ケンタッキーの最北端、人口3200人の町で生まれる
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リンカンが生まれたのは、当時は西部とされたケンタッキーです。1809年2月12日、ホーゲンビルという町でした。米英戦争の直前にあたる時期で、西部開拓が本格的に進む頃だったと語られています。
当時のケンタッキーは奴隷制が認められた奴隷州でした。リンカンが生まれたホーゲンビルはケンタッキーの中でも最北端にあり、農作物が豊かな土地だったとされます。
ホーゲンビルは現在も存在します。2010年の国勢調査で人口3200人ほどの、非常に小さな町だと紹介されています。
Googleストリートビューで見てみて。めっちゃちっちゃい町だから。
野心が足りない父、聡明で文字が読めた母
父はトーマス・リンカン、母はナンシーです。父は大工や雇われ農業労働者として生計を立て、一家は自分たちの用途に足るだけの農地を開墾しては各地を転々としていました。
参考文献では、父トーマスの貧困が「野心が不足して、余剰作物を市場へ運ぶ手段に事欠く状況であった」と表現されていたと紹介されます。深井さんは、これはアメリカ的な表現だと補足します。
労働そのものに神聖があるんですよ、実は。宗教観念的に。
その宗教観の下では、頑張って働いても成功しない人は、神から祝福されていない、信仰心が足りないと捉えられかねないと深井さんは説明します。
「余剰作物を市場へ運ぶ手段に事欠く」というのは、西部にはまだ開拓民がほとんどおらず、そもそも作物を売る手段がなかったという意味だと補足されます。楊さんは、当時はまだ市場経済がアメリカ全域に普及していなかったと付け加えます。
(アメリカ全域に)市場経済がまだ別に普及してたわけじゃないんですよ。全然自給自足とかも。
父トーマスは読み書きを一度も学んだことがなく、自分の名前を下手な字で署名する以外は文字を書かなかったと、後にリンカン自身が語っています。
一方の母ナンシーは、物静かで聡明であり、文字が読めたとされます。エイブに聖書を読み聞かせ、読み方と綴り方、親切と善行を教え込んだと、幼い頃の友人が語ったと紹介されます。
ここら辺はね、ちょっと(母ナンシーの資質が)リンカーンに受け継がれてんだよね。
母から学んだ唯一の教育と、たたき上げの原点
西部の開拓初期には、ちゃんとした学校がなく、あったとしても通っている場合ではありませんでした。生きるために働かなければならなかったからです。
そうした環境で、教養のない父からは学べず、聡明な母ナンシーからギリギリ読み書きを学べたことが、リンカンにとって大きかったと語られます。
リンカンが実際に学校らしい学校に通ったのは、10代の頃、姉のサラと一緒に1年弱、2学期間だけでした。それが唯一の教育で、教えたのは特別な資格も持たない先生だったとされます。
だから(リンカンの)スタート地点がこれなんですよね。で、大統領になったわけじゃないですか。だからたたき上げの男なんです。
楊さんは、この生い立ちだけを切り取れば、まさかこの人物が大統領になるとは誰も思わなかっただろうと話します。しかもリンカンは奴隷州の出身であり、後に奴隷解放宣言を出すことになります。
奴隷州出身なのに、なぜ一家は転々としたのか
リンカンは奴隷州の出身ですが、両親はそろって奴隷制に反対だったと言われています。本によって記述が異なり微妙だとしつつ、深井さんは反対だっただろうと話します。
一家が転々とした理由の一つとして、ある本には、奴隷州であるケンタッキーで奴隷制に反対したために違う土地へ移らざるを得なかった、と書かれていると紹介されます。宗教的信条による反対だったと考えられています。
やっぱり彼らが信じる聖書には奴隷を作れとは書いてないってことなんだと思うんですよ。
もう一つの理由として、西部開拓時代に横行した土地の投機が挙げられます。同じ土地が複数人に売られることが実際に多発しており、リンカンの家も地権争いに負けて移動を余儀なくされたと言われています。
いずれにせよ、一家は地に足の着かない生活をしていました。ただしリンカン自身は、青年期の日々を詳しく書き残してはいません。
自分の若かりし頃は貧しいだけのほとんど書くこともない単純な日々だった。
アメリカ人が自伝を書くのは珍しくないなかで、リンカンが幼少時代をロマンチックに語らなかったことについて、深井さんは、本当につらかったのかもしれないと話します。楊さんは、幼少時代を気に入っていなかったのではないかと補足します。
9歳で母を失い、優しい継母サラが来る
リンカンが9歳の頃、家族はケンタッキーのホーゲンビルを離れ、自由州のインディアナに移住します。ホーゲンビルのすぐ北にあるスペンサー郡に、6人家族で定住しました。
スペンサー郡での暮らしも苦しいものでした。丸太小屋は漆喰の上塗りもなく床は土間で、子供たちはロフトで木の葉を敷いて寝ていたと、参考文献の記述が紹介されます。
さらに深刻だったのが病でした。伐採した木材にはマラリアが多く、しばしば疫病が居住地を襲ったとされます。当時は男性でも45歳まで生きられれば幸運とされる時代でした。
そんな中、リンカンが9歳のときに母ナンシーが病気で亡くなります。ミルク病と呼ばれる疫病が流行し、多くの人が死ぬなかの一人でした。学校のない環境で唯一学びを与えてくれた母の死でした。
母の死の翌年、父トーマスは再婚します。継母は姉と同じサラという名前で、非常に優しい人でした。泥まみれの家の清掃に気を配り、リンカンが本を読むことを肯定してくれたとされます。
(実の母と継母は)リンカーンの知的な部分をちゃんと見出してあげて、この子は本読んでていいよねっつって認めてあげてた。
無口な少年が抱いた「ここを出たい」という野心
楊さんは、リンカンの性格に関する記述を紹介します。時代の人々は彼をかなり謎めいた人物だと思っており、自制心があり、一人でいることを非常に好んだとされます。
(リンカンは)これまで出会った人物、これから出会うであろう人物の中でも最も控えめで無口だ。
この記述からは、リンカンは陽キャではないと楊さんは評します。父親とも他の開拓民とも話が合わず、自分だけが読書をしている環境だったのだろうと語られます。
継母サラのおかげで、リンカンは10代初めから読書の習慣を身につけます。聖書に始まり、ロビンソン・クルーソーやイソップ物語、ベンジャミン・フランクリンの伝記などを、どこへ行くにも抱えて読んでいました。
田畑の仕事の合間も木の幹にもたれて読書にふけり、10代半ばには政治論議を掲載する新聞記事にも触れていたとされます。普通の開拓民の道から少しずつ分岐していきます。
読書を嫌ういかつい父と、知的関心の高いリンカンとの間には軋轢が生まれます。狭い土間で一緒に暮らすことが、リンカンには嫌でたまらなかったようだと語られます。
この地にとどまれば、畑を耕し木を切って一生が終わります。しかし本や新聞を読めば、東部にはまったく違う世界が広がっている。リンカンはここを出て都会に行きたいという野心を醸成していきます。
科学好きの青年と、迷信を生きる糧にする田舎
リンカンが暮らした土地では、人々はトウモロコシ酒を飲み、信仰復興運動の説教に泣きわめき、荒っぽい掛けっこやレスリングをして日々の辛い仕事を忘れていました。
作物を月の満ち欠けに従って植えたり、犬の遠吠えを家族の死の前兆と考えたりと、迷信も生活に根づいていました。科学技術を好むリンカンには、こうした非科学的な田舎の空気が合わなかったと語られます。
科学技術が好きな都会的な素質を持った頭のいい青年がめちゃくちゃ田舎に生まれて、そこが超嫌だみたいな。
父トーマスは腕のいい大工として評判を得るようになっており、その縁でリンカンは教会の用務員の仕事を得ます。掃除やろうそくの配置などを担っていました。
その教会の牧師は、奴隷制を強く批判することで有名でした。リンカンはここで奴隷制反対の説教を何度も耳にしただろうと考えられています。父も奴隷制に反対しており、幼少期から反対の機運を学んでいたと言えそうです。
無口で思索的な一方、リンカンには冗談で人を笑わせる面もありました。替え歌やわいせつな流行歌を歌って周囲を笑わせる逸話も残っており、友達はいたと語られます。
その一方で、急に真面目に深く考え込むこともありました。物事を理解するために強い情熱を持って考える、自分の世界を持った少年だったと楊さんは表現します。
周囲の大人たちとは知性のタイプが違ったようで、大人が何を言っているか分からず、いらだつこともあったとされます。父が隣人と口論した後、その意味を質問攻めにするような子供でした。
姉サラの死と、19歳での独立
リンカンが19歳の頃、もう一つ大きな出来事が起こります。姉のサラが出産で亡くなったのです。当時は出産の死亡率が非常に高く、西部では医療も発展していませんでした。
リンカンは姉の死を告げられると、丸太の上に座り込み、顔を両手で覆い、長い指を伝って涙を流し続けたと、一人の親戚の記憶として紹介されます。その場の人々はかける言葉もなく顔を背けたとされます。
ここで深井さんが強調するのは、リンカンの血縁がどんどん失われていったことです。弟も幼児のうちに早世しており、姉と弟を失った後、血のつながった親類はそりの合わない父親だけになりました。
リンカンが選んだ「市場経済という新しいOS」
楊さんは、この後のリンカンの生き方を総論として先取りして紹介します。開拓民のサバイバルではなく、市場経済という新しい時代のOSで生きることに決めた人がリンカンだと位置づけます。
リンカンの青年期の環境は、現金がほとんど流通せず、物々交換や自給自足が中心のフロンティアでした。そのなかで体が丈夫だったリンカンは、意にそぐわない肉体労働に早くから駆り出されていました。
父トーマスは、自身の借金を返すために息子のリンカンを近所へ出して働かせることもありました。この原体験から、リンカンはある価値観を抱くようになったと考えられています。
全ての人が自分の労働の対価を手にする権利を持っている。
リンカンは、父のような前時代的な生き方は絶対にしないと決心します。もっと新しい社会システムである市場経済で自分をキャリアアップしたいと考え、10代後半から街や都会で暮らし始めます。
彼が就いた仕事は、商店の経営者、弁護士、測量士でした。楊さんは、これらがどれも市場経済に不可欠な仕事だったと整理します。
工業製品を遠くから仕入れ、需要のある場所へ運ぶ資本主義の仕事
土地の権利書や商売上の契約、破産案件を扱う市場経済ゆえのニーズに応える仕事
土地の境界を引いて私有財産として確定し、売買を促進する仕事
これらの職業を、リンカンはあえて選んで進んでいきました。学校に通っていない彼は独学で政治や経済の本を広く読みあさり、専門的な仕事に就いていきます。
そこはね、すごい努力したんだと思うんですよね。(弁護士も測量士も)独学なんです。
読んだ本の研究から、リンカンは「自分の労働から利益が得られないのであれば、人間は生産的に働けない」という考え方を吸収したのではないかと考えられています。自由と労働、そして対価が結びつく感覚です。
父を捨て、19歳でニューセイラムへ
姉を亡くしたリンカンは、19歳で家を出る決意を固めます。深井さんによれば、リンカンは父を軽蔑まではしないものの、本当に反りが合わず、分かり合えないと感じていたようです。
その関係の深さは後年にも表れます。リンカンは自分の結婚式にも父を呼ばず、父の葬式にも出ませんでした。父が危篤のときも会いに行かなかったと語られます。
父トーマスがイリノイ州中部へ移住することになったのを機に、リンカンは自立します。当時の身長は193センチで、強靭な肉体を持っていたとされます。
リンカンが向かったのは、イリノイ中部のニューセイラムでした。当時の人口は100人ほどの小さな集落でしたが、酒場が2軒、旅館が1軒、雑貨店が数軒ある活気ある土地だったと紹介されます。
ここでも人々はトウモロコシ酒を飲み、キャンプミーティングで騒ぎ、踊りやレスリングに興じていました。結局は西部開拓地と同じような場所でしたが、リンカンはここで一人暮らしを始めます。
レスリングと禁酒、西部にいながら西部っぽくない男
ニューセイラムの青年たちの娯楽はほとんどなく、その一つがレスリングでした。193センチと当時としては非常に大柄だったリンカンは、このレスリングが強く、力仕事も平気でこなす体力の持ち主でした。
ひょろひょろのイメージとは異なり、筋肉も隆々だったと語られます。リンカンはこの体格の強さから周囲に気に入られ、ユーモアも交えながらニューセイラムの人々に受け入れられていきます。
仕事は商店の手伝いから始まり、やがて自分の店を持ち、郵便局の手伝いや測量士なども務めました。途中で仕入れ過剰から借金を負い、一度破産して返済に何年もかかったとされます。
(リンカンは)資本主義っぽい失敗もしてるっていう。
もう一つのリンカンの特徴が禁酒でした。他人が飲むのはかまわないと考えつつ、自分は酒をやめており、アルコール中毒者を気の毒に思っていたとされます。ストイックで真面目な人物でした。
酒も狩りも紙タバコもやらず、喧嘩もなるべく避け、勉強や自己投資に努める。深井さんは、酒を飲み狩りをし喧嘩をする西部の人々のなかで、リンカンは西部にいながらまったく西部っぽくない異質な存在だったと指摘します。
ホイッグ党とヘンリー・クレイへの心酔
独立前後の時期、新聞を読んで政治に関心を持ったリンカンは、当時のホイッグ党に引かれていきます。イギリスのホイッグ党を真似て作られた、アメリカのホイッグ党です。
リンカンが心酔したのが、有名な政治家ヘンリー・クレイです。全国的に商業を興し、交通体系を整えるという「アメリカンシステム」政策を推し進めていた人物でした。
青年期に(リンカンは)クレイ派で、自分は彼の名前をただただ崇拝していた。
クレイは連邦主義者でした。州の自立性を高めすぎるとバランスが崩れ、国として弱くなるという考えです。リンカンもこの連邦主義的な側面を持ち、どちらかというと連邦派だったと語られます。
クレイの掲げる交通革命や商業重視の経済政策は、リンカンの価値観と合致していました。10代後半にはすでに政治への強い関心を抱いていたことになります。
ブラックホーク戦争と、虐殺する側にいた事実
政治に関心を持つ一方で、リンカンは戦争にも従軍しています。21、22歳の頃、ネイティブアメリカンとの戦いであるブラックホーク戦争に、イリノイ州の民兵の一人として出動しました。
この戦争では多くのネイティブアメリカンが虐殺されたと語られます。深井さんは、黒人奴隷解放の物語を進めていく一方で、ネイティブアメリカンは一貫してこうした扱いを受けており、リンカンも虐殺する側にいたと指摘します。
だからまあ一筋縄ではいかんね、いろんなことが。
なお楊さんは、リンカンの名前の由来にも触れます。ネイティブアメリカンに殺された祖父の名がエイブラハムであり、そこから孫であるリンカンもエイブラハムと名づけられたと紹介されます。
従軍後、連隊長には任命されたものの目立った活躍はなく、リンカンは帰還して政治家を目指します。深井さんは、本人にとっては急ではなく、以前から国のことを考え、出世への野心もあっただろうと話します。
23歳のとき、リンカンはイリノイ中部のサンガモン郡で議会選挙に立候補します。しかし、この最初の選挙では落選しました。
リンカンと奴隷制の複雑な接点
楊さんは、政治の物語に入る前段として、青年期のリンカンが奴隷制とどう接していたかを紹介します。その経緯はあまり知られておらず、学者の考察に頼るしかないと前置きします。
青年期のリンカンの身近には奴隷がいたと考えられています。父の叔父アイザックが奴隷を所有し、後に結婚する妻メアリー・トッドの親戚にも奴隷所有者がいたためです。
さらにリンカンが暮らしたインディアナやケンタッキーは奴隷州でした。ケンタッキーは奴隷取引の交易地でもあり、鎖につながれた奴隷が家の近くを通るのを、リンカンは目の当たりにしただろうと言われています。
両親は奴隷制に反対していましたが、その反対の理由は道徳的なものだけではなかったと楊さんは説明します。奴隷が白人の労働を堕落させる存在だという捉え方も含まれていた、という解釈です。
深井さんは、これは労働に神聖性があるという感覚を理解しないと分からないと補足します。真面目に働けば対価が返ってくるべきであり、成功はその祝福だという信仰的な感覚がある、という説明です。
その視点から見ると、父トーマスの生き方は「栄達していない」ため、リンカンには許せなかったのだろうと語られます。もっと栄達する方法で努力すべきだ、というのがリンカンの感覚だったと考えられています。
そして奴隷制は、この労働観と真っ向から衝突します。奴隷は働いても何も返ってこない制度であり、賃金を払う者と払わない者が自由市場で競えば前者が負けてしまうからです。
正当な労働、そして正当な対価みたいな概念とコンフリクトしちゃうわけだよね、奴隷制が。
深井さんは、人道的な理由だけでなく、労働の観点から奴隷制を良くないと考える人がこの時代に多くいたと指摘します。その背景には信仰があり、お金を稼ぐことが道徳と密接に結びついていたと語られます。
日本人が思う「お金が儲かる」感覚と、アメリカで言う「頑張ってお金が儲かる」感覚はレベルが違う、と深井さんは説明します。この道徳と結びついた労働観を、リンカンも持っていたことが重要なポイントだと語られます。
手放しの反対でも賛成でもない、初期リンカンの立場
楊さんは、イリノイでの状況も紹介します。リンカンが38歳の1847年にイリノイで奴隷制が廃止され、自由州になりました。しかし、奴隷制の廃止が差別の消滅を意味したわけではありません。
自由州となったイリノイにも、投票権は白人だけ、黒人は白人と結婚できない、黒人の子供は公立学校に通えないといった、目に見える形での黒人差別が法律として残っていました。
こうした環境からリンカンがどう価値観を構築したかの細かいプロセスは残っていません。後の政治家としての行動から逆算して考察するしかない状態だと楊さんは述べます。
深井さんは、初期のリンカンの立場は思ったよりずっと複雑だと指摘します。手放しで奴隷制に反対も賛成もしておらず、目の前の奴隷制に介入して止めようとまではしていませんでした。
どっちかというと自分がステップアップすることに興味があるよみたいな。
今回はここまでで、政治に関心を持ち、従軍を経て立候補したものの落選するところまでが語られました。次回は、リンカンの政治生命がどのように開けていくのかがたどられます。
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まとめ
貧しい開拓地に生まれ、母と姉を失い、そりの合わない父だけが残ったリンカン。彼は読書と独学を頼りに、農民ではなく市場経済で生きる道を選び、政治への関心と複雑な奴隷制観を育てていきました。
- リンカンは1809年、奴隷州ケンタッキーの人口3200人ほどの町ホーゲンビルで、貧しい開拓農民の子として生まれた
- 学校がほぼない環境で、読み書きは聡明な母ナンシーと、後に来た優しい継母サラから学んだ
- 9歳で母を、19歳で姉サラを亡くし、血縁は反りの合わない父トーマスだけになった
- リンカンは父のような開拓農民の生き方を拒み、商店経営・弁護士・測量士など市場経済の仕事を独学で選び取った
- 初期のリンカンは、労働の対価という価値観から奴隷制に否定的だったが、手放しの反対でも介入でもなく、自らのステップアップを優先していた





