📝 エピソード概要
このエピソードでは、「努力」と「才能」という一般的な概念が、むしろ働く人々を不幸にしているのではないかという刺激的なテーマを掘り下げます。小笠原氏の主張する「楽しくない努力は苦役である」という定義を基に、結果を個人の能力に帰する能力主義(メリトクラシー)の限界を議論。個人が心から楽しんで熱中できる活動に配置される「最適配置」の重要性を提唱し、その仕組みづくりを教育機関が担うべきだという具体的な提案へと展開します。
🎯 主要なトピック
- 努力と才能は不幸な人を増やす仕組み?: 努力や才能という思考様式自体が、報われなかった人を不幸にすると指摘。楽しくない活動を「努力」ではなく「苦役」と見なし、努力は本来楽しいものであるべきだと主張。
- 能力主義(メリトクラシー)の制度疲労: 身分制度から移行した能力主義は、学校教育の場でも教員が疲弊するなど、限界を迎えていると指摘。運による結果を、能力の不足として個人に帰結させる問題点を議論。
- 親の期待と標準化された能力: 親が自分の叶えられなかった夢や、生活パターンを楽にするための「標準化された能力」を子供に求めがちであることについて言及し、子ども自身のためという建前をやめるべきだと提唱。
- 「最適配置」という考え方: 苦役を避け、個人がその活動を心から楽しめる状態を実現するため、その人が最も面白がる仕事や学習に取り組めるよう配置する「最適配置」が重要であると提唱。
- 教育機関による最適配置の追求: 組織単位ではなく、社会全体で最適配置を叶えるには、大学などの教育機関がその仕組みを担うべきであり、学部の枠を超えた柔軟な課程での学びを提供する必要性を提示。
💡 キーポイント
- 真の「努力」とは、その行為自体を楽しむことであり、苦しいことは「苦役」として区別すべき。
- 他人の輝きを「才能」という言葉で固定化したり、「努力が足りない」と評したりすることは、他者を不幸にする可能性があるため避けるべき。
- 能力主義(メリトクラシー)は限界にあり、これからは個人が熱中できることに焦点を当て、その「変化率(ジャンプ率)」を楽しむことが重要となる。
- 親は子供のためではなく、「自分のため」に望む能力を子供に求めるということを素直に認めるべき。
- 教育機関は、受験ニーズにとらわれず、学生が自分の適性に基づいた道を見つけ、最適な職務に就けるようなサポートシステム(ワーキングバディ)を提供する役割を担うべきである。
