彭城をあっけなく落とした劉邦が、一日で総崩れになるまで
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項羽と劉邦編もついに11回目です。今回で、項羽と劉邦の直接対決が始まります。
当時の劉邦は、西にある秦のエリアを拠点にしていました。南だけでなく北の将官が持っていた土地も攻め取り、満を持して東の楚へ向かっていた状況です。
項羽は西楚覇王として、彭城彭城 ── 項羽が拠点とした西楚の都。現在の江蘇省徐州にあたる。「膨」から手偏を外したような字で書かれる。を首都にしていました。劉邦はこの彭城へ迫っていきます。
この動きに項羽はおそらく激怒していたと、深井さんは話します。斉などが勝手に王を立てたり、項羽が決めた王を殺して自分が王になったりと、あちこちで勝手な動きが起きていたためです。
項羽はまず部下に斉を攻撃させ、自分は精兵3万を率いて彭城から出撃します。ただしこの3万は、分封で兵が減った結果の少ない数でした。同盟国もほぼいない状況です。
項羽が留守の間に、劉邦と諸侯の連合軍は彭城に達し、城を攻撃します。項羽が不在だったこともあり、彭城はすぐに陥落してしまいました。
ところが、ここから劉邦たちが調子に乗ります。城内の財物や、宮殿に住む女性たちを略奪し、毎日酒盛りをしていたと伝わります。
劉邦にとっては、もう試合終了で祝杯をあげている感覚だったのだと、深井さんは説明します。かつて咸陽に一番乗りしたときは手を出さず我慢したのに、今回はまったく違う態度でした。
だから彼らの認識ではもう試合終了なんです。もう優勝しました。
この違いについて、深井さんは人間に一貫性があるとは限らず、その時々の感情で動いていただけだろうと見ています。以前は項羽に気を使っていたが、もう使わなくてよくなったという見方や、咸陽での自制も半分は誇張だった可能性にも触れられました。
彭城陥落の報を受けた項羽は、すぐに移動し、早朝に劉邦軍を攻撃します。すると、なんと劉邦軍が一日で総崩れになります。
劉邦軍のほうが数は多く、しかも守る側でした。それを3万ほどの項羽が総崩れにさせるのは、軍事的な常識では考えにくいと深井さんは語ります。
子供を蹴り落として逃げる劉邦のなりふりのなさ
総崩れになった劉邦軍は、来た方向である西へ逃げます。約200キロ逃げた紫水のあたりで、十数万の兵が殺されました。
さらにそこから約200キロ逃げた酔水では、川の流れが止まるほどの死体があったと伝わります。逃げ場を失った兵が川に飛び込み、溺れ死んだという記述も残っています。
劉邦自身も包囲されますが、大風が吹いて楚軍が乱れたため、数十騎で逃げ去ったと記録されています。この記述については、深井さんも意味がよくわからないと語ります。
え、神風的なやつ?
逃げる途中、劉邦は故郷にいる父や妻の呂后を連れて逃げようとしますが、すでに彼らは避難した後で見つかりませんでした。たまたま娘と、後に2代目皇帝になる息子の劉盈を見つけ、馬車に乗せて逃げます。
そこへ楚の騎兵が追撃してきます。追いつかれそうになった劉邦は、馬車を速くしようと、なんと自分の子供を何度も蹴り落として捨てようとします。
何度もね、自分の子供を蹴り落としてね、捨てようとすると。
そのたびに、夏侯嬰という部下が子供を拾い上げて進もうとしました。すると劉邦は怒り、十数回も夏侯嬰を殺そうとしたと伝わります。
もうテンパってるやん。
この場面には劉邦の性格がよく表れていると、深井さんは指摘します。自分が生き残るためならどんな汚いこともできる、というのが彼の特徴だという見方です。
感情で動くというか、チンピラゆえの生存本能だよね。やっぱ自分の命が大事なんですよ、この人って。
親のほうが偉いとされた当時の価値観からしても、子供を蹴り落とす行為は異例です。それでも夏侯嬰は、後で劉邦が感謝すると考えたのか、必死に子供を守り抜きました。
彭城の敗北で、なぜ諸将は項羽に流れたのか
結局、劉邦はボロ負けして敗走します。この彭城の戦いは、項羽と劉邦の双方にとって大きな意味を持ちました。
項羽からすれば、分封を失敗したと痛感する結果でした。各地で反乱が起き、ガバナンスを大きくテコ入れしなければ危ういと気づいたわけです。
劉邦からすれば、魏帝の仇討ちという大義名分で連合軍を率いたのに、その軍がまったく機能しなかった点が課題として残りました。彭城は落とせても、その後は項羽に太刀打ちできませんでした。
さらに重要なのは、劉邦にも項羽にも属していなかった諸将が、どちらにつくかを改めて選ぶ新しい局面に入ったことだと、深井さんは整理します。
結果として、諸将は余裕で項羽についていきます。彭城で劉邦が敗れたことで、みんなが項羽の強さを実感したためです。
やっぱりこの人に逆らっちゃダメだと。
劉邦側についていた人たちもそこから逃げ、項羽についていきます。負けたうえに戦っても弱い、子供まで捨てる、と劉邦は見放されていきました。
別動隊・韓信が敷いた「背水の陣」の狙い
一度ボロボロになった劉邦ですが、逃げる途中の潯陽という場所で立て直しを図り、籠城して項羽の攻撃を防ぎます。前回触れたように、秦側の国力を背景に、本国から増援や食料の救援を受けられたことが効きました。
一方、韓信は別動隊として動いていました。項羽側に寝返った勢力を倒す任務を負い、劉邦が項羽の本軍を防いでいる間に各地を攻めていきます。
韓信が戦っていたのは、趙や代といった、項羽に寝返った勢力でした。ここで有名な「背水の陣」のエピソードが登場します。
韓信は数万の兵で趙を討とうとします。趙王は兵を集め、兵力30万と称して迎え撃ちました。実際に30万いたかはわからないと深井さんは補足します。
趙軍の将軍・李左車は、韓信の補給線が長く伸びているため、補給を断って戦うべきだと趙王に進言します。しかし趙王は謀略を嫌う性格で、この策を採用しませんでした。
向こうから潰したいタイプね。項羽タイプなのかな。
韓信は密偵を送って内情を探り、李左車の策が採用されなかったと知って大いに喜びます。もし採用されていたら危なかったと考えていたわけです。
韓信は夜に騎兵2000を選び、一人ずつに赤い旗を持たせ、山に隠れて趙の軍営を遠くから見張らせます。この赤い旗は韓の旗で、「韓軍がここにいる」という意味を持ちました。
韓信は兵たちに、こう指示します。趙は本隊が敗走するのを見れば、必ず城壁を空にして追撃してくる。そのとき赤い旗を城壁に立てよ、というものです。
さらに副将には手軽な食事を配らせ、兵にこう言います。
今日は趙軍を破ってからみんな一緒に会食しようぜ。
そのうえで韓信は兵1万を先発させ、川を背にした「背水の陣」を敷きます。背中が水で後退できず、逃げ場のないこの陣は、兵法では最悪の手とされていました。
3万と称する敵に対して劣勢なのに、あえて最悪とされる陣を敷いた韓信を見て、趙軍は「兵法を知らないバカだ」と侮ります。
樋口さんは、この一文は「韓信は兵法を知らない」という侮りと驕りが趙軍に生まれたことを示すとも読めると補足します。韓信が後に実績を出したからこそできる解釈です。
城を空にさせ、旗のブラフで趙軍を崩す
夜明けに趙軍が城門を開いて出撃すると、韓信はすぐ負けたふりをして、背水の陣まで趙軍をおびき寄せます。激戦になり、趙軍は城壁を空にして兵を送り込みました。
この作戦のポイントを、深井さんは複数に分けて説明します。1つ目は、相手に「自分たちはバカだ」と侮らせ、城を空にしてもリスクがないと思わせることでした。
2つ目は、味方に逃げ場をなくして必死で戦わせることです。逃げ場がなければ、戦うか死ぬかの二択しかありません。これは項羽が使ったのと同じモチベーションの上げ方だと樋口さんは指摘します。
3つ目が、伏せておいた騎兵2000で城壁に赤い旗を一斉に立てることでした。旗が2000本も立つと、趙軍は2000以上の未知の軍が城を占拠したと錯覚し、降伏してしまいます。
えー、ハッタリやん。ブラフというか。
相手より大きい軍と戦うといっても、実際には全軍とまともにぶつかっているわけではありません。時間を稼ぎ、全員を城から出させた間に、ブラフで相手のメンタルをくじく作戦だったわけです。
この背水の陣について、樋口さんは人の命を何とも思っていないから成立する作戦だと語ります。さらに深掘りすると、当時の韓信の兵は練度が低かったと言われています。
韓信は自分の軍から精鋭兵の多くを劉邦へ送っており、手元の兵は素人同然でした。だからこそ、兵を死地に追い込み、命がけで戦わせるしか勝機はなかったと、韓信自身が戦後に将官へ語ったと伝わります。
樋口さんは、この背水の陣が中国の小学校の道徳の教科書に載っていたと振り返ります。当時は「韓信すごい」という教え方だった記憶があるものの、大人になって学び直すと載せてはいけない話だと感じると語りました。
戦わずに勝つ〜降した敵将から次の策を聞く韓信
深井さんは、韓信が密偵を送り、相手がどの作戦を採用し、採用しなかったかまで把握していた点に注目します。相手の性格やブラフの効き方まで読んだ、徹底した情報戦だったという見方です。
戦いの後、韓信は捕虜になった李左車を殺しません。むしろリスペクトしていると伝え、味方に引き入れます。さらに、次に燕や斉を討つにはどうすればよいかを李左車に尋ねました。
李左車は「負けた軍の捕虜の言うことは聞くべきでない」と辞退しますが、韓信は請い、その策で勝利します。その策は「戦わなくても勝てる」というものでした。
これは孫子の兵法で最高の策とされます。韓信の軍は疲れているから休養させ、趙の民や孤児にも食事を振る舞って民心を治め、燕には弁士を送って計略で降伏させる、という流れでした。
使者を斬って退路を断つ〜黥布の寝返らせ方
もう一つの大きな変化として、黥布黥布 ── 項羽のもとで活躍し十八王の一人になった武将。もとは黥布と呼ばれる犯罪集団の出身で、罪人として顔に墨を入れられていたとされる。英布とも表記される。の動きが語られます。顔に墨を入れられた犯罪者出身の黥布は、項羽のもとで王になっていましたが、次第に項羽と不仲になっていました。
劉邦は使者を送り、この黥布を自分の側につくよう説得します。その使者の名は随何といい、「いずれに従うか」という意味だと深井さんは紹介します。司馬遷が遊び心で付けたのではないかという話です。
ちょっと司馬遷楽しんでない?
随何は黥布を説得しに行きます。ちょうどそこへ項羽の使者が来ると、随何はいきなりその使者を斬り殺してしまいました。
これは、黥布がもう項羽とは仲良くなれない状況を作り、劉邦につくしかないと追い込むための行動でした。この一手で黥布は劉邦軍につきます。
切羽詰まった人たちってこうなっていくんだなっていう。
樋口さんは、この時代のスピード感を「バッファがない」と表現します。一つ一つの小さな情勢判断で結果が大きく変わる、余裕のない世界だという見方です。
使者も弁士も、毎回命がかかっています。ワードを一つ間違えれば相手の王が怒って殺されるかもしれず、何が地雷かもわかりません。
樋口さんは、これは戦国時代だけの話ではなく、専制君主の時代そのものの特徴だと指摘します。臣下は独立した人格を原則として持ってはならず、諫めるにも命がけだったのです。
足を洗いながらの面会と、残された妻子の末路
劉邦軍についた黥布は、随何にうながされて楚を攻めますが、一度負けてしまいます。その後、自分の領地を捨て、一将軍として劉邦のもとへ合流に向かいました。
劉邦は、侍女に足を洗わせながら黥布と面会したと伝わります。黥布は「全然なっていない、自分を舐めている」と一度は落胆しました。
ところがその後、王宮に招かれるとたいへんな厚遇を受け、黥布は喜んで劉邦についたと残っています。深井さんは、足を洗いながらの面会は劉邦が失礼だと気づいていなかっただけで、厚遇のほうは部下が裏で準備したのだろうと見ています。
一方、黥布が捨ててきた旧領は楚に併合され、そこに残っていた妻子は項羽側の武将に皆殺しにされてしまいます。使者を斬った時点で、黥布の判断の中には妻子が死ぬことも織り込まれていたことになります。
命かけて来てんすよ、こっちはっていうね。
范増を追い出した陳平の離間工作
話は項羽側のブレーン・范増に移ります。范増は鴻門の会で何度も項羽に「殺せ」と目配せしたのに殺してもらえず、「このクソガキが」と怒った人物で、項羽軍でほぼ唯一のブレーンでした。
劉邦は潯陽で籠城を続けますが、食料が乏しくなってきます。そこで一度、潯陽より西を漢の境界とする講和を持ちかけますが、項羽は許しませんでした。
項羽が講和を許さなかったのは、范増に説得されたためです。范増は、劉邦軍の食料が尽きかけている今こそ討つ絶好の機会で、逃せば必ず悔やむと進言しました。鴻門の会の二の舞を恐れたわけです。
窮地に陥った劉邦は、謀略に長けたブレーンの陳平を呼びます。陳平は、項羽の側近たちの間に不信を生じさせる「離間の計」を提案しました。
この状況をどうすればいい。
劉邦 さんからの質問
項羽は非常に疑り深い性格なので、大量の黄金を用意してくれれば、側近たちの間に不信を生じさせられます。内部を混乱させたうえで総攻撃すれば、楚軍を打ち破れるはずです。
劉邦はすぐに4万金の黄金を陳平に渡し、使い道は一切問わず好きに使わせました。深井さんは、実際は金ではなく銅だったらしいと補足します。
もうお前に全部任せるわつって陳平に任せた。
陳平の工作は手が込んでいました。項羽の使者が来ると、まず第一等のごちそうでもてなします。ところが使者の顔を見るなり、陳平はこう言って料理を下げ、粗末なものに差し替えました。
わあ、と。范増の使者かと思ったら項羽の使者なんですね。
使者はこの一件を項羽に報告します。「范増の使者かと思ったと言われ、その後料理が粗末になった」という報告です。すると項羽は、范増が敵と通じているのではと疑い始めます。
重要なのは、それが又聞きである点だと深井さんは指摘します。項羽自身はディテールを見ていないため、疑心暗鬼が加速するしかありません。項羽はこの策にかかり、范増の権限を取り上げてしまいます。
范増は激怒し、天下のことはほぼ定まった、あとは自分でやってくれと言い残して去りました。原文では「好自為之」という四字が使われています。
項羽はこうして唯一のブレーンを失います。范増は彭城へ帰る途中、病気で亡くなりました。深井さんは、陳平の謀略が単純ながら効果的で、項羽がその単純な策にしっかりはまってしまった点を指摘します。
陳平がこうした工作をできたのは、もともと項羽側にいて裏切ってきた人物だったからです。項羽がどう言えば范増を疑うか、そのディテールまで知っていたわけです。
巻いた会社の内情をベラベラね、喋ってるみたいな。
影武者で逃げ、補給線を叩く持久戦へ
離間工作には成功したものの、劉邦の状況は好転しません。食料が乏しくなり、いよいよ危うくなってきます。
ここでも陳平の策略が使われます。女子2000人に鎧を着せて兵士に扮させ、部下の紀信に劉邦の格好をさせて捕らえさせ、その間に劉邦は別の場所へ逃げました。
影武者となった紀信は、身代わりだったことがバレて火あぶりの刑で殺されてしまいます。自分が生き残るためなら囮も辞さない点に、劉邦のプライドのなさが表れていると深井さんは語ります。
劉邦は燕へ逃げますが、そこも項羽に攻められます。このとき、劉邦側の彭越がゲリラ的に項羽の補給線を攻撃していました。彭越自身は項羽に負けますが、補給線を叩き続けたことが後で大きく効いてきます。
彭越を敗走させた項羽は、劉邦がすでに逃げた後の京陽城も陥落させ、守将の周苛を生け捕りにします。項羽は「我が軍につけば上将軍として3万戸を与える」と誘いますが、周苛は項羽を罵り、煮殺されてしまいました。
これは罵った時点でもう終わりですかもんね。
社長のプロジェクトは苦戦、営業部長は絶好調
一方の韓信は進撃を続け、他国を次々に倒し、項羽の周辺までバンバン落としていました。項羽が劉邦を攻めて劉邦がタジタジになっている裏で、韓信だけが勝ち進んでいる、という2つの局面が並行します。
樋口さんは、この構図を会社にたとえます。社長直属のプロジェクトが苦戦する一方、営業部長のプロジェクトが絶好調という状況で、後々いろいろなことを引き起こすと語りました。
劉邦は、趙にいる韓信に早く助けに来いとずっと思っていました。しかし韓信はなかなか動きません。しびれを切らした劉邦は、使者と偽って韓信の本陣まで直接乗り込みます。
劉邦は韓信の寝室に勝手に入り、軍を動かすための印綬を奪います。そのうえで兵の配置換えを勝手に行い、精鋭兵を自分の軍に編入してしまいました。
もうその営業部長の部下を勝手に社長の直属プロジェクトに引っ張ってくるっていうね。
劉邦は、こうして韓信から調達した精鋭兵で、項羽に正面から当たるのではなく防御を固めます。彭越を援護しながら項羽の補給線を叩き、軍糧を焼くといった持久戦の動きに移っていきました。
韓信の「斉王にしてくれ」が残したしこり
韓信は斉も攻めます。上流をせき止め、敵が川を渡っている間に一気に水を放つ水攻めで、斉を倒しました。
斉を倒した後、韓信は自分を斉王にしてほしいと劉邦に求めます。劉邦は激怒します。自分が攻められて大変なときに、自立して王になろうというのか、というわけです。
これを止めたのが張良と陳平でした。今はきわめて不利で、韓信が王になるのを止めるのはもう無理だ、望むまま王にして斉を守らせ、そこから支援を受けたほうがよい、と諭します。
劉邦は大盤振る舞いで韓信を斉王に立て、改めて斉で兵を集めさせ、韓信に楚を討たせる作戦に出ます。ただし深井さんは、劉邦の中には感情的なしこりが残り、最後までこの一件を怒っていた節があると見ています。
樋口さんは、このエピソードをさらに深掘りします。当時の韓信は、独立すれば項羽・劉邦・韓信の三国時代になったと書く学者もいるほど、情勢を左右するキーパーソンでした。
韓信の「斉は裏切りやすい国だから、強い自分を王に置くべきだ」という理屈は、統治の面では間違っていなかったと樋口さんは補足します。問題は、それを劉邦に自分から言った点でした。
専制君主の時代には、臣下が自分の口から王位を求めるのは調子に乗りすぎと見られかねません。他人に言わせるか、劉邦自身に言わせるべきだったという指摘です。
自分の口からその王の位を要求したらダメなんです。
深井さんは、この構図を現代の組織にもたとえます。斉王になるとは自治権や独立した軍を持つことであり、劉邦の傘下ではあるものの、いわば口約束のグループ企業のような立場でした。
実力が上回れば、韓信は望めば余裕で反乱できる立場になります。だからこそ劉邦は強く怒り、その怒りを韓信本人に伝えないよう配慮したのが張良らでした。
現状を整理すると、劉邦はボロボロで死にそう、項羽は本人は強いが補給を断たれて少しずつ弱り、韓信だけがめっぽう強い状態です。次回、ついに最終決戦を迎えます。
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まとめ
彭城で調子に乗った劉邦が一日で大敗し、諸将は勝ち馬と見た項羽に流れます。その裏で、韓信は背水の陣とブラフで格上の趙軍を崩し、陳平は離間工作で項羽から范増を引き離しました。武力の正面衝突だけでなく、情報戦と謀略で勝ちにいく局面が語られた回です。
- 彭城の戦いで、数で勝る劉邦軍が3万の項羽軍に一日で総崩れになり、劉邦は子供を捨てるほど必死に逃げた
- この大敗で勢力図が動き、諸将は「勝ち馬」と見た項羽側へ流れた
- 韓信の背水の陣は、敵を侮らせ城を空にさせ、味方を決死で戦わせ、旗のブラフで崩す情報戦だった
- 劉邦は使者を斬らせて黥布を寝返らせ、影武者で逃げ、韓信の兵まで奪うなど、生き残りのためなら手段を選ばなかった
- 陳平の離間工作で范増を失った項羽と、斉王を求めてしこりを残した韓信を抱える劉邦の対比が、次の最終決戦の伏線になる







