父の蒸発から始まった「自分で食っていく」という原点
島田亨さんは東京・文京区の出身で、学芸大学の竹早で小中学校を過ごしました。父は脱サラして飲食系の事業を起こした起業家でした。
家庭は「中の上」ぐらいの暮らしだったといいます。しかし島田さんが中学2年ぐらいの時、父はある日突然、蒸発してしまいます。
原因は事業の失敗というより、連帯保証人を立て続けに引き受けたことでした。父はお人好しで、連帯保証人 ── 他人の借金を肩代わりする約束をした人。本人が返済できないと、保証人が代わりに全額を返す義務を負うに度々引っかかったと島田さんは聞いています。
借金は数千万円規模だったと見られます。父は夜逃げし、母と姉と妹、そして島田さんと猫だけが残され、そこから極貧生活が始まりました。
結局あの借金こさえて、いわゆる昔でいうとサラ金みたいなところからいっぱい追い込まれて、それで蒸発したっていうのが流れなんですが。
専業主婦だった母は、今でいう配膳の派遣の仕事に登録して働き、子ども3人を育てました。父がいなくなったこと自体より、毎日借金取りが来る環境の変化が一番大きかったと島田さんは振り返ります。
来ると電気をパッと消して、家の隅の方にそっと4人でかがんで、音を出さずにいなくなるのを待つとかみたいなことをずっとやってましたね。
子どもながらに商売をしている親戚に助けを求めても、当然のように断られました。その経験が、島田さんの原点になっています。
世の中は結局誰も助けてくれないという絶望と怒りから、島田さんは高校1、2年の頃には「自分で食っていける力をつけないと」と考えるようになりました。
受験できなかった高校時代と、計画的すぎる大学生活
借金取りが来る生活は中学2年から高校1年まで3年ほど続きました。父はどこかのタイミングで自己破産し、両親は離婚。父は今どこにいるかわからず、島田さんは生きているという事実だけを知っている状態だといいます。
受験勉強も塾も家庭教師も望めなかった島田さんは、学芸大の高校には進学できず、ある大学の付属高校に進みました。もう受験する時間はないと諦め、そのまま大学へ上がれる付属ばかりを受けたといいます。
高校時代は喫茶店や新聞配達のバイトに明け暮れました。授業には集中して臨み、学年で2番あたりの成績を保ち、大学は希望通りのところへエスカレーターで進学しています。
大学では履修ルールが緩く、1、2年で単位をほぼ取り切り、3、4年に残った単位は3つだけという計画を立てました。社会に出る準備期間を確保するためです。
その1、2年は、まさにドラマのような生活でした。時給の高い夜のゲームセンターで朝まで働き、電車で寝て、大学の授業をびっしり受ける日々です。
夜だから夜通しゲーセンで働くと、そのまま大学に行って、片道の電車で寝て、また授業を受けて、帰りの電車で寝て帰ってくるっていうのを月曜から土曜までずっとやって。
成績優秀だった島田さんは育英会と電通から奨学金を受け、2年終了時に特待生となって学費が免除されました。時間があり、奨学金があり、学費免除でバイトもしている――「めちゃくちゃ金持ちだった」と本人は表現します。
なぜ大学3年でリクルートを選んだのか
大学3年からは、今でいうインターンとしてリクルートで働き始めます。バイトといっても社員と同じ働かせ方をされ、広告原稿の使い走りから制作、営業へと担当が移っていきました。
当時はインターネットがない時代です。それでもリクルートを選んだのは、日本の会社の情報が一番集まっている場所だと考えたからでした。
いわゆる求人広告をいっぱい集めていて、いろんな情報があるじゃないですか。だからそこにたくさんいろんな情報が集まってくるんじゃないかなと思って、バイトで入ったっていうのが一番最初ですね。
狙いは、他の学生より先にいろんな企業研究をしておくことでした。当時のリクルートは「10年前のサイバーエージェント」のようなイメージで、ほやほやのスタートアップではないが、大企業でもない存在だったといいます。
学生時代のリクルートで、島田さんは新卒求人広告の企業向け営業を担当しました。当時の求人媒体は、自宅に無料で届くハガキ付きのリクルートブックです。
学生は広告を見て興味のある企業にハガキを送り、企業はそれを起点に会社案内やセミナー通知を送る――それが当時の就職活動の流れでした。島田さんの営業成績は良く、学生かどうかに関係なく結果で評価される会社だったといいます。
4人で決めた「まず会社を辞めよう」――インテリジェンス創業
就職活動では電通や日本IBM、CSKなどから内定を得ました。それでも高校時代からの「起業して自分で稼ぐ力をつける」という目的に立ち返り、最も優秀で尖った人材が集まる会社としてリクルートを選びます。
入社後は起業の仲間を探しながら働きました。ある同期会で、時間通りに集まったのが島田さんと同期の前田哲也さんだけだったことがきっかけになります。
二人で飲みに行き、起業の志を語り合ったところ、前田さんが「面白いやつがいる」と紹介したのが、リクルートコスモスにいた宇野康秀さんでした。宇野さんはさらに鎌田一彦さんを呼び、4人が揃います。
4人で2回目、3回目ぐらい会った時に起業しようみたいな話になって。もう何やるかは決められないけど、とりあえず会社辞めることは決めようとかって言って。
何をやるかは決めず、まず辞めることを決める――サイバーエージェントの藤田さんと同じだと島田さんは言います。1989年6月15日に会社を作り、9月末に4人同時に退職しました。これがインテリジェンスの始まりです。
1000万円をどう集め、株はどう分けたか
当時は「株式会社は1000万円ないと作れない」という時期が一瞬だけありました。そこで4人はメガバンクに口座を作り、カードローンで50万円ずつ、一人200万円を工面します。
結局僕も4人とも全員都市銀行で4個口座を作って、キャッシングを50万円ずつで一人200万円。
4人で800万、残り200万を先輩経営者らに約70万円ずつ持ってもらい、1000万円を集めました。ただ均等な持ち分は良くないと判断し、誰かが多めに持つことにします。
家業で事業をやり、学生時代から起業していた宇野さんが筆頭株主になるのは自然な流れでした。宇野さんが約43%、他の3人が17%ほどという構成で、過半数ではないが単独筆頭という形です。
島田さんと前田さんは違和感なく受け入れましたが、鎌田さんは最後まで納得感がなかったといいます。それでも4人は得意分野がバラバラで役割分担ができ、喧嘩もなくワークしていました。
不動産か人材か――そして風船で稼いだ最初の売上
何をやるかは4人で徹底的に話し合いました。島田さんと前田さんは人材系、宇野さんと鎌田さんは不動産系の出身で、バブル絶頂期にはどちらも好調でした。
当初は不動産に傾いていましたが、途中で人材系へ切り替わります。理由は明確には覚えていないものの、先行投資が少なく、企画と営業で勝負できる事業だったからだと島田さんは推測します。
社名は、不動産っぽくなく、他社の真似にも見えない名前を探して決めあぐねていた時、宇野さんがロゴマークまで作って「インテリジェンス」を提案しました。それ以前は「東京不動産センター」のような仮名だったといいます。
事業はいきなり絶好調だったわけではありません。当時の就職ビジネスでは求人広告媒体が主役で、企業予算の95%ほどが媒体に取られ、採用のための予算は5%ほどしか残らない状態でした。
島田さんが着想したのは、どの媒体にも属さない独立系の代理店です。媒体執行を適正化し、余った予算をイベントやセミナーに回す――このニュートラルな発想は、社内で即座に支持されました。
しかし、リクルートを卒業した24、25歳の会社に、大企業がすぐ予算配分を任せることはありませんでした。そこで食いつなぐため、まったく別の仕事もしていました。
一番最初にお金を稼いだ(仕事は)、(ラフォーレ原宿の新店舗プロモーションで)風船を(交差点で)配りまくるっていうプロモーション案があった。
4人とアルバイトで風船を配ると、1日30〜40万円の売上になり、原価は10万円もかかりませんでした。平日は大企業への営業、週末は風船で稼ぐという生活でした。
就職協定を逆手に取った「スチューデンツリポート」
転機を作ったのは鎌田さんでした。当時は就職協定 ── 日経連が定めた就職活動のルール。大学4年8月20日まで勧誘活動を禁止するなど、企業の採用開始時期を制限していたがあり、企業は水面下で優秀な学生を先に囲い込もうとしていました。
島田さんたちは、日本全国の学生とモニターアルバイト契約を結びました。どの会社がいつどんなアプローチをしてきたかを、電話や郵送で全部集める仕組みです。
集めた情報を編集し、契約企業にFAXで一斉配信しました。これが「スチューデンツリポート」です。動きが激しいピーク時は1日に何度も配信したといいます。
モニター学生
全国の学生が、企業からの接触や送付物をインテリジェンスに通報する
編集・コールセンター
集まった情報を書き留め、トピック性の高いものから記事化する
FAX一斉配信
契約企業だけに、競合他社の動きを含めた採用情報を届ける
企業の行動
情報を見た企業が採用活動を前倒し・牽制し、さらに問い合わせが増える
この新聞はシーズン年額35万円で販売されました。フェアに情報を流す原則を守ったことが、情報としての価値を保ちました。
仮に定期購読料金をいただいたとしても、入ってきた情報はフェアに流します。これやった瞬間、情報の価値なくなっちゃうので。
この事業でインテリジェンスは大企業人事のアカウントを獲得し、「一番リアルタイムな情報を持つ会社」と認識されました。そこから入社案内や説明会ビデオなどの制作・広告事業へと広がっていきます。
なお、この事業は就職協定の存在とインターネットのなさが前提でした。両方がなくなった今では商品として成り立たないだろうと島田さんは話しています。
バブル崩壊と、宇野さんの「人材派遣やろうよ」
1989年創業のインテリジェンスは、92、93年ごろにはバブル崩壊に直面します。採用人数自体が減り、代理店事業も先細りしていきました。
デジタル携帯電話の販売代理店などを試すも中途半端に終わる中、宇野さんが起死回生の一手を切り出します。オフィスの外で「あのさ、人材派遣やろうよ」とこっそり持ちかけたのです。
島田さんは当初「何言ってんの?」と反対しました。誰も人を採らない時期に、人材派遣を始めるのはバカげていると思ったからです。
採用してないけど、使える人がいる。これは派遣しかないんだよと。
宇野さんの読みはさらに深く、当時の人材派遣市場は推定1兆円規模なのに、上位10社を足しても1000億円ほどしかない状態でした。強い会社が10分の1しか取れていない大チャンスだという指摘です。
推定約1兆円。家業レベルの派遣会社が有象無象に分散していた
約1000億円。パソナでも約400億円。市場の10分の1しか取れていない
戦う相手はトップ10ではなく、街場の家業レベルの派遣会社だと宇野さんは考えました。良いレートと使い方の提案で、オセロのように実績をひっくり返す戦略です。
さらに決め手になったのが景気の悪さでした。派遣は「人を仕入れ、人を貸す」商売で、仕入れは資本力、貸すは営業力の勝負になります。
景気の悪い時、大手が100万円の広告を打とうが、名もなきインテリジェンスが100万円の広告を打とうが、そこに何か仕事があるんだったら求職者来てくれる。だから資本の勝負にならない。
島田さんはこの説明に100%納得し、翌日から免許申請とオフィス準備を始めました。勝負して成功する時は、大局観をちゃんと掴んでいる事業が結局勝つ、と島田さんは振り返ります。
立ち上げ3年で100億――派遣で売上、紹介で利益
人材派遣は立ち上げ3年で売上100億円に到達しました。数少ないコンペを漏れなく拾い、死ぬほど営業した結果です。
採用でも、優秀な人をどれだけ取れるかが勝負の分かれ目だと若い頃から意識していました。マネジメントチームは自分の時間の30%を採用に使うことを共有していたといいます。
その後、店頭公開の準備を進めます。ただ派遣は営業利益率が3%に満たず、100億円売り上げても利益は3億円ほどでした。
ここでも宇野さんの読みが働きます。派遣は売上を大きく見せるための事業、利益を稼ぐのは人材紹介という役割分担でした。
売上を大きく見せる事業。自社雇用のコストがかさみ、営業利益率は3%未満
利益を稼ぐ事業。約60〜70億円の売上で約15億円の利益が出ていた
時価総額1400億円――でも「実感値は1ミリもない」
インテリジェンスは第三者割当増資を一度もせず、創業者の持ち分のまま店頭公開しました。一番いい時の時価総額は当時で約1400億円に達しています。
17%を持つ島田さんの資産は計算上200億円弱でした。しかし本人に浮かれた様子はありませんでした。
全額で計算して、ああ、こんなにあるんだと思ったけど、実感値なんか1ミリもないですよね。
上場は資産を増やす目的で狙ったものではなく、教科書通りの意味で直接金融ができるようになる程度の認識だったといいます。
この時期、島田さんはリクルート時代の縁で青学の学生だった藤田晋さんをアルバイトとして受け入れていました。新卒同期は約30人という、会社規模の4分の1を採る勢いのある時期です。
藤田さんは1年目から存在感が圧倒的で、誰よりも遅くまで働き、断トツの成績を上げました。2年目になる前に「辞めて社長をやる」と宇野さんに告げて起業します。
藤田がそういうんだったらもうしょうがないよねっていう。止めたところで止まらないだろうし。
サイバーエージェントはインテリジェンスより1か月早く上場したはずだと島田さんは記憶しています。かつての教え子の会社が先に上場するという珍しい構図でした。
34歳での決断――事業家をやめ、資本家になる
島田さんはインテリジェンスの上場から約1年後、34歳で退職します。この時、自分で起業するのはもうやめようとルールを決めました。
理由の一つは、事業を持つことがキャッシュを持つよりリスクだという認識です。もう一つは、船乗りの例えで語られる、進路を降りられない苦しさでした。
人生かけてついてきてくれる船乗りたちに、ごめん、やっぱ南極行くのやめない?って言えないじゃないですか。
新しい価値を社会実装する楽しさは残したい。そこで島田さんは「事業家ではなく資本家になろう」とスイッチを切り替えました。
当時アメリカではシリコンバレーが機能する一方、日本のビットバレーはうまくいっていませんでした。銀行もVCも、実績のない起業家には金を出さなかったからです。
当時はまだ「エンジェル投資家」という言葉すらありませんでした。認知もない中、島田さんは筋の良さそうな若手起業家の集まりに出かけ、友達になり、自然な流れでお手伝いする形で投資を始めます。
累計330社・66億円――日本一の個人投資家
島田さんのエンジェル投資はそのまま本業になりました。26年目時点で、投資先は累計約330社にのぼります。
三百三十社、個人でですか?
個人で。
平均チケットサイズは約2000万円で、単純計算すると投下額は約66億円です。個人としてはおそらく日本一の投資数だといいます。
330社のうち約220社は、EXITや倒産を含めて何らかの決着がついており、約110社が今も動いています。決着した220社のうち13社がIPOしました。
驚くのは、儲かっていないものも含めて約60%が1倍以上で回収できている点です。これはからくりではなく、島田さんの関わり方に理由があります。
口は出さない、だが2つだけは丁寧に――投資家の距離感
島田さんは本当にシードステージで一番バッターとして出資し、プロダクトやマーケティングには口を出しません。それは24時間365日やっている起業家の領域だからです。
代わりに丁寧に関わるのが、マネジメントチームの組成と資本政策の2点でした。どちらも一度ミスすると手戻りが大きく、IPOを2年遅らせることもあるからです。
マネジメントチーム
急成長に合わせたステージマネジメント。創業者が苦手な仲間との役割変更を支える
資本政策
バリュエーションを上げすぎず調達しすぎない、身の丈プラスアルファの設計にガイドする
信頼関係ができているからこそ、島田さんは「もう無理だ」と判断した時に、価値が毀損する前のEXITを創業者と一緒に選べます。自分たちで白旗を上げにくい創業者にとって、外からの声は重要でした。
そこはだから悪者になったとしても、あなたの事業がこれこれこういうポジションで厳しいよと、価値を毀損しないうちにEXITしましょうと。
これが1倍以上の回収が6割という数字の背景です。管理は月次レポートを細かく見るのではなく、たまに投資先リストを上から眺めて、連絡すべき10社ほどを感覚的に見つける方法だといいます。
13社のIPO――ビジョナル、メドピア、そして20年越しの上場
IPOした13社を、島田さんはすぐに挙げられました。一番大きいのは南壮一郎さんのビジョナルです。
他にも、MBOしたメドピア、最初期のインターネット決済を担ったウェブマネー、英会話伴走のプログリット、街中の充電器のインフォリッチなどが並びます。
- ビジョナル(南壮一郎)――BizReachを運営、13社の中でも最大級
- メドピア――医師向けポータル、後にMBO
- ウェブマネー――スクラッチ式のネット決済、最初にIPOした投資先
- プログリット――英会話の伴走サービス
- インフォリッチ――街中のモバイルバッテリー充電器
リーガルテックのジーバテック、投資から約23年をかけて昨年上場したBスタイルもあります。多くが投資時はメンバー4、5人ほどの超初期段階でした。
一本の電話――三木谷さんからの「野球やりませんか」
エンジェル投資を続ける中、島田さんは金髪の投資家として活動していました。眉毛も金髪に染めていたといいます。
ある日、食事のデザートを食べていると、三木谷浩史さんから携帯に電話がかかってきます。「島田さん、野球やりませんか?」という誘いでした。
三木谷さんとは1965年生まれの同い年で、同年代の起業家の集まりで顔を合わせる関係でした。当時、宇野さんが楽天の社外取締役を務めていた縁もあります。
楽天が球団参入を検討していた時期で、企業経験があってすぐアベイラブルな人を探していました。「消去法で僕しかいなかった」と島田さんは言います。
三木谷さんが後で聞いたらだけど、宇野さんに「島田さん貸してくれない?」って言ったらしいんですよ。そしたら宇野さん「どうぞ」って。俺、宇野さんのものじゃないんだけど。
堀江貴文さんと三木谷さんが連日テレビでバトルしていた2004年、島田さんは最初「絶対やらない」と断りました。しかし帰宅後、ゼロから球団を作る面白さに気づき、心変わりします。
社長就任にあたり、三木谷さんの弁護士から「金髪だけは染めてくれるか」と頼まれました。実は決めたその日のうちに黒く染めていた島田さんは、「先生、大丈夫です。もう髪は黒いです」と答えたそうです。
4か月半で球団を作る――「帳尻が合う」現場
入社は9月半ば、参入決定は11月初旬、開幕まで残り4か月半という状況でした。すでに小澤隆生さんや南壮一郎さんが楽天側に加わっており、そこへ島田さんが社長として入ります。
島田さんはまずチームとビジネスの役割分担をしました。チームは米田さんが球団代表として統括し、ビジネスサイドを島田さんたちが担います。
最初にやるべきは、プロ野球が何で売り上げ、何で利益を取っているのかを知ることでした。それを因数分解すると6つの事業になります。
島田さんはこの6つを6つの中小企業と捉え、それぞれのPLを作りました。ビールのカップを750mlにするか650mlにするかというレベルまで、細かく決めていったといいます。
逆算ができないため「やるしかない」状態でしたが、目標値を決めて全員が手を抜かなければ、なんだかんだで帳尻が合うと島田さんは語ります。
ちゃんと目標値決めて、毎日ちゃんとそれを意識して追っかけて、で、誰も手を抜かないっていうチームができたとしたら、まあなんだかんだ言って帳尻合うんですよね。
初年度黒字の「からくり」と、三木谷さんが狙ったブランディング
当時、人気球団を除くプロ野球はほぼ赤字でした。楽天に課されたお題は、日本一になることより「健全経営で黒字を出す」ことでした。
当時の楽天は一定の規模と知名度があっても「危ういスタートアップ」というカテゴリーで見られていました。国技とも言われるプロ野球で黒字を出せば、楽天グループ全体の評価が変わるという狙いです。
実際、初年度から約1億4000万円の黒字を出しました。からくりは、初年度はシーズンオフのコストを持たずに済み、コストが半分だったことです。
からくりを言うと、初年度の黒字はコストが半分だったからなんですよね。
重要だったのは黒字の額より「初年度から黒字」というメッセージでした。同時に、10年目までは赤字を出しつつより大きな黒字化を目指し、10年目に日本一になるという計画も掲げます。
日本一は9年目に達成しました。初年度に黒字になったら「えー!」ってなる、その「えー!」が一番大事だと島田さんは言います。この「危ない新興企業ではない」という実力の証明が、三木谷さんが狙ったブランディングでした。
野球のあと、そしてU-NEXTでの「不死鳥」宇野さんの再建
島田さんは球団に9年、楽天グループに11年在籍しました。野球の後の2年は、楽天本体の代表取締役副社長として約7、8千人の組織を率いています。
楽天を退職したのはちょうど10年ほど前です。1年間はまたエンジェル投資家に戻り、その後2016〜2017年ごろからU-NEXTへ移ります。
きっかけは再び宇野さんでした。ユーセンが危機的状況に陥った時、宇野さんは動画配信事業(今のU-NEXT)を、約300人の従業員と年間赤字ごと個人で分社化して引き取っていました。
銀行や投資銀行から「潰せ」と言われた事業を、自分が育てた夢だからと個人資本で守ったのです。そしてそれを一部上場まで持っていき、最終的に上場企業U-NEXTがユーセンを買収し直しました。
すごいですよね。なんかもう芸術作品みたいですよね。なんでそうなるの?っていう。
島田さんはU-NEXTの副社長として、6年という期限を決めて参画しました。統合後の会社の時価総額は約400億円台からのスタートでした。
「必ず4000億になる」――投資家として弾いた時価総額
参画時、島田さんは宇野さんにこの会社の時価総額は必ず4000億円になると言い切りました。宇野さんは「頑張って2000億だよ」と、よりコンサバティブでした。
島田さんの根拠は、それぞれの収益事業がどれだけ伸び、どれだけ利益が出るかにマルチプルをかけた論理的な試算です。「そこは投資家なんで」と本人は言います。
結果、島田さんが最低ラインとした時価総額2000億円は、参画から5年で達成されました。4000億はまだでしたが、そこを節目に区切ります。
宇野さんがコンサバティブだった背景には、有線ブロードネットワークス時代に時価総額が長く低迷した経験があったのだろうと島田さんは見ています。
一年に一度、二人で飲む――島田さんと宇野さんの関係
島田さんと宇野さんの関係は、仲は良いがプライベートでは会わないお笑いコンビのようだといいます。二人だけで飲みに行くことはほとんどありません。
この間、ある大物経営者を交えた3人での食事のあと、珍しく宇野さんから「飲みに行こうよ」と誘われました。別れて車に乗った後にも「もう一軒行こう」と電話がかかってきたそうです。
お互い落ち着ける相手ではあるんでしょうね。話してても、変に寝首かくような関係じゃないし、プライベートな話も普通にけすけんできるし。
島田さん自身のプライベートは、どこの組織にも属さずスタンドアロンで、奥さんと移動しながら暮らす生活です。
- 東京・沖縄・軽井沢・野尻湖(長野)に家
- ホノルル・ハワイ島コナ(ハワイ)に家
- ニュージーランド・シンガポールに家
シーズンごとに家を転々とし、一度行くと短くて10日、長いと2か月ほど滞在して仕事はオンラインでこなします。子どもはおらず、二人でリュック一個で移動する暮らしです。
家を何軒も持つ理由――バランスシートで考える贅沢
家を何軒も持つのは無駄だと思われがちですが、島田さんは違う見方をします。人に貸さず自分で使うことで、今の生活スタイルを成り立たせているからです。
どこへ行っても自分のものがあり、ゴルフバッグも担がず、好きな時に行き来できる。それを無駄と言うなら、お金を使うタイミングはいつなのかという問いになります。
だったら別に家持ってたって、バランスシート上で言うとキャッシュが不動産に変わってるだけ。
いいロケーションにいいデザインの家は高く売れるため、結果的にキャピタルゲインも出るといいます。奥さんといる場所に友達夫婦が入れ代わり泊まりに来る暮らしです。
今後、どこかの大御所から電話がかかってきて次の仕事を頼まれても、もうやらないと島田さんは言い切ります。新しい体験と、好きな家族や友達との時間に価値を感じているからです。
成功者と失敗者を分けるもの――「変化力」というネイチャー
330社を見てきた島田さんに、成功した起業家とそうでない起業家の違いを尋ねると、答えは「変化力」でした。
変化力はピボットとも言い換えられます。劣勢でも工夫で潮目を変え、その変化を楽しんで能動的にやり切れる人が結局勝つといいます。
重要なのは、頭の良さと変化力は別だという点です。むしろ頭が良すぎると変化力が弱いこともあり、変化力は生まれ持った「ネイチャー」だと島田さんは考えます。
変化って本当はつらいじゃないですか。今やってることを変えなきゃいけないとか。それをワクワクしちゃう、お腹の底でムズムズワクワクしちゃう、これもネイチャー以外何者でもなくて。
見分け方は、ビジネスモデルが立ち行かなくなる条件を次々に投げかけることです。変化力のある人は最初は困りつつニヤニヤして新しいアイデアを出し、変化力のない人は「なぜそれが起きないか」を論理で説明してくると島田さんは言います。
不利な条件を投げられると、ニヤニヤしながら「どうやったら勝てますかね」と新しいアイデアを次々に出す
頭は良いが、なぜその問題が起きないかを論理で滔々と説明する。変化への欲求を持ち合わせていない
エキセントリックな人ほど、仕事は誰よりも正しい
ジョブズやイーロン・マスクのように、外から見て常人でなさそうな起業家は少なくありません。しかし島田さんは、仕事のプロセスは誰よりも正しくやっている人が多いと指摘します。
例として挙げたのが小澤隆生さんです。エキセントリックな発言をする一方、楽天野球団の時に最もベーシックで正しい仕事の進め方をしていたといいます。
情報収集して、比較するものを持ってきて、すべてのプロセスを検証した上で、最後結論を出すっていうのをちゃんとファクトベースでやるんですよ。
多くの人はファクトを掴んだつもりで仮説で動くところを、小澤さんはどんなに忙しくても必ずファクトで動いたといいます。人を見る目についても、島田さんは「やらないよりやった方が磨かれるが、そもそも見る目がない人はない」と語ります。
投資しなくても手伝った例、切った例――3つ目の基準
島田さんの投資スタイルは26年間ほぼ変わっていません。シードステージのバリュエーションを飛び出さないという規律を、あえて変えないためです。
平均チケット2000万円でポートフォリオを組むからこそ、分散による失敗確率のカバーが成り立ちます。バリュエーションを超えるとそのロジックが崩れるからです。
規律ゆえに投資を見送った例が、Fivotのシンさんです。マイクロファイナンスの性質上、会った時点でバリュエーションが100億円規模になっており、シードの枠を超えていました。
この人は僕がこれまで会ってきた起業家の中でも、本当に五本の指っていうか三本の指に入る人だなと思って、もう惚れちゃったんですけど。
通常、投資していない会社は手伝わないと決めている島田さんですが、シンさんには例外的にオリックスの宮内さんを紹介するなどのサポートをしました。「絶対うまくいくけど、投資しなくて後悔した」例です。
逆に、投資後に距離を置いた例もあります。障害者の法定雇用を扱う会社の創業者が、話すほど「弱者から収益を吸い取る思想しかない」と感じられたケースです。
もうボカ通り(簿価通り)でもいいから買い戻してくれって言って買い戻してもらって、お別れをして。
この経験から、島田さんは投資判断に3つ目の基準を重視するようになりました。頭のCPU、変化力に加え、「人として信頼できるか」です。
「最後、正しい決断をしない人」とは、時間がかかった・バリュエーションが低そうといった理由で株主を裏切り、清算して別のことを始めるような人です。簡単に言うと調子のいい人はダメだと島田さんは言います。
育ってきたスタートアップエコシステムをどう見るか
島田さんは、日本のスタートアップエコシステムは素晴らしく育ってきたと評価します。昔は国家公務員や商社に行った優秀な学生が、今は起業に目を向け始めているからです。
重要なのは、教科書通りの起業家が増える一方で、ユニークでオリジナリティのある起業家がもっと増えていることでした。
むしろ今の起業家の方が起業家としては優秀なんだと思います。
テクノロジーやインターネットが格段に発達し、海外の事例も入ってくるため、自分のユニークなモデルを作りやすくなっています。金融を金融工学として捉え、レバレッジやロールアップで事業をスケールさせる発想も当たり前になりました。
AIに注目しているのかとよく聞かれるものの、島田さんは領域や技術ではなく人を見ています。時代ごとに優秀な起業家に投資していると、結果的にその時代の産業に行くだけで、今はそれがAIだと語ります。
「Die with Zero」――人生の三角形をどこで折り返すか
同年代の経営者たちが50代後半〜60代になり、話題は「残りの人生と資産をどう設計するか」に移っています。島田さんは、この終活を明確に設計していました。
参照するのが「Die with Zero」という本です。ただし「ゼロで死ね=使い切って死ね」という解釈は本質と違うと島田さんは言います。
島田さんの説明では、横軸に人生の時間、縦軸にエネルギー(資産)を取り、この三角形の頂点をどこに置くかを考えるのが一番のメッセージです。
いつまでにお金をどれぐらい儲けていって、どうやって使って死んでいくんですか。この三角形の頂点をどこに持っていくか、折り返し地点どこにするんですかっていうことを考えましょうよ。
例えば50歳で資産100億円になった時、多くの人は10年かけて1000億にしようとします。しかし健康寿命が75歳なら、1000億をどう使うかを15年しか考えられません。
一方、10年目に増やすのをやめれば、100億を25年かけて使えます。どちらが良いかを自分で決めることが、この本のテーマだと島田さんは語ります。
遺言、遺贈、そして「決めることが幸せ」
島田さんの資産は事業ではなく有価証券や不動産です。子どもはおらず、自分のために使う分、家族に残す分を弾いても資産は減りません。そこで初めて「世の中のためにどう使うか」を考えるといいます。
明日死ぬ可能性までは設計できませんが、そのために遺言書は用意してあります。方針が変わるたびに書き換え、すでに7回ほど書き直したそうです。
もう七回ぐらい書き換えてます。(内容は)うちの奥さんにも子供にも全部話してます。隠さずに。
使い切れない個人資産が日本に大量にある中で、島田さんが注目するのが「遺贈」です。自分が死んだ時に残った資産を、指定した先へ提供する仕組みです。
島田さんは遺贈までは設計しきれていないものの、やった方がいいと考えています。半分が相続税で国に持っていかれることについても、今は「正しく税金を納めて死んでいく」と受け止めているそうです。
スティーブ・ジョブズのようにギリギリまで突き抜けても、本人が本望なら幸せだといいます。大切なのは、人生の三角形の頂点を一度は自分で考えて決めてみることでした。
自分の葬式も自分で決める――島田亨の伝説
島田さんは自分の葬式も自分で決めたいと考え、その企画を南壮一郎さんに託しています。関わった人をできるだけ多く呼び、悲しむのではなくロックをかけたお祭りのようにしてほしいという注文です。
決めるべきことを決めれば、心配事はなくなり「いつ死んでもいい」という感覚になるといいます。ホストは、でっかい銅像の墓や無人島、宇宙葬といった「意味のわからないもの」を資産家がもっと作ってほしいと投げかけ、対話は盛り上がりました。
3時間近い収録の最後、番組名にちなんで「島田さんの伝説とは何か」が問われます。島田さんの答えは明快でした。
200社を超える会社のファーストインベスターになる――エコシステムが成熟し投資家が増えた今、この記録は構造上もう出てこないだろうと二人は語り合います。昔のプロ野球で1シーズン50勝した投手がもう現れないのと同じ、二度と抜かれない個人記録でした。
まとめ
島田亨さんの歩みは、中学生での父の蒸発という原体験から始まり、計画的な学生時代、インテリジェンスの創業と上場、楽天球団のゼロからの立ち上げ、そして日本最初期のエンジェル投資家としての26年へと連なっていました。事業家ではなく資本家を選び、累計330社に投資しながら、最後は人生と資産の終わり方までを自分で設計する姿が語られました。
- 父の借金と夜逃げの経験が「自分で食っていく力をつける」という起業の原点になった
- 不動産か人材かで揺れたインテリジェンスは、就職協定を逆手に取った情報事業と、景気の悪さを好機とした人材派遣で成長した
- 34歳で「事業家をやめ資本家になる」と決め、言葉すらなかった時代にエンジェル投資家となった
- 投資判断ではCPU・変化力・人としての信頼を重視し、シードの規律を26年間変えていない
- 「Die with Zero」を軸に人生の三角形の頂点を自分で決め、遺言や葬式まで設計している


