もされないと言われているからです。
協会は翌年、ニューヨークの即時廃止論者と合流し、アメリカ反奴隷制協会を名乗ります。地域名を国家名に変え、機関紙リベレイターを発行して啓蒙活動を広げていきました。
ギャリソンは平和主義を掲げつつ、合衆国の黒人すべてをアメリカ市民だと主張し、一切の妥協を排する即時・無償の解放を訴えました。ただ深井さんは、実際にこれが平和に実現するのは無理だっただろうと話します。
南部のノースカロライナやジョージアでは、ギャリソンの首に5000ドルの賞金がかけられました。奴隷制を認める南部の憲法に違反する存在として、犯罪者扱いされたのです。
さらにギャリソンは、北部の穏健的な廃止論者からも距離を置かれていました。連邦が壊れてもいいとまで言っていたためです。
連邦が連邦としてまとまってるのには一種神聖があるって話したじゃないですか。だからすごくキワモノ思想なのよ。急進的しすぎて。
深井さんは、これは批判ではなく、ギャリソンの思想が当時の世界にとってドラスティックすぎたという話だと補足します。過激な思想として、賛同が得にくかったのです。
ただし世界的にはこの論調が主流でした。世界に同調してアメリカでも同じことを言う人が出てきていたこと自体が、民主主義の表れだと深井さんは指摘します。
リンカンは平等主義者ではなかった──リベリア送還という前提
アボリショニストがとりわけ批判したのが、解放した奴隷をアフリカに送り返すという発想でした。
この背景には、当時の廃止論者に共通する前提があります。奴隷制は良くないと考えつつも、解放した黒人を市民として受け入れる気はなかったのです。リンカンもこの立場でした。
白人である我々の政治っていうものを黒人に左右されるようなことがあってはならないって思ってるんですよ。
リンカンは平等主義者ではないんです。
深井さんは、リンカンがアメリカの黒人をリベリアに送るべきだと考えていたと説明します。これは教科書では語られにくい点です。
楊さんは、アボリショニストがこの送還を批判した理由を整理します。解放した元奴隷をアフリカに送り返すことは、結局は奴隷制の維持につながると考えたのです。
自由黒人の存在は、奴隷を所有する側から見れば奴隷制を揺るがすものです。その存在を厄介払いのように送り返すことは、奴隷制を守ることにつながるという批判でした。
深井さんは、より素朴な問題も指摘します。自分たちで勝手に連れてきた人々を、生活基盤のないリベリアに送るという発想自体が乱暴だという点です。
すでにもう今の黒人奴隷って、その人たちをリベリアに送ればいいって思ってるとかっていうのを結構大真面目にみんな話してるんですよ、白人たちは。
楊さんは、リンカンの立場を示す1858年の演説の言葉を紹介します。大統領になる前、有権者に向けたものです。
そこでリンカンは、白人と黒人には物理的な違いがあり、両人種が社会的・政治的に平等な条件で共存することは永久に不可能だと確信していると言い切っていました。
さらに、共存できない以上は両人種のあいだに優劣をつけなければならず、自分は他の誰よりも白人に優位な立場を与えることに賛同する、とも述べています。
少なくともこの時点で、リンカンは公の政治家として、奴隷制はなくすべきだが黒人と白人は平等ではないという考えを発信していたことになります。
なぜ後世はギャリソンを評価し、リンカンを批判するのか
深井さんは、この対比から学びになる点を指摘します。当時の時代の空気のなかでは、リンカンのほうがはるかに妥当なことを言っていた、という点です。
今から見ればギャリソンのほうが正しく見えます。しかし当時からすれば、ギャリソンは「何を言っているのか」という扱いでした。時代のフィルターによって評価が分岐するのです。
当時の時代でもてはやされるのは、その当時の時代感で言ってる人。後世からもてはやされるのは、そのちょっと先のこと言い過ぎちゃった人。
ただし、ちょっと先のことを言い過ぎた人は、世の中をあまり変えられないとも深井さんは言います。それでもギャリソンが歴史に残り、影響を残したこと自体に意味があるという整理です。
樋口さんは、尖ったことを言う人は現時点では無理だと言われても、後世で評価される可能性があると応じます。深井さんは、逆に今の常識も将来は古い価値観として断罪されうると指摘します。
深井さんは、新しい価値観で古い価値観を断罪しすぎることを良いとは思っていないと述べ、新しい価値観で古い価値観を断罪しすぎることへの警戒とともにこの話を聞いてほしいと話します。
西部への急拡大が、先延ばしにされた奴隷問題を再燃させる
話は西部開拓に戻ります。前提となるのがマニフェスト・ディスティニーという概念です。
以前のシリーズで触れたミズーリ協定では、真ん中の線より上を自由州、下を奴隷州とすることで、いったんバランスが成り立っていました。
ところがその後、テキサスの併合が起こります。メキシコ領だった土地が一度テキサス共和国として独立し、すぐにアメリカに併合されました。
さらにオレゴンにも、良い土地だという噂が流れて人が押し寄せ、移住が進んで領有されます。これらが起きたのが1840年代中盤でした。
この時期は、アボリショニズムが過激化し、リンカンが弁護士として評価され連邦議会を経験した時期とも重なります。
加えて、もともとメキシコ領だったカリフォルニアをめぐり、アメリカは領土的野心から米墨戦争を仕掛けます。
この戦争に勝ってカリフォルニアを譲渡させたことで、1840年代に領土が一気に広がりました。西をどうするかという問題が、実際の領土として突きつけられたのです。
その結果、ミズーリ協定で先延ばしにしていた問題が再浮上します。線引きで「まあいっか」となっていたものが、具体的にこの州をどうするかという話になると、誰も納得できなくなりました。
決めたけどやっぱ無理やんってなってる。
自由州か奴隷州か──「1850年の妥協」の綱引き
新領土をどちらにするかで、連邦議会は激しく揉めました。各州に異なる利害があったためです。
リンカンのいるイリノイ州はすでに自由州でした。自由州にとって奴隷州が増えることは経済的損失であり、奴隷を使う相手とは競争で不利になるからです。
そのため自由州側は、なるべく周囲を自由州にしたいと考えます。奴隷州側はその反対で、全部奴隷州のほうがいいと主張し、対立が改めて表面化しました。
1847年、南部の有力政治家ジョン・C・カルフーンが、憲法論として一つの主張を提唱します。新領土の奴隷制を決める権限は連邦議会にはない、という主張です。
これは、そもそもミズーリ協定を連邦が勝手に決める権限があるのか、という角度からの反論でした。南部は独立性を重んじる反連邦派だったため、この主張に賛同が集まりました。
決着がつかないなか、議会はまた妥協して先延ばしを図ります。それが「1850年の妥協」です。
ゴールドラッシュで人が押し寄せたカリフォルニアは、自由州にするしかない状況でした。奴隷が金鉱探しに投入されれば、賃金で働く人や個人で挑む人が不公平を被るからです。
そこで、カリフォルニアは自由州として直ちに認め、その他の地域は住民主権で決めようという妥協案が示されました。
この案は、リンカンが尊敬するヘンリー・クレイの提案に対し、イリノイ州選出でダグラスという議員が住民主権で決めようと再提案したものでした。
ダグラスの主張は一見妥当に聞こえますが、北部からすれば、住民主権で奴隷州が拡大しかねないという不安が残ります。
この妥協は、双方が譲り合うバーター取引でした。カリフォルニアを自由州にする代わりに、北部側は住民主権論を抑え込めず、逃亡した黒人を南部に連れ戻す新逃亡奴隷法も織り込まれたのです。
ゴールドラッシュで沸くカリフォルニアを自由州として認めた
住民主権論を抑え込めず、逃亡奴隷を南部に連れ戻す新逃亡奴隷法を受け入れた
一切妥協しない男・チャールズ・サムナーの登場
このバーター取引に反発した議員がいました。マサチューセッツ州の上院議員チャールズ・サムナーです。
いや、奴隷制に反対するっていうのはイデオロギーの問題だから、バーター取引とかしちゃダメでしょって言ってます。
サムナーは徹底して奴隷制に反対し、妥協点など探せないという態度を取りました。この後もたびたび登場する重要人物だと深井さんは念を押します。
深井さんによれば、サムナーは非常に頭が良く、激しい主張をしながらもあらゆる人に認められ、リンカンにも尊敬されていた人物でした。
結論から言えば、奴隷解放宣言を出す後押しにも、このサムナーの力が大きかったといいます。穏健派のリンカンをブレーンとして支えた影響力の持ち主でした。
ギャリソンみたいな超バランス崩した感じでもなくて、言うこと言いながらちゃんと周り巻き込んでる感じすごいなみたいな。超実力者って感じ。
樋口さんは、リンカンではなく裏でサムナーが要所を通していたという構図が、勉強していて面白かったと話します。ギャリソンとは違い、周囲を巻き込みながら主張を通す実力者だったのです。
リンカンの政界復帰と、カンザス・ネブラスカ法の衝撃
この頃リンカンは弁護士として活動し、いったん開発の熱が冷めていました。しかし奴隷問題が議会で紛糾するのを見て、再び政界に出ようと考え始めます。
大きなきっかけは、同じイリノイ州選出のダグラスでした。住民主権論を掲げるダグラスに、リンカンは強く反対していたのです。
住民主権論ダメでしょと。そんなことしたら国崩壊するでしょって思ってるんですよね。
民主党のダグラスは、後の共和党側に立つリンカンとは真逆の政党にいました。そのダグラスが1850年の妥協で目立ち、リンカンに危機感を抱かせたのです。
そして間を置かず、次の問題が起こります。カンザス・ネブラスカ法です。
鉄道がミシシッピ川に到達し、川の西側に多くの移住者が送り込まれると、カンザスとネブラスカを準州にしようという話になりました。
その準州化の段階で、ダグラスは以前から唱えていた住民主権を導入しようと主張します。これが1854年、連邦議会で法律として制定されてしまいました。
問題は、カンザスもネブラスカもミズーリ協定では自由州にあたる位置だったことです。北緯36度30分より北にあったにもかかわらず、住民主権で決めることになったのです。
これにより、事実上ミズーリ協定が反故にされました。案として議論されていた段階から、実際に線より上の地域を住民主権で決める話へと進んでしまったのです。
話違うわってなるもんな。
北部の反奴隷論者は、南部の奴隷制拡大の要求には際限がないと気づきます。これ以上増えないなら許すという姿勢だったのが、拡大が止まらないと見えたためです。
深井さんは、この危機感が非常に強く、この危機感に対抗するためにできたのが共和党だと説明します。
共和党の結成と、リンカンが崩さなかった一点
この危機感を背景に、奴隷制に反対する議員を集めて共和党が結成されます。自由土地党やホイッグ党などから、反対派を糾合した党でした。
当時は今と保守・リベラルの立場が逆で、共和党がリベラル、民主党が保守という位置づけでした。共和党は民主党に対抗して生まれたのです。
共和党の思想の核の一つが自由労働イデオロギーです。賃金ゼロで働かされる存在がいることはおかしい、見返りがあるべきだという考え方から、奴隷制は必然的に否定されます。
もう一つが、西部の土地を開拓すれば無償で与えるというホームステッド法でした。
自由な開拓と土地の無償譲渡は、奴隷制と相性が悪いものでした。特定の人間に自由を与えないことを是とする側にとって、自由の拡大はすべて危険に見えたからです。
ただし共和党の奴隷制反対は、アボリショニストのような即時廃止ではありません。南部の奴隷制を全廃するのではなく、これ以上拡大させないという反対でした。
楊さんは、共和党内部にも奴隷制への温度差があったと補足します。現状の奴隷主を容認して拡大だけを防ぐ人、連邦の維持を優先する人、黒人に権利を与えるかで割れる人などが集まっていました。
結構いろんな考え方のバロメーターの違う人たちが集まった烏合の衆というふうに本の中では書いてあったんですよね。
その烏合の衆のなかで、リンカンは穏健派として急進派と保守派の利害調整に能力を発揮したと評価されています。
流血のカンザスと、議場でのステッキ襲撃事件
カンザス・ネブラスカ法の住民主権は、深刻な混乱を引き起こします。各派閥が自分の側の州にしようと、大量の人間を送り込んだためです。
移住合戦は武力衝突へと発展し、「流血のカンザス」と呼ばれる事態が起こりました。
奴隷制支持派の武装集団が反対派の拠点を襲撃し、その数日後には奴隷制廃止論者のジョン・ブラウンが支持者を殺害するなど、殺し合いにまで至ります。
もうこれはちょっとタガが外れた感じですよね。
混乱は連邦議会にも飛び火します。奴隷制廃止論者のチャールズ・サムナーが南部を激しく誹謗したところ、南部選出の下院議員プレストン・ブルックスが議場でサムナーをステッキで殴打したのです。
ステッキが折れるまで殴られたサムナーは、頭部外傷や脊髄損傷を負い、数年間議員活動ができないほどの大怪我をしました。
もう民主主義やってないね、この瞬間。
深井さんは、サムナーがカンザスの暴動を「処女地をレイプし、憎むべき奴隷制を引きずり込むもの」「新たな奴隷国家を作ろうとする堕落した欲望」などと激しく糾弾していたと紹介します。
今の感覚では正しいことを言っているとも見えますが、当時の南部からすれば強い侮辱でした。ブルックスはそれを侮辱と受け止め、暴力に及んだのです。
北部の新聞は野蛮な南部人と報じ、南部の新聞は英雄が侮辱者を倒したと報じました。同じ事件が正反対に受け止められるほど、両者は割れていました。
この奴隷制ってのは抜き差しならない問題になってるんですよね。もうほんとこれを言及するだけで超リスクだし。
深井さんは、こうした闘争が起きた背景を二つ挙げます。一つは問題を先延ばしできない環境になったこと、もう一つはバランスを取る前世代の政治家が引退したことです。
ヘンリー・クレイやジョン・C・カルフーンのように妥協でバランスを取っていた世代が去り、世論に押された歯止めの利かない議員が増えていたのです。
ドレッド・スコット判決が示した、妥協の限界
もう一つの争点が、ドレッド・スコット判決です。
ミズーリ州の黒人奴隷ドレッド・スコットは、かつて主人に連れられて非奴隷州のイリノイ州やウィスコンシン準州に住んだことがありました。
スコットは、非奴隷州に住んだのだから自分は自由身分を獲得したとみなせるはずだと主張し、連邦最高裁判所で訴訟を起こしました。
しかし最高裁は、財産権を否定できませんでした。解放を認めれば、南部の人が持つ奴隷という財産が北部への移動だけで消滅することになるからです。
判決は、そもそもドレッド・スコットには提訴権がない、というものでした。奴隷であるため、主人が移動しても奴隷のままだとされたのです。
これは黒人のアメリカ市民権を完全に否定するものであり、大きな物議を醸しました。
さらに深刻なのは、その先の含意でした。奴隷制が禁止された州に奴隷を連れてきても奴隷のままなら、南部の人が北部で奴隷ビジネスをできることになってしまうのです。
いいの見つけたってなる。
深井さんは、この矛盾こそが問題の核心だと指摘します。奴隷制と非奴隷制は同じ国で共存できないという点です。
リンカンもそのことは分かっていました。だからこそ、廃止すればとんでもないことが起きると考え、あくまで拡大阻止を目指したのです。
一方でダグラスは、州の独立性を重んじる立場から住民主権を自然な主張と考えていました。リンカンから見れば、それはさらに矛盾を広げるものでした。
住民主権とかで決めたらもっとバグるだろうって思ってるんですよ。矛盾すげえだろって。
この判決を機に、地道な議論の意味が失われます。話し合っても無理だという空気が、とくに北部で広がったのです。
これ話し合っても意味ないじゃんってなっちゃった。こんな判決出るならもう無理じゃんってなったんですよ。
差別を前提にした「奴隷制反対」という難しさ
最高裁長官トーニーが判決の根拠としたのは、財産権と帰化法でした。帰化法は白人のみを合衆国市民と認める内容で、黒人には裁判の権利がないという論理につながりました。
この根底には、黒人は劣っているという共通理解がありました。深井さんは、ヨーロッパで奴隷制反対を唱えた人々も、同時に黒人差別を持っていたと繰り返し強調します。
ヨーロッパで奴隷制なんて人間としてダメなんだって言ってる人たち、バリバリで黒人差別してるんですよ。
深井さんは、この感覚が今の世界にも残っている可能性があると述べつつ、当時はより色濃くあったと説明します。差別を持ちながら奴隷制には反対する、という構図は日本人には分かりにくいものです。
その例として、自由論を書いたジョン・スチュアート・ミルの言葉が挙げられます。ミルは民主政体においてこそ個人の自由が大事であり、それが社会の多様性の基礎だと説いた近代の基礎の一人です。
そのミルでさえ、民族そのものが未成年とみなされる社会状態では、改善を目的とする限り専制が正当な統治になりうると述べていました。相手を未熟だと見なしていたのです。
深井さんは、これは黒人を子どものように未熟な存在と見る感覚だと整理します。生きる権利は認めても、対等な社会の一員にはなれないと考えていたのです。
この白人が暮らす社会とは相容れないので、別々に暮らすべきだって思ってるんですよ、実は。奴隷制反対論者って。だからリベリアに送るべきって言ってるんですよ。
つまり一般的な奴隷制廃止論者は、黒人を同じ社会を作るメンバーとは考えていませんでした。サムナーはそこからさらに進んだ考えを持っていたようだと深井さんは補足します。
ドレッド・スコット判決で状況はさらに紛糾し、ダグラスの住民主権論を危険視したリンカンが、再び政界に進出していくことになります。次回はそこが描かれます。
樋口さんは、この対立はどこで止めれば違ったのか分からないほど複雑だと振り返ります。ヨーロッパから人が着いた時点で、あるいは人が住み始めた時点で止められなかったのではないか、という印象すら受けると話しました。
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まとめ
リンカン編第10回は、穏健派だったリンカンの立ち位置を軸に、奴隷制拡大をめぐる路線対立が妥協の限界へと突き進む過程を追いました。共和党の誕生、流血のカンザス、ドレッド・スコット判決を経て、話し合いでは決着しない状況が浮かび上がります。
- 1830年代を境にアボリショニズムが本格化し、奴隷制は事実上アメリカ南部だけの制度として孤立していった
- リンカンは奴隷制に反対しつつも平等主義者ではなく、拡大阻止を貫く穏健派として位置づけられる
- 1850年の妥協やカンザス・ネブラスカ法は妥協の連続だったが、奴隷制拡大の要求には際限がなく対立が激化した
- ドレッド・スコット判決は黒人の市民権を否定し、奴隷制と非奴隷制が同じ国で共存できないことを露呈させた
- 当時の奴隷制反対論者の多くは黒人差別を前提としており、現代の価値観との落差が対立の複雑さを際立たせている







