兵力で劣る日本軍は、なぜ沙河会戦で優勢に立てたのか
前回までの日露戦争編では、203高地の攻略を経て旅順要塞が陥落するところまでが語られました。今回の深井さんは、旅順の第2回総攻撃の直前、1904年10月ごろの満州北方へ時計を戻します。
北方の戦線には、日本の第一軍や第二軍といった本軍がいました。遼陽会戦のあと、日本軍は敗走するロシア軍を追撃できず、戦力の補充にも手間取っていることをロシア軍に知られてしまいます。
勢いを取り戻したロシア軍の司令官クロパトキン ── 日露戦争でロシア満州軍を率いた陸軍軍人。露土戦争で名を上げ、陸軍大臣を務めたのち極東の総司令官になりましたは、10月2日に「今やロシア軍は攻勢に出る時が来た」と告げます。このときの兵力はロシア軍19万5000、日本軍13万1000で、数ではロシア軍が明らかに優勢でした。
ロシア軍は、遼陽の北に展開する日本軍を沙河という小さな川の左岸に押し返そうと南下してきます。日本軍は弾薬の補充が不十分で、攻めるか守るか方針が揺れましたが、戦力を結集して備えることにしました。
沙河会戦でのロシア軍は偵察しながらゆっくり前進したため、その間に日本軍は準備を整えられたといいます。日本軍は10月10日から攻勢に転じ、一進一退を繰り返しながら、全体として優勢になっていきました。
えー、(兵力に)結構差があるのに。
これね、結構日本軍って強いんだよね。あと、ロシア軍がやっぱり弱いんだよね。
深井さんによれば、沙河会戦のロシア軍は全体の連携が欠けていました。クロパトキンは全軍を統一して動かそうとしたものの、そのスキルはなかったとされています。
通信を活用し、師団の交代などでも指揮系統に乱れが少なく、無駄のない動きができた
全軍の統一運用に失敗し、各地から送られた兵士が訓練や経験を積まないまま投入され、練度が低かった
沙河会戦は10月20日まで、10日間ほど続きました。数字の上でもロシア軍の損害のほうが大きかったことがわかります。
沙河会戦は日本軍の勝利でしたが、弾薬がないために敗走するロシア軍を追い詰める力はまたしてもありませんでした。この後、満州北方の戦況は一度硬直します。
楊さんは、前回紹介した児玉源太郎 ── 満州軍総参謀長として日露戦争の作戦を支えた陸軍軍人。前回、旅順攻略の場面にも登場しましたがトイレにこもって言い訳を考えた話が、ちょうどこの沙河会戦後の膠着期にあたると補足します。
『坂の上の雲』の主人公、秋山好古はどんな豪傑だったのか
深井さんはここで、騎兵隊を率いた秋山好古を紹介します。秋山好古と弟の秋山真之は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公として描かれ、日露戦争の人物としてとても有名です。
戦争全体を見渡すと、この二人が別にめちゃくちゃな英雄なわけでもないし、この二人だけで勝ってるわけでもなくて、みんながみんな頑張ってるっていう感覚なんですけど。
深井さんはそう前置きしたうえで、有名だからこそスルーせずに紹介すると話します。沙河会戦で日本軍の左翼にいたのが、秋山好古の部隊である秋山支隊でした。
秋山好古は沙河会戦でコサック騎兵 ── 現在のウクライナ周辺などを拠点とした騎馬集団コサックを中心とする騎兵。ロシア帝国の精強な騎兵として知られていましたの大集団を発見し、騎砲や機関銃、小銃で迎え撃って退却させます。強いと言われたコサック騎兵に勝ったことで、秋山好古は名を上げました。
騎兵隊は主力というより、偵察や斥候、後方攪乱を担う部隊です。秋山好古の部隊は1600キロ以上を移動し、破壊や攪乱の活動に従事したといいます。
沙河会戦後、秋山支隊の司令部は薄汚れた民家に置かれました。秋山好古は地図と酒と漬物さえあればよく、明かりがなくても、寒風が入っても、南京虫に刺されても、シラミが湧いても気にしなかったそうです。
副官の人がいくら風呂に入ってくれと勧めても入ろうとしなかった。「戦地に湯に入りに来たのじゃない」(と)言ってたそうです。
楊さんは南京虫に刺された経験があり、気が狂うほど痒いと話します。そのうえで平然としていた秋山好古について、深井さんは「集中したことにしか集中しない豪傑」と表現しました。
秋山好古にとって酒は燃料のようなもので、戦場では側近の綿貫の水筒から酒を飲み、タバコの火は山内に点けさせていたといいます。深井さんは批判ではなく、わかりやすく面白いキャラクターとして秋山好古を紹介しています。
零下の満州で、日露の兵士はなぜ交流したのか
沙河会戦が1904年10月に終わると、日露双方は戦力の回復に努め、満州の荒野でそのまま冬を迎えます。気温は時に零下15度まで下がり、両軍は塹壕を掘って対峙しました。
満州には適当な住居も少なく、両軍の兵士は穴を掘って薪や炭火で暖を取りながら暮らしたといいます。2月に開戦し、5月ごろから本格化した日露戦争は、ここで初めて本格的な冬を迎えました。
ロシア人って寒さにめちゃくちゃ強いんですよ、マジで。はい。ここがちょっとね、読みが甘かったとこなんですよね。
楊さんは余談として、冬の膠着期に現場の日本兵とロシア兵のあいだで馴れ合いが生まれたと紹介します。最初はタバコ程度だった物の交換が、次第にいたずら書きの交換にまでエスカレートしたそうです。
え、その、ちょっと待ってください。え、だって撃ち合ってるわけでしょ?
深井さんは、冬は寒くてまともに戦えないため「今は戦わないよね」という感覚があったと説明します。日本兵が歩哨の持ち場から帰ると、入れ替わりで同じ場所にロシア兵が立つこともあったといいます。
仲間とかバンバン殺された相手の兵士とやってんですよね。それ。
真冬の黒溝台で、日本軍はなぜ大苦戦したのか
冬の間、日本の満州軍総司令部は、雪が溶けたら決戦をし、それまでは弾薬の集積と、旅順を終えた第三軍の到着を待つつもりでした。「こんな寒い時にロシア軍は動かないだろう」という読みです。
しかしロシア軍はシベリア鉄道で軍と物資を奉天に集め、兵力は25万人を超えていました。そして1905年1月24日から4日間、真冬に黒溝台の戦いが起こります。黒溝台の戦いは、のちの奉天会戦の前哨戦と位置づけられています。
満州軍総司令官の大山巌 ── 日露戦争で満州軍総司令官を務めた陸軍軍人。薩摩出身で、児玉源太郎とともに陸の作戦全体を統べましたと児玉源太郎は、厳冬期に大規模作戦はないと考え、ロシア軍の動きを完全に見誤っていました。ロシア軍を2個師団程度と見て少数を派遣したところ、ロシア軍は歩兵だけで9万の大軍でした。
好機と見たロシア第二軍のグリッペンベルク将軍がさらに攻勢をかけ、1月25日の夜には黒溝台が占領されます。一方でロシア軍は秋山好古の部隊を過大に評価し、沈旦堡への侵攻を慎重に進めました。
沈旦堡という地名を読む場面では、深井さんが思わず笑い出し、樋口さんが「なんで笑ったんですか?」とツッコむ一幕もありました。
ロシア軍の連携の悪さに乗じて、日本軍は攻撃された地点に戦力を集中できるようになっていきます。それでも氷点下20度近い極寒と風雪の中、3日間の激しい戦闘は、これまでのように簡単には勝てないものでした。
「まあええよ」「どうしようもないよ」秋山好古の胆力がロシア軍を退かせた?
黒溝台の戦いで沈旦堡を守っていたのは、秋山支隊の豊部豊部の部隊でした。豊部豊部は馬の死傷が多いため、馬を後方へ移したいと秋山好古に願い出ます。
これを好古は許さずですね、「兵は馬と一緒に死ぬるのじゃ。下げてはいかんと言え」って言ったそうです。
豊部豊部支隊だけで馬の死傷は150頭に及びました。それでも秋山好古は、馬を下げれば死守の覚悟が鈍ると判断したといいます。
戦況視察のため危険な騎砲兵陣地に出ようとした秋山好古は、副官に止められても「まあええよ」と言って出て行ったそうです。部下には、その姿が軍神のように頼もしく見えたといいます。
地面が凍ってロシア兵の遺体を埋められず、雪で覆っても風で露わになる場面では、秋山好古が「敵のやつ、いつの間にか来て、自分で勝手に死んでいるぞ」と大笑いしていたという逸話も紹介されます。深井さんはこれをブラックジョークだと評しました。
やがて秋山好古の部隊は敵に囲まれる窮地に立ちます。様子を見に来た満州軍総司令部の田村守衛が目にしたのは、猛攻の中、水筒のブランデーを飲みながら地図の前にあぐらをかく秋山好古でした。
「これからどうなされますか?」って言ったら、「どうしようもないよ」って言ったらしいです。
やばいやばいやばい。酔っ払いやん、もう。アル中やん。
深井さんは、秋山好古が腹の据わった人物だったと受け止めます。のちに秋山好古は、敵が突入してきたら自決するつもりでピストルに弾を込めていたと語ったそうです。
普段は援兵を求めなかった秋山好古も、弾を撃ち尽くしたこのときは助けを求めました。ところがロシア側は、逃げずに居座る秋山好古の部隊を過大評価し、クロパトキンが退却命令を出します。
好古としてはもうどうしようもないよって言ってんのに、めちゃくちゃ勝ってるロシア軍の方がビビって退却しちゃうんですよ。
ロシア軍の中では珍しくやる気のあったグリッペンベルクは、勝っているのに退却させられたことに激怒し、サンクトペテルブルクへ勝手に帰ってしまったといいます。
なんかもう明らかに負けるとわかってるのに、なんかいるやつめちゃくちゃ怖いですね。
日本の誤算
厳冬期に大規模作戦はないと読み、ロシア軍の兵力を見誤って大苦戦
秋山支隊の粘り
弾が尽きても沈旦堡周辺に居座り、ロシア軍が兵力を過大評価
ロシアの退却
クロパトキンが退却を命じ、日本軍は勝利を得る
黒溝台の戦いの参加兵力や死傷者について、書き起こしでは具体的な数字が聞き取れていません。深井さんは、毎回のように何万人という死傷者が数えられていることの重さに触れています。
楊さんは、凍った土を手で掘り、饅頭ほどの土を盛って弾よけにしたまま撃たれて戦死した日本兵がいたと語ります。寒さで硬直した遺体は、直視できない悲惨さだったそうです。
のちに大山巌は、黒溝台の戦いで殲滅されるものと覚悟したと語りました。深井さんは、黒溝台こそが日露戦争最大の危機だったと位置づけています。
人類史上最大の奉天会戦は、なぜ日本から仕掛けたのか
黒溝台の戦いのあとで砲弾はまたも尽きましたが、約1か月後、日露戦争最大の戦闘である奉天会戦が起こります。奉天会戦を望んだのは、実は日本側でした。
奉天にはすでにロシア軍25万が集まり、これ以上増えれば勝てなくなります。日本は準備不足のまま、援軍が増えないうちに速攻で叩く先制攻撃を決断しました。
大山巌は奉天会戦を「日露戦争の関ヶ原なり」として、全戦役の決戦を期すと全軍に檄を飛ばします。戦場は左右150キロ、前後80キロに広がり、深井さんは左右が東京から静岡、前後が東京から小田原くらいの距離だとたとえました。
深井さんは、中国古代の戦争で語られる100万規模の数字は疑わしいとしたうえで、奉天会戦を史実に残る人類史上最大の会戦だと話します。
奉天会戦は日本がなんとか勝ちましたが、日本側の死傷者は7万28人、ロシア側は9万人でした。両軍合わせて57万人のうち3割、つまり3人に1人が死傷した計算になります。
勝っていたはずのクロパトキンは、なぜ後退を選んだのか
奉天会戦で兵力に勝るロシア軍が負けた理由として、深井さんはクロパトキンの後退の決断を挙げます。楊さんは、戦術的な事情を説明しました。
今までの戦場っていうのは全部線路の近くなんですよ。この線路はずっとシベリア鉄道につながってるんですよね。
日本軍の迂回
日本軍がロシア軍の背後に回ろうとする
分断の恐れ
シベリア鉄道につながる線路とロシア軍が切り離される
孤立の危険
援軍も武器弾薬も届かず、満州で孤立してしまう
後退
背後に回られないよう、クロパトキンが後退を決断
ただし楊さんは、兵力で勝るクロパトキンがなぜその決断をしたのかはよくわからないと話します。死に物狂いで戦えば日本軍を殲滅できた可能性もあったからです。
深井さんは、ロシア軍の士気が日本軍ほど高くなく、クロパトキンに勝つ自信があまりなかったのではないかと推測します。クロパトキンは露土戦争 ── ロシアとオスマン帝国のあいだで繰り返された戦争の総称。ここでは1877〜78年の戦争を指すと考えられますで参謀長として成功し、国民的ヒーローになった人物でした。
陸軍大臣を経て満州派遣軍の司令官となったクロパトキンでしたが、退却によって汚名をかぶり、戦いの途中で罷免されます。戦後は国民の罵声を浴び、晩年は小学校の教師になったそうです。
でもね、天寿を全うできただけでもね。
楊さんはさらに、日本側の撃滅失敗には第三軍への作戦指示が不明確だったという説もあると紹介します。大山巌は乃木希典に、全滅を期してでも目的を遂行せよと直接伝えました。
ところが満州軍総司令部から第三軍司令部に届いた命令は、第三軍はサブとして動くように、という内容だったといいます。この食い違いによって第三軍が力を出し切れなかった、という見方です。
追撃できない日本軍と、戦場になった中国の人々
奉天会戦のあと、ロシア軍は全戦線で北方の鉄嶺 ── 奉天の北、鉄道沿いにある都市。奉天会戦後にロシア軍が退却した方面です方面へ撤退し、日本軍は奉天とその周辺を占領しました。しかし日本軍は奉天会戦ですべての弾を撃ち尽くし、追撃できませんでした。
ずっとギリギリやな。
深井さんは、日露戦争での日本の基本戦略は、送られてくるロシア軍を少しずつ撃滅していくことだったと振り返ります。その戦略が失敗したことで、日本は「負けはしてないが、勝ってもいない」状態に置かれました。
ロシア軍は総兵力の4分の3を温存したまま北へ撤退していました。深井さんは、この状況での日露両国の立場の差を具体的に説明します。
本国に近づくほど武器や兵員の補充が容易になり、本国にもかなりの陸軍予備兵力が残っている
北へ追うほど補給線が伸び、予備兵力は残っておらず、砲弾も指揮官も不足している
残機がない。
将校クラスの指揮官も多く戦死し、部隊の質はどんどん落ちていました。これ以上の戦争は日本にとってかなり難しい状態になっていたのです。
深井さんはもう一つ、奉天会戦の戦場が中国だったことを強調します。民家を無視して戦争が行われ、村全体が破壊されたり、不発弾や砲弾、火災で子どもや農民が亡くなったりしました。
普通にそうやなんかロシアと日本のことしか考えてなかったけど。
日本政府はどんな条件で講和を探り始めたのか
ロシア軍は秋までに大軍をハルビン付近に集め、日本軍を粉砕することを狙っていました。集結させる兵力の数字は、書き起こしでは聞き取れていません。
日本は戦えば戦うほど苦しくなる一方でした。そこで日本政府は、開戦翌年の春の時点で閣議決定をし、講和によって戦争を終わらせる方針を固めます。
深井さんによれば、日本が講和で求めようとした条件は、絶対条件と、できれば実現したい条件に分かれていました。絶対条件として挙がったものは次のとおりです。
- 大韓帝国を日本の自由処分に委ねるとロシアに約束させる
- 満州から日露両軍が引き揚げる
- 遼東半島の租借権と東清鉄道の支線を日本に渡す
できれば実現したい条件としては、戦費の賠償金、中立港に逃げ込んだロシア艦船の引き渡し、サハリンと付近諸島の割譲、沿海の漁業権が挙がっていました。
バルチック艦隊の来襲で、なぜ日本は「全勝しないと負け」だったのか
講和はすぐには実現せず、ロシアのバルチック艦隊がついに日本海へ迫ります。樋口さんが「中ボス?ラスボス?」と尋ねると、深井さんは「ラスボスですね」と答えました。
バルチック艦隊に連合艦隊が負ければ、補給を断たれた満州の陸軍は孤立します。ロシア軍は増強を続けられる一方、弾薬ゼロの日本はここまでの戦いが無駄になり、日露戦争に負けることになります。
深井さんは、日本が格上の相手に対して全勝しなければ負けという戦いを強いられ、みんなで必死に頑張っていたと強調します。次回、東郷平八郎 ── 日露戦争で連合艦隊司令長官を務めた海軍軍人。日本海海戦でバルチック艦隊を迎え撃ちましたのもとで戦う日本海海戦で、日露戦争はようやく決着を迎えます。
でも最後の最後の日本海海戦、ここまで勝ち続けて、これで負けたら全て終わりみたいなやつが最後にあるんですよ。これやばくないですか?
一気に聴いてる人も戦ってるんですよね。いやー、ちょっとマジで結末を知らないので。
まとめ
沙河、黒溝台、奉天と続いた北方の会戦で、日本はロシア軍の連携の悪さやクロパトキンの消極的な判断、秋山好古のような指揮官の胆力に助けられながら勝ち続けました。しかし弾薬も予備兵力も尽き、追撃できないまま講和を探ることになり、最後の日本海海戦が「負けたら全て終わり」の一戦として待ち受けます。
- 沙河会戦では、兵力で劣る日本軍が通信と統制のとれた動きで優勢に立ったが、弾薬不足で追撃できなかった
- 真冬の黒溝台の戦いは大山巌が殲滅を覚悟したほどの危機で、秋山好古の部隊の粘りをロシア側が過大評価したことが退却につながった
- 人類史上最大とされる奉天会戦でも日本は勝ったが、両軍の3割が死傷し、戦場となった中国の人々にも多くの犠牲が出た
- 予備兵力も砲弾も尽きた日本は講和へ動き、全勝しなければ負けという条件で日本海海戦を迎えることになった





