上場目前だったのに、なぜ父の会社を継ぐことになったのか
話は、宇野さんがインテリジェンスを経営しながら、父の会社であるUSEN(郵船)に関わっていく前後関係から始まります。
インテリジェンスは創業から10年が経ち、証券会社も変えて上場の日付が固まりつつあるタイミングでした。そこへ突然、母親から電話がかかってきます。
ちょうどその10年経って、証券会社を変えて、もう1年ってやっても、日付が固まってきたぐらいのタイミングで、突然その母親から電話がかかってきて、お父ちゃんがあと3ヶ月で死んじゃうみたいなことになりまして。
父親とのコミュニケーションは、ほとんどない状態だったといいます。
たまに正月の時に実家帰った時にボソッと2、3言葉会話するぐらいの。
宇野さんはインテリジェンスの事業内容も父親には報告していませんでした。ただ、父親の会社の専務が新聞記事などを見せていたため、ある程度は認識していたようだと振り返ります。
お前なんかやっても失敗するって言った割にはこいつ頑張っとるなみたいな、そういう認識があったようですね。
その認識があったからこそ、宇野さんは病室に呼びつけられ、突然「会社を継いでくれ」と言われることになります。
その時は会社を継ぐ意思はあったんですか?
川邊健太郎 さんからの質問
全くありませんでした。宇野さんは、自分に声がかかるとも思っておらず、インテリジェンスは上場間近だったため、継ぐという選択肢はまったくなかったと語ります。
むしろ宇野さんは、インテリジェンス創業時に声をかけた4人のメンバーから「いつか父の会社を手伝うと言い出すのでは」と心配された際、絶対にないと断言していたほどでした。
それを絶対100パーセントないから安心してくれと。そういうふうに言ってきたこともありますし、いろいろ含めて絶対継ぐという選択肢はなかったんですね。
断ったはずの決意を変えた、母の涙
継ぐ選択肢はなかった宇野さんですが、父親が本当に死んでいくのを目の当たりにする感情と、実家での母親の涙が状況を変えていきます。
大阪に帰って病室を訪ねた後、実家に戻ると、母親は父の死を悟って泣いていました。宇野さんが「継いでくれと言われたけど断った」と伝えると、母親はさらに泣き出したといいます。
お父ちゃんがあんだけ苦労して作ってきた会社をね、もう自分は死んでくけど、会社だけはなんとかしたいと思ってね、言ってる頼みをそんな無下に断るんじゃねえどいなって泣かれてしまってですね。
育ててくれた母親が泣きじゃくって頼む姿を見て、宇野さんは「ちょっと考えようか」という気持ちに変わっていきます。
東京に戻った宇野さんは、インテリジェンスの他の役員3人を夜中に集めて相談しました。継ぐつもりはなかったが、自分が継がなければ会社が潰れ、当時1万人いた社員が路頭に迷うという状況を打ち明けます。
このとき初めて、800億円の個人連帯保証があることが語られます。
反対されると思っていた宇野さんに対し、役員3人は冷静に、口を揃えて背中を押しました。
彼らは本当に口を揃えて、それは小野さんがやるしかないんじゃないですかっていう風に言ってくれて。
800億円と8億円は同じ、というコンサルの言葉
役員の後押しがあっても、宇野さんには800億円の個人連帯保証という重い問題が残っていました。上場が見えて金持ちになれるかもしれないと思っていた矢先の話です。
宇野さんは、当時コンサルタントをしていた荒木さんという人物に相談します。すると、意外な問いが返ってきました。
小野さん、一生かけて働いて返せる金額っていくらぐらいだと思いますか?って言われて。いくらぐらいでしょうか?8億ですって言いますね。
一生がむしゃらに働いて返せるのは8億円ほど。その荒木さんが続けた言葉が、宇野さんの決断を後押しします。
この言葉で「やってみようか」という気持ちになり、宇野さんは800億円を引き受けることになりました。
なお、この800億円は債務超過状態の個人債務であり、株式評価はゼロ円のため相続税は発生しませんでした。川邊さんはその重さに何度も「痺れますね」と反応しています。
会社はギリギリ黒字のキャッシュフローが出ており、800億円は過去のインフラ敷設投資や、バブル期の不動産投資に消えていた借金でした。
インテリジェンス社長を降りざるを得なかった理由
当初、宇野さんはインテリジェンスとUSEN(郵船)の両方の社長を務めようと考えていました。しかし、そこにややこしい事情が生じます。
証券会社がインテリジェンスの上場準備を進めていましたが、宇野さんがUSENの代表権も持つと、USENも連結対象になってしまいます。1万人規模でコンプライアンス上の問題も抱える会社が連結されれば、上場は大きく遅れます。
インテリジェンスの代表は降りてくださいというように言われて、じゃあもうしょうがないから、インテリジェンスの代表は降りて、それを鎌田君にバトンタッチして。
当時、宇野さんはインテリジェンスの株を35パーセントほど持つ超大株主でした。上場は鎌田さんに託し、宇野さん自身は8割方をUSENの立て直しに費やすことになります。
ほぼ8割方有線のことやってましたね。
会社を終わらせかねない「電柱問題」への決着
USENに集中した宇野さんは、創業以来くすぶっていた電柱問題の解決に、社長になってすぐ乗り出します。
自分の代でこれは決着をつけようと思ったんですか?
川邊健太郎 さんからの質問
そのまま放置していると法的にいつ撤去されてもおかしくなく、強制的な撤去が始まれば会社自体がすぐ終わってしまうリスクがあったためです。それは800億円の個人保証がヒットしかねない状況でもありました。
宇野さんが社長になって強く感じたのは、社員たちが自社の違法性やダークな部分を認識し、気持ちよく働けていないことでした。
何かおかしな会社、何か悪いことをやってるなと、なんとなくモヤモヤした気持ちで働いてるっていうのがすごく感じてですね。
胸を張って働ける会社にしたいという思いに加え、もう一つの動機がありました。違法ながら埋設した線が、これから来る高速インターネットに使えるのではないか、という発想です。
もしかしたら日本の社会に迷惑をかけて作ったものが日本のためになるかもしれないみたいな、そういう発想もあってですね。
慶応の村井純先生から「これ使えないのか」という話があったことも後押しとなり、合法化を急いでインターネットに提供しようと動き出します。着手は1999年末ごろからでした。
720万本の電柱と模造紙、合法化までの困難な道のり
既存の線は光ファイバーではなく銅線(同軸ケーブル)でした。宇野さんは、まず既存の線を合法化しつつ、光ファイバーへ変えていく作業に取りかかります。
合法化には、全国3000以上の市町村からの道路使用許可、電柱所有者との契約、当時の郵政省への有線ラジオ放送法(ユーラ法)の届け出、そして第一種通信事業免許の申請と、いくつもの手続きが必要でした。
かなり困難な正常化だったんですか?
川邊健太郎 さんからの質問
本当に困難だったと宇野さんは振り返ります。「早くやってほしい」という気持ちと「そう簡単にはやらせない」という積年の恨みが入り混じり、さらに実態そのものが誰にもわからない状態でした。
結果的に720万本ほどの電柱を使用していましたが、どの電柱に線を張っているかは、宇野さんの社員も電力会社もわかっていませんでした。使用していた電柱は、日本中の電柱の約4分の1にのぼったといいます。
そのため、北海道から沖縄の離島まで、電柱を全て調査する必要がありました。デジタルのマップもない時代で、普通の写真を撮って模造紙に貼る作業だったといいます。
提出しても相手側は正誤を確認しようがなく、ランダムに抜粋して照合する方式でした。一つでもミスがあれば、そのエリアはまた全部やり直しになりました。
さらに、正常化を面白く思わない人々によるネガティブキャンペーンや、政治家の登場もあり、社員は1年間ほぼ休みなしで働く状況が続きます。
もう1年間ぐらい休みなしで働いていると、もう無理ですみたいな感じにもなってきてですね。
それでも宇野さんは、ここでやりきらなければ全員が諦めてしまうと感じていました。合法化には結果として1年数ヶ月を要します。
過去債務500億円と、個人で借りた80億円の増資
電柱契約を結んだことで、今度は過去債務が発生します。長年払っていなかった電柱代を、遡って支払うことになったのです。
過去使用分がおよそ350億円、当時使用分が150億円ほどで、合わせて500億円近くがバランスシート上に一気にマイナスとして現れました。ギリギリ債務超過を脱しかけていた状態が、大きな債務超過に戻ってしまいます。
これを埋めなければ銀行は継続融資できないため、宇野さんはバランスシートの改善を迫られました。負ののれんを資産に変えるなどの工夫を重ねても、最後に80億円が足りません。
私、銀行で個人から80億円また借りて、また個人で借りて、それで個人増資をするっていう。
この個人増資を経て、宇野さんは上場プロセスへと入っていきます。そのなかで、資金繰りのため孫さんにも相談に行きました。孫さんは出資するとは言ってくれたものの、結果的にはその出資はなくなったといいます。
800億円の借金を背負ったまま、光ファイバー一本で上場へ
800億円の負債は完全に一掃されたわけではありませんでしたが、上場と同時に、社長個人の連帯保証は外されました。上場基準として、個人保証をしたままの状態は認められないためです。
インテリジェンスが2000年、翌2001年に郵船(USEN)が上場するという、激動の数年間でした。宇野さんはまだ35、6歳だったといいます。
今となっては本当に何かよくやってたなと。
郵船ブロードバンドネットワークとして2001年に上場した時点で、当時はYahoo! BBの時代であり、まだ光ファイバーが主流という状況ではありませんでした。それでも宇野さんは、最初から光ファイバーをやる目的で上場したと語ります。
光ファイバーなんです。最初から光ファイバーをやろうって。
孫さんもこの光ファイバー計画に賛同して出資し、後にソニーの出井さんも出資しました。ただ孫さんはよりスピーディな展開を志向し、うまく乗れないままYahoo! BBへと進んでいったといいます。
「100メガはいらない」と言われた時代の光ファイバー
光ファイバーの家庭への敷設は、当時世界で初めての試みでした。物理的に光ファイバーを家まで引っ張るため、相応の投資がかかります。
ここでも電柱問題が立ちはだかります。光ファイバーを張るには先に許可を得る必要があり、その許可が下りるまでに非常に時間がかかりました。家庭から注文が入っても、3ヶ月待たせることが続いたといいます。
有線ブロードはADSLに寄り道はせず、光で一本勝負して。
川邊健太郎 さんからの質問
迷いはあったと宇野さんは認めます。一時はADSLも並行する手段を検討し、東京めたりっく通信の買収話も来ていました。しかしその会社がソフトバンクグループに入り、今さら自分たちがADSLをやる感じでもなくなり、光ファイバー一本に絞りました。
戸建てへの敷設には時間がかかるため、マンションに1本通してVDSLで各戸に届ける方式へ逃げ、マンション向けの光ファイバーを広げていきました。
光ファイバーもなんかインターネットはもうめちゃくちゃ使われるんだから、とにかくファイバー通すんだみたいな大局観が。
川邊健太郎 さんからの質問
その大局観はあったと宇野さんは答えます。当時は100メガbpsをベストエフォートで売りにしていましたが、世間は「100メガなんていらない」「ADSLで十分」という反応でした。それでも宇野さんは確信を持っていました。
インターネットは速ければ速いほど提供できる容量も増え、それがさらに需要を生む循環になる。宇野さんはそう確信していたと語ります。
用途がないと言われる中で始めたGYAO
「速い回線の用途なんてない」という声に反証するために、宇野さんはGYAOを始めた面もあります。もともと高速インターネットが普及すれば動画配信ができるようになるという発想が、大学の頃からありました。
GYAOの前身として、2001年の光ファイバーサービス開始時から、顧客向けにコンテンツを動画で見せるおまけサービスがありました。2002年には三木谷さんと一緒にショータイムを立ち上げます。
しかし当時はネットワーク、コンテンツ、営業など様々な問題が重なり、有料サービスとして伸び悩みました。この状況を打開するために思いついたのがGYAOだったといいます。
これ無料にしたら話が変わってくるんじゃないかってなったのがGYAO。
リーマンショックで顕在化した500億円の減損
FTTHをベンチャーらしい展開で進め、GYAOも手がけるなか、リーマンショックが訪れて資金繰りが厳しくなります。
光ファイバー事業への投資で一度は減った800億円の借金が再び膨らんでいたうえ、ITバブル後のM&A競争の時代でもありました。宇野さんも乗り遅れまいと積極的なM&A投資をしていました。
なかでも学生援護会という会社を500億円で買収します。人材サービスで対リクルートを強化するねらいで、インテリジェンスの有力な子会社にもなりました。
ところがリーマンショックで人材サービスの業績が下がり、上場子会社の株式評価が下落。500億円ののれんを一気に落とさなければならなくなりました。
最終利益が500億円の赤字となったことで、膨らんでいたシンジケートローンのコベナンツ条項に抵触します。純資産が減ったためです。
銀行からすれば即デフォルト状態を改善する必要がありましたが、リーマンショック後の金融機関は引き上げモードでした。シンジケートローンは責任の所在がはっきりせず、各行が消極的になります。
日々日々この条件アメンドするみたいなことをやりながら、会社のリストラをしていくしかなくなっていた。
事業を切り売りする悔しさと、GYAOの譲渡
FTTHで金がかかったというより、学生援護会などのM&Aの減損がリーマンショックによって顕在化し、コベナンツに抵触したというのが実態でした。このときの心境を宇野さんは率直に語ります。
なんで世の中に対して良かれと思っていろんな事業やってるんだけど、なんでこんなことに追い込まれていくのかなみたいな。
自分で作ってきた事業を日々切り売りしていかなければならないことに、宇野さんは強い悔しさを感じていました。銀行管理下という表現ではないものの、実態はそれに近い状態だったといいます。
赤字だったGYAOをどうするかという話のなかで、Yahoo!との話が出ます。事業が継続できるならぜひ、という判断でした。川邊さんは当時、競合サービスを手がけながら、同じビルにいた縁もあり、突然この譲渡を知らされたと振り返ります。
宇野さんにとって印象的だったのは、GYAOのメンバーに譲渡を伝えたときの反応でした。文句を言われると思っていたところ、返ってきたのは感謝の言葉だったといいます。
彼らも半泣きしながら、社長ありがとうございますと。事業を継続する選択肢を選んでいただいて、本当にありがとうございますと言われた。
その場面を川邊さんも後ろの席で見ていました。次の社長として突然挨拶を振られた川邊さんは、自らもYahoo!と合併して入ってきた側の気持ちがわかると社員に語った記憶が、今も生々しく残っていると話します。
まとめ
上場目前だったインテリジェンスの経営者が、父の病室での一言から800億円の個人連帯保証を継ぎ、電柱問題の合法化と光ファイバー事業を経て上場へ至るまでを、宇野さん自身の言葉で振り返った回でした。困難と決断、そして事業を手放す悔しさまでが率直に語られています。
- 継ぐつもりのなかった父の会社を、母の涙と役員の後押しで引き受け、800億円の個人連帯保証を背負った
- 「8億も800億も同じ」というコンサルの言葉が、宇野さんの決断を後押しした
- 720万本の電柱を模造紙で調査し、1年数ヶ月かけて違法状態の電柱問題を合法化した
- 「100メガはいらない」と言われた時代に、最初から光ファイバー一本で勝負し2001年に上場した
- リーマンショックで学生援護会買収の500億円の減損が顕在化し、GYAOなど事業の切り売りを迫られた





