GYAOとYahoo動画から始まった、川邊と宇野の縁
番組の冒頭、川邊さんは宇野さんとの縁が古いことを紹介します。同じインターネット業界にいたことに加え、宇野さんがUSEN時代に手がけた事業がきっかけでした。
宇野さんはブロードバンド時代に先駆けて、インターネットテレビ局というコンセプトのもと、無料動画配信サービスGYAOを立ち上げます。ユーザーは集まったものの、事業として続けるのは難しかったと川邊さんは振り返ります。
同じく苦戦していたYahoo動画とGYAOを統合しようという話になり、Yahoo側が買収する形になります。その時、川邊さんは突如GYAO社の社長に就くことになりました。
その時に私、本当そこまで全然関係なかったんですけども、突如GYAO社の社長になると。
宇野さん側のUSENは株主として一定期間残り、社員も多く預けられたため、両者はかなり長い期間、一緒に仕事をしてきた間柄です。この回では、その宇野さんの人生を最初からたどっていきます。
雀荘の2階で生まれ、代打ちの父がUSENを始めた
宇野さんの出身は大阪・道頓堀。家の裏がそのまま道頓堀川という、繁華街のど真ん中でした。
大阪の道頓堀っていうところで生まれまして。本当に家の裏が道頓堀川だったんで。
実家は祖父が営む雀荘で、1階が店、2階が住まいという昔ながらの商家の造りでした。宇野さんはその雀荘の2階で生まれています。
父親は大学を出て一度商社に就職しますが、1週間ほどで辞めてしまいます。その後、雀荘で客と対局する代打ちのプロをしていた時期がありました。
私が生まれた頃は代打ちだったみたいですね。
ちょうど宇野さんが生まれた頃、その父親がUSENを始めます。宇野さんの生まれ年と会社の創業年が一致していると言います。
キャバレーのペインから生まれた有線放送というアイデア
なぜ父親が有線放送事業を始めたのか。宇野さんによれば諸説あるものの、父親自身は「代打ちをやっていたから」と語っていたそうです。
代打ちはそこそこ稼げたため、父親は普通のサラリーマンより遊ぶ金があり、夜な夜な近所のキャバレーやクラブに通っていました。そこで一つの不便に気づきます。
その女の子がその2、30分に一回席を立ってはレコードを換えに行くと。
隣についた女の子が、数十分おきにレコードを換えに立ってしまう。口説いている最中にそれが気になった父親は、どこかでまとめてレコードを流せば店ごとに換えずに済むはずだと思いついた、というのです。
このレコードをね、いろんなところでこんな切り替えてんだったら、それをいわゆる今で言うアウトソースでどっかで取りまとめて流せば、女の子がいちいちレコードひっくり返さなくて済むじゃないか。
川邊さんはこれを、今風に言えば自分自身のペインの解消から生まれた発想だと整理します。
今風に言うと、ペインの解消ってやつですよね、完全に。自分のペインの解消をそこでしにかかったと。
ただし当時はインターネットもケーブルテレビもありません。実現するには、放送局から店舗まで物理的に線を張るという、地道な方法しかありませんでした。
実際に線を張って、直接その放送局からお店さんまでは全部リアルな線を張ってやるっていうことをやっていったわけですよね。
川邊さんが、ラジオやテレビの電波免許を取る発想はなかったのかと尋ねると、宇野さんは免許取得はほぼ不可能で、しかも当時は課金の仕組み自体がなかったと答えます。スクランブル課金の技術は、後から出てくるものでした。
電柱に勝手に線を這わせた、違法架線からの全国展開
有線放送の広げ方には、今では考えにくいエピソードがあります。最初は大阪・難波のビル屋上を放送局にし、アーケード商店街の屋上に線を這わせて各店に垂らしていきました。
問題はアーケードのない場所への展開です。ここで父親たちは電柱を使うことを思いつき、勝手に登って線を這わせていきました。
その電柱に勝手に登って勝手に這わせるということをしていくんですが、当時の感覚でいうと、もうなんとなくその電柱っていうのも公共物だと。
川邊さんも、昔は電柱に無許可で看板を貼ったり、バス停前に勝手にベンチを置いたりしていたと相槌を打ちます。当時は公共物という感覚で、苦情も来なかったのだろうと二人は振り返ります。
なので気がついたら全国すごい数のその違法架線状態になってたと。
なぜそこまで広がったのか。宇野さんは、店舗側のニーズが圧倒的にあったからだと説明します。レコードを買い、選曲し、管理する手間に比べ、有線を引けば月4000円ほどで済んだのです。
勝手にその有線引くだけで毎月4000円ぐらいでやれるっていうのは、コスト的なメリットも多分あったでしょうし、圧倒的に支持をされたんだと思いますね。
著作権についても、当初から完全に無視していたわけではないと言います。途中から著作権の団体と協議し、一部は支払っていたものの、完全な合意には至っていなかったという状態でした。
図書室の伝記から芽生えた「世の中に何かを残したい」
父親が事業を広げていくなか、宇野さんは公立の小学校、中学校に通う普通の少年時代を過ごします。難波近くで育った都会っ子として、入ってはいけないゲームセンターで遊ぶような、ちょっとした悪さもしていたと言います。
一方で、後の起業家人生につながる習慣もありました。学校の図書室で、偉人の伝記を読むのが好きだったのです。
自分もなんか本に残るような人になり、世の中に何かを残すような人になりたいなと。そのことは小学校の頃から少しずつ思い始めて。
エジソンやルーズベルトの伝記を読んでも、自分が発明家や革命家になるイメージは湧かなかったと宇野さんは言います。しかし、周囲に商売人が多く、父親も会社をやっていたことから、経営者という道には手が届くかもしれないと感じていました。
松下幸之助と藤田田 高校時代に読みあさった経営者の本
高校生になると、宇野さんは経営者の本を読みあさるようになります。出発点は、大阪の英雄でもある松下幸之助でした。
松下幸之助さんから始まり、そういう昭和の偉大な経営者の本を読みあさるようになってきました。
松下幸之助を心の師匠と仰ぎ、ソニーの井深大にも影響を受けたと言います。なかでも面白いと感じたのが、日本マクドナルドを立ち上げた藤田田の著書『ユダヤの商法』でした。
宇野さんが惹かれたのは、マクドナルドの店舗がどう作られていくかというエピソードでした。自分の工夫やアイデアで客が来るようになる、その面白さに経営の魅力を感じたと語ります。
経営って大変というよりも、なんか面白いんだと。自分の工夫したアイデアとかが、それがお客さんが来るようになっていったりだとか、すごい面白いことなんだと思いましたね。
『ユダヤの商法』の前半はユダヤ人の成功の理由を、後半は藤田田自身が日本のマクドナルドを立ち上げて学んだことを扱う構成だと宇野さんは説明します。人の信用・信頼をいかに作るかが重要だという内容だったと言います。
心の師匠と呼ぶ存在。大阪出身で、宇野さんにとって身近な英雄でもあった
ソニーの創業者。その時代の話にも強く惹かれたと語る
日本マクドナルド創業者。『ユダヤの商法』で経営の面白さを教わった
リクルートと江副浩正 父と大倉商法の意外な縁
宇野さんは後にリクルートへ入社しますが、その社名を知ったのは高校生の頃でした。阪大に通う親戚のおじが、企業紹介の冊子、後のリクルートブックを受け取ったのがきっかけです。
おじ自身はリクルートには行かなかったものの、「これを出している会社は何なのか」と不思議がって語っていたと言います。それを横で聞いていた宇野さんが、会社そのものに興味を持ちました。
さらに宇野さんの父親と江副浩正には間接的なつながりがありました。父親の高校の同級生が、江副さんの親友でもあったのです。
大倉さんと江副さんも親しく、私の親父と江副さんも間接的に一度、二度お会いするような関係があって。
家庭でも「江副がどうの」という会話が耳に入り、すごく成長している会社らしいと自然にわかっていったと言います。宇野さんはこうして、リクルートという会社への関心を深めていきました。
川邊さんも、はるか後年にその大倉さんと江副さんの合コンを手伝ったことがあると明かし、二人が仲良くしていた姿を何度も見たと振り返ります。USENの通信カラオケの映像には、二人がスキーを楽しむ様子が収められていたそうです。
留学は一蹴、東京の学生起業家に憧れて上京
大学は東京へ。宇野さんはこの頃、いずれ起業したいという思いを明確に持っていました。高校でそのまま休学しようかと考えたほどでしたが、考える時間や鍛錬の時間を確保できると考え、大学進学を選びます。
後押しになったのが、深夜番組『11PM』で見た東京の学生起業の盛り上がりでした。
自分が起業いずれしたいんだったら、そういう人たちと関わって勉強させてもらった方がいいじゃないかということで、とにかく東京の大学に行こうということを決めた。
東京の大学ならどこでもいいという姿勢で受験し、受かった明治学院大学に進みます。進学先も、父親には相談していませんでした。厳格で気安く話せる相手ではなかったのです。
留学を口にした時には、「お前は英語も喋れるのに留学してどうする」と一蹴されたと言います。結局、東京行きも父親には相談せず、母親にだけ伝えて勝手に決めて出ていきました。
「お前なんかにできるわけがない」父の大反対
父親と正面からぶつかったのは、リクルートに就職して1年後、起業を決意した時でした。この時だけは、宇野さんもなぜか報告に行きます。
そしたら父親がですね、珍しく大反対をしまして。そんなことは絶対やめとけと。
自身も起業家であるはずの父親からの言葉は、厳しいものでした。
いや、お前なんかにできるわけがないと。起業して成功するのも大変なことなのに、お前みたいな奴が成功するわけがないと。
絶対に失敗して周りに迷惑をかけると、とにかくやめてくれと言われます。川邊さんは、後の大企業家に対して父の目が曇っていたとしたら言いようがない、と感想を漏らします。
宇野さんは父親について、基本的に人をバカにするようなところがあり、自分がすごい、自分以外はみんなアホだと考えるような人だったと語ります。だから本心が愛情だったのかどうかは、今もわからないと言います。
すでに起業を決め、仲間と準備も始めていた宇野さんは、反対されても引きませんでした。すると父親は、二度と家に帰ってくるな、関西の経済界を全員敵に回すと思ってやれ、とまで言い放ちます。
もう決めちゃったんで、申し訳ないけどって言ったら、じゃあもうこの家に二度と帰ってくんな、わしの周りの関西の経済界の人たちを全員敵に回すと思ってやれ。
それでも宇野さんは「じゃあそうします」と言って家を出ます。以来、父親とは顔も合わせない時期が続きました。
川邊さん自身も商売をする家に生まれ、学生時代の起業を親に反対された経験があります。後に会社がYahooと合併した時、ようやく「就職できたね」と褒められたと言います。二人は、親が反対するのは苦労を知っているからこそだろうと語り合います。
学生起業とヤンエグの先輩 金儲けができるという自信
大学に入った宇野さんは、すぐに会社を作ったわけではありませんでした。学生起業をしていた大学の先輩に誘われ、そのイベント制作会社に学生社員として関わり始めます。
川邊さんは、同じくゲストに迎えた藤田さんも学生時代に先輩の会社で働いていたと指摘し、似た師弟関係だと面白がります。
その会社は、電通や博報堂などの大手広告代理店からイベント企画を請け負う仕事でした。資生堂やライオンといったメーカーの発表イベントを企画・運営し、ニュースのネタになるようなリアルイベントを渋谷などで手がけていたと言います。
その先輩は、普通の大学生ではない、変わった人物でした。
大学のキャンパス内にベンツのオープンカーで乗り入れて、昔なかった自動車電話をつけてて。
横に綺麗なモデルのような人を連れて登校する先輩は、学内で憧れの存在でした。宇野さんは、その先輩が学内に作ったイベント企画サークルに入り、やがて会社の仕事も手伝うようになります。
仕事は企画から運営まで一通り。当時はワープロで企画書を書き、通れば実際にイベントを準備し、ディレクター的な役割まで担いました。この経験は、直接のマネジメント技術というより、別の形で宇野さんの糧になります。
金儲けってある程度できるんだみたいな、変な自信がついた。
普通の学生より、自分の企画力で収入を得られた経験は、後にインテリジェンスを立ち上げる際の支えになったと言います。心配ではなかったかと問われても、最悪自分たちだけ食っていくことはできると思えたのです。
大学のサークルで得た、大人数を率いるリーダーシップの自信
イベントサークルの活動も、宇野さんにとって大きな学びの場でした。明治学院プロデュース研究会というサークルは、やがて大学の枠を越えて他大学のサークルと連合を作っていきます。
一橋大学のサークルを率いていた西川龍進さんという先輩が、大学横断のネットワーク「キャンパスリーダーズサミット」を立ち上げ、最終的に総部員2万人規模の組織になったと言います。宇野さんはその幹部として運営を手伝いました。
さらに宇野さんは、立教でプロデュース研究会をやっていた峯岸君と二人で、別の団体も立ち上げます。この峯岸君が、後のリクルート社長・峯岸真澄です。
すごいですね、今の峯岸さんのイメージにはないですね。なんかそういうのやってる。
宇野さんには、事業家になりたい思いの一方で、自分がリーダーシップを発揮できる人間なのかという不安がありました。小学生の頃、クラスの中心になって動くタイプではなかったからです。
大人数を率いる経験を重ねるなかで、その不安が少しずつ自信へと変わっていきました。宇野さんは、この大学のイベントサークル時代がすごく役に立ったと振り返ります。
川邊さんは、学生起業で「収入が得られる」という自信を、イベントサークルで「大規模な人数を率いられる」という自信を、それぞれ別々に得たのだと整理します。
自分の企画力で収入を得られるという、金儲けへの自信
2万人規模の組織を動かした、リーダーシップへの自信
適度に自信がないところから少しずつ自信をつけられたのが良かったのかもしれない、と宇野さんは語ります。最初から自信がありすぎると、うまくいかないこともあるからです。
まとめ
道頓堀の雀荘の2階に生まれた宇野康秀さんは、代打ちからUSENを起こした父の背中と、図書室の伝記や経営者の本を通して、早くから起業への意志を育てていきました。上京後は学生起業とイベントサークルの両輪で、収入とリーダーシップという2つの自信を積み上げ、父の大反対を押し切って起業家への道を歩み始めます。
- 父・宇野元忠は代打ち時代のキャバレー通いで感じた不便から、有線放送というアイデアを思いついたと語られている
- 初期のUSENは電柱に勝手に線を這わせる違法架線状態から全国へ広がり、店舗の圧倒的なニーズに支えられた
- 宇野さんは小学校の図書室の伝記、高校での松下幸之助や藤田田の著書を通して、世の中に何かを残す経営者に憧れた
- 起業を報告した宇野さんに父は「お前なんかにできるわけがない」と大反対し、二人は一時、顔も合わせない関係になった
- 学生起業で「金儲けができる自信」を、2万人規模のサークル連合運営で「人を率いる自信」を得たことが、後の起業を支えた





