西遊記のイメージと実像のギャップ
新シリーズのテーマは玄奘。多くの人は西遊記明代に成立した中国の四大奇書のひとつ。三蔵法師と孫悟空・猪八戒・沙悟浄が天竺へ経典を取りに行く冒険譚。玄奘の旅がモデルとされる。の三蔵法師のモデルとして玄奘を思い浮かべます。しかし現実の玄奘には孫悟空もついていませんし、当然ドラゴンボールもありません。ほぼ一人で、しかも徒歩で中央アジアを縦断し、天竺(インド)まで行って帰ってきた人物です。
最遊記ではね、孫悟空、猪八戒、沙悟浄とか仲間がいるじゃん。実際一人と。
しかも当時の唐には国外への渡航禁止令が出ていました。つまり玄奘がやったことは「密出国」でした。普通にやってはいけないことをしていたわけです。
なぜ天竺を目指したのか
玄奘が生まれたのは西暦602年頃、今の中国・河南省とされています。13歳で出家し、各地の有名な僧侶を渡り歩きながら仏教の経典を学んでいきました。ところが学べば学ぶほど、「この翻訳はおかしくないか?」という疑問が積み重なっていきます。
当時の中国に伝わっていた仏教経典は、インドから中国語に翻訳されたものでした。しかし翻訳の質にばらつきがあり、同じ概念が翻訳者によって全然違う言葉になっていたり、なんと意味が正反対になっている箇所すらありました。目指す方向性そのものがずれてしまう深刻な問題です。
そこで玄奘は「サンスクリット語古代インドの文語。仏教やヒンドゥー教の聖典が記された言語で、経典の「原典」はこの言葉で書かれていた。の原典を直接読まないとダメだ」という結論に至ります。仲間の僧侶たちと天竺へ行って本物の経典を持ち帰りたい、と朝廷に請願を出しました。
翻訳の質にばらつき
同じ概念が翻訳者ごとに違う言葉に。意味が正反対の箇所すらあった。
原典を直接読むしかない
サンスクリット語の原典をインドで手に入れる、という決意。
しかし渡航禁止令が出ている中での請願は、完全にスルーされました。何度申請しても許可は下りません。それでも玄奘は諦めず、一人で勝手に行くことを決めます。時は629年、密かに長安を抜け出したとき、玄奘は26〜27歳ほどだったといいます。若く、そして無謀でした。
あー諦めないんだ、ここ。
砂漠と雪山を越えた過酷な旅路
行き先は、当時の中国人にとって「砂漠と山と異民族だらけの未知の世界」でした。最初の難関はゴビ砂漠モンゴルから中国北部にかけて広がる広大な砂漠。玄奘が天竺を目指す際、最初に立ちはだかった難所。です。玄奘は最初に水を入れた革袋を誤って全部こぼしてしまい、四日間水なしで砂漠を歩き続けたという記録が残っています。本人も「死にかけた」と語っています。
那須さんは「水をこぼした直後なら引き返せるのでは」と指摘します。しかし玄奘にとっては、死ぬかもしれない可能性よりも、戻って天竺に行けなくなる可能性の方が嫌だったと考えられます。朝廷には何度請願してもスルーされているのですから、戻る理由がありません。前に進めないことの方が、玄奘にとっては耐えがたかったのです。
ここで引き返さなかったっていう事実が、もうこの玄奘の全てを象徴してる気がするよね。
ゴビ砂漠を越えて中央アジアに入ると、今度は天山山脈中央アジアに東西に連なる大山脈。標高が高く、越えるのは極めて困難。とパミール高原中央アジアの高原地帯。「世界の屋根」とも呼ばれる高地で、玄奘はここを馬と徒歩で越えた。を越えていきます。馬と徒歩での踏破です。当然、高山病にかかり、吹雪の中を進みます。途中から合流した仲間が凍死する場面もありました。それでも玄奘は止まらず、進み続けます。
今のアフガニスタン、パキスタン辺りを通り、ついにインドへ入りました。出発からおよそ二年後のことです。現代なら飛行機で四時間ほどの距離を、二年かけて歩き抜いたことになります。
インドでの学びと18日間の討論会
インドに入ってからは、当時の仏教の最高学府ナーランダー大学古代インドの仏教僧院・学問所。アジア各地から多くの学僧が集まった国際的な学びの拠点だった。に入学します。今でいう国際的な総合大学のようなイメージで、アジア中から何千人もの学僧が集まっていました。玄奘はここでサンスクリット語を習得し、最高峰の論師である戒賢ナーランダー大学の高名な論師(学僧)。玄奘が師事し、5年間にわたって仏教を学んだ。のもとで五年間みっちり学びます。
インドまで歩いてきて、そこからさらに語学習得もするわけでしょ。胆力がすごいよね。
やがて玄奘の評判はインド中に広まり、各地の王に招かれたり、公開討論会で他宗派の学者たちと議論したりしました。伝説も入りますが、「論破されたら舌を切り落とす」という条件で挑んでくる相手もいたといいます。そんな中で、十八日間、誰も玄奘を論破できなかったと伝えられています。しかもこれはインド本場での話です。外から来た人間が、本場のトップ学者たちを十八日間封じ込めたことになります。
17年ぶりの凱旋帰国と大歓迎
玄奘はその後十五年ほどかけてインド各地を巡り、経典の写本や仏像を大量に集めました。荷物は経典675部、仏像150体以上。それを馬に積んで、来た道を戻ります。長安に凱旋したのが645年、出発から実に十七年後でした。玄奘はこのとき四十代半ばになっていたと思われます。
玄奘は元々密出国者ですから、本来なら犯罪者として戻ってきたことになります。ところが当時の皇帝太宗唐の第2代皇帝・李世民。「貞観の治」と呼ばれる善政で知られる。密出国者だった玄奘を国の宝として大歓迎した。は、玄奘を大歓迎しました。長安の人々が沿道に列を作って出迎えたと言われています。本来は逮捕案件でしたが、太宗は「これはさすがに国の宝である」と判断したのです。
出発の時は何回請願しても無理だったものが、帰ってきたら英雄ですからね。
十七年かけて砂漠で死にかけ、仲間の死も見て帰ってきたら、ようやく沿道に人が溢れている。正しいものを届けたいという一心で始めた行動が報われた瞬間です。出発時と帰国時のこのギャップこそ、玄奘のエピソードで最も味わい深いところだと二人は語り合いました。
ブレなかった研究者魂
帰国後の玄奘は翻訳事業に全力をかけます。国家プロジェクト規模で翻訳チームを組み、死ぬ直前まで訳し続けました。訳した経典は75部1335巻。中国仏教史において、それ以前の訳の総量に匹敵するとも言われる規模です。つまり、玄奘以前に翻訳された量と、玄奘一人が翻訳した量がほぼ同じだったことになります。
さらに玄奘は旅の記録として大唐西域記玄奘が訪れた各地の様子を記録した旅行記。地理・風俗・仏教事情などが詳しく記され、後世の重要資料となった。という本を書き残しました。これが現代の考古学者にとって超重要な資料になっており、19世紀以降の発掘調査で、玄奘の記録と一致する遺跡が出てきた事例が何件もあるといいます。当時の旅行記が現代の考古学の根拠になっている、という素晴らしい話です。旅の過程まで報われているわけです。
玄奘は664年に亡くなりました。62歳頃だったといいます。砂漠で四日間水なしで歩いた無謀な人間にしては、長生きしたかもしれません。
この人物の何がすごいかというと、その一貫性です。晩年、皇帝から還俗一度出家した人間が、再び一般人の生活に戻ること。僧のままでは政治に関われないため、政治を手伝うには還俗が必要だった。して政治を手伝ってくれと言われても、玄奘は断りました。皇帝直々の、国の顧問としての超重要なオファーです。出世の絶好のチャンスであり、断りづらいはずです。それでも玄奘は「翻訳しかやらない」と断りました。
還俗して政治を手伝う。国の顧問という出世の道。
オファーを断り、翻訳事業に専念する。正しい仏教を届ける志を貫く。
玄奘は元々「正しい仏教を届けたい」という気持ちから発しています。そこから六十歳になるまで、一切ブレていません。派手で物語的な旅も魅力的ですが、帰ってからの方が一貫していると那須さんは指摘します。目の前の美味しい人参にも見向きもせず、英雄でも冒険家でもなく「正しいものを届けたい研究者」であり続けたのです。
玄奘以前と以降で、中国の仏教界は明確に変わったはずだと安藤さんは推測します。玄奘以前は翻訳の質がバラバラで、どちらへ向かえばいいか分からない状態でした。しかし玄奘以降は、みなが同じ方向を目指せるようになった。那須さんは「軸ができたという意味で素晴らしい」と評しました。玄奘の翻訳がなければ、今とは違う形で仏教が伝わっていた可能性もあります。次回は玄奘の生い立ちと、なぜそこまで正しい仏教にこだわったのかという背景に迫っていきます。
まとめ
玄奘は西遊記の三蔵法師のイメージとは大きく異なり、たった一人で砂漠と雪山を越え、原典を求めてインドまで往復した執念の研究者でした。翻訳の質への疑問から旅立ち、命がけの道のりを乗り越え、帰国後は生涯を翻訳事業に捧げます。皇帝からの出世のオファーすら断り、「正しい仏教を届けたい」という志を最初から最後まで貫いた一貫性こそ、玄奘の最大の魅力だと言えそうです。
- 玄奘は西遊記の三蔵法師のモデルだが、実像は仲間もいない単身の密出国者だった
- 翻訳の質のばらつきに疑問を抱き、サンスクリット語の原典を求めてインドを目指した
- ゴビ砂漠で4日間水なし、天山山脈・パミール高原で仲間を失いながらも約2年で到達
- ナーランダー大学で学び、公開討論会では18日間誰にも論破されなかった
- 出発から17年後に経典675部を持ち帰り、密出国者ながら皇帝・太宗に大歓迎された
- 帰国後は75部1335巻を翻訳し、出世のオファーも断って志を貫き通した
