女性アナウンサーの個性は、どうやって発揮されるのか
新人時代、目の前の仕事にどう向き合っていたかを問われた徳永さんは、女性アナウンサーは男性よりも早い段階で仕事を任される傾向があると振り返ります。
やっぱり女性アナウンサーは絶対的に男性よりも早いんですよね。求められる仕事の量も幅も。なので、これはやっぱり女性は恵まれてるなというのは思ってて。
ただし、その中で個性をどう発揮するかは自分でコントロールしにくいものだったと話します。20代で、わかっているようで何もわかっていなかった、というのが当時の実感でした。
戦略的にやってる人ももちろんいると思うんですよね。だけど、私は全くそういうことを戦略的にできるタイプではなかったので。
徳永さんが取った方法は、戦略ではなく、与えられた仕事に120から130の気持ちで取り組むことでした。上の人やスタッフと話し込み、自分でも気づいていない面を発掘してもらうことに必死だったと言います。
深夜2時まで続く、野球好きたちの談義
そんな徳永さんに声をかけたのが、スポーツ番組のスタッフたちでした。プロデューサーの三雲さんの下で働くディレクターたちが「徳ちゃん面白いから」と企画に誘い、入社2、3年目でスポーツという軸ができていきます。
最初に手がけた大きめのスポーツの仕事は、テレビ朝日の土曜深夜の番組「スポーツQ」でした。MCを栗山英樹さんと務め、構成作家は今回の収録をキャスティングした伊藤茂さんだったと言います。
徳永さんにとって印象的だったのは、番組そのものよりも、収録後の楽屋での時間でした。栗山さんも三雲さんも伊藤さんも、とにかく野球の話を延々と続けていたと言います。
番組終わったのに、控室で3時とか4時まで、「違うんだよ、ミクちゃん」とか栗さんが言ったりとかして。
徳永さんは翌日、朝の早朝番組「やじうまワイド」の仕事を控えていました。それでも大体2時ごろまで残り、その野球談義に耳を傾けていたと明かします。
本当はもうちょっと3、4時間寝れるかもしれないのに、そのおっさんたちの野球談義聞いてて、睡眠時間1、2時間でやじうまに突入すると。
1、2時間の仮眠ですぐ仕事に向かう生活でしたが、当時はそれがとても面白かったと徳永さんは振り返ります。何も知らないからこそ、その話がすべて新鮮だったのです。
新聞の切り抜きが作った、川邊健太郎の物の見方
徳永さんは逆に、学生時代に起業した川邊さんへ問いを向けます。社会を見渡せたからこそ起業できたのか、という質問でした。
川邊さんは、高校2年生の頃から新聞の切り抜きを続けていたことを挙げます。もとは社会科の夏休みの宿題でしたが、面白かったので大学1年生まで続けていたと言います。
自分が気になったものを切り抜いて、スクラップブックに貼り付けていただけですね。
その切り抜きを通じて、川邊さんは新聞紙上に踊る言葉の頻度を体感的に捉えていました。1993、94年頃は「マルチメディア」という言葉がどのページにも出てきていたと言います。
転機は1995年でした。「インターネット」という言葉が、マルチメディアの比ではないほど、スポーツ欄以外のあらゆるページに出てくるようになったのです。
言葉のその増え方がすごいことになってるから、これは何か来るんじゃないかなっていうふうに思って。
実際にブラウザを使い、慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスまで見に行った川邊さんは、これはすごいことになると直感します。1995年11月頃には、これを使って何かやりたいと思うようになったと語ります。
川邊さんは、マクロで量的に世の中を捉える見方は、新聞の切り抜きをやっていたから身についたと話します。この見方は今も生きていて、最近始めたというYouTubeでも新聞を扱っているそうです。
今朝とかもやっぱりもうどのページにもAIって言葉が出てきますから。もう今はAIなんだなみたいな。
徳永さんは、いまだに新聞は大事だと感じる時があると応じ、切り抜きの習慣が川邊さんという人を作っているのではないかと問いかけました。川邊さんは「めっちゃありますよ」と即答しています。
女子アナが「お飾り」にならないために意識したこと
話は再び徳永さんへ。「やじうまワイド」から「スーパーモーニング」へと朝の顔を担い、夜のスポーツ番組もこなす忙しい日々を送っていました。
川邊さんは、テレビ朝日出身の後輩アナウンサー・松尾由美子さんに徳永さんの人柄を尋ねたエピソードを紹介します。返ってきたのは大絶賛でした。
松尾さんが忘れられないと語ったのは、新人でいっぱいいっぱいだった時、徳永さんが周りに気づかれないよう紙で「大丈夫?」と声をかけてくれたことでした。
多分困ってる人とか、大変な思いしてる人の嗅覚。自分も大変だったので、多分あったんだと思います。
朝の顔として活躍していた時期を、徳永さん自身は「相当薄っぺらい」と厳しく振り返ります。若いうちから起用される分、人生経験や知識の厚みが追いついていなかったという自己評価でした。
自分がお飾りみたいになっちゃいけない、なりたくないと思いながらも、やっぱり人生経験とか、学んできたこととか、なかなか厚みっていうのが。
では、その中で何ができるのか。悩んだ末に徳永さんがたどり着いたのが、2つのモットーでした。
読みや進行で勝負するより、まず他の人が絶対にできないことに挑戦する
言うか言わないかは別として、都度感じたことを常に心に携えておく
自分が本当に思ってることは何なんだってことを常に意識する。それを流れの中で言うか言わないかは別にしても、絶対心に携えておく。
その姿勢を支えるため、鳥越俊太郎さんにニュースの切り口を相談したり、栗山さんたちから聞いたスポーツの見方を蓄積したりと、学ぶことにも力を注いでいたと言います。
砂糖菓子の失敗が教えた、言葉選びの怖さ
本当に感じたことを本番で口にする姿勢には、大きな失敗もつきものでした。徳永さんは「やじうまワイド」時代のある出来事を挙げます。
エンディングで富山の砂糖菓子が紹介された時、メインの吉澤アナウンサーから「このお菓子知ってます?」と振られた徳永さんは、正直に答えてしまいます。
バカ正直に「よく見かけます。なんだけど、私そんなにあんまり好きじゃないです」みたいなこと。結構怒られまして。
時間が差し迫るエンディングで急に振られ、いいことを言えたぐらいの気持ちで発してしまった一言でした。徳永さんはこれを「本当に命を縮める」経験だったと語ります。
正直であることや本当に感じたことを言うのは大事にしつつも、言葉選びには気をつけようというのは、この失敗を通じて学んだことでした。
今の若手アナウンサーを見て思うこと
経験を重ねた徳永さんの目に、今の若いアナウンサーはどう映るのでしょうか。返ってきたのは「本当に頑張ってるな」という言葉でした。
必死に自分の体験とか取材とか、貪欲に何かこう勉強しようとしてるみたいな姿を見ると、本当にいい姿だなとすごい思いますね。
川邊さんは、自分たちの学生時代とは環境が大きく違うと補足します。調べたいことはインターネットで、今ならAIに聞けば教えてもらえ、表現したければYouTubeに上げてフィードバックを得られる時代です。
一方で徳永さんは、テクノロジーに頼りながらも、人間だからできるところを探ることが、これからのアナウンサーには必要だろうと話します。
話は少子化にも及びました。川邊さんは、今の若い世代にはグレる子が少なく、大事に育てられていると感じると言います。昔は人が多く、ぶつかり合いながら育つ世界だったという対比です。
徳永さんは、その「大切にされている」ことが、見方によっては手足をもぎ取られているように見える時もある、と応じます。高校1年生と小学6年生の子を持つ親として、なるべく保護しすぎないよう意識していると明かしました。
報道ステーションと、古舘伊知郎から学んだ日々
2004年、報道ステーションの立ち上げから、徳永さんはスポーツコーナーを担当します。久米宏さんから古舘伊知郎さんへとキャスターが替わる、看板番組の大きな節目でした。
徳永さんが語る古舘さんは、細やかな気遣いの人でした。抽象的な言い方を決してせず、良いところや踏み込んでいい場面を、言葉で具体的に伝えてくれたと言います。
抽象的なことは決しておっしゃらず、すごく言葉でちゃんといろんなことを伝えてくれる方で。
台本にないことをどんどん言う徳永さんに、古舘さんはそのすべてに答えてくれました。そのやりとりが、徳永さんにとってはとても楽しかったのです。
川邊さん自身も、古舘さんのYouTubeチャンネルに出演した経験を語ります。小学生の頃、プロレス中継「ワールドプロレスリング」で古舘さんの実況の全盛期を見て育った、憧れの相手でした。
そもそもそういう実況の人に憧れるなんていう概念は、多分古舘さんが出てくるまでなかったはずなんで。
川邊さんは、収録前に高島福岡市長から「カットインしてでもしゃべった方がいい」とアドバイスを受けていました。実際に古舘さんが話し続けるので、そのアドバイス通りカットインを繰り返したというエピソードを披露します。
徳永さんも、古舘さんが人の心をよく読む人だったと振り返ります。後輩への熱いアドバイスが常にあったと言います。
「お前さっきこういうふうに思ってたからこうしたんだろう、あそこは遠慮なんかしなくていいんだよ。どんどん来いよ」みたいな。
水着でシンクロ、頭から突っ込むスケルトン
結婚と出産を経て、徳永さんはアナウンサーの仕事に戻ることはないと考えていました。そんな中、テレビ朝日の世界水泳をめぐる過去の経験が、話題の中心になります。
徳永さんが挙げたのは2001年の福岡での世界水泳でした。テレビ朝日が初めて世界選手権を放送した回で、全社的に一つになって盛り上げた、忘れられない経験だったと言います。
その企画の一つが「世界水泳への道」という深夜の5分番組でした。ここで徳永さんは、シンクロナイズドスイミングへの挑戦に臨みます。
水着になってアナウンサーがやるってことは今までかつてなくてですね。
元オリンピック選手たちと団体競技を行い、リフトで持ち上げられる本格的なものでした。ドラえもんの曲に合わせ、立ち泳ぎをしながら墨で「世界水泳」と書く場面もあったと言います。
練習も過酷でした。元オリンピック選手が拠点とする大阪まで週2回通い、水深5メートルほどのプールでリフトから飛んでは腹を打つ日々だったと徳永さんは振り返ります。
しかし、これだけやったにもかかわらず、話題にはあまりならなかったと言います。徳永さんは「私、結構いろんなことやってるんです」と続けました。
もう一つが、ソルトレイクシティオリンピックに合わせて始まったスケルトンへの挑戦でした。頭から突っ込むうつ伏せの競技で、屈強な男性タレントでも半分が怖がってやめたという長野のオリンピックコースが舞台でした。
めっちゃスピード出ますよね。
手が震えるほど怖かったものの、徳永さんはやり切ります。今も鮮明に覚えているのは、真っ白な世界を高速で滑り抜けた記憶でした。
あの時の記憶って本当いまだに覚えてるんですけど、真っ白な世界で。
ところが、このスケルトンも話題にはなりませんでした。本来ゴールデンで流す予定だったものが、オリンピック競技の時間のずれで生じた朝の空白の時間帯に差し込まれ、ほとんど誰も見ていなかったのです。
誰も見てないような時間に流れるという。
川邊さんは、今ならネットに上げれば多くの人に見られただろうと惜しみます。ただ徳永さん自身は、自分の映像を見返すタイプではなく、その記録も持っていないと淡々と話しました。
木登りから寮長、アナウンサーへ 一貫する「飛び抜けたい」性格
これだけ体当たり企画が続いたのは、スポーツ局に「徳永を使おう」「無茶を聞いてくれる」という機運があったからだと川邊さんは見ます。徳永さんもそれを認めます。
その根っこには、他の人がやらないことで自分を示していこうという意識がありました。川邊さんは、その性格がいつ生まれたのかを尋ねます。
徳永さんは、幼い頃に当たり前のように木登りや競争を吹っかけていた頃から、飛び抜けたいという意識の芽があったのではないかと振り返ります。
その萌芽は大学時代の寮長経験へとつながり、社会人になってからは、10代のやり方が通用しないと痛感します。それでも、自分なりのやり方で通したいという思いは消えなかったと言います。
木登りの少女から、寮長、そしてアナウンサーへ。「人がやらないことをやる」という一本の線が、徳永さんの歩みを貫いているのです。
まとめ
新人時代の深夜の野球談義から報道ステーション、そして水着での体当たり企画まで、徳永有美さんの歩みには「人がやらないことをやる」「本当に思っていることを大事にする」という一貫した軸がありました。話題にならずとも挑戦を続けた経験が、「スポーツの徳永」という個性を形づくっています。
- 女性アナウンサーは早くから起用される分、個性をどう発揮するかが課題になる
- 徳永さんは戦略ではなく、目の前の仕事への全力と、周囲との対話で個性を見つけていった
- 川邊さんの物の見方は、高校時代から続けた新聞の切り抜きで培われた
- 砂糖菓子の失敗が、正直さと言葉選びのバランスを学ぶ契機になった
- 木登りの少女から寮長、アナウンサーへと、飛び抜けたいという性格が一貫している



