出馬会見1週間前に出た週刊誌報道
番組の冒頭で、川邊さんは前回までの流れを振り返ります。乙武さんが教育委員会の立場では思うようにできず、制度から政治へと関心が移り、いわゆる「伝説の誕生日会」につながったという整理です。
じゃあ最初から国政に出る準備をして、事実上その出馬会見をするはずだった。
乙武さんによると、その出馬表明の1週間前に、週刊新潮に不倫を大々的に書かれました。川邊さんはかつて麻布十番で見た光景の印象から「それぐらいやるやつだろうな」と思っていたと明かします。
世間で誤解されがちなのは、よく(複数同時と)言われるんですけど。
のべなので、同時にではない。皆さんにとっては大差ないけど、私にとってはちょっとこだわりどころなので。
乙武さんは、報道が出る少し前まで、不倫に対する世間の風当たりはそこまで強くなかったと振り返ります。ところが自分の2か月前に起きたベッキーさんの件から急に厳しくなり、そのあおりを受けたと話します。
川邊さんは、ベッキーさんの件を報じたのが文春、乙武さんの件を報じたのが新潮という違いにふれつつ、どちらにしても影響の大きい報道が続いた時期だったと整理します。
やっぱりある種、真面目にひたむきにやっていてルールを守っている人たちからの怨嗟の声みたいなものが、増幅するように作られてますから。
お通夜みたいな誕生日会で感じたこと
報道の1週間前に予定されていた誕生日会について、川邊さんは「気まずい誕生日会」と表現します。乙武さんはそれを「お通夜みたいな」会だったと受け止めていました。
ある意味でも社会的な死を迎えたので、お通夜で間違ってないんですけど。
乙武さんは、そもそもその会をやりたくなかったと明かします。会は本人が主催したものではなく、有志数人による実行委員会形式で開かれたものでした。
(有志たちが)こういう時だからこそみんなで励まそうみたいな前向きな空気になり。そうかなと思いながら、もう当時の僕には発言権はないわけですよ。
会場は早稲田のリーガロイヤルで、集まったのは知った顔ばかりでした。それでも、その仲間の前で晒し者になることはしんどかったと乙武さんは振り返ります。
一方で、結果としてはやって良かったと乙武さんは話します。参加者が温かい声をかけ、いい意味でいじりに来てくれたことが、その後の関係につながったといいます。
あそこに来てくださった方との、絆っていう言い方でいいのか。あの時来てくれてありがとうねっていう感謝の気持ちは今でも忘れないですし。
五体不満足が生んだ聖人像と本当の自分
川邊さんは、この回で聞き手が一番知りたいところとして、『五体不満足』が作った幻想について切り込みます。乙武さんが「聖人君子」というイメージをどう感じ、報道でそれがどう剥がれたのかという問いです。
乙武さんは、本を出した数か月後から1年ほど、原因不明の吐き気に悩まされていたと明かします。家の前3か所に週刊誌が張り込み、街中で写真やサインを求められる日々でした。
本当の自分と作られた自分のギャップに苦しんでたんですよね。
乙武さんは、当時メディアの取材やテレビ出演で、あえて露悪的に振る舞い、下ネタを言うなどして、自分からメッキを剥がそうとしていたと話します。
ところが、出来上がった記事や放送された番組を見ると、そうした部分は綺麗にカットされていました。数年それが続いたところで、乙武さんは25歳ごろに諦めたといいます。
あ、そう、求めてないのねと。もうじゃあ割り切って、みんなが求めてる綺麗な音ちゃんやりますよで割り切ったんですよ。
その「綺麗な音ちゃん」を演じ続けた末に、スキャンダルで本当の姿を暴露されたとき、乙武さんの気持ちは8割がほっとし、2割が「だから言ったじゃん」だったと振り返ります。
白か黒かでしか見ない世間とメディア
川邊さんは、社会が求める像しか作らないメディアについてどう思うかと尋ねます。乙武さんは、それが売れるからだと理解しつつ、冷めた気持ちがあると答えます。
乙武さんによると、スキャンダル前は、自分がいくら綺麗な自分を否定しても、それすら謙虚さとしてプラスに解釈されてしまったといいます。一度「白」と決められると、何をしても白と見られる状態でした。
一方でスキャンダル後は、社会や教育への思いは変わらないのに、「お前が何言っても響かねえよ」と受け取られるようになったと乙武さんは話します。一度「黒」と認定されれば、何を言っても黒と思われるという逆転です。
人間は本当に牛みたいなブチ柄で、白いとこもあれば黒いとこもありっていうのが人間だと思うんです。
乙武さんは、顔見知りの知り合いは別として、それ以外の人は黒か白かという見方しかしないと感じたと締めくくります。川邊さんは、そうした見方を取り払うためにこの回に出てもらっているという認識を示します。
スキャンダル前は一度「白」と決められ、綺麗な自分を否定してもプラスに解釈された
スキャンダル後は一度「黒」と認定され、社会や教育への発信も響かないと受け取られた
40が近づき、政治へ腹をくくるまで
川邊さんは、その後も政治に挑み続ける理由を尋ねます。乙武さんが初めて政治を考え始めたのは2015年、39歳ごろのことでした。
乙武さんは、父親が60歳、祖父が56歳で亡くなっていることから、なんとなく「人生60年」という感覚を持っていたと話します。40が近づき、焦りを覚えたといいます。
乙武さんは、『五体不満足』以来メディアで発信を続けてきて手応えを感じつつ、この先20年続けたときの到達点がある程度見えてきたと振り返ります。その到達点が満足のいくものではなかったため、違うアプローチを考え始めました。
一方で乙武さんは、本を出した当時から政治への誘いを受けてきたものの、自分の性格からして政治を窮屈に感じることも分かっていたと明かします。できれば政治という手段を使わずに理想の社会を実現したいと考えていたのです。
(メディアでの発信が)限界だな、頭打ちだなと思う時が来たら腹くくろうとも思ってたんです。それが39ぐらいでようやく腹くくれた。
8か月こもり、37か国を放浪する旅へ
川邊さんに促され、乙武さんはさらに踏み込んで語ります。2016年3月にスキャンダルが出て、そこから8か月ほど家にこもっていたといいます。
来年もまたこういう生活するのかと思ったら、本当に人生を無駄にしてる気がして。
乙武さんは、昔から一度海外に住んでみたいと思っていたと明かします。かつては家族も仕事もあって無理だと考えていましたが、そのどちらもない今こそがその時ではないかと考えました。
結果として乙武さんは、住むというより1年かけて37か国を放浪する旅に出ました。最初に滞在したヨーロッパの5か月が、思っていた以上に居心地が良かったといいます。
乙武さんが政治にこだわってきた理由の一つは、ダイバーシティ ── 多様性のこと。年齢・性別・障害の有無などいろいろな人がいることを前提に、制度や社会環境を整えていこうとする考え方でした。ところがヨーロッパには、それがすでにあったのです。
嫌われてる日本に帰って石投げられながら、それでもダイバーシティだって言い続けるよりも、俺が移住した方が早いんじゃないかなって。
住みやすい都市メルボルンで感じた物足りなさ
気持ちが弱っていたこともあり、乙武さんの旅は移住先探しのようになっていきます。気に入った街もありましたが、どこも一長一短でした。
たとえばバルセロナは食事もサグラダ・ファミリアも魅力的でしたが、東京から直行便がなく物価も高い。トルコのイスタンブールは直行便があり物価も安くバリアフリーでしたが、テロの危険性が高まっていました。
一番気に入ったのが、当時「世界で最も住みやすい都市」ランキングで7年連続1位だった、オーストラリア第二の都市メルボルンです。乙武さんはエアビーで部屋を借り、1か月半住んでみました。
メルボルンの魅力を、乙武さんは具体的に挙げます。東京からの直行便があり時差は1時間、四季はあるが湿気がなく、街中を走るトラムがすべてバリアフリーで誰の力も借りずに移動できる、という点です。
白人と中国人が一緒になって街を開拓してきた歴史があるので、結構アジア人のヒエラルキーが高いから、そんなに肩身の狭い思いをしなくて済む。
ここに移住しようと決めかけた乙武さんですが、3週間目ごろから「暇だな」と感じ始めます。快適さそのものが、物足りなさに変わっていきました。
直行便・時差1時間・湿気のない四季・全面バリアフリーのトラム・アジア人が肩身の狭い思いをしにくい歴史
3週間目には暇を感じ、40年をこのイージーモードで過ごすことに意味を見いだせなかった
イージーモードは要らない、戦っていたい自分
乙武さんは、自分の人生をゲームの難易度にたとえます。生まれた瞬間からスーパーハードモードだった、という感覚です。
いきなりメルボルンでイージーモードを提示された時に、俺あと40年このイージーモードで何して過ごすんだろうと思ったら、暇だなと思って。
乙武さんは、そこで日本へ帰ろうと決めます。快適な場所ではなく、自分には戦う場所が必要だと気づいたのです。
乙武さんは、石を投げられ、茨の道だと分かっていても、傷つきながら三ミリでも前に進んでいく世界線で生きていたいと、はっきり分かったと語ります。そして実際に日本へ帰ってきました。
まとめ
この回は、『五体不満足』が生んだ聖人像とスキャンダルを経て、乙武洋匡さんが「戦っていたい自分」に立ち返るまでを語る内容でした。快適さよりも、自分の理想へ前進できる場所を選んだ心境が率直に語られています。
- 不倫報道は出馬表明の1週間前に出て、ベッキーさんの件以降に強まった世間の風当たりのあおりを受けた
- 『五体不満足』の聖人像に苦しみ、25歳ごろに「綺麗な音ちゃん」を演じると割り切った末、暴露で8割ほっとしたと振り返る
- 世間とメディアは白か黒かでしか見ず、一度どちらかに決められると発信の受け取られ方まで逆転する
- 39歳ごろ、発信の到達点が見えたことで政治に腹をくくり、スキャンダル後は37か国の旅に出た
- 7年連続で住みやすい都市1位のメルボルンの快適さに物足りなさを感じ、「戦っていたい」と日本へ帰る決め手になった


