学者でも外務省でもなく、金融を選んだ理由
浜田さんはもともと就職をあまり考えていなかったといいます。中学の頃から、大学に残って研究をしたいと思っていたそうです。
一つのことを掘り下げるのが好きな体質だと、浜田さん自身が話しています。
話聞いてる限りは、ちょっとそこ(浜田さん)の異常性が感じますからね。
そうですね、またちょっと異常な人間なので。
転機になったのは、留学先のイェール ── アメリカのコネチカット州にある名門私立大学。アイビー・リーグの一校で、政治家や研究者を多く輩出している。に来ていた外務省のキャリア職員との出会いでした。役人は自分から世の中を動かせないこと、学者の世界も狭いことを聞かされたといいます。
すごい論文書いても、それを読む人が数十人しかいない、いうマニアックな世界になっちゃう。
狭い世界はつまらないと感じた浜田さんは、世の中を見てみたいと就活を決めます。ただアメリカの食事が口に合わず、一秒でも早く日本に帰りたかったとも語っています。
NHK内定を辞退し、モラトリアムとして金融を選ぶ
政治を専攻していた浜田さんは、最初はNHKでドキュメンタリーを撮りたいと考え、ディレクター職の内定を得ました。当時、外国の大学出身者が珍しかったことも幸いしたといいます。
しかし内定者向けの場に行ってみて、違和感を覚えたそうです。ディレクター職はフリーランスに近いマインドが必要なのに、組織の人が多いと感じました。
さらに当時のNHKでは、Eメールアドレスがもらえない可能性があると聞かされたことも引っかかったといいます。
FAXでお願いしますみたいな感じだったんだ。
なんか入社式とかでもそういう質問が出たんですけど、ちょっと難しいかもしれませんみたいな感じで。
方向転換を考えたとき、浜田さんはやりたいことがなくなってしまったと振り返ります。もともとビジネスに興味がなく、ドキュメンタリーは民放では難しかったからです。
そこで浜田さんが着目したのが、当時アメリカの大学卒業者が多く進んでいた経営コンサルと投資銀行でした。
よく考えてみたらこの二つ(経営コンサルと投資銀行)ってモラトリアムだなと思ったんですよ。
多くの人は経験を積んで辞め、実業の世界に入っていく。これという業種がない自分には、モラトリアム的な仕事が合っていると考え、この2つを受けたそうです。一生の仕事にするつもりはなかったといいます。
1日16時間、外銀時代のハードワークと休眠したフーディー活動
浜田さんはメリルリンチ ── アメリカの大手証券会社。ここでは日本法人の投資銀行部門を指す。の投資銀行部門に入りました。最初の2年間は金融機関を担当し、みずほ銀行ができた三行統合や保険会社の買収案件などに関わったといいます。
当時の外資系金融は、まさに眠れないハードワークの環境でした。
その当時は本当に1日16時間は余裕で働く。ひどい時は4時間寝れたらラッキー、3時間だとつらいっていう、この狭間を生きている。
性に合っていたかを問われると、浜田さんは合っていないと答えます。頭を使う仕事にワクワクする面はあるものの、お金を稼ぐことが得意ではないと語りました。
後半の2年は、バブル崩壊から回復した株式市場で、株式公開や資金調達を担うECM ── Equity Capital Marketsの略。株式による資金調達やIPO(新規株式公開)を担う部署。という部署にいたそうです。楽天や電通のIPO案件にも関わったといいます。
この時期、フーディー活動はほぼ休眠状態だったと浜田さんは振り返ります。週1回まともな食事ができればいい、という状態でした。
広尾のアルマフレスカは(当時)ラストオーダーが1時だったんですよ。なので12時過ぎにかき込むってことをやってました。
一方で、労働時間が長いぶん昼間に時間がぽっかり空くこともあり、そのときはこっそり抜け出して美味しいものを食べていたといいます。忙しさのなかにも食の時間を確保していました。
プライベートエクイティで学んだ「何でも屋」の仕事
浜田さんはメリルリンチに4年いた後、1年ほど友人のスタートアップを手伝い、その後5年間プライベートエクイティ ── 投資家から集めた資金で企業を買収し、経営に関与して価値を高めてから売却する投資手法。バイアウトとも呼ばれる。の世界に入りました。
投資家から預かった資金で会社を買収し、経営を一緒に良くして数年後に売却するバイアウトの仕事です。一つの案件で3〜5年、ファンドとしては10年という長期の視点が求められました。
本当にプライベートエクイティの投資家って何でも屋なんですよ。その会社の価値が上がることは何でもすると。
法律も税務も会計もある程度理解し、専門家を起用してその分析を理解できる程度にはわかっていなければならない。浜田さんは、うっすら幅広くが特徴だと説明します。
所属したのはリップルウッド、後半はJPモルガンのファンドでした。金融の世界でおよそ10年を過ごしたことになります。
死ぬまでに行きたい場所を書き出したら30年でも足りなかった
プライベートエクイティの仕事で少し時間に余裕ができ、外国人の多い職場で夏休みや冬休みを必ず取るようになったことが、浜田さんの旅への欲に再び火をつけました。
行きたい場所をある日リストアップしたところ、とてつもない量になったといいます。
これは(夏と冬の休みだけで行くと)今みたいな仕事を続けて、30年経っても割り切れないなと思ったんです。
そこで浜田さんは、金融の世界から一旦足を洗い、行きたいところに全部行こうと決意します。背景には、小さい頃から後悔するのがすごく嫌だという性分がありました。
学生時代は将来の選択肢を増やす方向で選んできたのに、社会人になると何かに特化して選択肢を狭めなければならない。それがストレスでもあったと浜田さんは語ります。
やっぱりここで一回リセットして、世界の色んなものを見て、また自分の可能性を広げたいなと思った。
南米だけで半年、ほぼ2年に及んだ世界一周の旅
浜田さんは勤めを辞め、旅に出ました。当初は9カ月ほどで一周する計画だったといいます。
ところが南米に行くと、行きたい場所がどんどん増えていきました。ブエノスアイレスやサンパウロからさらに24時間かかる場所は、一度日本に帰るとなかなか行けないからです。
そういうところに今行っておかなきゃいけないって思うと、ここもやっぱりじゃあ付け加えなきゃってなっちゃって、結局南米だけで半年いました。
結局、旅は1年9カ月に及び、帰国後にビザが必要な国を2つ加えたため、ほぼ2年になったといいます。
資産についても浜田さんは率直に語ります。リタイアできるほどではなかったものの、旅ができるだけの蓄えはあったそうです。
もう全部使って野垂れ死んでもいいなと思ってたんですよ。
浜田さんは、生きることへの執着が昔からあまり強くないと明かします。楽しく生きられないならあまり生きたくない、という感覚だといいます。
口では説明しにくい南極と、乗客の半分がWikipediaに載る船
旅で最も印象に残った場所として、浜田さんは旅の初っ端に訪れた南極を挙げます。クルーズ船に乗って向かったそうです。
南極の良さは口頭で説明するのが難しいと浜田さんは言います。氷とペンギンはいるが、クマもオーロラもないからです。聞き手の川邊さんも訪問経験があり、真冬の北海道のようだと表現しています。
本当に何て言うんだろうな、別世界というか、地球じゃないみたいというか、あの感覚がすごく。
もう一つ印象的だったのが、船で出会った人たちだといいます。南極に行くのは各地を旅し尽くした人が多く、資産家も少なくなかったそうです。
本当に僕の乗った船とかは110人ぐらい乗る小さい船だったんですけど、半分ぐらいの人がWikipediaに載ってました。
仲良くなったアメリカ人はMIDI音源を作った人物だったといいます。すごいと伝えると、意外な答えが返ってきました。
いやいや、なんか何を作るかのゴールさえ決まればあとはできるんだよって言ってました。
世界一周で人生観は変わらない、でも「一旦死んでもいい」と思えた
この旅は、世界のベストレストラン50に入るような店を初めて訪れたフーディー活動も兼ねていました。当時は今ほど僻地のレストランは多くなく、宿に併設された店に泊まって食事を楽しむこともあったといいます。
旅で何を得たかを問われると、浜田さんは「人生観が変わったか」とよく聞かれると言いつつ、そう簡単には変わらないと答えます。
そこまでやわな人生歩んできてないから、たかが世界一周したぐらいで変わるわけないじゃんって僕は思う。
ただ、一つだけ変化があったといいます。これで一旦死んでもいい、と思えたことです。
もう人生、後の人生どうなっても、ここまでの人生が楽しかったから、これで生きていけるかなと思いました。
川邊さんは、若い人にこそ参考にしてほしいと語ります。やりたいことをやり切ると開き直って新しいことができ、あるいは家族を作って平穏に暮らす道もある。一度やり切ることの大切さを強調しました。
帰国後、浜田さんは資産管理会社で資産運用の仕事を3年間続けました。川邊さんと出会ったのもこの頃だといいます。会食などもあり、食という意味では充実した生活が送れるようになったそうです。
食の師匠・寺門ジモンが教えた「何を見て食べるか」
浜田さんには食の師匠がいます。一人が寺門ジモン ── お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」のメンバー。肉に詳しい芸人として知られるが、寿司や割烹にも精通している。さんです。メディアで名前を出すと失笑されがちだが、本当にガチだと浜田さんは言います。
寺門さんは肉のイメージが強いものの、実は寿司や割烹に日本有数の詳しさを持つといいます。小学校の頃にお年玉を貯めて銀座の寿司屋に通っていたほどでした。
ただ、寿司や割烹の高級な世界は地上波に乗りにくいため、その知見を披露する場が長くなかったと浜田さんは説明します。近年は取材拒否の店を扱う深夜番組で、ようやく出せるようになってきたそうです。
寺門さんから浜田さんが学んだのは、何を考え、何に注目して食べるかで食体験が大きく変わるということでした。
寺門さんは寿司屋に入った瞬間の香りで、換気や客を迎える準備ができているかを見るといいます。ネタの切りつけや包丁さばきも観察の対象です。
金沢の料亭では、寺門さんがお造りを見て「包丁が粗いな」とつぶやいたところ、担当が若手に変わったばかりだったことが後で判明したそうです。川邊さんはこれを『美味しんぼ』の海原雄山になぞらえました。
普通に出されたもので包丁が粗いなってボソッと言ったんですよね。すごいっすよ。
浜田さんは、これを野球にたとえます。何も考えずに打席に立つのと、1球ごとに真剣に考え、自分のフォームも意識して立つのとでは全然違う、という考え方です。
注意を払ったつもりでも、何を見るべきかっていうキーポイントを把握できてないと、あんまり意味がなかった。
寺門さんとレストランをともにするなかで、浜田さんは寿司割烹の見方を教わり、他のジャンルでも自分なりの着眼点を持つようになったといいます。
まとめ
浜田岳文さんは、後悔しないという一点を軸に、外資系金融でのハードワークからほぼ2年の美食旅行へと大きく舵を切ってきました。旅で人生観は変わらなかったものの「一旦死んでもいい」と思えたこと、そして食の師匠・寺門ジモンさんから「何を見て食べるか」を学んだことが、後半のフーディー人生を形づくっています。
- 学者や役人の狭い世界を避け、モラトリアムとして経営コンサルと投資銀行を選んだ
- 外銀時代は1日16時間労働で、フーディー活動はほぼ休眠状態だった
- 行きたい場所を書き出すと30年でも足りず、金融を辞めてほぼ2年の世界一周に出た
- 南極やクルーズ船での出会いを経て「一旦死んでもいい」と思えるほど旅をやり切った
- 寺門ジモンさんから、何を考え何に注目して食べるかで食体験が変わることを学んだ


