早稲田で出会った「バリアフリー」と五体不満足
乙武さんは早稲田大学の教育学部に進学します。全国から人が集まる大学で、目立つのではないかと川邊さんは尋ねますが、乙武さんの実感は違ったようです。
早稲田ってあまりにいろんな奴がいすぎて、(自分と周りとの違いも)そんなにザワッとはなかったですね。
大学1年のとき、乙武さんは早稲田の商店街が進める、環境問題を切り口にしたまちづくり活動に参加します。その一つが「車椅子探検隊」というイベントでした。
社会福祉協議会から十数台の車椅子を借り、普段は元気に駆け回る子供たちに車椅子で早稲田の街を歩いてもらう企画です。景色が変わること、街にバリアがあることを体験してもらう狙いでした。
この活動が連鎖を生みます。毎日新聞が記事にし、それを見たNHKが約30分のドキュメンタリーを制作し、さらにそれを見た講談社が出版のオファーを出しました。
そうして生まれたのが、大学3年で出版された『五体不満足』です。
一方で、乙武さん自身は大学で初めてバリアフリー ── 高齢者や障害者が生活する上での障壁(バリア)を取り除くという考え方。当時は福祉の界隈では知られていましたが、一般にはほとんど浸透していない言葉でしたという言葉と出会っています。当時の早稲田の校舎は、その言葉とはほど遠い状態でした。
(早稲田の校舎は)本当にバリアだらけで。
乙武さんが在籍した教育学部は、建物の入り口に5段ほどの階段がありました。雨の日は車椅子を雨ざらしにし、皆の靴で汚れた階段をお尻でずり上がって4階の教室まで通ったといいます。
着いた頃にはパンツまでびっしょりというような感じでずっと授業を受けていました。
この経験から、乙武さんは総長に大学のバリアフリー化を申し入れます。在学中に教育学部の学部事務所までの経路が整備され、卒業後は大学全体でバリアフリー化が進みました。乙武さんは、これを嬉しかったことの一つに挙げています。
福祉の旗頭を期待されて感じた違和感
身をもってバリアの大変さを知り、バリアフリーという言葉と出会った乙武さん。川邊さんは、学生時代から使命感を持って活動していたのかと尋ねます。ところが、乙武さんの答えは意外なものでした。
実はまだそこまでは思っていなくて、むしろちょっと反発も覚えていたんですよ。
『五体不満足』は多くの人に読まれ、乙武さんのもとには「日本の福祉を進めてください」「バリアフリーの旗頭として頑張ってください」というメッセージが数多く届きました。就活の時期と重なり進路を考えるなかで、乙武さんはそこに違和感を覚えます。
俺、別に福祉がやりたくてあの本を書いたわけじゃないし、福祉を勉強してきた人間でもないし、なんでそこを背負わされなきゃいけないんだろうと。
さらに乙武さんは、日本で一番顔と名前が知られた障害者が福祉の世界に進めば、かえって固定観念を強めてしまうのではないかと考えました。
やっぱりああいう体の人は福祉の世界で生きていくのねっていう(見方が)、返って今までのバリアを固定化するんじゃないかなとも思ったんですよ。
むしろ、みんなが意外に思う分野で一線の活躍をすることこそ、本当の意味でのバリアフリーになるのではないか。乙武さんは自らをへそ曲がりと表現しながら、そう考えたと語ります。
多くの人が期待した道。ただし「障害者は福祉で生きる」という固定観念を強めかねないと考えた
乙武さんが選んだ道。驚きを抱かせ、その世界で活躍することが本当のバリアフリーになると考えた
スポーツライターという意外な選択
みんなが意外に思い、かつ自分が情熱を燃やせる分野は何か。そう考えたとき、乙武さんの中で子供の頃からの球技好きが結びつきます。
当時は今から約30年前で、パラリンピックもほとんど知られていませんでした。障害とスポーツという組み合わせは斬新すぎて、だからこそ面白いと乙武さんは感じます。
もう一つの理由は、生活への危機感でした。当時テレビに引っ張りだこだった乙武さんは、このままではブームが去り、生活が立ち行かなくなると考えていました。
そこで、名前ではなく文章そのもので評価されるライターという仕事に着目します。
ライターって書いた文章が全てであって、名前じゃないなと思ったので、いつか五体不満足の乙武さんっていう冠が外れた時にも、ちゃんとした文章を書けるようになっておけば食いっぱぐれないなと思って。
こうしてスポーツとライターが組み合わさり、乙武さんは大学卒業間際にスポーツライターの道を選びます。
連載スタートの裏にあった同業者からの逆風
社会に出た乙武さんは、当時人気だったトルシエジャパンの影響もあり、サッカーの記事依頼を多く受けます。引退間際の清原さんへの密着記事も書いていたといいます。
キャリアの出発点は華々しいものでした。スポーツ総合誌でトップクラスのナンバー ── 文藝春秋が発行するスポーツ総合誌『Number』。スポーツ雑誌としては日本を代表する存在ですで、いきなり連載を持たせてもらえることになったのです。
草サッカー始めたらいきなりワールドカップ選ばれちゃったみたいなもんで。
ただし、その待遇は同業者からの強い嫉妬を招きました。現場で面と向かって攻撃されることもあったといいます。
お前にサッカーの何がわかるんだとか、お前は数字稼ぎに使われてるだけなのかわかんないのかみたいな、面と向かって言われたりして。
乙武さんは、自分が逆の立場でも同じような感情を抱いたかもしれないと受け止めます。そのうえで、できることは記事で結果を出すことだと考えました。
最初の4年ほどは休みなくスタジアムに通い、選手やコーチに顔を覚えてもらいます。そうして築いた信頼関係から、他のライターには書けない記事を書くことに特化していきました。
名前が小さくなることが嬉しかった理由
連載は当初「五体不満足の乙武さん」という冠から始まりました。しかし記事を重ねるうち、誌面での乙武さんのライター名のフォントは、どんどん小さくなっていったといいます。
普通のライターは名前が大きくなることを喜びますが、乙武さんは逆でした。
僕の記事でのライター名のフォントがどんどんちっちゃくなってったんですよ。私はちっちゃくなっていくのが嬉しくって。
4年目ごろには依頼を断らないと捌ききれないほど、ライターの仕事だけで手一杯になります。そしてこの状態が、逆に乙武さんに辞める決心をさせました。
スポーツライターは、なりたくてなった職業ではなく、「五体不満足の」という十字架から放たれたくて選んだ仕事でした。冠なしで仕事をもらえていると実感できたとき、乙武さんはもう辞めていいと思えたのです。
「五体不満足の乙武さん」の冠つきで始まった連載。名前が大きく扱われていた
記事の中身で評価され、ライター名のフォントが小さくなっていった。冠なしで仕事が来る実感を得た
少年事件から芽生えた「恩送り」の思い
20代後半で次の道を考えていた頃、乙武さんはある事件に強く反応します。長崎で当時4歳の男の子が連れ去られ、殺害された事件です。犯人は中学1年の男の子でした。
最近の子供はどうなっているのか、というマスコミの論調に対し、乙武さんは違う感想を持ちました。
子供たちだっておぎゃーって生まれた瞬間、犯罪者になってやろうと思って生まれてくる子なんか一人もいなくて。
乙武さんは、加害者となった子供も環境によって追い込まれたのではないか、周りの大人がSOSに気づいて軌道修正できていれば救えたのではないか、と考えます。そこから、子供の周りにいる大人の責任の大きさに思い至りました。
そして自分自身を振り返ります。両親、学校の先生、近所のおじさんおばさん。周りの大人に恵まれたからこそ、これだけの障害がありながら一人前にやってこられた、と乙武さんは感謝の気持ちを新たにしました。
受けた恩を上の世代に返すだけでなく、次の世代に送っていく。乙武さんはこれを恩送りという言葉で語ります。
自分が受けてきた恩を次の世代に送っていく(恩送りの方が)、恩を受けた人たちの報いにもなるんじゃないかな。
子供たちのために役立つことをしようと決めた乙武さんは、20代後半で大学に入り直し、教員免許を取得します。
ピアノと水泳の壁と、杉並区での採用
教員免許を取得したものの、乙武さんはすぐに壁にぶつかります。当時の東京都の採用試験では、ピアノと水泳が課されていたのです。
終わったわと思って。
そこに手を差し伸べたのが杉並区でした。当時の杉並区は、区の予算で独自に教員を採用し、東京都が配置した教員に加える制度をとっていました。
採用試験を受けられず困っている乙武さんの事情を知った杉並区の教育委員会が、3年間の任期付きという条件で採用します。こうして乙武さんは、エレベーターのある高円寺駅前の小学校で、担任も持つことになりました。
教員免許を取得
20代後半で大学に入り直し、免許を取った
都の採用試験の壁
ピアノと水泳が課され、受験が難しかった
杉並区が採用
区独自の制度で、3年間の任期付きで採用された
小学校の担任へ
エレベーターのある小学校で担任を持った
職員室で受けた「初めてのいじめ」
問題意識を持って教員になった乙武さんですが、その3年間を人生で一番かけがえのない時間であり、同時に人生でも指折りの過酷な時間だったと振り返ります。
過酷さの一つは職員室でした。鳴り物入りとも色物とも言える形で入ってきた乙武さんへの風当たりは強く、いじめの対象になってしまったといいます。
あれは結構人生で初めて受けたいじめですかね。
忘れられないのは、4月の歓送迎会での出来事です。新宿の蟹料理店での会の後、担任の先生に改めて挨拶した乙武さんに返ってきた言葉がありました。
(副担任として挨拶したら)「どうせ腰掛けなんでしょ?」(と言われて)ちょっと安いドラマの悪役が言うセリフだなと思って、結構震撼しましたね。
川邊さんは、乙武さんが持つ「普通さ」ゆえに、かえって嫉妬をまっすぐ向けられてしまうのではないかと指摘します。障害を理由に嫉妬を遠慮させないだけの当たり前さがあるからこそ、有名になった乙武さんに嫉妬が集まる、という見立てです。
生意気なんでしょうね。
成長を急がない教育観と、子供たちとの日々
一方で、子供たちとの関係は最高だったと乙武さんは語ります。語り出すと涙が出てくるほどだといいます。
自分の子供が有名人に担任されることを保護者はやりづらく感じないか。乙武さんはそう心配していましたが、実際は違いました。
自分の子供の担任ってなったら、有名人かどうかじゃなく、うちの担任どうなんだろうっていう目で見てくれたのはすごい助かりましたね。
教育観について、乙武さんは独自の考えを示します。教師は成長を促し見守る仕事だが、自分が担任している間に成長させようとするのは良くない、というものです。
種を植え、水をやることは仕事だけど、自分が見てる間に何か花が咲いたり、実をならせることまで求めちゃうと、子供にはやっぱりいろんなペースがあるんで、それはやっぱりあんまり良くないなっていう。
その考えを象徴するのが、勉強が苦手とされた男の子との出来事です。漢字テストは30点ほど、九九もまだできない。前の担任からもそう引き継がれていました。
ところが休み時間に話すと、その子は100種類以上のポケモンを言えました。乙武さんは、この子は覚えられないのではなく、興味を持たせられていない自分の責任だと気づきます。
手を変え品を変え働きかけた結果、漢字テストは30点から50点、70点へと上がり、2年間の担任のうち一度だけ100点を取ってくれたといいます。
もう一つは、水に顔をつけられない男の子との話です。乙武さん自身もプールが苦手で、そもそも足がつきません。外から声をかけるのも白々しいと悩みました。
そこで乙武さんは、自分も5メートル泳ぐとクラスの前で宣言します。短い手足では推進力が生まれませんが、それでも体をくねらせてもがく姿を見せました。
すると、水に顔をつけられなかった男の子が一瞬顔をつけ、やがて5秒つけられるようになり、5メートル泳げるようになります。退職後にも「15メートル泳げるようになりました」という暑中見舞いが届いたといいます。
ミクロの教育からマクロの教育へ、そして政治へ
川邊さんは、外部の人が部下を褒めてくれたり部下が成果を出したりする喜びが、経営者になって強くなったと自身の体験を語ります。乙武さんはそこに、似た感覚と真逆の感覚の両方があると応じます。
乙武さんは、教員として個別の子供との関係のなかで納得のいく教育ができたと感じる一方、それは自分のクラスの中だけのことだと考えました。制度や仕組みとして何とかしたい、という思いです。
もっとこれ制度的に仕組み的に何とかしなきゃいけないよなと思うことがあり、そのミクロの教育からマクロの教育をやりたいなって思うようになってった。
3年契約を全うした乙武さんは、その後、東京都から教育委員就任の打診を受けます。史上最年少の30代で教育委員に就任しました。当時の都知事は猪瀬さんです。
ところが実際の仕事は、期待とは違いました。教育委員会事務局が用意したものを判断し軌道修正するほか、後半の大半は不祥事を起こした先生の懲戒処分を決めることだったといいます。
先生の処分決めたいわけじゃないんだよなと思いながら。
やりたい仕事は事務局の中にあるのか、では都の職員になるべきか。しかしそれでは水道局に異動する可能性もある。そう考えを巡らせた末に、政治家という道が見えてきます。
政治への思いを強めたのは、それだけではありませんでした。小学校教員として保護者や家庭とつながるなかで、乙武さんは自分が知らなかった困難に触れます。
身体障害者として生きてきた乙武さんは、ここで初めて発達障害 ── 生まれつきの脳の特性による障害の総称。学習や対人関係などで困りごとが生じることがありますという障害や、海外にルーツを持つ子供が日本で過ごす大変さを知りました。プライベートでは、LGBTQの当事者である杉山文野さんとも出会っています。
身体障害だけでなく、世の中には違う理由でしんどい思いをしている人がたくさんいる。教員時代に得たこの気づきが、政治への思いと組み合わさったと乙武さんは語ります。
父になって初めて感じた「歯がゆさ」
話は家庭に移ります。乙武さんが結婚したのは大学卒業の翌年、ライター時代でした。子供が生まれたのは教員時代です。
子供にエコーを当てるときは緊張したのではないかと川邊さんが尋ねますが、乙武さんは特に遺伝性とは言われていなかったため、まったく気にしなかったといいます。
自分の子供を育てることと、公教育で子供を教えることは、乙武さんにとって真逆の経験でした。担任していたのは物理的な世話がいらない学年の子供たちでしたが、我が子は0歳から始まります。
言葉によるコミュニケーションができず、物理的な世話しかできない時期。乙武さんはここで、これまでとはまったく違う感情に直面します。
乙武さんは、ここまでの人生で障害を苦に思ったエピソードが一つも出てこなかったはずだと前置きしたうえで、こう続けます。
人生で初めてしんどいなと思いましたね。
自分ができないことは、これまで周りがやってくれて何とかなっていました。しかし、自分がやってあげたい、やらなければならない存在が目の前にいるのにできない。その事実が、乙武さんにはこたえたといいます。
この歯がゆさは、子供が言葉を理解できる年齢になるにつれて和らいでいきました。乙武さんは、重度身体障害者の父としてできることを少しずつ見つけられるようになったと振り返ります。最初の数年がきつかった、という言葉で、この日の話は締めくくられました。
0歳からの数年。物理的な世話ができず、人生で初めて「しんどい」「情けない」と感じた
子供が言葉を理解する年齢に。父としてできることが少しずつ見つかった
まとめ
この回で乙武さんは、福祉の旗頭を期待される中であえて別の道を選び、スポーツライター、教師、そして父としての経験を語りました。逆風や歯がゆさと、そこで得た喜びが同居する歩みでした。
- 『五体不満足』出版後、福祉を背負わされることへの違和感から、あえてスポーツライターの道を選んだ
- ライター名のフォントが小さくなること、つまり冠なしで評価されることが、辞める決心につながった
- 少年事件をきっかけに「恩送り」の思いが芽生え、教員免許を取得して小学校の担任になった
- 職員室でいじめを受ける一方、子供の成長を急がない教育観のもとで子供たちとの日々を大切にした
- 父になって初めて障害を「しんどい」と感じ、子供の成長とともにできることを見つけていった


