何が起きたのか。ドラマ現場で生まれた申し入れ
話題の中心は、フジテレビ系で放送され、すでに終了したドラマの制作過程で起きた問題です。夫婦別姓をテーマにした作品で、佐藤二朗さんと橋本愛さんがダブル主演していました。
橋本さんには過去のトラウマがあり、体に触れる場合は事前に許可を取ってほしいと共有していたとされます。しかし、その意向が佐藤さん側には伝わっていませんでした。
結果として、佐藤さんが橋本さんの顔に少し触れてしまい、その後に申し入れが入りました。ひうらさんは、その後の展開のほうを問題視します。
佐藤さんは橋本さんの楽屋に一人で行き、話をしたとされます。その中で「そんなに繊細だと、僕だったら役者を辞めた方がいいかもしれない」という趣旨のことを言ったと報じられました。
芳麗さんも、この発言こそが最大の問題だと受け止めます。
間違いなく最もの問題はそれでしかなくて。
ただし、二人はどちらか一方を断罪する立場は取りません。急に触られて驚くのは、相手がイケメンであっても同じだと確認しつつ、話を進めていきます。
情報のズレと、伝わらなかった意向
この問題は、週刊文春、週刊新潮、そしてフジテレビ側の見解で、それぞれ少しずつ言葉やニュアンスが異なります。同じ出来事でも、受け取り方が変わってしまうと二人は指摘します。
七月十日時点で、橋本さん側は多くを語らず、フジテレビの言う通りだという姿勢だとされます。だからこそ、佐藤さんがどんな口調で話したのかは、はっきりとはわかりません。
一方で、橋本さんの意向は佐藤さんのマネージャーが「伝えない方がいい」と判断し、共有していなかったとされます。ひうらさんは、この点では佐藤さんも被害者側だと見ます。
橋本さんが伝えていたのに、佐藤さんのマネージャーが、これは伝えない方がいいって伝えてなかったんですよね。だからそこは、どっちも被害者だなと思うんですけど。
芳麗さんは、マネージャーの心理も想像します。佐藤さんの性格を考えれば、伝えたほうがこじれると判断したのではないか、という見立てです。
つまり、これは佐藤さん個人だけの問題ではなく、似た構造がどの会社や世界にもあり得る話だと、二人は捉えていきます。
「感謝すべき」という圧と、成功体験の落とし穴
話は、芸能界に残る古い価値観へと広がります。佐藤さんは過去に、若い役者を厳しく叱ったこともあると報じられています。
その一例として、マリウス葉さんの話が挙がりました。最初は落ち込んでいたものの、最終的に「ありがとう佐藤さん」となった、という流れです。広瀬アリスさんの名前も出たと二人は振り返ります。
ただし芳麗さんは、その「ありがとう」が本当に感謝だったのかと問い直します。若く、周囲からの圧もある中で、感謝と言わざるを得なかった側面もあるはずだ、という指摘です。
若いし子供だし、周りからの圧もあるしっていうことで、ありがとうございますと言わざるを得ないし、ありがとうの側面がゼロではないしとか思いながら言ってしまうことってあるから。
だからこそ、積み重ねてきた「成功体験」が、実は成功ではなかったかもしれない、と芳麗さんは話します。
ひうらさんは、これを個人の資質ではなく社会の構造の問題だと整理します。
そして、佐藤さんに共感する人の中には、男性だけでなく女性も少なくないと指摘します。セクハラを「笑っていなせばうまく回る」と考える人は、世代を問わずいるという実感です。
セクハラなどは笑って受け流せば世の中はうまく回る、繊細すぎると考える立場。世代を問わず存在するとされます。
嫌なことははっきり伝え、事前の合意や配慮を求める立場。橋本さんの姿勢がその一例として語られます。
「繊細だからやっていけない」という社会への疑問
似た構造の例として、漫画『はたらく細胞』の作者が、担当編集から言葉の暴力を受けていたと告発した件が挙がります。売れている作者が粗雑に扱われていたことに、ひうらさんは衝撃を受けたと言います。
その作者は十九歳ほどでデビューした若い女性でした。若い女性とエリート編集という関係の中で、同じような構造が生まれていたのではないか、と二人は考えます。
ここでひうらさんが強調するのは、「繊細だからやっていけない」とされる社会そのものへの疑問です。
繊細だからといって、もっとチャキチャキやりなよとか、強くならなければいけないっていう社会は本当に良くないなって、今回も思いました。
人それぞれ性質も価値観も違う中で仕事をしているのだから、「こうあらねばならない」という前提はもうなしにしたい、と芳麗さんも応じます。
かつてなら「プッツン女優」として片付けられていた話かもしれない、と二人は振り返ります。今回それが構造の問題として語られること自体が、変化のあらわれだと捉えています。
橋本愛の毅然とした態度と、周囲の言葉
二人が繰り返し口にするのは、橋本さんへのリスペクトです。佐藤さんを貶めたいのではなく、はっきりと意思を伝え、毅然とした態度を取る橋本さんを応援したい、という気持ちだと語ります。
騒ぎになってからも、橋本さん側は「フジテレビの調査の通り」とだけ述べ、反論を重ねていません。その沈黙と姿勢を、二人は評価します。
時代を切り開く役目を担わせたいわけじゃないけど、結果としてこうやってきっかけとなる役割を担えるだけの、徳の高い人なんだなって。
インティマシーコーディネーターをめぐっては、映画『先生の白い噓』の例も挙がりました。導入を求める声があったにもかかわらず、監督があえて入れなかったとインタビューで答えたことが問題視されたと二人は話します。
さらに、脚本家の野木亜紀子さんが早い段階で発言したことにも触れます。感情的にならず、一つひとつ理路整然と説明したことに、二人は感心します。
野木さんがやっぱ強いなって思うのは、それに一個一個ちゃんと理路整然と答えてんですよね。感情的にならず。
渡辺えりさんが「トラウマがあるからといって役者を辞めなきゃいけないなんてことは絶対にない」と断言したことも紹介されます。どんな職域でもアウトな発言だ、と二人は受け止めます。
自分の中の「二朗」と、価値観のアップデート
話は、他人事ではないという方向へ戻ります。自分の中にも、身近な人の中にも「佐藤二朗さん」はいる、というのが二人の実感です。
自分の中にも佐藤二朗さんがいるかもしれないし、私の中にも二朗いるけど、私たちのそばにも二朗はいるんですよ。
三谷幸喜さんは、佐藤さんを情熱的な人物として描く文章を書いたとされます。二人も、佐藤さんの役者としての才能や、積み重ねてきた美学は認めています。
ただ、金銭に触れると激しく怒るような一面には、プライドの高さを感じるとも話します。プライドには良い面もあるからこそ、扱いが難しいという見方です。
ひうらさんは、こうした問題で何も発言しないことにも違和感があると言います。ただし、拡散されやすいSNSではなく、伝わりやすい音声配信で意見を残すようにしていると語ります。
何も意見表明しなかったら、それで良きと思ってるっていうのは違う。この年代として、ちょっとでも良い社会にしていかないといけないと、老人は思っているので。
芳麗さんは、佐藤さんが自分の正義を一切疑っていないように見える点に注目します。責められるほど意固地になり、拳を下ろせなくなっているのではないか、という見立てです。
だからこそ、事務所が止めるべきだったし、暴走の前にできることがあったはずだ、と二人は話します。SNSは、賛の声であっても本人のためになるとは限らない、という指摘です。
最後に二人が願うのは、佐藤さんが素直に謝り、その先で持ち前のチャーミングさを取り戻すことです。炎上のあとに好転した例はいくらでもある、と語ります。
そして、自分たちも「老害」と言われかねない世代として、OSをアップデートし続けたいと結びます。今回の一件を観察することが、自分たちにとっての学びになる、という姿勢です。
わかってるって思ってることが危ういかもしれませんしね。
まとめ
橋本愛さんと佐藤二朗さんをめぐる問題を、二人はどちらかを断罪するためではなく、正義と信念、ハラスメントの境界線を考える手がかりとして語りました。伝わらなかった意向、感謝を強いる圧、繊細さを許さない社会、そして自分の中にもいる「二朗」まで、話は我が身にも向けられます。
- 急に触れられて驚くのは相手が誰であっても自然なことで、事前の合意と配慮が前提になる。
- 「感謝すべき」という圧の中で言った「ありがとう」は、成功体験とは限らない。
- 繊細さを理由に「やっていけない」とする社会や、「こうあらねば」という前提は問い直す必要がある。
- 何も発言しないことにも意味は生まれるが、SNSでは賛の声すら本人のためになるとは限らない。
- 価値観のアップデートに終わりはなく、「わかっている」という思い込みこそ危うい。
