すでに国が割れた状態で始まった大統領任期
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リンカン編第12回では、前回までの流れを受けて南北戦争の勃発が語られます。リンカンは大統領に当選したものの、就任までの間に南部の州が次々に連邦を離脱し、南部連合が結成されていました。
南部連合の創設宣言の4日後、リンカンは首都ワシントンへ向けて出発します。イリノイ州の州都スプリングフィールドを離れる時点で、選挙に勝った国はすでに分裂している状態でした。
見送る友人にリンカンが伝えたお別れの言葉が記録に残っている、と深井さんは紹介します。
私は今、いつ帰れるのか、あるいは今日そのものが叶うのかさえわからぬ中で、初代大統領ワシントンが背負った以上に困難な仕事を負うべく、青年時代からの地を離れようとしている。
この言葉について深井さんは、就任すらしていない段階で「絶対にやばい」と感じているのが伝わると指摘します。すでに分裂という問題が起きている中で、その渦中に飛び込まざるを得ない立場になっていたためです。
リンカンは厳冬の中、特別列車で妻メアリー・トッドと幼い息子2人とともにワシントンへ向かいます。長男はハーバード大学に入学して独立しており、次男は幼い頃に亡くなっていたと説明されます。
何もしなかった前政権と、ボロボロの引き継ぎ
選挙で勝ってから実際に就任するまでの数ヶ月間は、まだ民主党政権でした。当時の大統領は北部出身のジェームズ・ブキャナンでしたが、南部7州が連邦施設を接収したり新国家を宣言したりしても、何のアクションも起こさなかったと深井さんは述べます。
南部が兵器庫や税関、郵便局などを接収していくのを見ても、連邦としては何もしないという姿勢だったとされます。
その理由として深井さんは、民主党が南部寄りの感覚を持っていたことに加え、辞めるのが決まっている中でこのタイミングで恨みを買いたくない心理もあっただろう、と推測します。
(トラブルは)そんな一日二日で片付けられるようなトラブルじゃないからね。
なお、このブキャナン大統領は、江戸幕府の使節として勝海舟や福沢諭吉が咸臨丸でアメリカを訪れた際に面談した相手だと深井さんは補足します。
リンカンが引き継いだのは、本にも「難破船に近かった」と書かれるほどのボロボロの政府でした。大統領が就任できないのではないか、これで連邦は終わりではないか、リンカンが殺されるのではないか、といった噂が飛び交う中での就任だったと語られます。
就任演説で示した「連邦維持」という大義
リンカンは大統領就任演説で、奴隷制度が現存している州の奴隷制には直接的にも間接的にも介入しない、と宣言します。すでに南部が離脱してしまっているためやや遅いものの、あなた方はそのままでいい、という趣旨でした。
その上でリンカンは、いかなる州も勝手に連邦を離脱することはできず、断固として連邦を維持するという決意を示します。離脱すると言った南部に対し、離脱はできないと返した形です。
私たちは敵ではなく友人である。激情が緊張をもたらすことがあっても、私たちの愛情の絆を切ってはならない。
ここで楊さんは、リンカンの大義の立て方が「連邦維持」であって「奴隷制廃止」ではない点を指摘します。深井さんはこれを、この回で最も重要なポイントの一つだと強調します。
つまり南北戦争は、奴隷制というトピックをめぐって起きた分離が問題視されて始まった戦争であり、深井さんによれば南北戦争は「分離」がやばくて起こるのであって、奴隷制そのものが直接の開戦理由ではないということです。
なぜ「連邦維持」がそこまで重い大義だったのか
連邦を維持するため、リンカンは武力行使もやむなしという立場を固めていきます。連邦が南部と北部に分かれてしまえば、国際競争力が下がるという実利的な理由もありました。
ただし深井さんは、それだけではないと言います。独立戦争や米英戦争を経て、アメリカが一つの国であったという感覚が、利害を超えて一種の神話のようになっていたと解説します。
神話というと数千年前の話に聞こえますが、独立戦争からでもそう呼べるのか、という感覚はわかりにくいと深井さん自身も認めます。そこで持ち出されるのがスポーツチームのたとえです。
この3年間すごく一緒に頑張ってきたよねみたいなのがあったとするじゃん。(選手が)離脱するみたいになった時に、これからも一緒にやろうよみたいな感覚に近いと思います。
たった3年でも本人たちにとっては神聖性を帯びる。それと同じように、独立戦争やイギリスとの2度の戦争を共に戦った記憶が、アメリカにとっての神話になっていたという説明です。
砦への砲撃で戦争が始まる
楊さんは改めて、リンカンが立てた最優先の目標は連邦の統一維持であり、奴隷制度への直接的な攻撃は公にはしなかったと確認します。深井さんも、この段階では奴隷制の話は一切していないと応じます。
では戦争はどう始まったのか。サウスカロライナ州の中心都市チャールストンの港の入り口に、連邦の砦が残されていました。独立した南部の中に連邦軍が飛び地のように孤立しており、糧食が尽きつつあったのです。
砦の司令官ロバート・アンダーソン少佐は、孤立無援でも連邦への忠誠を誓っていました。リンカンはここで折れれば連邦の権威が失われると考え、閣僚会議の反対を押し切って補給船の派遣を決意します。
南部連合にとっては、独立を宣言した自国の真っただ中に他国が勝手に補給してくることは許せません。1861年4月12日、南部連合は補給船に対して砲撃を開始し、翌日には砦を陥落させます。
これをリンカンは反乱と見なし、公式に反乱と宣言して、南部連合に与する人々に反徒のレッテルを貼ります。楊さんは、大統領の戦時宣言で南部7州の反乱と徴税・通商への脅威を持ち出して敵認定したと補足します。
62万人が死ぬ内戦の、意外な「大義」
この戦争は終結まで4年間続き、両軍合わせて死者は62万人を超える近代史上最悪の内戦になっていきます。当時、戦争で62万人が死ぬことはほとんどありませんでした。
深井さんはここで繰り返し強調します。これは奴隷制のための戦争ではない、と。当時の北部の人々は黒人を差別しており、黒人奴隷を解放するために自ら血を流して戦うつもりなど全くなかったのです。
奴隷制を戦争目的にしたら、逆にこの戦争に対する支持が獲得できない可能性が高い。
さらにややこしいのは、奴隷制を維持したまま連邦に残った州もあったことです。深井さんはこれを「境界州」と呼び、楊さんは4州あると補足します。だからこそ「連邦維持」で全員のコンセンサスを得る必要がありました。
一方、南部の人々にとって、この戦争は「第二次独立戦争」のような感覚だったと深井さんは説明します。かつてイギリスがやってきた横暴な態度を、今度は独立戦争後に調子に乗った北部が取ってきている、という受け止め方です。
ガッカリした急進派 フレデリック・ダグラス
この「奴隷制のためではない」という北部のロジックに、急進的奴隷廃止主義者は納得できませんでした。彼らはアボリショニストと呼ばれます。
その代表格が黒人のフレデリック・ダグラスです。政敵スティーブン・ダグラスと名前が同じで紛らわしいものの、フレデリック・ダグラスは19歳のときに逃亡奴隷としてメリーランドからボストンへ逃れ、奴隷制の即時廃止運動に生涯を捧げた人物だと紹介されます。
楊さんは、彼の背中にはむち打ちの痕が残り、身長は180センチを超え、激しい気迫と知性、胆力を秘めた青年だったと本の記述を伝えます。父は白人、母は黒人で、生まれてすぐ母と引き離される、まさに奴隷の境遇を歩んだ人でした。
自由黒人として有名だったダグラスは、大統領選挙の頃、リンカンが奴隷制をめぐってスティーブン・ダグラスと激しく論戦するのを見て期待を寄せていました。ところが就任演説で「南部には何もしない」と聞き、拍子抜けしてしまいます。
(ダグラスは)ずっと頑張ってきたんですよね、この奴隷制廃止の活動。だんだんと焦りが出てきて、そこで出てきたのが共和党。そしてリンカーンが出てきて期待したんだよ。
楊さんによれば、なかなか事態が動かず焦りを感じていたダグラスは、共和党とリンカンに希望を託しました。それだけに「もっと突っ込め」という失望も大きかったのです。
「なし崩し的」に奴隷解放へ向かう構図
深井さんは、北部の人々は黒人のために死ぬほど戦いたいとは思っておらず、とにかく南部を引き戻したかっただけだ、と改めて整理します。そのためアボリショニストからは、リンカンは言葉の上で常に批判される立場に置かれていました。
しかし戦争が進むにつれ、大義は徐々に奴隷解放へと向かっていきます。深井さんはこれを「なし崩し的」だと表現します。
(奴隷制廃止を)どっかのタイミングで「よし」みたいな感じというよりは、徐々に「まあしょうがないか、やるか」ってなっていくんですよ。
教科書では、人道的なリンカンが強い意志で奴隷解放宣言を発表したように描かれます。しかし内実は、既成事実が雪だるま式に膨らみ、無視できなくなっていく過程だったと深井さんは言います。
その背景には戦争の長期化があった、と楊さんは指摘します。北部がなかなか勝ちきれず、むしろ負けていたことで、アボリショニストの声の影響力が増し、リンカンもそれを無視できなくなっていったという構図です。
兵士がいない 州任せの募兵と楽観的な三ヶ月
戦争が始まると、両陣営の最初の課題は兵士を集めることでした。当時アメリカに大きな常備軍はなく、1万人ほどしかいなかったと深井さんは説明します。
常備軍への反感が強いアメリカでは、州単位で強い募兵権が確立されていました。深井さんはこの常備軍への反感も、中央に権力を集めたくないセクト型の考え方の表れだと解説します。
リンカンは3ヶ月限定で7万5000の志願兵を招集し、翌月にも追加募集をします。「3ヶ月限定」という期間が、当時の楽観を象徴していました。3ヶ月で終わると思っていた戦争は、実際には4年かかります。
(志願兵は)3ヶ月限定って言ってるとかが、戦争どれぐらいで終わると思ってたかみたいなのを表してるんだけど、3ヶ月だと思ってたら4年かかるんだよね。
深井さんは、戦争は思ったより長くかかるのが再現性のある現象だと述べ、始める人ほどそう思っていた方がいいが、そう思うと始めづらくなるものだ、とも付け加えます。
東部戦線と西部戦線 二つの戦い方
戦争は大きく東部戦線と西部戦線に分かれます。東部戦線は東海岸側で、北部の首都ワシントンと南部連合の首都リッチモンドが約150キロしか離れておらず、互いに相手の首都を落とし合う戦いでした。
戦争を仕掛けているのは北部です。南部は勝手に独立しただけで、攻めてこられなければ戦う必要はありませんが、北部が南部の首都リッチモンドへ攻めていく形になっています。
もう一つの西部戦線は、アパラチア山脈以西で、ミシシッピ川流域や港をめぐる戦いです。深井さんは、南部の経済が綿花の輸出でほぼ成り立っている点に注目します。
港をすべて封鎖すれば南部は収入を失い、いずれ戦えなくなる。西部戦線はそのために港や河川を押さえに行く戦線だと説明されます。
ワシントンとリッチモンドという近接した両首都を落とし合う直接的な戦い
ミシシッピ川流域や港を押さえ、南部の綿花輸出という経済基盤を断つ戦い
南部連合に付いたネイティブアメリカン
楊さんは、南北戦争にネイティブアメリカンの主要部族も関わっていたと紹介します。チェロキーやチカソーといった人口の多い部族が、南部連合と同盟しました。
理由の一つは地理です。彼らは強制移住政策で現在のオクラホマ州中心部のインディアンテリトリーに押し込められており、そこが南部連合に囲まれていたため、同盟以外の選択肢が事実上なかったのです。
もう一つの理由は部族内部の階層でした。主要部族の上流階級には白人との混血が入り込み、彼ら自身が黒人奴隷を所有してプランテーションを営んでいたと楊さんは述べます。奴隷制の維持が上流階級の利害と一致していたわけです。
こうしたネイティブアメリカンの部族は南部連合と同盟し、斥候や補給物資の輸送、破壊工作といった任務に携わりました。
人口も工場も圧倒的 それでも南部が自信を持った理由
開戦当初、南北双方ともすぐに終わり、自分たちが勝つと思っていました。しかし数字を見ると差は歴然です。人口は北部が2200万人、南部が900万人しかいませんでした。
南部900万人の内訳は白人が550万人で、残り350万人は黒人奴隷でした。奴隷は当初どちらの陣営も従軍させていないため、南部の兵力はさらに少なくなります。工場数も北部11万に対し南部は1万8000で、5分の1ほどでした。
それでも南部が自信を持った理由の一つが、訓練された軍人の多さです。深井さんは、テキサスなどではカウボーイのように日常的に馬に乗る生活があり、工場労働とは違って軍事行動に近い暮らしから軍人が多く生まれた、と説明します。
(南部は)工場労働とかじゃなくて、馬とか乗っていろいろやってるんで、なんかいわゆる騎馬民族が強いみたいなのと同じ理屈で、最初から軍事行動に近い生活をしてるってことですね。
北部の敗北 ブルランの戦いで揺らぐ世論
最初の大規模戦闘は、1861年7月にワシントン郊外で起きたブルランの戦いです。南部の首都リッチモンドを攻めに行った北軍が、逆に南軍にボコボコにされてしまいます。
この戦いで、防衛戦術に長けたトマス・ジャクソン将軍が「ストーンウォール」(石の壁)とあだ名される英雄として登場します。北部は「すぐ勝てる」という見込みが甘かったと思い知らされます。
楊さんは、死者数も北軍3000、南軍2000と北軍の方が多かったと指摘します。すぐ勝てると期待していただけに、ショックは大きく、南部の独立を容認しない限り戦争は簡単に終わらないのでは、という世論まで出てきました。
深井さんは、南軍が強かった理由として、防衛する側で戦いやすかったこと、そして超有名な英雄ロバート・リー将軍の存在を挙げます。
さらに深井さんは、モチベーションの差も大きいと言います。北軍には離脱を止めに来たという以上の理由が薄いのに対し、南軍は自分の生活基盤が壊されるかもしれないという切実さで戦っていたためです。
軍事の素人だったリンカンの「グリップ」
ブルランの敗北で、ワシントンはパニックになります。譲歩せよという声やリンカン辞任を求める声が出て、逃げ支度をする人まで現れました。しかしここからリンカンは違う動きをします。
リンカンは軍人ではなく、軍事に詳しくありませんでした。それでも「自分が指揮をやらないと」と、強い意志で北軍の将軍たちを掌握し始めます。将軍たちは軍事作戦をいちいち大統領と相談する気などなく、衝突も起きました。
深井さんは、リンカンが早い段階で長期戦を覚悟した点に注目します。歴史上、社会的成果を出した偉人たちは覚悟までの早さを共通して持っていた、と述べ、徳川家康の例も引かれます。
すごくベタな言葉で表現すると、彼(リンカン)は成長する人なんです。環境に合わせて。
リンカンは周りがうろたえる中でも振り回されず、時間がかかるならかかるでやるしかないと決めて意思を示しました。楊さんは、前線を頻繁に訪れ、前線とワシントンの間に電線を敷き、成果を出さない将軍を交代させるなど、司令官としてコミットしていったと補足します。
素人ゆえに、リンカンは図書館から軍事の専門書を借りて必死に勉強したといいます。深井さんは、戦争しながら最高司令官が戦争の本を読んでいる姿を「怖い」と半ば冗談めかしつつ、その姿勢を評価します。
銃・鉄道・電信 プレ総力戦になった南北戦争
この戦争のもう一つの特徴は、技術によって死者が激増したことです。深井さんは、第一次世界大戦の塹壕戦に似たことが、すでにこの時点のアメリカで起きていたと説明します。いわば「プレ総力戦」です。
鍵となったのがライフル銃です。銃身の内側に螺旋状の溝を掘るライフリングという技術で、弾が回転しながらまっすぐ精度高く飛ぶようになり、兵士がバンバン死ぬようになりました。
さらに製鉄技術の向上で金属装甲の蒸気軍艦が登場し、兵員や物資を運ぶ鉄道、リンカンが直接指示を出せるレベルの電信も揃っていました。こうした条件により、アメリカはいち早く近代戦を経験することになります。
死者の桁も変わります。独立戦争最大のモンマスの戦いでアメリカ軍の死傷者が370人だったのに対し、ブルランでは合わせて5000人規模、後のゲティスバーグの戦いでは4万から5万規模の死傷者が出ていくと語られます。
ライフル銃
命中精度が飛躍的に向上し、死傷者が激増
蒸気軍艦・鉄道・電信
兵員輸送や指揮伝達が近代化
プレ総力戦へ
独立戦争では370人規模だった死傷者が、数千から数万規模に
徴兵制と、黒人従軍のはじまり
1862年、北軍はフレデリックスバーグの戦いで大敗します。戦死者と逃亡兵が増え、兵役期間を終えた志願兵もいなくなり、北軍の弱体化に歯止めがかからなくなりました。そこで法律を改正し、募兵制から徴兵制へ切り替えます。
この改正の頃から、北軍では黒人も軍務に就けるようになっていきます。ただし最初は戦闘に参加させてもらえず、物を運ぶ、木を切るといった作業ばかりでした。能力的に劣っていると自然に思われ、信頼されていなかったためです。
それでも黒人たちは自分のために戦いたいと強く願っていました。ある部隊が偶然戦闘に参加し、最も危険な作戦に自ら手を挙げて功績を残したことで、黒人も勇敢だと認められ、黒人従軍が広がっていったと深井さんは紹介します。この経緯を描いた映画が『グローリー』です。
深井さんは、連邦が徴兵するという行為自体がチャーチ型で、アメリカとしてはなるべく避けたかったことだと指摘します。しかしこの徴兵制が一つの大きな実績となり、以降のアメリカ軍につながっていったと述べます。
南部の誤算 イギリスは綿花に困っていなかった
南部連合は、反奴隷制のヨーロッパ諸国であっても経済的なつながりを重視し、綿花を武器に支援を引き出せると考えていました。綿花が届かなければ社会が崩壊するはずだ、アメリカを弱体化させたいイギリスやフランスは南部を承認するはずだ、という楽観的な見込みです。
しかし現実はそうなりませんでした。イギリスもフランスも南部連合を直ちに承認せず、中立を保ちます。北部からすれば中立は容認と同じだと苛立ちましたが、イギリスは積極的な支援には踏み込みませんでした。
背景には、イギリスがそもそも綿花に困っていなかった事情があります。前年が豊作で在庫が残っており、足りなければインドからより安い綿花を輸入すればよかったためです。深井さんは、南部が綿花の重要性に強いバイアスを持っていた、と分析します。
誤算だよね、南部連合の。イギリスとかからすれば海上封鎖するほどのメリットは別にないんだよねっていう感じだ。
無理と言われた「アナコンダ計画」
南部の経済基盤を断つ発想の延長線上に、アナコンダ計画があります。海に囲まれた広大なアメリカを船で全部囲み、貿易をできなくしてしまうという構想で、当初は周囲の誰もが無理だと考えていました。
開戦時、楽観論が支配する中で、北軍のウィンフィールド・スコット将軍だけは、南部の反乱鎮圧には最低でも大量の兵員と年単位の時間が必要だという妥当な見通しを述べていました。しかし誰も信じませんでした。
ブルランの敗北を受けて、リンカンは自分もすぐ終わると思っていた見込みを即座に撤回し、スコット将軍と同じ長期戦の考えに切り替えます。深井さんは、この切り替えの早さこそリンカンの偉さだと評価します。
アナコンダ計画には大量の船が必要でしたが、開戦時の北部海軍にすぐ投入できる船はわずかで、本気の封鎖に必要とされる数の半分にも満たなかったといいます。それでもリンカンは初期の段階でやり切ると決めていました。
封鎖線に使われたボロ船は「リンカンの石鹸箱」「石鹸箱艦隊」と揶揄されました。しかし深井さんは、この計画が最終盤で非常に大きな効果を発揮したと述べます。
忍耐力という、リーダーに最も必要だった素養
深井さんは、リンカンの強みを、目標に向かって地道に少しずつ進みながら、違うと気づけば冷静に方向を修正できる点に見ています。好きから極端な嫌いへ振れるような反動的な切り替えをしないバランスの良さです。
そして、結果から見れば南北戦争でリーダーが最も持つべき素養は「忍耐力」だったと深井さんは指摘します。4年に及ぶ長期戦を耐え抜く力です。
その忍耐力を登場人物の中で明らかに最も持っていたのがリンカンでした。深井さんは、最も必要な素養を最も持つ人物がちょうど大統領になっていたことを、運も含めて面白いと語ります。
最も持っておくべき素養を最も持ってるやつがちゃんと大統領になってましたね。これちょっとミスってたら分裂したまんまだったと思います、アメリカ。
止められなくなった奴隷解放
もう一つの重要な動きが、黒人たちの視点です。開戦が伝わると、自由州の黒人たちは、この戦争で奴隷制を終わらせられるかもしれないと期待し、次々に入隊を願い出ました。
さらに深井さんが重要だと強調するのが、南部の奴隷の動きです。南部には膨大な数の奴隷がいましたが、北部が勝てば自分たちは奴隷でなくなるかもしれないと考え、北軍のキャンプへ大量に押し寄せるようになります。
兵士でもない黒人が大量に戦場へやってくると、訓練の必要な近代軍ではすぐに戦闘へ参加させることもできず、北軍は対応に困りました。追い返すわけにもいかず、人間として扱うと宣言している以上、変な扱いもできません。
最終的に彼らは、敵の財産から奪った戦利品のような、しかし人間でもあるという曖昧な位置づけで接収されていきます。これが南部の地盤を切り崩すと同時に、なし崩し的に奴隷解放宣言へとつながっていったと深井さんは言います。
深井さんによれば、戦場で実質的に奴隷が解放される既成事実が積み上がり、もう止められなくなっていきました。奴隷解放を口にすれば怒る人が多いため公には言えないまま、黒人たちの側が我慢できずに動き、それが解放へと押し流していったのです。
状況が先に生まれるんですよね、認識よりも先に。(北部の軍人は)現場でこの問題に対して対処しないといけない状況が出てくるんですよね。
深井さんは、一つ一つは誰もが当たり前に取る行動なのに、その積み重ねの結果が誰も思っていなかった地点まで到達する現象が世界史でよく起こると述べ、それがこの回の見どころだと語ります。次回はついに奴隷解放宣言とゲティスバーグの演説が扱われます。
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まとめ
南北戦争は「奴隷解放のための戦争」として始まったのではなく、あくまで「連邦維持」を大義に始まりました。その大義の裏で、戦場の既成事実が積み重なり、奴隷解放がなし崩し的に不可避になっていく過程が、この回で丁寧に描かれます。
- 南北戦争の開戦理由は奴隷制廃止ではなく、勝手な連邦離脱という「分離」を許さないことにあった
- 62万人が死ぬ内戦を、北部は黒人のためではなく連邦を引き戻すために戦った
- ライフル銃や鉄道、電信が揃い、南北戦争は近代的な「プレ総力戦」となった
- リンカンは長期戦を早く覚悟し、忍耐と冷静な方向修正でリーダーの素養を発揮した
- 南部から逃れる奴隷や入隊を望む黒人の動きが、奴隷解放宣言をなし崩し的に手繰り寄せた







