そもそも「フーディー」とは何をする人なのか
今回のゲストは、聞き手の川邊健太郎さんと同じ1974年生まれ、宝塚市出身の浜田岳文さんです。世間からは「フーディー」と呼ばれています。
浜田さんによれば、フーディーは職業というより生き方だといいます。食事、特にレストランを巡ることを人生の主軸に据えている人を指します。
比較的その職業というよりは、生き方で、食事、特にレストランを巡る、レストランで食事を楽しむということを人生の主軸に据えている人。
グルメなど似た言葉との違いは「移動」の概念だと浜田さんは説明します。いろいろな土地を旅して食べに回ることがフーディーの特徴で、家で作る人はフーディーとは呼ばないといいます。
川邊さんは、自身の推し活と重なると受け止めます。推す対象が人ではなくレストランやシェフになっているだけだ、というわけです。
レストランだったりとか、シェフを推して。わざわざ遠いところまで食べに行ってたから、推し活の一種ですよね、そういう意味では。
7年連続で世界1位。「いっぱい食べてる人ランキング」の正体
フーディーが権威化される背景には、OADという仕組みがあります。
OADでは食べ歩く人なら誰でも参加でき、レストランに点数をつけます。その結果として、アメリカやヨーロッパ、日本といった地域別のランキングができあがります。
さらに、各フーディーがどの店を回ったかという情報も集まります。そこから生まれる「裏のランキング」が、たくさん食べている人のランキングです。
そっち側の裏のランキングとして、いっぱい食べてる人ランキングっていうのがあって、それで僕は7年かな、連続で世界で1位。
これは評論の質ではなく、純粋にどれだけ多くのレストランを回ったかを示す記録です。浜田さんはこの回った軒数で7年連続の世界1位だと話します。
なぜ他の人では届かないのか。浜田さんは、美食の発展途上国まで含めてくまなく回っている点を挙げます。
最近豊かになってきて面白くなってきてるっていう、そういうお店までくまなく回ってる人が多分他にいないってことなんです。
海外だけで300食、年間800軒を回る食のスケジュール
浜田さんの生活は、海外5ヶ月、東京3ヶ月というリズムです。海外に行けば昼夜ともコース料理を食べる形になります。
海外だけで年間300食ほど、日本を含めると年間700〜800軒に及ぶといいます。これはかなりの食べ過ぎになる量です。
それでも入院が必要なほど太ってはいない、と浜田さんは話します。健康をぎりぎり維持できている理由は、明確な線引きにありました。
食べたいと思うもの以外は基本的に口にしない。この原則が、大量に食べながら健康を保つ土台になっています。
朝食も弁当も食べない、フーディーの厳しい線引き
浜田さんは朝食を基本的に食べません。旅館やオーベルジュに泊まり、朝食が目玉の一つになっている場合は食べますが、それ以外はとりません。
この収録は昼どきでしたが、浜田さんは事前に昼食は不要と伝えていました。弁当は優先順位が最も低い、という発想です。
弁当にも独自の世界があり、突き詰める人がいることは浜田さん自身が認めています。ただ、自分はそこを範囲外にしていると線を引きます。
でも僕はそこはちょっと範囲外というか、どっかで区切らないと、何でも口に入れちゃうと多分死んじゃうんで。
浜田さんはお酒も飲みません。飲めた方が食を味わううえでは有利でも、飲んでいたら体を壊し、それより先に破産していただろうと語ります。
でも飲めてたら多分体も壊してるし、それより何よりも先に破産してるだろうな。
宝塚の少年時代、食への興味はゼロだった
話は浜田さんの原点に移ります。高校まで宝塚に住み、中学高校は関西学院に通っていました。
意外にも、留学までの十数年間、食事にはまったく興味がなかったといいます。母親の作る食事が中心で、比べる対象がなかったため、美味しいともまずいとも思っていませんでした。
比べる対象がなかったんで、特にそれが美味しいとかまずいとかあんまり思ってなくて、当たり前だと思ってたし。
つまりフーディーは、生まれつきの資質ではなく後天的に育ったものだと本人は捉えています。
一方で、何にでもハマる体質は昔からあったといいます。当時はマイケル・ジャクソンから始まり、シャーラタンズやハッピーマンデイズといったイギリスの音楽に没頭していました。
ここで浜田さんは、自分の傾向を率直に語ります。それは、作る側ではなく味わう側だという自己認識です。
僕自身は全くクリエイティビティがない人間なんですね。0。本当にクリエイティブじゃないです。何にも作れないし、かつ作りたいという欲求すらないんです。
作る衝動が一切ないからこそ、作れる人を尊敬し、その作品を享受することが好きなのだと浜田さんは話します。
このクリエイティビティを発揮するということができる人たちを昔からすごく尊敬していて、そういう人たちの作品を享受するのが好きなんです。
付属校の倦怠感と、中学で火がついた旅への好奇心
浜田さんが留学を志したきっかけの一つは、付属校特有の倦怠感でした。関西学院は中高大が同じキャンパスにあり、4年も過ごすと先が見えてしまったといいます。
もう一つの大きな理由が、中学3年ごろから始めた旅でした。同級生に誘われてスキューバダイビングを始めたことが起点です。
ダイビングのために沖縄へ通ううち、文化の違いに触れて沖縄が大好きになりました。留学中を除き、春夏冬の休みのたびに必ず沖縄へ行くほどだったといいます。
その知らないところに行く楽しさというのを中学三年ぐらいから覚えて。好奇心に火がついたというか。
好奇心に火がついた浜田さんは、留学前に一人でハワイへ1週間行き、日本語を使わずどこまでやれるかを試しました。
英語には自信があったものの、現地では苦労します。バーガーキングで最後に投げかけられた一言が聞き取れなかった体験が、強く印象に残ったといいます。
それをその言われたことが何かっていうと、Anythingelse?って聞かれたんですよ。それが聞き取れなかったんです。
この悔しさをきっかけに、それまで手を抜いていた英語だけは真剣に勉強するようになりました。危機感が学びの入口になったのです。
オハイオ留学で直面した、生卵を投げつけられる孤独
浜田さんが交換留学で向かったのは、オハイオ州の州都コロンバスにあるカトリックの高校でした。教育水準が特別高いわけでもない、普通の学校だったといいます。
しかし高校生活はまったく楽しくなかったと振り返ります。当時はジャパンバッシングが吹き荒れており、日米貿易摩擦の影響が学校にも及んでいました。
歴史や政治の授業で日本が話題になると、クラスメイトが立ち上がって「日本が大嫌いだ」と発言することもあったといいます。
差別的な空気に加え、高校生の忍耐のなさも壁でした。ネイティブの速度で話しかけられ、聞き返すとそこで相手にされなくなったのです。
留学生っていうものが存在しない学校だったんですよ。だから英語ができないイコール言葉が喋れない、その問題がある人だと思われたんですよ。
浜田さんは毎日1時間半ほど早く登校し、全教科の先生に前日の復習を聞いて回っていました。会話ができるのは先生とだけで、ランチも半年ほど一人で食べていたといいます。
この経験が、いまも孤独が平気な性格につながっていると浜田さんは語ります。つらい体験が、孤独への耐性を残したのです。
だから寂しいとかないです。ずっと一人で多分一年間過ごしても、そんなに問題は。
クラス全教科で1位を取り、見返した負けん気
相手にされない状況の中で、浜田さんは勉強で見返そうと決めます。もともとの負けず嫌いな性格が、ここで働きました。
だから勉強で見返したろうと思ったんですよ。自分が取ってるクラスで全部で1位になったら、ギャフンと言わせられる。
結果、1学期の終わりに履修していたクラス全てで1位を取りました。すると周囲の見方が変わり、話しかけられるようになったといいます。
高校の勉強は、先生の言うことを理解してテストで示せれば1位になれる単純なものだ、と浜田さんは分析します。アメリカの普通の高校生がそこまでやらないからこそ、死ぬ気で頑張った日本人が1位を取れたのです。
さらに、歴史の授業で難しい単語を問われた際、大学受験用に覚えていた語を答えたことも周囲のリスペクトにつながりました。孤独な環境が、逆に努力の方向を定めたと言えます。
なぜ名門イェールを選んだのか──「安きに流れない」ための選択
浜田さんはこの留学中に、アメリカの大学へ進学するという発想を得ます。その根底にあったのは、自分への冷静な見立てでした。
好きにやっていいよって言われたら、僕は多分怠ける人間なんですよ。だから、やらざるを得ない環境に身を置くのって大事だなって思ったんですよ。
浜田さんは、自分がトップになれない集団、平均より下になるような環境に入りたいと考えました。そうすれば悔しさから頑張り、自分が伸びると見込んだのです。
聞き手の川邊さんは、自分は真逆で安きに流れ続けた結果インターネットにたどり着いたと語り、高校で厳しい環境を選べたことに驚きを示します。
進学先はイェール大学でした。学部教育で名高い名門ですが、日本ではビジネススクールを持つ大学ほど知名度が高くないと浜田さんは説明します。
アメリカの多くの大学は入学後に専攻を決めます。浜田さんは政治・言語・哲学に関心があり、専攻分野ごとに評価が高い大学を選んで受験しました。
最終的にスタンフォードとイェールに合格し、両校を知るICUの教授に相談します。その助言が、彼の決め手になりました。
だったらイェールがいいと思う。スタンフォードは気候もいいし、楽しいから遊んじゃうよって。
「安きに流れない」ためにアメリカへ行くのだから、と浜田さんはイェールを選びます。ただ、コネチカット州ニューヘイブンの冬は氷点下近くまで下がり、外に出られず後悔したとも笑います。
天才の存在を知り、現実的な自己認識が生まれた
イェールで浜田さんは真面目に勉強に取り組みますが、そこには過酷な現実がありました。人生で1位しか取ったことのない人たちが集まる環境です。
1位からビリまで順位がつくため、ひと握り以外の学生が精神的に追い詰められていったといいます。寮生活でセーフティネットも乏しく、メンタルを崩す同級生もいました。
その中で浜田さんが得た最大の収穫は、世の中に天才がいると知ったことでした。
やっぱりあのイェールに行った一つの良かった点は、世の中には天才ってものがいるんだなってことを知れたことです。
大学2、3年でIBMと共同研究をして特許を高額で買われた学生や、教科書を見ただけで写真のように記憶し、授業に出ずテストで満点を取る学生がいたといいます。
関西学院にいた頃、浜田さんは頑張れば1位を取れると思っていました。しかしイェールで、頑張っても届かない相手がいる現実に直面します。
この経験が、悔しさに沈むのではなく、自分にできることをしようという現実的な方向へ彼を切り替えさせました。
悔しがってもしょうがないって、もう厳然たる事実で叶わないので。なので僕は僕のできることをしようっていう現実的な方向性に切り替わった。
浜田さんは政治学を中心に学び、上位30%までに与えられる称号のうち、マグナ・クム・ラウデを目標に据えて卒業しました。
中学で学んだ「動かなければ何も起きない」という原則
浜田さんの行動力の源には、中学時代の一つの出会いがありました。話は沖縄でのスキューバダイビングにさかのぼります。
中学2年でダイブショップに出入りし、4つ年上の兄貴分と出会います。世界中を自転車で旅する人物で、沖縄を一緒に自転車で1周したといいます。
この人物から浜田さんが学んだのは、何かを起こしたければ自分で動けということでした。
何かを起こしたければ自分で動けってことを学んだのが大きくて。
たとえば足がなくて潜りに行けないとき、諦めるのではなく、ユースホステルで同行者を募り、自分でレンタカーを手配して運転できる人に頼めばよい。中学生でもそうやって動けると教わったのです。
川邊さんも、便利になった今でも誰かがやってくれるわけではなく、自分から動き出す必要があると応じます。時系列としては、この原体験が留学や大学進学の行動につながっていました。
寮の「刑務所並みの食事」がフーディーを生んだ
フーディーの萌芽が生まれたのは、まさにイェールの大学時代でした。きっかけは、1年目に義務づけられた寮生活の食事です。
団結のために全員が寮の食堂で食べるのですが、その食事が衝撃的にまずかったと浜田さんは語ります。人生で初めて驚くほど美味しくないものを口にした経験でした。
そのケータリング会社は刑務所も手がけており、栄養バランスにも配慮のない、鮮度の悪い食事だったといいます。
とりあえず形として食べさせてますよっていうぐらいの軌道さんの食事だった。
日本で母の食事を当たり前に食べてきた浜田さんは、この「刑罰のような食事」を通じて、食の大切さと、ここで生き残らなければという危機感を持ちました。
母の食事が当たり前で、美味しいともまずいとも思わず、食に無関心だった
刑務所並みの食事に衝撃を受け、食の大切さと外食への意欲に目覚めた
浜田さんは地元ニューヘイブンのエスニック料理などを食べ、それでも足りず、電車で2時間かけて月2回ほどニューヨークへ食べに行くようになりました。
逃げるようにニューヨークに行きました。
クラシック音楽を聴きつつ食事をして帰る。この過ごし方に、後のフーディーとしての行動様式が芽生えていました。
3年半で卒業しパリへ──食と音楽を「体系」で味わう
浜田さんは、つらい食事と寒さに加え、就職のタイミングを考えて3年半で単位を取り終え、最後の1学期を残さず卒業扱いになる制度を使いました。
就職を決めたうえで、余った時間を使ってパリに住みます。目的は、大好きなクラシック音楽と食を突き詰めることでした。
学費や生活費は親や祖母が支えてくれたといいます。妹も含めて二人分の教育を賄った両親に、浜田さんは深く感謝していると語ります。
うちの親はほんと昔から僕がやりたいってことにダメって言ったことが多分一度もないんですよね。
旅や食、音楽への関心の源は母親でした。食卓の壁に世界地図が貼ってあり、浜田さんは行儀悪く後ろを向いてまで地図を眺めながら食べていたといいます。
砂漠地帯だったらこんなところって人住んでるのかなとか、そういうのをずっと考えるのがすごく好き。
パリではクスクスをほぼ主食のように食べ、大人になってから北アフリカのクスクス文化圏をひと通り回るまでのめり込みました。
ここで浜田さんの独特な味わい方が明かされます。料理でも音楽でも、鑑賞の仕方が同じなのです。それは、対象を系譜や体系でとらえるという方法でした。
この料理人はこういう系譜につながってとか、そういう家系図じゃないですけど、そういうのを整理するのが僕比較的好きで。
ある系譜の店に行ったら次は別の系譜へ行き、違いを比較する。ランダムに食べるのではなく、体系的に理解したいという志向が、学生時代から一貫していました。
音楽でも同じで、パリ管弦楽団が指揮者によってどれだけ違う音を出すかを毎週聴き比べていたといいます。大御所と若手で演奏の質が大きく変わる様子を、浜田さんは楽しんでいました。
この体系的な鑑賞の姿勢は、音楽・美術・食のすべてに共通しています。フーディーとしての食べ歩きは、少年期からの好奇心と、母の影響、そして比較して味わう性向が重なって形づくられたものだと言えます。
まとめ
世界一のフーディー・浜田岳文さんの原点は、宝塚の少年時代の旅と、アメリカでの孤独な留学、そして寮の衝撃的な食事にありました。作る側ではなく味わう側として、対象を体系でとらえる姿勢が、年間800軒を巡る生き方につながっています。
- フーディーは職業ではなく生き方で、移動しながら外食を主軸に楽しむ人を指す
- 浜田さんは年間700〜800軒を回り、食べ歩いた軒数で7年連続の世界1位
- 大量に食べても健康を保つ原則は「目的意識を持ったもの以外を口にしない」こと
- つらい留学経験が孤独への耐性と「安きに流れない環境を選ぶ」姿勢を育てた
- 料理も音楽も系譜や体系でとらえて比較する鑑賞の仕方が、少年期から一貫している







