
朝倉人文知今回は、吉松家が朝倉に来る前の前提として、そもそも朝倉という土地がどのような場所だったのかを考えます。
朝倉は、山に挟まれた内陸の地域でありながら、筑後川を通じて外の世界とつながる土地でもありました。縄文・弥生時代の遺跡や、朝鮮半島とのつながりを感じさせる墓制、平塚川添遺跡に見られる環濠集落などから、古くから人や物が行き交い、発展していた地域だったことが見えてきます。
また、661年に斉明天皇が朝倉へやって来た背景として、百済の滅亡、唐・新羅連合軍への危機感、そして白村江の戦いへ向かう時代状況にも触れています。朝倉は、筑後川による輸送力、博多湾から一定の距離を置いた防御性、豊後方面へ抜ける脱出路という条件を備えた、軍事的にも重要な場所だったのではないかという話です。
後半では、日本書紀に記される「朝倉橘広庭宮」の所在地をめぐる宮野説・志波地区説にも触れます。天皇の宮殿機能は志波地区にあり、宮野は数万人規模の兵を置く軍事拠点だったのではないか。そう考えると、宮野に斉明天皇や戦勝祈願に関わる神社伝承が残っていることも説明しやすくなります。
今回はまだ吉松家そのものは登場しませんが、次回以降の話を理解するための土台となる回です。
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福岡県朝倉市で1400年以上続く「吉松家」の歴史を辿りながら、日本の地方社会における人々の生存戦略を読み解く歴史番組です。
日本の歴史は、幕府や戦国大名といった支配者層を中心に語られがちですが、実際に地域に根ざし、実務や祭祀を担っていたのは在地の中間層でした。
本番組で取り上げる吉松家は、飛鳥時代(西暦661年)の斉明天皇による朝倉行幸を起源とし、現代まで記録が残る一族です。
彼らは武力によって勢力を拡大したわけではありません。時代の変化に直面するたびに、自らの役割を変えることで家を存続させてきました。
古代の「神官」から始まり、戦国時代には大名・秋月氏のもとで税や戸籍を管理する「行政官」へ。豊臣秀吉の九州平定で権力基盤を失うと「庄屋」として帰農し、江戸時代には水不足の村を救う治水事業や水車の開発を指揮。そして明治維新による身分制度の崩壊後は、土地を離れて「医師」という専門職へと転身しました。
シリーズを通じて、系図や地域史料をもとに彼らの変遷を追います。表舞台には出ない中間層が、いかにして現状を冷静に認識し、環境に適応してきたか。その歴史的記録から、現代社会を生きる上での一つの視点を探ります。
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朝倉の片隅から、ゆるやかにお届けしています。
普段は「人文知調査事業」として、歴史や哲学などの視点から地域や事業を読み解くことをしています。
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