なぜ「正しいこと」を言っているのに伝わらないのか
この回のテーマは「正論の扱い方」です。「正論で人を追い詰めるな」という言葉はよく聞きますが、玉置さんはかつてその正論マンだったと打ち明けます。
私、結構長らく正論マンだったんですよ。
岡島さんも、現在進行形でその傾向があると振り返ります。無邪気に正論を扱っていた時期を経て、この1年でまずさに気づき、少しずつ調整をかけている最中だと言います。
この2年ぐらい結構「正論マンやめなよ」って結構言われてますね。
玉置さんが本気で「これは悪い」と思えたのは、30代半ばごろだったそうです。周りからは散々言われていたものの、なかなか腹落ちしなかったと話します。
正しさが「免罪符」になる構造
玉置さんが正論を曲げられなかった背景には、社長として組織を正しい方向に導かなければならないという大前提がありました。
私が正しいことを曲げてしまったら、全社に対しての悪影響があるっていう大義名分の下にやってたので、曲げられなかったんですよ。
ただし今振り返ると、それは大義名分を使っていただけだと言います。正論を振りかざさなくても出せる結果だったのに、そこを楽していたというのです。
玉置さんは、正論の危うさを「免罪符」という言葉で説明します。自分は正しいという確信があるから、何をしてもいいという許可を自分に与えてしまう。
絶対に私正しいこと言ってるんだから、相手が傷ついたとしても、それは相手の問題だって思ってるんですよね。
さらに「正しいことを伝えないことは不誠実だ」という理屈まで持ち出し、大義名分も免罪符も抱えて相手に挑んでしまう。これは正しさを盾にしているだけだと玉置さんは指摘します。
問題は、伝える責任の捉え方にあります。相手に伝わって初めて責任を果たしたことになるのに、正論を言い放つだけでその責任を放棄してしまっている、と玉置さんは言います。
相手を「全否定」してしまう正論の文法
玉置さんは、正論の内容そのものは正しいので問題ないと言います。悪いのは内容ではなく、相手を追い詰める「構造」だと整理します。
正論を言うときの文法は、「あなたは間違っている、私は正しい、だから教えてやる」という形になります。この構造を取った瞬間、相手は全否定された状態になります。
これ全否定されちゃったら、言うことを受け取ってくれる人ってそういないですよね。
それでも正論マンは「相手のためだもん」と言いながらやってしまう、と2人は苦笑します。話を聞く前は少し受け入れる気があった人まで、頑なにしてしまうのです。
相手が頑なになると、こちらは「わかっていないからもっと教えてやらねば」と正論マンを強化していきます。玉置さんはこれを、構造的に絶対うまくいかない悪循環だと言います。
正しさなんて何一つ伝わんなかったばかりか、よりかたくなに正しくない方向に行っちゃったりするんですよね。
最初は「相手のため」という嘘偽りのない気持ちがあったとしても、結果として逆の方向に進んでしまう。だからこそ、その文法自体が間違っているのだと玉置さんは結論づけます。
「正す」から「一緒に考える」へ切り替える
では、どうすればいいのか。玉置さんは、正すのではなく「一緒に考える」スタンスへの変換を提案します。
「それ間違ってますよ」ではなく、「こういう方法もあるんじゃない?」「あなたどう思う?」と投げかける。こうすると相手は否定されずに、自分で気づく余白を残せます。
自分でその道を発見して選び直せれば、自尊心は傷つかず、結果として正しい道に進み直せます。バトルのように向かい合うのではなく、横並びで同じ方向を向くポジションを取ることが第一のポイントです。
2つ目は主語の問題です。「あなたは間違っている」と相手を主語にすると喧嘩になりますが、「この状況でこんなことが起こっているよね」と状況を主語にすると、相手はその人から切り離されます。
今のやり方だとお客さん減ってるよね、だと状況じゃないですか。
状況を主語にすれば、相手は責められている感じを持たず、一緒に課題を眺める側に立てます。余裕を持って客観的に考えましょう、という提案に変わるのです。
3つ目は、相手が何かをしている意図や背景を先回りして認めることです。「こう考えて選択したんだよね、その意図は理解できます」と伝えたうえで、結果の問題を話します。
人は行動よりも、思いや意図を否定されたときに最も反発します。だからそこは否定せず認めたうえで、「このやり方だとこういう結果になっちゃうよね」と話すことが大切だと玉置さんは言います。
「まっすぐ言われた方が嬉しい」タイプの落とし穴
岡島さんは、自分が正論マンになりやすい理由を分析します。もともと自分は、まっすぐ言われた方がむしろ嬉しいタイプだと言います。
やりたいことの根本を「変えろ」と言われても動じないものの、プロセスの改善を提案されれば「そっちもあるか」と2、3日考えて割と変える。そして相手も同じだろうと思って接してしまう、と振り返ります。
なんならそのまっすぐ言われた方が嬉しいまであるみたいなタイプ。
玉置さんも同じタイプだと共感し、サッカーの試合の振り返りにたとえます。次の試合に勝ちたいから、無駄に褒められるよりダイレクトに改善点を挙げてほしい、と感じるのだと言います。
玉置さんは悟りに至る前、「プロフェッショナルのスポーツ選手だと思って聞いてね」と前置きして伝えていました。しかし、そう受け止められる人は限られていると気づきます。
ほとんどの人がやっぱりその、まず感情で受け止めるっていう。
理屈より先に「私が否定された」と感情で受け取った瞬間、受容力は極端に下がり、扉が閉まってしまう。しかも普段は聞ける人でも、弱っているときは否定しないでほしいモードになると玉置さんは付け加えます。
岡島さんは、話していい相手かどうかの見極めをミスることがよくあると打ち明けます。おせっかいなタイプゆえに、「この人は大丈夫だろう」と判断して言った結果、外してしまうのです。
話していい相手の見極めをミスってるから、もうもはや何も言わない方がいいのかなぐらいまで、今こっちもこっちでこうなってます。
「わかっててやっている人」に正論は要らない
玉置さんは、相手のタイプを2つに分けます。本当にわかっていない場合と、わかっていてやっている場合です。
後者は、悪いとわかっているのにやめられない、やめたくないケースです。今更引けない、短期的に得だから、楽だからといった理由で続けていることがあります。
玉置さんは、罪悪感をごまかすために別次元の理屈で自分を正当化する例も挙げます。お酒を飲むのは悪いと思いつつ、「飲みの付き合いがなければ人脈が広がらない」と正当化するようなパターンです。
このタイプには正論を言っても意味がありません。正しいことはすでにわかっているからです。遅刻を繰り返す人に「遅刻は悪だ」と言い続けても、本人は最初からわかっています。
わかってるんですよ。遅刻したらダメだってことはわかってるんですよ。でもやめられないだけじゃないですか。
そこで玉置さんが勧めるのは、結果の話だけをすることです。「このまま続けたらこういう結果になるよ」という事実と判断材料を渡し、どうするかは本人の判断に委ねます。
自分で考えてね、自分がやったことの結果は自分で引き受けてねっていう話をするしかないんですよね。
わかっていることを「ダメだダメだ」と言い続けるより、この方がよほど効果があると玉置さんは話します。
SNSの正論コメントと自分は「同じステージ」
玉置さんは、正論マンでいることで満たしているエゴイスティックな欲望を、まず自覚した方がいいと言います。
たとえばSNSで間違った振る舞いをした人を見つけ、コメントで正論をぶつける人。あの人と自分は同じなのだ、という恥ずかしさを知るべきだと玉置さんは指摘します。
岡島さんは、テキストで書き込む行為は口頭より強くきつく見えると言います。しかし口頭で和らいで見えても、中身は同じことをしているのかもしれない、と気づきます。
和らいでるからなんか大丈夫っぽいけど、なんか中身一緒、実はみたいな。
岡島さんは、SNSの正論コメントを「近視眼的で背景も何もわかっていない」と評します。玉置さんは、まさにその言葉を正論を言おうとした自分自身に向けるべきだと返します。
どんなに近い相手でも、その全てをわかっていることはありません。そう考えるとブレーキがかかり、一旦クールダウンしてから伝え方を考えられるようになります。
エスカレートしやすい人には、先に文字に起こして自分の言葉を客観視する方法も有効です。玉置さんは、AIにこのポッドキャストを学習させ、言おうとしていることを事前に注意してもらう使い方を提案します。
何かこう部下に注意しようとか、友達に進言しようっていう時はテキストにしてみて、これってどうだろうって言うと、多分辛辣な意見が返ってくると思うので。
結局は「誰が言うか」——関係性という土台
岡島さんは、的を射た指摘でも嫌な言い方をされると受け入れがたいと話します。玉置さんは「的を射ている方が嫌」だと返し、ニヤニヤとバカにするような言い方はきついと同意します。
そこから2人は、大事なのは何を言うかではなく、どう言うか、さらには誰が言うかだという話に進みます。
本当ね、もう何を言うかじゃなくて、どう言うかですよ。もっと言うと、もうベース誰が言うかで。
どんな言い方でも伝わる相手には、それまでに培ってきた関係性があります。心の底から心配してくれているとわかる相手なら、「それやめた方がいいよ」の一言で済むのです。
玉置さんは、人は関係性を見誤りがちな生物だと言います。岡島さんも、10年来の友人との意見の言い方が変わってきたことに触れ、思っている以上に関係は変化していると実感を語ります。
学生時代の友人とは「100パーセント分かり合えている」という錯覚の中に友情がありますが、環境が変われば互いに違う人になっていきます。関係性は生き物のように変わり続けるのです。
何を言ってもどんな伝え方をしてもいい相手なんてそうそうずっといないはずなんですよね。
岡島さんは、知り合って1カ月の相手にもガンガン言ってしまう自分を「やべえな」と笑いつつ、人というより事象について言うよう心がけていると話します。人は否定されるのが大嫌いだからです。
玉置さんは、この年になって初めて気づくことは多いと言い、自分がせっかちだと最近になって知ったエピソードを明かします。周りは全員気づいていたのに、誰も言わなかったのだそうです。
まとめ
正論は内容が正しくても、相手を全否定する構造で伝えれば届きません。正すのではなく一緒に考え、主語を状況に置き、相手の意図を認める。そして最後は「誰が言うか」という関係性の土台がものを言う、という回でした。
- 正論の内容は正しくても、「あなたは間違っている」という構造が相手を全否定し、反発を招く
- 伝える責任は相手に伝わって初めて果たされる。言い放って終わるのは責任の放棄
- 「正す」から「一緒に考える」へ、主語を人から状況へ変え、相手の意図は先に認める
- わかっていてやめられない相手に正論は無意味。結果と判断材料だけを渡す
- SNSの正論コメントと自分は同じステージ。最後は「何を・どう・誰が言うか」と関係性が決め手になる






