私生児として生まれた天才の出自
今回のシリーズの主人公は、おそらく全人類で最も名前を知られている人物、レオナルド・ダ・ヴィンチです。生きたのはからまでの67年間。当時としてはかなりの長生きで、イタリアルネサンス14〜16世紀にイタリアで花開いた文化・芸術の運動。古代ギリシャ・ローマの再評価を軸に、美術・科学・思想が大きく発展した。全盛の時代を丸ごと生きた人物でもあります。
まず面白いのがその出自です。生まれたのはフィレンツェ近郊のヴィンチ村。実は「ダ・ヴィンチ」とは「ヴィンチ出身の」という意味で、名前の部分は「レオナルド」なのです。
父親はフィレンツェの公証人。今でいう司法書士のような職業で、それなりの地位があり、家庭も裕福でした。しかし父と母は結婚せずにレオナルドを出産しています。父の戸籍には入れてもらえたものの、正妻の子ではない——この「私生児」という立場が、後の人生にじわじわと効いてくることになります。
師匠を絶望させた工房時代
10代の頃、レオナルドはフィレンツェの著名な芸術家ヴェロッキオアンドレア・デル・ヴェロッキオ。15世紀フィレンツェを代表する彫刻家・画家。工房を構え、多くの弟子を育てた。の工房に入ります。これが人生最初のターニングポイントでした。工房に住み込み、絵の具の調合から全てを学ぶ職人の世界に足を踏み入れたのです。
ここには「弟子が師匠を超えた」という伝説的な逸話が残っています。ヴェロッキオが描いていた「洗礼者ヨハネの洗礼」に、レオナルドが天使を一体描き足したところ、その天使の出来が良すぎて、師匠が「俺はもう筆を置く」と言ったと伝えられています。
レオナルドからするとおそらく悪意ゼロで描いてるんだよ、これを。
画家ではなく軍事技師としての売り込み
20代後半、およそ1482年頃、レオナルドは自らミラノへの移籍を希望します。雇用主となったのはロドヴィコ・スフォルツァ15世紀後半にミラノを実質支配した権力者。芸術・文化の保護者としても知られる。という、ミラノを実質支配していた権力者でした。
興味深いのは、レオナルドがスフォルツァに送った売り込み状の内容です。「橋の設計できます、大砲を作れます、地雷を掘れます、戦車も設計できます」——つまり画家ではなく、軍事技師として自分を売り込んでいたのです。工房で絵の修業をしていたにもかかわらず、です。
これには理由があります。当時のフィレンツェが平和の都市だったのに対し、ミラノは戦争の渦中にありました。軍事技師のニーズが非常に高かったのです。その需要を正確に読み、自分の見せ方を変えたわけです。
ミラノ18年と『最後の晩餐』
レオナルドがミラノにいた期間はおよそ18年。この間、1490年代頃に描いたのが『最後の晩餐』です。イエス・キリストと弟子たちが最後の晩餐で夕食をとる様子を横一列で描いた、あまりにも有名な作品です。
ただし、あれは普通の壁画ではありません。遠近法平面上に奥行きや立体感を表現する絵画技法。ルネサンス期に理論的に確立された。を使い、壁の向こうに空間が続いているように見せる、当時としては次元が違う描き方をしています。いわばトリックアートのように、部屋の奥行きを錯覚させる見え方を実現したのです。
ちょっとトリックアート的な。
だいぶトリックアート的なだね。部屋の奥行きを騙し取ったみたいな見え方ができるんだよね。
そして同時期に取り組んでいたことが山ほどありました。解剖学、水力学、飛行機械の設計、音楽——まさに万能ぶりです。特に解剖学については、当時教会が遺体の解剖を禁じていたにもかかわらず、夜中に遺体を入手して30体以上を解剖したと伝えられています。ほぼ犯罪行為ですが、残した解剖図はあまりに正確で、後に医学書の教科書にもなりました。
後ろ盾を失った流浪の時代
1499年、ミラノが外国軍に占領されます。占領したのはフランスのルイ12世フランス王(在位1498〜1515年)。イタリアへの遠征を行い、ミラノ公国を攻略した。の進軍でした。このタイミングでスフォルツァが失脚し、レオナルドは後ろ盾を失います。
ここから流浪の時代が始まります。マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェといった都市を転々とし、一時期はチェーザレ・ボルジアルネサンス期イタリアの軍人・政治家。冷徹な手腕で領土拡大を進め、当時最も恐れられた人物の一人。の軍事顧問まで務めました。当時イタリアで最も恐れられていた軍人政治家です。もはや画家の姿はありません。
もう画家どこ行ったって話なんだね。
この流浪のパターンは、実はレオナルドの一生を貫くリズムでした。後ろ盾が倒れるたびに次の権力者に乗り換え、動き続けたのです。都市国家が乱立し戦争が絶えない時代には、一つの都市に縛られるより、どの権力者にも使える才能として動ける方が生き残りやすかった、という事情がありました。安藤さんは、中国の春秋戦国時代に君主を渡り歩いた人材の例えを挙げています。
『モナ・リザ』とフランスでの晩年
フィレンツェに戻った時期、1503年頃に描き始めたのが世界一有名な絵『モナ・リザ』です。モデルについては、フランチェスコ・デル・ジョコンドという商人の妻リザが最有力説とされていますが、完全に確定はしていません。
さらに謎なのは、この絵が依頼されて描かれたものだという点です。にもかかわらず、レオナルドは死ぬまで手放しませんでした。依頼主に引き渡さず、後にフランスまで一緒に持っていってしまったのです。
晩年の1516年頃、フランス王フランソワ1世フランス王(在位1515〜1547年)。芸術を厚く保護し、晩年のレオナルドをフランスに招いた。に招待され、ロワール渓谷の城クロ・リュセに移住します。そこで年間1000スクーディという莫大な年俸と城を与えられ、「ただ存在してくれるだけでいい」と言われたと伝えられています。この年俸は熟練職人の20〜40年分に相当し、ほぼ一生分。現代でいえば大企業の役員報酬レベルの待遇でした。
やがて64歳頃、右手が麻痺して絵が描けなくなります。弟子のフランチェスコ・メルツィとともにフランスの城で暮らし、1519年5月2日、67歳で亡くなりました。各地を転々とした人生の果てに、最後は「ただ存在するだけでいい」と言われる場所にたどり着いての最期でした。
天才ではなく「泥臭く生き延びた人間」
那須さんはこの回を聞いて、これまで「絵」のイメージしかなかったと振り返ります。いろいろな学問に精通していたことは何となく知っていても、その背景——不安定な時代だからこそ、どこでも通用するスキルを身につけたという事情は新しい発見でした。
この人はスキルとも思ってなくて、ただ好奇心で動いてたらそうなりました系の人なのかなと。
いや、もう明確にそうよ。
安藤さんが特に面白いと感じたのは、この人がちゃんと苦労しているという点です。天才の代名詞のようなイメージから、才能にあやかってちやほやされながら生きていたのかと思いきや、実際は後ろ盾を失いながら各地を転々とし、それでも知的好奇心が止められずに絵を描き、あらゆる分野に手を出していく——。「ちゃんとダ・ヴィンチも人間なんだな」という愛おしさこそ、この人物を語る面白さだと語っています。
次回は、レオナルドの複雑な出自を深掘りする「生い立ち回」です。結婚していない両親のもとに生まれた事実は、表面的に触れただけでも複雑ですが、実はさらにややこしい事情があるといいます。この出自がレオナルド・ダ・ヴィンチに影響を与えないわけがない——そこに肉薄していく予定です。
まとめ
レオナルド・ダ・ヴィンチは、私生児という不遇な出自から始まり、工房での修業、軍事技師としての売り込み、パトロン失脚後の流浪と、決して安定とは言えない人生を歩みました。しかしその根底にあったのは、止められない知的好奇心。絵画・解剖学・軍事技術・飛行機械と、あらゆる分野に手を伸ばした結果が「万能の天才」という称号につながっています。天才の一言で片付けるにはあまりに惜しい、泥臭くも人間らしい生き様がそこにありました。
- 「ダ・ヴィンチ」は姓ではなく「ヴィンチ村出身の」という意味。名前は「レオナルド」
- 公証人の父を持ちながら私生児として生まれ、その出自が生涯に影響を与えた
- ミラノには画家ではなく「軍事技師」として売り込み、時代の需要を読んだ
- ミラノ18年で『最後の晩餐』を制作、遠近法で奥行きを錯覚させる次元の違う技法を用いた
- 禁じられていた遺体解剖を30体以上行い、その解剖図は医学書にもなった
- パトロン失脚後は流浪の時代へ。チェーザレ・ボルジアの軍事顧問も務めた
- 晩年はフランス王フランソワ1世に「ただ存在するだけでいい」と迎えられ、67歳で死去
