3つの投資家業と「LPが先」という特殊なポジション
千葉功太郎さんの本業は投資家です。ただし、その中身は3つに分かれています。エンジェル投資家、千葉道場ファンドの代表、そしてドローン専門のドローンファンドの3つです。
投資額でいうと、実はLP投資が最も大きいと千葉さんは話します。ベンチャーキャピタルへの出資、いわゆるファンド・オブ・ファンズです。
今72ファンドに投資をしていて、12年目、13年目かなになるので、ほぼ日本のスタートアップのインデックスみたいな感じですね。
直近は厳しい状況だとも語られました。72ファンドもあれば年間5から10社はIPOがあるのが通常ですが、去年はほとんどなかったといいます。
去年72ファンドのIPOがほとんどなくて、そんな年見たことがなくて。(例年は年間5から10社ある)
ドローンファンドとの棲み分けも明快です。ドローンファンドはドローンに特化したバーティカル型VCで、千葉道場ファンドはドローンだけを除いて何にでも投資するジェネラル型です。
一見すると、自分でファンドをやりながら他のVCにLPとして出資するのは、ライバルへの出資のようにも見えます。この矛盾について、千葉さんはLPが先だったからだと説明します。
LPのエンジェル投資がスタートで、随分後になってVCを作っているんで。超特殊なポジションだと。
コミュニティが先、ファンドが後だった千葉道場
千葉道場には、千葉道場ファンドと千葉道場コミュニティの2つがあります。元々はコミュニティが先で、ファンドは後からできたものです。
始まりは2012年ごろ。千葉さんが初めてエンジェル投資を始め、投資先が60社ほどに増える過程で、投資先の起業家たちが「みんなで集まりたい」と言い出したのがきっかけでした。
第1回の合宿は北鎌倉で開かれました。名前は起業家たちが勝手に付けたもので、千葉さん自身は乗り気ではなかったといいます。
北辰一刀流の千葉道場からもじって、現代の起業家たちの侍のこの剣所の場だみたいなノリで。
いやいや、そんな恥ずかしい名前のは嫌だったんで、ずっとFacebookにも自分の投資先の集まりとしか書いてなかった。
2012年当時、日本ではエンジェル投資家という言葉自体がほとんど存在しなかったと千葉さんは振り返ります。
日本だとまだエンジェル投資家っていうとなんかもう頭の上にリングが浮いてるぐらいのイメージ感しかなかった。
25歳で抱いた「投資家になりたい」という夢の原点
千葉さんが投資家になりたいと思ったのは25歳ごろのことでした。それが若い頃の一つの夢だったといいます。
きっかけは、自身が最初に起業したGIGAFLOPsという会社に投資してくれたエンジェル投資家、谷家守さんの存在でした。
当時iモードが始まった直後で、千葉さんは友人4人でiモード向けの「勝手サイト」を専門に扱うスタートアップを起業していました。よくわからない企画書でピッチしたところ、谷家さんがぽんと投資してくれたそうです。
当時多分500万とか1000万とかだったと思うんですけど、めちゃくちゃ大きいお金をこんな個人がポンと出してくるの、すげえかっこいいなと思って。
この体験が原点となり、自分もいつかお金を稼いでスタートアップに投資できるやつになろうという夢につながります。だから千葉さんは、投資家になるための元手を作るために起業したのだと語ります。
なぜ個人投資からファンド化したのか
千葉さんは、自身の投資家としての歩みを「常に成り行き」だと表現します。エンジェル投資はコロプラ副社長時代、株を一部売った資金で始めました。
ただ、この方法はサステナブルではなかったといいます。株を売って現金が入ると気前よく出し、残りが少なくなると出さない。千葉さんはこれを「江戸っ子っぽい出し方」と呼びました。
富裕層あるあるとして、意外と手元にキャッシュがないという事情もありました。いい人と出会っても「今キャッシュがないから」と断らざるを得ない場面があったといいます。
投資先が60社になったとき、これ以上は自分一人では無理だと感じ、危機感を持ちました。
これってなんか自分のノリと勢いに、この千葉道場というコミュニティが左右されるなと思って危機感を持ったんですよ。
そこで選んだのがベンチャーキャピタルという仕組みでした。人様のお金を預かって運用すれば管理報酬が入り、スタッフを採用できる。自分が何をしていても回る体制が作れると考えたのです。
最初の60社は千葉道場ファンドの1号ファンドとしてまとめました。1号ファンドのLPは千葉さん100%で、外部資金を預かったのは2号ファンドからです。以来、60億円の定額で続けています。
個人からファンドへの移し替えは、各社に株式譲渡の承認を一社ずつもらう地道な作業でした。ドローン関連の8社はドローンファンドへ、利益相反を避けるため取得簿価で移したといいます。
生粋の港区男子、六本木ヒルズになる前の街での幼少期
千葉さんの出身は港区六本木。現在のグランドハイアットホテルの車寄せのあたりで育ったといいます。両親はともにフラワーデザイナーで、当時アーティストが六本木に居を構えるのがステータスでした。
千葉さんは自らを「生粋の港区男子」と語ります。ただし、その暮らしは今のイメージとはかなり違ったようです。
港区なんで。ランドセルを背負って六本木交差点を夜、塾の帰りにてくてく歩いて。で、不良外人に絡まれて怖いみたいな感じです。
遊び場は有栖川公園。ザリガニを釣ったり虫を捕まえたりして、そこを大自然だと思い込んでいたそうです。通っていた南山小学校には商店街の子どもたちが多く、地方の商店街のような温かさがあったといいます。
寿司屋の息子の家に遊びに行けば、お父ちゃんがおやつに寿司握ってくれるんですよ。
今の六本木ヒルズが建つ六本木6丁目一帯は、当時は一軒家も空き地も釣り堀もある「田舎」でした。千葉さんの両親は地権者で、その感覚をこう表現します。
地権者の感覚って、多分ダムに沈んだ村の住民の感覚です。
2001年から2002年にかけて、その街は跡形もなく消えました。思い出の場所がなくなったことで、千葉さんの中で「港区はいいや」という気持ちが芽生えたといいます。
麻布中高時代、天文オタクだった宇宙好き少年
千葉さんが進んだのは麻布中学・高校。志望した理由は、公立の中学校よりも徒歩で近かったからだといいます。
一番近い学校に行きたいっていうのが自分の受験の目標だったんで。それがたまたまちょっと偏差値が高かったんで、めっちゃ頑張った。
麻布での6年間、千葉さんは天文部に所属し、最後は部長を務めました。小学1年の頃から天文オタクで、六本木で望遠鏡を担いでハレー彗星や土星を見ていたといいます。
将来の夢は宇宙飛行士でした。しかもこの夢は今も続いており、10年前にはJAXAの試験を受けて最終近くまで残ったものの、最後は不合格だったと明かします。
宇宙に行きたいんです。で、飛行機はそれの途中過程の高度です。
天文部では部長時代に全国1位を取っています。ペルセウス座流星群を夜通し観測し、流れ星の数と記録の詳細さを競う大会でした。
一方、麻布という学校のノリは独特でした。制服も校則もなく、禁止されていたのは賭け麻雀、タバコ、下駄の3つだけだったといいます。
生徒側の目標がいかに授業をボイコットするかってことしか興味がなくて。新しい若手の先生が来ると、まず教室に入れないようにバリケードを作ったり。
当時の麻布は進路の選択肢も特殊でした。基本は東大の何類に行くかだけ。クラス分けも理一・理二・理三・文一・文二・文三に対応していたといいます。3年で300人中180人から200人が東大に進む学校でした。
大反対されたSFCへのAO入学と、化学者を諦めた理由
千葉さんは受験で東大に届かず、慶應SFCの初代AO入試で環境情報学部に入りました。1993年、SFCができて間もない頃です。
高3のとき、千葉さんは自分の人生を初めて悩みました。学校の空気は「東大へ行け」一色で、文系か理系かの選択肢しかなかったからです。そんなときに慶應のブースで環境情報学部と総合政策学部の存在を知り、衝撃を受けます。
理系でも文系でもありませんみたいな。話を聞いたらね、すごい刺さっちゃって、ここに行きたい、絶対ここに行きたい。
行きたい気持ちが強すぎて、千葉さんは親に秘密でAO入試に応募しました。学校には「本番の練習」だと説明して書類を作ってもらったといいます。合格後、親からは泣かれ、担任からも激しく叱られました。
学校からは「他の受験生に悪影響があるから来るな」とまで言われました。それでも出席は必要だったため、千葉さんは美術室に通う日々を送ります。
学校のどっかで過ごせって言われて。美術の先生に相談して、毎日朝美術室に直行直帰で朝行って絵を描いて夕方帰る。
SFCを選んだ背景には、化学者への夢を手放す決断がありました。千葉さんはフラーレンの研究がしたかったものの、基礎研究が社会実装するまでの長さに疑問を持ちます。
千葉さんはこの考えをAO入試の面接でプレゼンしました。教授3人による40分の圧迫面接で、天文部での経験や理系の勉強を土台に、ビジネスプロデューサーを目指したいと語ったといいます。親と学校の説得は最後まで折り合わず、粘り勝ちで入学しました。
お金をくれなかった親の教育方針
千葉さんは、親がお金をくれなかったことを今でもありがたく思っていると語ります。お小遣いは月に1000円ほど。天文雑誌を買うと差額がほとんど残らず、働かざるを得なかったといいます。
小学1年の頃から親の家業を手伝い、ワープロで書類を入力するアルバイトをしていました。1枚300円の文字入力バイトです。おかげで小学生でブラインドタッチができるようになりました。
中学に入ると、その技術がビジネスに変わります。授業中にノートパソコンでノートを取り、試験前に綺麗な資料を作って1部300円で売っていたのです。
それをカシャってやって一部300円で売りまくってました。試験対策ノート。
親の教育で象徴的なエピソードがハワイ旅行です。両親はファーストクラス、一人っ子の千葉さんはエコノミー。搭乗ゲートで別れ、10時間後に再会する形でした。
あなた稼いでないんだから。稼いだらファーストクラスに乗りなさいって母親に冷静に怒られ。
この原体験は千葉さんの人生目標に「ファーストクラスに乗りたい」という項目を刻みました。叶えたいことリストが明確だったといいます。
一方で、母親は起業家精神が出てきた息子には気前よく資金を貸しました。ただし審査はプレゼンのみ、契約書と利息付きの返済計画がきっちり作られていたそうです。今でいうエンジェル投資家のような存在だったと千葉さんは振り返ります。
大学でビジネスを始める、SFCで得た3つの武器
SFCの1年生で千葉さんに大きなインパクトを与えたのが2つの授業でした。ひとつは村井純先生のインターネットの授業、もうひとつは奥出先生の文化人類学です。
インターネットの授業は、インターネットサービスプロバイダーの事業計画をゼロから作るものでした。今でいうスタートアップの事業計画書に近く、機材や料金体系、回線契約まで調べ尽くす内容だったといいます。
学生たちがCiscoに機器の値段を何百回も問い合わせ、メーカーを困惑させたエピソードも語られました。この授業でインターネットの知識と事業設計を本気で身につけたと千葉さんは話します。
文化人類学の授業では、あらゆる手段を使った1時間のマルチメディアプレゼンが課されました。PowerPoint、音楽、動画、寸劇まで自由でした。ここでプレゼンテーション技法を全般的に学んだといいます。
インターネットと事業とプレゼンテーションのこの2つが1年生の時にインストールされて。すごい良かったな。
1年生の12月には、初めてブラウザのNetscapeが学校にやってきました。それまではテキストだけのインターネットでした。ホワイトハウスのサイトが表示された瞬間の驚きを、千葉さんは今も覚えています。
お金を稼ぎたかった千葉さんは、ブラウザを見た瞬間にホームページ制作のバイトを思いつきます。当時HTMLを書ける会社が日本にほぼなく、1ページ10万円ほどの単価でした。
SFCの学生は論文提出でLaTeXのタグ文化に慣れていたため、HTMLへの移行がスムーズだったといいます。友人3人で徹夜すれば10ページ作れ、一晩で100万円を稼げるアルバイトになりました。
しかしSFC生は4000人。全員が同じスキルを持っていたため、あっという間に価格競争が起こり、ホームページ制作は儲からなくなりました。
CD-ROM制作で稼ぎ、それでも会社を畳んだ理由
ホームページ制作が飽和すると、千葉さんのチームは難易度の高いCD-ROM制作に移りました。マクロメディアディレクターというオーサリングツールを使い、雑誌の付録などを制作する仕事です。
当時、パソコン系雑誌にはCD-ROMが当たり前のように付いていました。1件あたり500万から600万円ほどの相場で、これを年に数本回していたといいます。難易度が高い分、他の学生が参入せず「一抜け」できたのが勝因でした。
千葉さんは2年生の秋に株式会社を設立しました。ただし、これは起業というより「株式会社と名乗りたい」学生の背伸びだったと本人は語ります。
学生って背伸びしたいから、株式会社何々って名乗りたいじゃないですか。そのためだけのやつ。
稼いだお金は主にMacと車、そして食事に消えました。パジェロに学生を乗せてファミレスで奢り、金曜には箱根の温泉に行く生活だったといいます。楽しい学生生活でしたが、千葉さんは「絶対に長続きしない」と感じていました。
4年生のとき、相棒の今井大輔さんと話し合い、会社を畳むことを決めます。理由は儲かりすぎることへの不安と、人間として成長しないのではないかという仮説でした。
こなしてれば稼げちゃうんで、何の成長性もないじゃないですか。あと社会性が身につかないですよね。
二人は「3年間だけ大企業で修行して、もう一度集まろう」と約束し、就活を始めました。
リクルート入社と3年での退職
1997年、当時はまだ企業がインターネットを導入していない時期でした。千葉さんは「紙の時代からインターネット時代を見据えた大企業」を探し、リクルートに入社します。相棒はベネッセに入りました。
リクルートでは、ポータルサイトを作る部署に配属されました。雑誌をひたすらデジタル化し、ネットで検索・表示できるようにする仕事です。当時のリクルートは総合職にもPerlでのコーディングを要求していました。
総合職だけど全員コードを書いてました。Perlっていう言語で。ありがたい。活躍することができて。
最後に手がけたのは、リクルートの全雑誌をiモードで見られるモバイルサイト「ポケットイサイズ」の立ち上げでした。バイト情報、転職情報、飲食など、あらゆる情報が入ったYahooモバイルのようなサービスです。
当時の課題は貧弱な画面でのUIでした。白黒2色のドット絵の世界で、地図や店舗情報をどう表現するかを一から作り込んだといいます。
千葉さんは相棒との約束通り、2年9ヶ月で退職しました。相棒も3年でベネッセを辞め、二人でGIGAFLOPsを設立します。ここでモバイルの仕事が再スタートしました。
渋谷ビットバレーの衝撃、猿が文明を知った夜
GIGAFLOPsを起業した頃、千葉さんにはエクイティファイナンスの知識がまったくありませんでした。当時はスタートアップという言葉もIPOの概念も広まっていなかったのです。
それを教えてくれたのが渋谷ビットバレーでした。佐藤寛さんという有名な先輩が、25歳ほどの若者を渋谷に集め、ホワイトボードでエクイティ資金調達とIPOを講義したのです。
メモ取りながらすっげえと思って感動しながらメモ取ったこの2つ横にオザーンが座ってた。
この勉強会には20人以上が集まっていました。小澤隆生さんや、アイスタイルの吉松さんもいたといいます。当時無名だった若者たちが一斉に衝撃を受けた夜でした。
なんか猿が文明を知ったみたいな。
当時、上場企業はトヨタのような大企業だけがなれるものだと思い込まれていました。自分で作った会社が東証で取引されるなど想像もしていなかったのです。
この講義を機に、千葉さんは資金調達を始めます。IPO時の時価総額500億という目標も、ノンロジックのまま投資家に説明していたと笑いながら振り返りました。
GIGAFLOPsのM&Aと「わらしべ長者」的な売却
GIGAFLOPsは、iモードの勝手サイト向けポータルサイトなどを手がけました。JAFCOからシードで出資を得ています。当時はバリュエーションという概念がなく、「一株いくらで買ってやる」という世界だったといいます。
最も大きかったプロダクトが「GIGAコード」でした。当時、携帯でURLを手入力するのが困難だった課題に対し、URLと4桁や5桁の番号を紐付けるサービスです。
GIGAコードは無償提供され、当時インターネットの入り口だったほぼ全ての雑誌に採用されました。雑誌の表紙に「ギガコード対応」と書かれるほどの普及ぶりでした。
その後、GIGAFLOPsはサイバードにM&Aされ、GIGAコードはさらにマイクロソフトに売却されて「MSNコード」となりました。千葉さんはこれを「わらしべ長者的な話」と表現します。
そんなポテンシャルあったんだみたいな。うまいことやったなと思って。
自分たちは小さく売ったものが、後に大きな価値になった。悔しさとともに、そんな学びを得た経験でした。
KLabへの参画とコロプラ設立への道
GIGAFLOPsを畳んだ後、千葉さんはサイバードの社員となり、その子会社としてできたKLabにナンバーツーの取締役として参画しました。銀行から3000万円を借りて出資し、エクイティを持って上場を目指す独立精神旺盛なスタートでした。
KLabでは当初、モバイル向けにJavaのネイティブアプリを作る技術チームを率いていました。当時はHTMLしかなく、今でいうアプリは非常に珍しかったといいます。
転機は2006年から2007年ごろ。千葉さんは「これからはゲームだ」と確信します。当時iモードでは月額300円課金の世界があり、占いコンテンツなどが月商数億を稼いでいました。
ゲームは技術的な制約でまだ小さい市場でしたが、端末の性能が上がればポテンシャルが開花すると読んだのです。
モバイルはきっとゲームが来るだろうと。みんなSWITCHみたいなところから携帯でゲームする日が来るんじゃないか。
既にGREEやDeNAがソーシャルゲームで巨大プレイヤーになっていました。GREEは上場後、売上が20億ほどながら時価総額1500億まで過熱していたといいます。そんなモンスターがいる中で、千葉さんはコロプラの設立に加わりました。
コロプラ上場と時価総額4000億円までの道のり
コロプラの名前は、CEOの馬場功淳さんが個人サイトで作っていた位置情報ゲーム「コロニーな生活プラス」のニックネームが由来です。プロダクトが先にあり、人気になってから法人化されました。
千葉さんはゲームには一切タッチせず、ゲーム制作以外の全ての業務を担いました。最初のプロダクトは3年で20億から30億を売り上げていましたが、後のヒット作がそれを桁違いに上回ります。
コロプラは会社設立から4年半で上場しました。当時としてはほぼ最短だったといいます。エクイティファイナンスは実質1回、ポスト時価総額100億で10億円を調達しただけでした。
上場に至る背景には、CEOの馬場さんとの印象的なやり取りがありました。千葉さんが「4年5年で1000億は無理だ」と口にしたところ、こう返されたのです。
なんで無理って決めつけるんですかみたいなことで怒られて、やればいいじゃないですか。歴史作りましょうよ。
持ち株比率は圧倒的に馬場さんが多く、千葉さんは6%からのスタートでした。馬場さんは「千葉さんは辞めるでしょ、6%あれば十分」と言い、その言葉通りになります。
この会社1000億超えるから、6パーあれば60億手にすることができるじゃんっていうお話をいただいて。
千葉さんは当初、投資家として週1で緩やかに関わりたいと提案しましたが、馬場さんにフルコミット5年間・アルバイト禁止で断られました。給料は500万から600万円ほど。それでも1000億になるならと引き受けます。
結果は馬場さんの言う通りでした。コロプラは時価総額4000億円まで到達し、千葉さんは持ち分を段階的に売却して念願の投資家になる資金を得ます。
千二百人を採用し続けた7年半
千葉さんはコロプラに創業から7年半在籍しました。マザーズに上場後、1年半で東証一部に指定替えするところまでを担いました。
仕事内容は一貫してシンプルでした。ゲーム制作以外の全業務を、専門職を採用しては渡していく作業の繰り返しです。
自分の仕事を誰かに振っていくだけの7年半です。ベストな専門職の方を探してきてリクルーティングして、その人が定着したら部門作って渡して。
採用は千二百人規模。物理的な採用に加え、ゲーム会社をM&Aするアクハイアも積極的に行いました。新卒も年100人採用し、千葉さんはほぼ週7日、朝から夜まで面接をしていたといいます。
足りなかったのは人、お金、そしてオフィスでした。月に50人が入社する世界で、いくらオフィスを作っても追いつかず、引っ越しを繰り返していました。
千葉さん自身はゲームに興味がないと言いますが、副社長として一日4、5時間はプロとしてゲームをプレイし、課金も回していました。自社50タイトルに加え、他社のゲームもチェックしていたそうです。
退任してから一回もゲームをしたことがないです。
白猫プロジェクトを生んだネイティブアプリへのピボット
コロプラの最大の転機は、HTMLゲームからネイティブアプリへのピボットでした。当時のスマートフォン普及率はわずか5%ほど。ガラケーが95%を占めていました。
千葉さんは毎月の携帯電話の新機種出荷比率を観察し、未来を予測しました。5年後には市場の半分以上がスマホになると読み、まだ5%の段階で全てのHTMLゲームをやめてネイティブに全振りしたのです。
その象徴が白猫プロジェクトでした。3Dゲームをスマホでサクサク動かす操作感は、社内でも革命だと受け止められました。
白猫プロジェクトの操作感、これ最初やった時に革命だと思った記憶あります。(引っ張って離す操作)
ヒットの規模は桁違いでした。白猫単体で年500億を稼ぐ時代、一日の平均売上が1億円を超え、イベント時には日商5億から10億に達したといいます。
営業してないんですよ、だって。1億ですよ、売上で。それがデイリーで起こる。
この数字を見たことが、後のスタートアップ投資家としての目線に影響しました。当初は起業家の事業計画を見て「こんなにしょぼいの?」と感じてしまい、嫌なやつだったと千葉さんは振り返ります。
今はね、もうね、3億頑張ろうねって言えるようになったんで。
千葉さんは自身の投資スタイルを「ROI」という言葉で語ります。エンジェル投資は上場後の2013年から2014年ごろに始め、最初のEXITは篠塚さんのロコパートナーズでした。逃した魚も多く、ミクシィやモンストが今でも後悔として残っているといいます。
劣等感を原動力に、コミュニティで支援を回す仕組み
千葉さんは千二百人採用の経験から、投資家としても持続可能な仕組みを考えました。1社投資すれば1人から相談が来る。100社なら100人。そのままでは破綻すると気づいたのです。
コミュニティを作ることによって、自分が教えなくてもみんなが勝手に教え合うような世界線ができてきて、百社投資しても二百社投資しても育っていくようになるんじゃないか。
千葉道場合宿は、この一対百の課題を解決するプラットフォームとして磨かれてきました。ただし、コミュニティには熱量のコントロールという難しさがあります。
この熱量が下がるとコミュニティが全部死んでしまうので、多分100人以下ぐらいじゃないと熱が熱くならない。
そこで千葉道場は水平分割と垂直分割を繰り返し、常に100人以下の塊を保っています。最初の水平分割がドローンで、垂直分割ではIPO済み起業家だけの「千葉道場ライジングスター」も運営しています。
千葉さんの原動力は、意外にも劣等感でした。同世代に優秀な起業家が多く、常に先に成功されてきたといいます。コロプラの上場が39歳と遅かったことも、劣等感を強めました。
周りが優秀すぎて、同じ土俵で戦ったら絶対に彼らに勝てないからです。
そこで千葉さんは戦い方を変えました。個人資産やIPOの数では勝てないと考え、異業界のスキルを掛け算する道を選んだのです。
45歳でパイロットに、ホンダジェットが開いた新しい世界
投資家として活動しながら、千葉さんは45歳でパイロットになりました。きっかけは、ホンダジェットのCMを見て「買いたい」と思ったことです。当時は日本で販売しておらず、アメリカ本社に3回通って一号機を手に入れました。
あんなかっこいい飛行機を自分で運転できないとかすっごいかっこ悪いなと思って。
ホンダジェットは約8億円、運用費は年間1億円ほどです。千葉さんは一人では持て余すと考え、堀江貴文さんら知人6人でシェア保有する形をとりました。飛行機は動産として投機や減価償却ができ、最初の2年で6割ほどが償却されるといいます。
パイロットになる道は簡単ではありませんでした。通常は18歳で航空大学校に入るところ、千葉さんは元自衛隊の戦闘機パイロットを家庭教師につけて訓練しました。名古屋空港に毎週通い、一日中一緒に飛んだそうです。
筆記・実技・オーラルの3試験をパスして免許を取得します。最初のセスナの免許取得に2年ちょっと、ホンダジェットまでトータルで4年半かかりました。
パイロットになったことには、宇宙飛行士の夢との接続もあります。宇宙飛行士の多くがジェット機パイロット出身だからです。
宇宙飛行士になる一つの条件が、やっぱパイロット、しかもジェット機のパイロットっていうのがあるので、意味があるなと思って。
この挑戦を通じて、千葉さんは新しいスキルを得る楽しさと勉強癖を身につけました。パイロット試験がメンタルもフィジカルも過酷だった分、他のことが楽勝に思えるようになったといいます。
寿司、農業、酒造り、毎年プロになると決めた理由
パイロットの経験から、千葉さんは「1年に1つプロフェッショナルになる」と決めました。最初に選んだのは寿司です。東京すしアカデミーで1年訓練し、最後に麻布十番の寿司屋をM&Aしてオーナーになりました。
寿司を選んだ背景には、アメリカの成功者との交流がありました。お金の話では会話が秒殺で終わるのに、パイロットの話では膨らんだのです。
お金を持ってる素晴らしい大成功された方々はお金に対してはほぼリスペクトがないんですね。でも努力の上で積み上げたものはすごいリスペクトを受けた。
千葉さんは、この選び方を投資家気質のROIだと語ります。伸び縮みするお金と違い、自分の時間は絶対に伸びない。だからROIの高いスキルに時間を投資すると考えているのです。
寿司の次は野菜作りでした。鎌倉で農業法人「鎌倉山千葉農園」を立ち上げ、認定を受けています。自宅の敷地は隣の土地をM&Aで広げ、今では1万坪に達しました。
今年のテーマはドリンクです。トップバーテンダーを家庭教師につけ、酒造りやジンジャーエールシロップ作りを進めています。出口戦略は、年内に酒蔵とバーを買うことだといいます。
さらに水源も掘り当てました。250メートルのボーリングは1回5000万円のガチャで、1本目で当たったといいます。千葉さんは水源のオーナーになる意味をこう語ります。
綺麗な水が一生出てくる水源を持ってるっていうのは、油田を持ってるのと同じぐらいの価値なんですね。
これらの挑戦には一貫した論理があります。それは対AIのモートです。
千葉さんは、ホワイトカラーやCEO的な仕事はAIがほぼ担うようになると見ています。パイロットも副機長はAIになると予測する一方、農業や酒造り、水源はモートが高いと考えているのです。
ホワイトカラーの仕事、CEO的な業務、パイロットの副機長。フィジカルを持たない方が安全な領域。
農業、酒造り、水源など。フィジカルと自然が絡み、自動化しにくい一次二次産業。
SPACという挑戦、1社の失敗と2社の成功
千葉さんはコロナ中に、NASDAQで資金を調達する新しい挑戦としてSPACに取り組みました。ハワイの起業家との飲みの席でSPACという仕組みを知り、そのまま3社を上場させたのです。
1社目はドローンのAI企業でしたが、千葉さんは「ざっくりと失敗した」と認めます。最大の要因はアメリカの金利上昇でした。0.5%から6.5%まで急騰したことで、SPACの仕組みそのものが崩壊したのです。
99パーセントがリデンプションするっていうのが常態化し、百万ミリオンドル集めても1ミリオンしか残らないみたいな、もうとんでもない状況がマーケット全体で起き。
この失敗で千葉さんは激しく批判されました。SPAC側の取締役でありながら投資先でもあるという構造から、外部には利益相反が疑われたのです。実際には日米の弁護士を立てて回避策を講じていたと説明します。
一方、2社目のカナダのエアモビリティ企業、3社目の湘南美容クリニックは成功しています。特に3社目には大きな意味がありました。
日本の医療法人は日本の東証に上場ができないという明確なルールがあるんですね。でもNASDAQでは病院が上場できるんですね。
千葉さんは、この挑戦を「疲れました」と振り返ります。ニューヨークとの時差で早朝と深夜の対応が続き、3社上場でお腹いっぱいになったといいます。
AIとウェットの両立、飲み会に時間を使うVCの未来
千葉さんが今最も悩んでいるのは、日本のベンチャーキャピタルがこのまま継続できるかどうかです。スタートアップ環境が厳しく、従来の延長線上にビジネスはないと考えています。
工夫の方向は2つあります。ひとつはAIがどれだけ業務を置き換えられるかに本気で向き合うこと。投資候補先の探索や分析、投資先の支援まで、多くはAIに任せられると見ています。
もうひとつは、そこで生まれた時間を飲み会に使うことです。千葉さんはこれを象徴的な言い方だと断りつつ、対面でワイワイやることの重要性を強調します。
飯食うことに人間は時間を使うべきなんじゃないかと思ってます。その1時間を捻出するために、徹底的にそれ以外の業務をAI化させていき。
ワイワイやる場では、感動体験を膨らませることが鍵だといいます。千葉さんが寿司を握り、自分の農園の野菜を使った料理が出る。それによって記憶に残る時間になるのです。
千葉さんはドローンファンドについても語りました。今や89社中50社が防衛テックに関わり、30社が防衛装備庁と案件を進める「防衛テックファンド」になっているといいます。
2つのファンドは対照的です。千葉道場は60億円の定額でLPの顔ぶれを揃え、ファンド跨ぎ投資で利益相反を避けています。一方、ドローンファンドは国と大企業の資金で規模を拡大し、日本の産業を作ることを目指しています。
2つのファンド、ABテストで真逆のことをやってるんですね。
おもてなしの哲学、鎌倉山プロジェクトの原型
千葉さんのおもてなしの哲学には、2つの原型があります。ひとつは鹿児島の「天空の森」というホテル。60ヘクタールに3部屋しかない場所で、そのイデオロギーを注入してもらったといいます。
もうひとつが、ハワイでできた友人、テトリスの版権を持つロジャース家の別荘でした。ハワイ島の百エーカーの森で、ゲートから本宅まで車で10分。食べ物も飲み物も全て自給されていました。
鶏小屋行って、卵をこうやってなんか鳥さんの下からつかんできて、ほやほやのやつご飯の上にパカーンって乗っけて、TKGみたいな。すごい感動しちゃって。これだと思って。
千葉さんが定義するおもてなしの究極は、お金で買えないものです。シンプルな食卓一つに膨大な時間がかかっていることが伝わること。それが感動になると語ります。
鎌倉山の1万坪プロジェクトは、この哲学をミニチュアにしたものです。鶏や卵、陸上養殖、わさびなどを構想し、地下水源も活かす計画です。千葉さんはこれを「リアルであつ森をやっている」と表現します。
このプロジェクトを、千葉さんは投資家としての最前線にする予定です。プライベートジェットで訪れる世界のVIPを、自ら操縦する空飛ぶ車で送り迎えし、自ら握る寿司でもてなす構想を描いています。
千葉さんはスカイドライブの空飛ぶ車の一号個人契約オーナーでもあります。シードの段階で「できたら絶対買う」と言ってしまい、有言実行するしかなくなったといいます。
No.2でも成功できる、志を高く持つという最後のメッセージ
番組の締めで、千葉さんは「これが伝説だ」というエピソードはないと語りました。コロプラでゼロからトップ集団に入れたのはいい経験だったが、それも伝説ではないといいます。
これから作りたい伝説は、鎌倉山のプロジェクトを世界のVIPが行きたがる場所にすることです。野外劇場や天守閣風の建物も構想し、自分が死んでも残るものを作りたいと語ります。
千葉功太郎が生きてた証を作りたいと思っていて。そこにみんなが集まり、すごい楽しんで、仮に自分が30年後、40年後死んでも、そこに人が集まり続け。
最後に千葉さんは、若い起業家へのメッセージとして持ち株比率の考え方を示しました。自身がコロプラを6%で始めた経験を踏まえたものです。
やりたいことがでかいんだったら、CEOの持ち分が20パー以下でも全然いいと思ってて。
千葉さんは、シェアにこだわるより時価総額を大きくする方にコミットすべきだと説きます。時価総額10億の会社の60%より、5000億の会社の10%の方がリターンが大きいという考え方です。
この考えは、千葉道場のミッションである「キャッチザスター」につながります。志を高く持つこと。ナンバーツーでも人生を豊かにできるという、この回を象徴するメッセージで対談は締めくくられました。
まとめ
コロプラで4000億円企業を作った千葉功太郎さんは、25歳で抱いた投資家の夢を軸に、劣等感を原動力として異業界のスキルを掛け算し続けています。パイロット、寿司、農業、酒造りという一見バラバラな挑戦は、すべて「人生のROI」と「AIへのモート」という一貫した哲学でつながっていました。
- 千葉さんの投資はLPが先で、そこから千葉道場ファンドやドローンファンドに発展した特殊なポジションにある
- コロプラは6%の持ち株から始まり、時価総額を大きくすることで大きなリターンを得た
- 毎年1つプロになると決め、選ぶ基準は「時間というROIが高く、AIに代替されにくいスキル」である
- AIに業務を任せて生まれた時間を、対面でのウェットな交流や感動体験に使うのが今後のVC像だと考えている
- 鎌倉山の1万坪プロジェクトを、自分が生きた証として世界のVIPが集う場所にすることが次の伝説の目標である




