なぜ乙武さんは「普通扱い」されるのか?
川邊健太郎さんがLINEヤフーのコワーキングスペース「ロッジ」のラジオブースで朝食をとりながら迎えたゲストは、乙武洋匡さんです。この番組は原則として、面識のない人に川邊さんが直接声をかけて出演を頼む形ですが、今回は面識のある乙武さんに改めて話を聞きたいと声をかけたといいます。
川邊さんは、言い方に語弊があれば補足してほしいと断ったうえで、乙武さんを「ハンディキャップ界のヒーロー」だと感じていると話します。飲みの席などで一緒になっても、周りは乙武さんに障害があることを忘れるほど、いい意味で普通に接しているそうです。
今やなんですか、いいこと悪いことを含めてめちゃめちゃ普通扱いされていること自体がすごいことだなって思ってるんですよね。
川邊さんは『五体不満足』をきちんと読んでいなかったこともあり、乙武さんの人生を、その時々に何を感じたかも含めて改めて聞きたいと、インタビューの狙いを語りました。
生まれつき両手両足がない、母が1か月会えなかった理由
乙武洋匡さんは、母の実家がある横浜の日赤病院で生まれました。障害名は先天性四肢欠損 ── 生まれつき手足の一部または全部が形成されない状態。原因は遺伝や胎内環境などさまざまで、特定できないことも多いとされますで、生まれつき両手両足が欠けている状態です。
同じような障害は当時サリドマイド ── 1950〜60年代に睡眠薬などとして使われた薬。妊娠初期に服用すると胎児の手足などに障害が生じる薬害が世界的な問題になりました薬害でも見られましたが、乙武さんはそれにはあたらず、原因は今も不明だといいます。
当時はまだエコー検査がなく、両親は生まれてから初めて障害を知りました。父にはすぐ伝えられましたが、母には産後の体へのショックが強すぎるという理由で、黄疸が激しいと説明され、1か月間会わせてもらえなかったそうです。
生後1か月でようやく対面するとき、病院は母が倒れた場合に備えて隣の部屋にベッドまで用意していました。しかし母が最初に口にしたのは「可愛い」という言葉でした。
それ(母の「可愛い」)がその何か嘆きとか悲しみではなく、喜び、慈しみの感情であったっていうのは、本当にその後の私の人生にとって大きかったんだろうなとは思うんですよね。
母の「可愛い」に隠れていた、数年前に知った真相
乙武さんによると、母の「可愛い」は『五体不満足』の中で最も感動的で、多くの読者が涙した場面です。ところが数年前、その「歴史を覆す事実」を本人が母から聞かされます。
母と二人で歌舞伎を見た帰りの車内で、母が「話しておきたいことがある」と切り出しました。乙武さんは「言ってないとかじゃないよね?」と確かめますが、母は「可愛い」とは確かに言ったと答えます。
「言ったんだけど、あなたが初めて私の前に看護師さんに連れてこられた時、おくるみにくるまれてたから手足がないって分かんなかったのよね。」「あ、それだいぶ歴史変わってくるぞ」って。
乙武さんは衝撃を受けつつも、むき出しの状態だったら母はもっとショックを受け、自分の人生も変わっていたかもしれないと考え、結果的には良かったと受け止めています。
手足のないわが子を初めて見た母が、嘆きではなく「可愛い」と言った場面として読まれてきた
母はおくるみで手足が見えず、障害に気づかないまま「可愛い」と言っていたと本人が知った
乙武さんは、このエピソードが独り歩きし「お母様が素晴らしかったから」と言われることが多いとも話します。半分は本当にそうだとしつつ、母もスーパーウーマンではなかったと付け加えました。
20歳ごろ、乙武さんは母に「もしエコーがあって、手足がないとわかっていたら産んだか」と尋ねたそうです。母の答えは「いやー」というもので、乙武さんは「あぶねー」と思ったといいます。
でもあの母でさえ産まなかったかもしれないんだなっていうのは、なんだろう、いろいろ考えさせられましたよね。
川邊さんは、前回のゲストのジャーナリストが語った事実の奥に真実があるという話を引き、この「可愛い」の話はまさにその例だと応じました。
一人っ子の理由と、幼稚園探しのための引っ越し
乙武さんは長男で一人っ子です。障害のある子どもの場合、親が先に亡くなると兄弟が面倒を見ることになるケースが多く、生まれてくる子にその重荷を背負わせるのは申し訳ないと両親が考えたため、一人っ子になったそうです。
乙武さんの幼少期は、幼稚園探しから苦労の連続でした。障害のある乙武さんを受け入れる幼稚園がなかなか見つからず、母の友人の紹介でようやく世田谷区深沢のキリスト教系の幼稚園が受け入れてくれました。
当時住んでいたのは江戸川区西葛西で、23区の東の果てから西の果てへ毎朝通うのは無理でした。そのため一家は幼稚園に合わせて世田谷区の用賀へ引っ越しています。
私立はすべて門前払い、地元の公立小へ通えた経緯
乙武さんの小学校探しはさらに大変でした。私立なら受け入れてくれるのではと考え、障害児の受け入れに積極的だと謳う学校を中心に回りましたが、すべて門前払いだったといいます。
教育すら受けられないのかと途方に暮れていたところ、世田谷区の教育委員会から就学時健診 ── 翌年度に小学校へ入学する子どもを対象に、市区町村の教育委員会が行う健康診断の案内が届きます。母が問い合わせると、先方は面食らいながらも「とりあえず来てください」と応じました。
思いのほか受け答えはこいつちゃんとできるんだなということを認識していただき、そこから教育委員会、該当する用賀小学校ともに前向きな検討をしてくださり
字は書けるのか、給食は食べられるのかといった質問に答え、実際にやって見せたことで、入学が現実味を帯びていきました。
最終的には、登校から下校まで親が付き添うという条件つきで、地元の用賀小学校への入学が認められます。乙武さんは、これだけ重い障害で地元の公立校に通うのは当時として「異例中の異例」だったと振り返ります。
私立を回る
障害児の受け入れに積極的と謳う私立校を中心に回るが、すべて門前払い
就学時健診の案内
世田谷区教育委員会から案内が届き、母が問い合わせる
面談と確認
受け答えや、字を書く・食事をする様子を見てもらう
条件つき入学
親が終日付き添う条件で、用賀小学校への入学が認められる
積立口座を速攻解約、「よっしゃ今日も目立ってる」の性格
乙武さんは、自身の人格を表すエピソードとして、両親の積立の話をよく紹介するそうです。生まれてすぐ両親は「一生寝たきりかもしれない」と考え、親亡き後も生きていけるよう、乙武さん名義の口座に積み立てを始めました。
ところが幼稚園に入って周りに威張り散らしている様子を見て、(両親は口座を)速攻で解約したって言ってました。
手足がないことに疑問を持ったかという川邊さんの問いに、乙武さんは「当たり前すぎて」のほうに近いと答えます。そのうえで、乙武さんの世代以上では、街でじろじろ見られるのを嫌がって外出を避ける障害者が多かったと説明しました。
普通はそれをやっぱり嫌だなと思って家から出かけたくなくなっていくらしいんですけど、僕子供の頃から「よっしゃ今日も目立ってる」みたいな感じのメンタリティーだったんで、それすごく良かったなと思うんですよね。
乙武さんは両親から「マイルドな両親から、なぜこんな激烈な人間が育ったのか」と不思議がられているそうです。小さいころの口癖は「自分で」で、両親が手を貸そうとしても、時間がかかっても自分でやりたがる子どもだったといいます。
乙武さんは、同じ両親に育てられても兄弟で性格が違うことはよくあるとして、育て方がどれほど影響するかはわからないと話しました。
車椅子禁止を命じたスパルタ担任は何を見ていたのか?
乙武さんの小学校で4年間担任を務めた先生は、かなりのスパルタでした。入学から数か月で、乙武さんは「学校の中では車椅子に乗ってはいけない」と言い渡されます。
担任の指示は、教室移動も校庭に出るときも、車椅子を降りて太ももだけの足とお尻で移動しなさい、というものでした。乙武さんは家の中では今もこの方法で移動していますが、小学1年生の1学期に言われたときは「絶望」だったといいます。
みんな音楽に合わせてズンタカズンタカ行進で行っちゃうわけですよ。ドサッ、広い校庭に一人取り残されて、なんかズリズリズリズリお尻を引きずりながら教室に戻るとかがめちゃくちゃ大変だった
夏は灼熱の地面、冬は凍てつく地面にお尻がつく状況で、隣のクラスの先生が「さすがにかわいそうでは」と担任に言ったこともあったそうです。それでも当時50代後半の大ベテランだった担任は、方針を変えませんでした。
今だけ乙武くんを可愛がってあげることはいつでもいくらでもできる。だけど、それが本当に彼のためになるんだろうかっていうことで、(担任は)すっぱね続けてくださったらしいんですよね。
担任の方針のおかげで、乙武さんは階段の上り下りや、ある程度の距離を自分の足で歩けるようになりました。その後に進んだ中学、高校、大学にはエレベーターのある校舎が一つもなかったものの、進学できたのはこの力があったからだといいます。
車椅子禁止
小1の1学期から、校内は自分の足で移動するよう指示される
つらい日々
全校集会後に校庭に取り残され、暑さ寒さの中でお尻を引きずって戻る
身についた力
階段の上り下りや、ある程度の距離の歩行が自分でできるようになる
進学の幅
エレベーターのない中学・高校・大学にも進学できた
取り残されて教室に戻るときの気持ちを尋ねられた乙武さんは、「惨め」と即答しました。
惨めとクソが入り混じってましたね。なんかほら、見られてるならさ、おっしゃ目立ってると思えるけど、誰も見てないんで。
ケアされながらクラスのリーダーだった小学生時代
友達との関係について、乙武さんは「ケアされていた」と「普通の関係」の両方だったと答えます。担任はクラスに、乙武さんができることは自分でさせ、どうしてもできないことだけ手伝うよう伝えていました。
乙武さんが今でも自分でできないことの一つが着替えで、給食の配膳とともに友達が手伝ってくれていたそうです。一方で乙武さんはクラスのリーダーでもあり、ケアされる身でありながらリーダーという「不思議な構図」だったと振り返ります。
リーダー気質の理由の一つとして、乙武さんは障害とは関係なく、4月6日生まれで学年でも早生まれではなく早い誕生日だったことを挙げています。
勉強については、乙武さんは頬と短い左腕で字を書けるものの、遅くて大変なため、先生の目を見て話を聞き、記憶する方法が中心でした。記憶力が障害によって鍛えられたのかについては、手足のある世界を知らないのでわからないと答えています。
クラスメイトが自然に作った「オトちゃんルール」とは
乙武さんによると、障害のある人には、みんなと一緒に遊べないため休み時間が嫌いだったという人が多いそうです。しかし乙武さんの場合、クラスメイトが「オトちゃんルール」を作ってくれました。
乙武さんは車椅子を降りて、短い足でそこそこ強いボールを蹴れます。それでもクラスメイトほど速く走れず、強くも蹴れないため、普通にやればパスは回ってきません。
普通サッカーでシュート決めたら1点じゃないですか。じゃあオトちゃんがシュート決めたら(何)点ねっていうむちゃくちゃなルールが設定されたんですよ。
みんな勝ちたいので、乙武さんにボールが集まるようになりました。こうしたルールは乙武さんが頼んだものでも、先生が指示したものでもなく、スポーツごとに自然発生的に生まれたといいます。
川邊さんは、子どもが多くいじめも日常茶飯事だった団塊ジュニア世代に、なぜそんな優しいルールが生まれたのかと問います。乙武さんは、かわいそうだから入れてあげるのではなく、「いて当然じゃん」という感覚だったのではないかと答えました。
その感覚を表すのが、山登りの遠足の話です。車椅子では無理だと母に説得され、乙武さんが欠席すると担任が伝えたところ、クラス中から大ブーイングが起きました。
ずるいよって言われたんですよ。要はみんな山登り大変じゃないですか。
乙武さんは、みんなが当たり前に一緒にやるものを、なぜあいつだけやらないのかという感覚が、休み時間のサッカーにも向けられていたのだろうと振り返ります。
両手両足のないバスケ部員は、どう試合に出たのか?
乙武さんは、小学校のクラスメイトの大半と同じ公立の用賀中学校に進みました。生徒は隣の小学校と半々でしたが、区内の連合行事などで顔を合わせていたこともあり、幼稚園や小学校のスタートよりずっと楽だったといいます。
中学では、仲のいい友達がみんな入ったという理由でバスケ部に入部します。乙武さん自身、「石橋を叩いて渡るの正反対」で、橋があるかわからないまま渡り始める性格だと話しています。
コートの外で一人ドリブルをしていた乙武さんに、顧問の先生は「利き手の左手ばっかりだな」と声をかけ、反対の手でもドリブルができたら試合で使うと言い出しました。
本当に口悪いんですけど、こいつ(顧問)正気かなと思ったんですよ、自分ながら。え?両手両足ないやつをバスケの試合に出すみたいな。
乙武さんは半年ほどかけて、利き手でない手でも同じ精度とスピードでドリブルできるよう練習し、実際に試合に出してもらいました。膝より低い超低空ドリブルは奪いにくく、戸惑う相手を抜いて、スリーポイントが得意なキャプテンにパスを出していたそうです。
生徒会と文化祭実行委員長で育ったリーダーシップの型
中学時代の思い出として、乙武さんは生徒会役員と文化祭の実行委員長を挙げます。小学校でも副会長を務め、中学1年から文化祭の実行委員をしていたため、最上級生になったら「超やってやるぜ」という気持ちがあったといいます。
それまでの文化祭は、先生が決めたプログラムを生徒が実行する形でした。乙武さんは、子どもが決めた演目を一つやらせてほしいと掛け合い、みんなで話し合って余興的な出し物をプログラムに入れてもらったそうです。
自身のリーダーシップのスタイルを問われた乙武さんは、根回しタイプと、人の意見を引き出すタイプの組み合わせだと答えます。
どちらかというと、その組織集団の意見をくまなく聞いて、最大公約数的な落としどころを見つけていくという方が得意なんですよね。
強烈に引っ張るタイプ。乙武さんは自分はあまり向いていないと話す
意見をくまなく聞き、最大公約数的な落としどころを探す。政治や教育に向いていると話す
乙武さんは、小中学校で生徒会的な役割をずっと担ってきたことが大きかったと振り返りました。番組はここで一区切りとなり、次回も乙武さんとの会食が続きます。
まとめ
今回は、乙武洋匡さんの誕生から中学時代までをたどりました。母の「可愛い」の真相、スパルタ担任、クラスメイトの自然な受け入れなど、『五体不満足』では語られなかった側面から、今の乙武さんにつながる性格とリーダー像が浮かび上がります。
- 母の「可愛い」は、おくるみで手足が見えないまま出た言葉だったと、乙武さんは数年前に初めて知った
- 車椅子を禁じたスパルタ担任のおかげで、エレベーターのない学校にも進学できたと乙武さんは感謝している
- クラスメイトは「いて当然」という感覚で、オトちゃんルールを自然に作り出した
- 乙武さんは自身を、意見を聞いて落としどころを探すリーダーで、政治や教育に向いていると語る




