打ち合わせなしで始まる「会食」というスタイル
番組冒頭、徳永有美さんはエレベーターの中から緊張していたと打ち明けます。通常のインタビューにある事前打ち合わせがなく、入りからいきなり撮影が始まったためです。
もう入りから撮りますって言われて。普通、インタビューとかって打ち合わせあるじゃないですか。
じゃあ回しますみたいな。そういうのがあって始めるのが普通だと思ってたので、エレベーターの中から一気に緊張しちゃって。
川邊健太郎さんは、この打ち合わせなしのスタイルには理由があると説明します。普段の会食をそのまま覗き聞きするような雰囲気を狙っているためです。
ネットって、リアリティーあるものの方がみんな好むんですよね、聞いてる方。
普段している会食をこう覗き聞きできるようなテイストでちょっとやらせていただいておるものですから、本当に打ち合わせなしで入ってくるところから。
注文では、徳永さんはレモンサワーとウーロン茶を選びます。好きな食べ物を聞かれると、迷わずハンバーグと答えました。
やっぱりハンバーグがあると、どうしてもレストランとかで見てもハンバーグに目がいっちゃって、最後までハンバーグと何かを迷ってハンバーグを頼みますね。
「自分はろ過器である」という仕事のスタンス
徳永さんは収録の前に、自分はインタビューをする立場で、されることに慣れていないと前置きします。歴代のそうそうたるゲストに比べ、自分には取るに足る出来事もないと恐縮していました。
その方々に比べて、私はそんなに出来事も取るに足るようなこともないのですが。でも川邊さんにせっかくお会いできるということで。
川邊さんは、どんな人にも人生があり春夏秋冬があると受け止めます。テレビで見慣れた徳永さんの人生を知りたいと促しました。
徳永さんは、自分の仕事の軸をろ過器にたとえて説明します。主役はあくまでニュースであり、自分はそれを通す装置だという考え方です。
だからこそ、自分が何かを語ることには絶対的な照れがあると徳永さんは話します。川邊さんも、自分を隠すのが仕事柄なら語りにくいだろうと理解を示しました。
古田敦也、三雲氏をめぐる共通の縁
徳永有美さんは、川邊健太郎さんとは以前から同志のような存在だと感じていたと語ります。共通の知人である古田敦也さんと仕事や酒席をともにする中で、川邊さんの話を何度も聞いていたためです。
川邊さんは、古田さんとはプロ野球の1リーグ制をめぐる争いの時期に知り合ったと振り返ります。選手会側に立ち、1リーグ化を阻止する活動を一緒に行った仲だと話しました。
徳永さんは1998年にテレビ朝日へ入社し、2004年まで在籍しました。アナウンサー時代には、当時スポーツ局長だった三雲氏に世話になり、よく怒られたと振り返ります。
そこでいろんなよく怒られましたし。なのでいまだにたまにご飯を食べていろんな話をするっていう。
川邊さんは、当時のライブドアによる近鉄買収の名乗りをテレビ東京が最初にスクープした場面を懐かしみます。当時は劣勢だったが、そうした取材の記憶を共有していました。
日本海の曇天が育てた「暗い女」という自認
話は徳永有美さんの出身地に移ります。生まれ育ったのは石川県金沢市で、その環境が自身の性格に影響していると徳永さんは考えています。
徳永さんは、日本海側の冬は太陽が出ず、横殴りの霙や雷が続くと描写します。荒れ狂う日本海を見て育った人間は、そんなに明るくなれない気がすると話しました。
そこでその海を見て育った人間はそんなに明るくなれないような気がしていて。
一般的にはサバサバして明るいと言われるが、それは後天的なものだと徳永さんは打ち明けます。本来の性格は割と暗いのではないかと自認していました。
本来の性格は割となんか暗いんじゃないかなと思います。
粘り強いと言えば聞こえはいいが、自分はそんなにプラス思考ではないと徳永さんは続けます。金沢で育ったことが、性格の内向きさに著しい影響を与えていると振り返りました。
木登り勝負を挑む「当たり屋」だった子ども時代
子ども時代の徳永有美さんは、勉強は1ミリも頑張らず、ただ運動と競争が大好きだったと語ります。木登りやかけっこで、道を歩いている子に勝負を挑んでいたそうです。
当たり屋のように、その辺に歩いてる子いたら、ねえちょっと勝負しようよって。
桜の木を選ばせて上まで登る、近所の長い生活階段で何本勝負をするなど、徳永さんは友達を巻き込んでいました。今では友達に迷惑をかけていたと思うと振り返ります。
すごく迷惑だったなって、今では思うんですけど。そういう子でした。
徳永さんは公立の小中学校を経て陸上部に所属します。中学までは中長距離で何でも速かったが、高校で体が変化し短距離に転向してからは伸び悩んだそうです。
金沢から神奈川へ、太陽のある景色との出会い
徳永有美さんは小学5年生のとき、金沢から神奈川県に引っ越します。日本海側とは一変した太平洋側の景色に驚いたと語ります。
引っ越し先は横浜市青葉区で、当時はみかん畑が残るのどかな土地でした。冬でも太陽が輝く環境に、生活が変わると感じたそうです。
これ冬はもうさんさんと太陽が輝き、ちょっと乾燥してるぐらいで、これは生活変わるなって。
これ以降、徳永さんは中学・高校・大学を関東で過ごし、活発でボーイッシュな性格のまま陸上を続けました。
500人規模の女子寮での寮生活
徳永有美さんは女子大に進学する際、両親が神奈川から石川へ戻ることになり、一人東京に残りました。寮生活を条件に進学を許され、500人近くいる大学の女子寮に入ります。
門限は厳しく、1分でも遅れると罰投という罰が科されました。1年生のとき初めて遅刻し、同級生と走って寮に戻った経験を徳永さんは語ります。
1分でも門限遅れたら罰投っていうのがあって。
罰投は缶潰しや風呂掃除といった作業で、遅れた分数に応じて数が決まりました。おかげでアルミ缶を潰すのが上手になったと徳永さんは笑います。
寮生活そのものは、徳永さんにとって楽しすぎるものでした。縦割りの相部屋でさまざまな学年と友達になれた点を挙げます。
上級生になると人ぐらいなんです。基本縦割りの部屋で、いろんな学年の人たちも友達になれますし。
徳永さんは大浴場が特に好きで、一番風呂に入るために学校を早く切り上げていました。風呂上がりに屋上で涼ぐのが至福の時間だったそうです。
その時半の一番風呂に入って屋上に行って涼むっていうのが結構至福の時間で。
アルバイトは新宿にあるうどん屋で、寮生活と並行して忙しく働いていたと徳永さんは振り返ります。
電話ボックスに並ぶ女子たちと寮長就任
寮長には4年生の在籍者から選ばれる仕組みでした。多くの学生は都会に慣れると寮を出るため、4年まで残る人は少なかったと徳永有美さんは説明します。
当時は携帯電話が普及する前で、寮生活の象徴は風呂場横の緑の電話ボックスでした。使用できるのは夜9時までで、風呂上がりの女子たちが列をなしていたそうです。
テレホンカードで電話をする時代ですし、あとポケベルですね。
徳永さんは、風呂桶を抱えた女子たちが電話ボックスの前に並ぶ光景を壮観だったと描写します。おしゃれをした女の子たちが早く終わらないかと待つ姿を面白がっていました。
帰宅した人がお風呂の準備をして、ここでこう持って、みんなこうやって電話ボックスの前で待ってるんですよ。
この光景を見た徳永さんは、部屋に電話があってもいいのではないかと考えます。その改革を実現したいという思いから、自ら寮長になると手を挙げました。
一人一台なり部屋に台電話があってもいいんじゃないかと思って。それをやりたいっていうのもあったので、自分で寮長になるって言って。
根回しで進めた「部屋に電話」の寮内改革
徳永有美さんが掲げた寮長選挙にはライバルがおらず、そのまま就任しました。まず取りかかったのが、部屋に電話をつける改革の下準備です。
徳永さんは、複数いる寮館の先生の中から話しやすい人を選び、少しずつ温度を確かめていきました。学生側にも意見を聞き、賛成が多数派だと見立てます。
一方で、部屋で電話をされると騒がしいという反対意見もありました。徳永さんはアンケートを取り、定例会で結果を披露してガス抜きをしながら合意形成を進めます。
まずはでもちょっと一回アンケートとか取ったりとか、いろんな意見で、それをみんなで集まる定例会で披露して、ガス抜きみたいなのをしながら、ちょっとずつ進めていこうと思って。
こうして徳永さんは、半年ほどで部屋に電話を設置しました。プリペイド式にして請求も個別にし、一定時間で切れる仕組みも整えます。
一つの変化で寮の風景が変わったと徳永さんは語ります。電話ボックスに並ぶ人も少なくなりました。
そういうこと一つで風景が変わるっていうか、その電話ボックスを使う方も少なくなったりとかして。
寮長時代にはイベントの改革にも取り組みます。クリスマスや年末に楽しい会をやりたいと考え、内容をアンケートで募り、自ら司会を務めました。
女子寮というと揉め事のイメージを持つ人が多いが、実際には少なかったと徳永さんは話します。数百人規模で顔もわからないほどだったことが、かえって紛争を防いだと分析しました。
割とこっちがしっかりしてさえいれば、きちんとちゃんと言って意見も聞いていれば、割とそんなに紛失はしないっていう。
寮長とうどん屋の経験が生きた就職試験
徳永有美さんは、寮長やうどん屋の経験が就職試験で大いに役立ったと振り返ります。もともとアナウンサーを目指していたわけではありませんでした。
面接では、数百人規模の女子寮で何をやったのかという話で大いに盛り上がったそうです。川邊さんも、マネジメント経験としてポイントが高いと評価します。
徳永さんは、当時流行していた留学やボランティア、団体の立ち上げといった経験が自分には欠片もなかったと語ります。武器がないと感じ、自分のやってきたことを楽しく報告する道を選びました。
うどん屋の話でも、徳永さんは自ら看板娘を名乗ります。昼時に列をなす新宿のうどん屋で、誰よりも早く動き、熱々の鍋焼きうどんを2つ手に持てる力持ちだとアピールしたそうです。
じゃあ自分には武器がないっていうふうに思った時に、本当に手探りで自分のやってきたことを楽しく報告する。
まとめ
曇天の日本海で育った自認から、木登り勝負に明け暮れた子ども時代、500人規模の女子寮での寮長改革まで、徳永有美さんが自らのルーツを語った回でした。普段は聞き手に回る徳永さんの、根回しと合意形成で物事を動かす姿勢が浮かび上がります。
- 徳永有美さんは金沢の曇天が自身の内向きな性格に影響したと自認している
- 子ども時代は木登りやかけっこで勝負を挑む競争好きだった
- 500人規模の女子寮で寮長になり、部屋への電話設置という改革を半年で実現した
- 改革はアンケートと定例会でのガス抜きなど、丁寧な合意形成で進めた
- 寮長やうどん屋の経験が、アナウンサーの就職試験で強い武器になった


