そもそも京極派とはどういう歌の流派か
この回は2026年3月11日にXのスペースで生配信された内容をもとにしています。テーマは九条左大臣女という女性歌人の紹介です。
話を始める前に、梶間さんは京極派の前提を復習します。当時の和歌の主流は、今「二条派」と呼ばれています。和歌の伝統を重んじる価値観で、御子左家の嫡流・二条家を中心とする勢力です。その二条派では、人間の心をそのまま詠むのが歌ではないとされていました。
歌に詠むべき「良い心」があり、それを選んでうまく歌にするのだ、という常識があったのです。
これに対し、京極為兼や、伏見天皇とその周りの人たちが「歌はそんなものではない」と主張しました。
そうじゃない、歌ってそんなんじゃないんだ。心のままに詞の匂ひゆく、そのように歌を詠むのが良い歌だ。歌って本来そういうものだ。為兼はそう主張した。
良い心と悪い心を選び分け、言葉を使って、ありもしない心をこねくり回すのは違う。為兼はそう訴え、伏見天皇やその仲間たちが賛同して試行錯誤を重ねていった、そんなグループが京極派です。
5年間だけ活動が見える女性歌人
九条左大臣女は、この前期京極派の比較的初期からいた人物と考えられています。ただし、はっきりと活動が見えるのは5年間だけだと言います。
その5年間の間に、ものすごい活躍をして急に消えるっていう。
女性ゆえに記録が少ないことも背景にあります。
女性でも永福門院のように天皇の后となり、周囲が日記を残し、長く歌を詠んだ歌人であれば、事績がたどりやすくなります。
一方で九条左大臣女は摂関家の娘であり、摂関家の別の家に嫁いだため、女房として活躍する身分ではありませんでした。梶間さんは、それゆえ逆に記録が残りにくかった面もあるのではないかと話します。
人生の細部は推測や計算に頼らざるを得ない部分が多い。そんな中で5年間だけ突出した活躍をして消えていく、不思議な歌人だと紹介されます。
いとこ同士だった為世・為兼・為子・九条左大臣女
九条左大臣女の立ち位置を理解するには、御子左家藤原俊成・定家と続く和歌の家。子孫が二条家・京極家・冷泉家などに分かれた。の家系をたどる必要があります。
定家のひ孫にあたる京極為兼は、御子左家の子孫です。為家の子が為氏・為教・為相らで、為教の息子が為兼、為氏の息子が為世でした。為世と為兼はいとこですが、父の代で家が分かれ、仲は良くありませんでした。
さらに為家の娘・為子が摂関家の二条道良に嫁ぎます。為家の邸が九条にあり、そこへ婿を取る形だったため道良が「九条左大臣」と呼ばれた、と推測されています。この二人の間に生まれたのが九条左大臣女です。
つまり為世、為兼、為兼の姉の為子、そして九条左大臣女は、いずれも為家の孫にあたるいとこ同士でした。
ただし九条左大臣女だけは父が摂関家であり、他の3人より家格が上でした。歌の実力とは別に、一目置かれる存在だったのです。
嵯峨で育ち、為家の教育を受けた出自
九条左大臣女は幼い頃に両親を早く亡くしました。名前も伝わっておらず、子どもの頃は「嵯峨上臈」と呼ばれた時期があったようです。
これは、祖父にあたる為家の嵯峨の別宅で育てられたためではないかと考えられています。
参照されているのは、岩佐美代子の『京極派歌人の研究』です。
気合を入れないと読み通せないやつです。でもこれは本当に、岩佐先生の本は読み応えがあって、私は何度も何度も参照してます。
やがて九条左大臣女は、またいとこにあたる九条忠教と結婚します。生まれも嫁ぎ先も良い家だったため、女房勤めなどで記録に残る生活とは無縁でした。
正安元年、突然あらわれた「完成しきった京極派歌人」
そんな彼女が突然、正安元年(1299年)3月末に催されたとみられる五首歌合に姿を現します。岩佐先生の推定で49歳ごろのことでした。
全く突然成熟しきった京極派歌人としての姿を現す。
この時期は、前回紹介された正安の政変伏見院や持明院統が政治的に敗北した出来事。この後、持明院統の京極派和歌が大きく変化していく。の直前にあたります。京極派が大きく開花するより前の段階でした。
最初期の彼女は歌合に歌を出してはいませんが、早くから京極派と交流はあったと考えられます。立場ゆえに表に出ることが控えられていたのかもしれません。
摂関家の娘である彼女が為兼の試みに理解を示したことは、為兼にとって心強いことだったはずだと梶間さんは推測します。
いや、あの九条左大臣女さん、俺に結構賛同してくれてるんですけどね、仲間になってるんですけどね、みたいな。
もちろん前提は、歌論そのもので響き合っていたことにあります。利用する関係ではなく、共鳴した上での参加だったと梶間さんは強調します。
なぜ二条派の勅撰集にも歌が入ったのか
京極派が生まれる前は、為兼も九条左大臣女も(京極)為子も、みな二条派的な和歌を詠んでいました。彼らは和歌の教養があり、当然それも詠めたのです。
九条左大臣女は特に、為家から和歌の詠み方をみっちり教育され、育ちの良さも歌柄に表れる歌人でした。そのうえで為兼の歌論に共鳴し、京極派へ向かいます。
その後、二条派が編む勅撰集では京極派歌人の歌はわかりやすく少なくなります。ところが九条左大臣女の歌は、そこそこ入っているといいます。
その理由を、梶間さんは一つに絞りません。摂関家の娘を貶められないという事情もあれば、二条派から見ても否定できない骨格や歌柄の大きさが歌にあったという面もある、と話します。
人の行動や出来事の理由は一つではない。両方の面に目を配りたい、というのが梶間さんの姿勢です。
他の歌人に先立って示した「完成形」
正安元年の五首歌合では、九条左大臣女は右方筆頭として伏見院と歌を番えました。3番勝負して3首とも伏見院が勝っていますが、これは相手が院だったための当然の結果だと岩佐先生は述べています。
番えられた春の歌のうち、春の曙の歌が紹介されます。
しらみゆくかすみの上の横雲にありあけ細き山の端の空
岩佐先生は、歌としては九条左大臣女の方が数段完成度が高いと評価します。伏見院のように観念化された情趣に頼らず、思い切った描写で情景の核心を的確に射止めていると言います。
縁語や掛詞といった常套技法をきっぱり排し、作者が実際に鑑賞した自然の一断面を提示している。この時点で、彼女の歌は完成された京極派歌風の特色を発揮していました。
この歌合の叙景歌42首のうち、後の玉葉集・風雅集に歌を採られたのは九条左大臣女ただ一人で、しかも3首すべてが入集しています。
他の歌人がまだ試行錯誤していた時期に、彼女は完成形を先取りして示していた。むしろその完成形があったからこそ、他の歌人が追いかけ、個性を磨けたのではないかと語られます。
物語を「面影」にする独自の手法
5年間の大活躍のあと、九条左大臣女は記録からパタッと消えます。歌合にも出ず、他の資料からの推測でも、おそらくこのタイミングで亡くなったと考えられています。
岩佐先生は、興隆期の京極派の結束の固さから見て、グループ内で重きをなしていた彼女の足跡が、彼女が生きているのにここで見失われると考えるのは不審であり、嘉元2、3年頃に54、5歳で死去したと想定できるのではないかと書いています。
彼女の歌風の特色は、古典の摂取の巧みさにあります。二条派系の勅撰集に入った歌はほぼ全てに本歌が指摘できる一方、玉葉・風雅入集歌では本歌取りと見られる作は一作だけだといいます。
代わりに彼女がとったのは、古歌よりも物語の情趣を面影にして、それを叙景歌として構成する手法でした。
たとえば源氏物語の野分巻源氏物語の巻名。野分(台風)に庭の花が吹き乱れる場面が描かれる。で、秋好中宮が吹き散らされる花を惜しんで嘆く心情。これを彼女は春の景に取り直して詠みます。
風にさぞ散るらん花の面影の見ぬ色を惜しき春の夜の闇
岩佐先生は、一般に京極派の叙景歌は水墨画の趣と評されるが、九条左大臣女の作だけは重厚で濃彩の作り絵を思わせる、と評しています。深い古典摂取の裏打ちがあるためではないかというのです。
「見たままに詠む」ことの難しさ
ここで梶間さんは、京極派の核心にふれます。京極派は実景実情を重んじたが、古典の摂取を排したわけではないという点です。
九条左大臣女の場合、御子左家で受けた教育、為兼の主張、そして自らの感性。この三者の合致点を、自分の力で開拓した歌境ではないかと岩佐先生は書いています。
むしろ、触目の実景をそのまま詠むことは、当時の和歌観からすれば容易ではありませんでした。歌道家の教育を深く身につけた彼女にとっては、なおさら困難な仕事だったはずだと言います。
だからこそ彼女は、目の前の自然の中に古典に描かれた自然の美を再発見し、現実と文芸が二重写しになった景を詠んだのだと解釈されます。
この「見たままに詠むことの難しさ」を、梶間さんは私たちの日常にも重ねます。かつて漫画を描いた経験を例に挙げ、顔は描けても体になると観察をしていなかった、と振り返ります。
見たままに描くってめちゃくちゃ難しいですよ。
人でも自然でも出来事でも、私たちは見ているようで見ておらず、「こういうものだ」という常識に沿ってしか見ていない。それは自覚した方がいい、と梶間さんは話します。
心のままに詞の匂ふように詠む歌論だからこそ、雑に生きた人の心を詠んでも雑なままになる。生易しい歌論ではないと語られます。
5年間の花が残したもの
彼女にとっては物語が血肉になっていたため、「あの場面を今見ている」と、自然に物語を再発見することができた。それが線の太い生き生きとした歌の数々を生んだのだろう、と説明されます。
岩佐先生は、後に古典の裏付けを思い及ばぬほど迫真的な叙景に徹していく京極派も、一度はこうした手続きを踏まねばならなかったと述べます。
そのために挺身する最適任者として、願ってもない時期に願ってもない資質と実力の持ち主として、九条左大臣女がいたのである。
用語が洗練され、詞に無駄がなく、調子が緊張し、歌柄が極めて大きい。これらは多くの京極派歌人に欠けていた長所であり、彼女の活躍がなければ玉葉・風雅の世界はかなり寂しいものになっただろうと評されます。
梶間さんは、章の終わりへ向かう岩佐先生の文章の熱と愛にいつも感動すると語ります。
九条左大臣女という歌人は、人生の細部はほとんどわからないのに、5年間の濃厚な和歌が今に伝わっているのです。
最後に、春の歌がいくつか紹介されます。物語の背景を知らなくても魅力は味わえ、知っていればさらに深く楽しめる、というのが梶間さんの案内です。
吹きまよふよその梢の梅が香に我が袖匂ふ春の夕風
前期の京極派歌人は色とりどりの花のように個性が開花し、後期は水墨画のように沈静化していく。その中でも九条左大臣女の歌は、濃厚な油絵のような存在感と太い背骨を持つ、と梶間さんはまとめます。
まとめ
九条左大臣女は、記録のほとんど残らない摂関家の女性でありながら、5年間だけ活躍が残り、京極派の完成形を先取りして示した歌人でした。物語を面影にして自然を詠む独自の手法が、その原動力にありました。
- 九条左大臣女は摂関家の娘で、為世・為兼・為子とはいとこ同士。他の3人より家格が高く、一目置かれる存在だった。
- はっきり活動が見えるのは正安元年からの約5年間だけで、その後は記録から消え、おそらく亡くなったと考えられている。
- 正安元年の歌合で、他の歌人がまだ試行錯誤する中、彼女は完成された京極派歌風を先取りして示した。
- その歌風は、本歌取りではなく物語の情趣を面影にして叙景歌に構成する点に特色があった。
- 見たままに詠むことは当時の和歌観では困難で、古典を血肉にした彼女だからこそ完成形にたどり着けたと解釈される。
