Netflixで週間1位、辞める前に仕込んだ企画がいま花開く
鈴木おさむさんは、放送作家を33年ほど続けた後、現在はToC向けファンドであるスタートアップファクトリーの代表を務めています。
最近では、はるな愛さんの半生を題材にしたNetflixドラマ『THIS IS AI』が話題になっています。世界の週間ランキングで1位を取り、非英語圏でも10位に入ったといいます。
(ドラマは)2021年に企画したものが今結構形になって当たってるっていう。
この企画は辞める前の2021年末に立ち上げたものでした。企画を持ち込んでから形になるまで、Netflixのようなものは時間がかかると鈴木さんは話します。
放送作家を辞めた前後で、仕事の仕方は大きく変わったと鈴木さんは言います。コロナ以降、午前中はテレビのバラエティのオンライン会議が続いていましたが、それがすべてなくなったといいます。
貴族小学生とエンタメの原点、南房総の田舎で漫画漬けの日々
鈴木さんの出身は、千葉県の南房総です。アクアラインができる前は東京から車で4時間ほどかかる田舎でしたが、東京の文化は遅れずに入ってきたといいます。
実家はスポーツ用品店を営んでいて、両親は忙しく、おばあちゃん子だった鈴木さんは、小学1年生から1日200円のお小遣いをもらっていました。2日で1冊、ジャンプコミックスを買える金額です。
さらに実家には店員さん向けにマガジンとサンデーが定期購読で届いていました。ジャンプも自分で買い始め、毎週3誌の少年漫画を読める環境で育ちます。
(お金で漫画を買ったことが)今の自分の背骨ができてると思ってるんで。
小学5年生のときにはファミコンが登場します。クラスでも相当早く手に入れ、ゲーム、漫画、テレビ映画とエンタメに囲まれていったことが、鈴木さんの基礎になったといいます。
好きな人を全員の前で告白させる先生と、女装で笑いを取った生徒会長
小学5年生のとき、石川先生という担任に出会います。この先生の授業は独特で、生徒全員が一人ずつ立ち、好きな人を発表しなければならないというものでした。
(クラスで告白し合うと)マジでほんと風呂入ったみたいな感じで、めっちゃチーム感ができるわけ。
一番恥ずかしいところを最初に見せ合うことで、クラスに強い一体感が生まれたといいます。鈴木さんはこの授業が自分に火をつけたのかもしれないと振り返ります。
小学6年生で生徒会長になった鈴木さんは、つまらなかった月一の生徒会発表を「お芝居」に変えます。当時流行っていた不良ドラマを題材に、自分が女装する物語を書きました。
生徒会長が女装したら絶対ウケると思ったの。
この芝居が大ウケしたことが、鈴木さんの初めての成功体験になります。「客観力はすごくあった」と、当時から自分を分析していたことを語ります。
学級日誌のいじりから始まった「最初の読者を笑わせる」という習慣
中学に上がると、鈴木さんは創作文の授業で、静かなクラスメイトが夜な夜な踊っているという小説「ダンシング健吾」を書きます。回し読みで盛り上がり、地元の新聞にも載りました。
中学2年のときには、松本先生という髭の濃い先生に出会います。ほとんどの生徒が出さなくなった学級日誌に、鈴木さんは毎日ネタを書き続けました。
最初は先生の髭の濃さをいじると、赤文字で「うるせえ」と返ってきます。それが気持ちよくなり、日々ネタや小説、四コマ漫画を書くようになりました。先生の反応がフィードバックになっていったのです。
一番最初にこれを見せる人をワクワクさせたいっていうのが全てなんですよ、僕の中では。
鈴木さんは、この「最初にネタを見せる相手を楽しませる」という感覚が、後の放送作家としての仕事の仕方にもつながったと話します。当時からフジテレビの深夜番組『夢で逢えたら』を見て、放送作家という存在を強く意識していました。
7つ上のX JAPANと、港で木刀50発。田舎で夢を諦めなかった高校時代
高校は地元の進学校に進みますが、サッカー部では補欠でした。それでも部室では一番面白い存在を目指していたといいます。
放送作家になりたくても、田舎からは無理だと感じていた鈴木さんに転機が訪れます。同じ高校の7つ上の先輩に、X JAPANのYOSHIKIさんとTOSHIさんがいたのです。
こんな田舎からこんなスターが出てくるんだと思って。
X JAPANのアルバムがオリコン1位を取ったことを知り、鈴木さんは夢を諦めてはいけないと思うようになります。
一方、高校2年で初めての彼女ができますが、その元カレが暴走族でした。ある日、実家のスポーツ用品店に電話がかかってきて、港へ呼び出されます。
港出てこいって言われて、嫌ですって言ったら、わかった。じゃあ今からお前の店行ってみんなでボコボコにするからって言われて。
夜、一人で港に行くと、17歳の相手4人が軽トラに乗って現れます。免許のないはずの4人が3人と荷台に分かれて乗ってきたことに、鈴木さんはまず心が折れたといいます。
正座させられた鈴木さんは、何回デートしたか問われ、正直に5回と答えます。すると「50発」と言われ、木刀で殴られ続けました。
28発目で折れたんですよ。ラッキーだと思ったら、リーダーが安心しろ、もう1本あるって。スペアがあったんですよ。
翌日、病院に行くとあばらが折れていました。学校では「リンチされた」という噂が広まり、彼女も泣いて、そのまま別れてしまいます。
「しまうまじゃん」で即日思い出に。人生の背骨になった一言
最悪な空気のなか、鈴木さんの人生を変える一言が飛び出します。同じ地元でパーソナリティのマンボウやしろさんの姉が、リンチされたことをいじってきたのです。
腹が立った鈴木さんは、包帯を取り、木刀の痕が黒い線になった背中を見せます。するとその姉が放った一言が忘れられないといいます。
(背中を見た姉が)しまうまじゃんって言って。それで俺笑ったの。
思わず笑った瞬間、鈴木さんは気持ちがものすごく楽になったといいます。そして「笑うってすげえな」と感じました。
ライフイズエンターテイメントっていう言葉が自分の中で大事にしてる。
普通なら10年経って思い出になることが、その一言のおかげで即日思い出になった。この経験が自分の一番の背骨がビシッと突かれた原体験だと鈴木さんは語ります。
赤本で相性のいい大学を選び、上京。西葛西で「東京」を知る
高校卒業後、鈴木さんは「大学に行かないと東京に行ってはいけない」と親に言われていました。しかし第2次ベビーブーム世代で、大学入試は熾烈な競争でした。
予備校に通っても成績が伸びなかった鈴木さんは、あるとき大学ごとに問題に癖があることに気づきます。赤本を買い、自分と相性のいいミッション系の大学を選んで受験しました。
真面目に勉強するのではなく要領をつかむこのやり方で、鈴木さんは明治学院大学などに合格します。上京後は西葛西の居酒屋でバイトを始め、同い年の元不良やホスト経験者らと出会い、東京のさまざまな人間を知っていきました。
芸人オーディションに嘘の応募。半年の下積みから放送作家の道へ
大学に入ったものの、放送作家になり方がわからなかった鈴木さんは、テレビで太田プロのお笑いドキュメンタリーを見て、そこに放送作家がいることに気づきます。
そこで鈴木さんは、太田プロのオーディションに「芸人志望」だと嘘をついて応募します。オーディション当日、正直に放送作家になりたいと打ち明けました。
最近の若い作家は出演者の気持ちをあんま理解しない(と言われた)。
そこで、半年間毎月ネタを作ってライブに出られたら考える、と言われます。芸人をやっていたというより、放送作家になるための経験を積んだのだと鈴木さんは説明します。
半年間やり続けた結果、19歳のときにニッポン放送に連れて行ってもらい、放送作家の修業を始めます。仕事はノーギャラでしたが、自分の作ったものを大人に見てもらえることが嬉しかったといいます。
夢を笑う人か応援する人か。大学を捨ててラジオの世界へ
大学で放送作家を始めたことを話すと、ギャラが0円だと知った同級生に半笑いされ、心が折れそうになったといいます。
一方、居酒屋のバイト仲間たちは全力で応援してくれました。名前がエンドロールに出る日まで応援すると言ってくれたのです。
自分の夢をとかを笑うような人といると心が折れて、それを応援してる人とだけいようと思って。
鈴木さんは大学に行かないという選択をし、ニッポン放送での修業に打ち込みます。バイト仲間の一人は石材屋を継ぎ、鈴木さんが放送作家を辞めるまで、20年以上も舞台に花を贈り続けたといいます。
ニッポン放送では、山田邦子さんや槇原敬之さんの番組を手伝います。番組内のコントやハガキ紹介の小ギャグなどを書くのが仕事でした。
「明大替え玉事件の犯人」が金メダル。付加価値のない自分に気づく
放送作家の初日、ディレクターに「君には何があるの?」と問われます。答えられない鈴木さんに対して、先輩作家のAさんが紹介されました。
Aさんは、当時大ニュースになった明治大学の替え玉受験事件の犯人の一人でした。逮捕され、鈴木さんは「人生もったいねえ」と思っていた相手です。
すげえだろって言われたんですよ。(明大替え玉事件の経歴が)この業界ではピカピカの金メダルなわけ。
手錠だと思っていた経歴が、この業界では金メダルになる。そんな経験をした人間は面白いに決まっている、という価値観に鈴木さんは雷を落とされます。
何があんの?って言われた時、ないよね。(高校で)ボコボコにされてるよ。でもそんなエピソード(は小さい)。
付加価値のない自分に、どうやったら大人が振り向いてくれるのか。鈴木さんはこの問いを強く抱えることになります。
20歳、大人を振り向かせるためにSMクラブへ。開いた業界の扉
自分のネタを面白がってもらえなかった20歳の鈴木さんは、当時流行り始めていたSMクラブに、自腹で行くという選択をします。
Mコースを選び、料金体系やオプションを細かくメモしながら、体を張って経験してきたのです。
俺がSMクラブに行けば絶対俺の話を聞くはずだと思って。
数日後、メモをびっしり取ったノートを持ってニッポン放送に行くと、いつもは話を聞いてくれない大人たちが食いつきました。人が知らないことを真っ先に体験して教えるという点に、強い興味を持たれたのです。
そっからしばらく俺にSMくんっていうあだ名がついて。(それまで)面白いと思わなかった人もちゃんと見てくれるようになったんですよ。
この経験が業界への扉を開きます。鈴木さんは、人が経験したことのないことを経験している起業家に強く興味を持つのと同じだと重ねます。ただし毒を食らい続けるのではなく、その隙に自分のスキルを人の10倍以上伸ばすことを心がけたといいます。
宿題は10個持っていく。相手の癖をつかむ生存戦略
鈴木さんは、コントの宿題を1つ書いていってもイエスかノーになるだけだと考え、毎回10個書いて持っていくようにしました。
10個持っていけば選んでもらえ、しかも組み合わせて採用されることもあります。これは投資家の趣味をつかむのと同じで、この人は不倫好きだ、といった相手の癖がわかるようになるといいます。
最初は十個、(時間が)めっちゃかかるのよ。だけど十個が八個になり、五個が三個になって、一年半ぐらい経ったら一分の1でいけるようになる。
鈴木さんは、キャラクターで注目を集める部分と、その間に自分の能力を引き上げる部分の両方をやらないとダメだと強調します。認められることが嬉しかったこと、そして替え玉事件の相手への対抗心が、そのストイックさを支えていました。
キャラクターやインパクトで大人の注目を集める。99人に嫌われても1人が面白がれば仕事につながる
注目された後、宿題を10個持っていくなどして相手の癖をつかみ、能力を人の何倍も磨く
「やりたい仕事は口にしろ」。奪われて学んだ教え
22歳ごろ、ある女優のラジオの単発を担当した鈴木さんは、そのレギュラー番組が自分に来ると思っていました。しかし、4つ上の先輩作家がその仕事を取ってしまいます。
仕事は自分でね、やりたい仕事は自分で口にしてったり、やりたいことはどんどん口にしていかないと取られるぞって言われたの。
腹は立ったものの、鈴木さんはこの教えに感謝し、やりたいことを口にするようになります。AMラジオで働きながら「FMの仕事がしたい」と言い続けたのです。
22歳で木村拓哉のラジオ作家に。「俺も」で始まった関係
FMの仕事をしたいと言い続けた半年後、あるディレクターから「木村拓哉って知ってる?」と声をかけられます。当時22歳、鈴木さんと同い年の木村拓哉さんのラジオの作家になるのです。
最初の顔合わせで、鈴木さんはあえてかましにいきます。当時彼らがやっていた番組が嫌いだと、一言目に伝えました。
俺さつって(当時の番組が)嫌いなんだよねって言ったの。(木村さんは)俺もつって握手してくれた。
この一言で鈴木さんは惚れ込みます。アイドルのファンだけでなく男性も聞くラジオを目指し、下ネタやコントを盛り込んでいきました。
そのコントがきっかけで、1年半ほど後、当時6人だったSMAPの新番組の話が来ます。それが23歳のときの『SMAP×SMAP』でした。
「アイドルがダサい」時代。体を張って笑いを取ったSMAP
当時は男性アイドルがゴールデンやプライムの番組で成功した例がなく、SMAP×SMAPは絶対に失敗すると言われていたといいます。
80年代後半、当時の旧ジャニーズは「ダサい」とされ、歌番組もなくなっていました。SMAPは出どころがないため、バラエティで体を張るしかなかったのだと鈴木さんは説明します。
木村拓哉さんがドラマで売れ、クラブサウンド寄りの楽曲やファッションが注目を集めるなかで、SMAPは「アイドルじゃない」存在として大きくなっていきました。
FMでアイドルの曲なんてかかることなかったのに、SMAPの曲ってかっこいいじゃんみたいな感じでかかった時のムーブメントが起きた。
100人の会議で一番端から声を上げる。振り向かせることが全て
20代前半で大きな仕事に恵まれた鈴木さんですが、その裏には10代からの濃い経験がありました。とにかく書かされ、人の10倍の量をこなしていたといいます。
100人規模のテレビ会議で、22歳の鈴木さんは一番端にいながら、一番偉い作家のネタに「面白いですかね」と声を上げていたそうです。
九十九人がへ?って思っても面白がってくれる人がいるのよ。
99人に嫌われても1人が面白がってくれれば仕事につながる。空気を読んで黙って終わっても何もつながらない。エンタメではインパクト勝負だと鈴木さんは考えています。
まず振り向かせることが全てっていう。
この考えの原点は、小学5年のあの先生が与えてくれた度胸でした。ちなみにその石川先生は、後にバイク事故で若くして亡くなったといいます。
朝4時まで終わらないめちゃイケ会議。笑いを因数分解する場所
23歳でSMAP×SMAPが始まった半年後、鈴木さんは『めちゃ×2イケてるッ!』にも参加します。この番組は鈴木さんにとって非常に大変な現場でした。
毎週月曜日の会議は、夜8時から朝の4時5時まで続いたといいます。一つずつ「これは何がどう面白いのか」を理論的に突き詰めていくのです。
(めちゃイケでは)お笑いとは何か学校で。笑いとは何かっていうのを全て結構因数分解していくんですよ。
新コーナーやゲームのルールを1年以上かけて会議で開発し、挨拶の台本まで徹底的に作り込んでいました。総合演出の片岡飛鳥さんが絶対的な存在で、面白いかどうかは民主主義だったといいます。
会議には作家が8人から10人ほどいて、まずスタッフが最高に面白いものを提示し、それを芸人に投げるというスタイルでした。
もう三時とか四時ってしんどいから、誰か正解を出してくれっていう思いで。
父の借金1億円。逃げようとした25歳を救った「それ面白いな」
売れっ子として二千万ほどの物件も買っていた25歳のころ、鈴木さんは実家に呼ばれます。銀行で、父の借金の自己破産をしてほしいと告げられたのです。
借金は、銀行が五千万、当時法定上限が39%だった商工ローンが三千万、さらに闇金が二千万ほどありました。商工ローンの分だけで年間1200万ずつ増えていく状況でした。
母が父を置いていけないと言ったこともあり、闇金の分は父の親友がなんとか工面します。それでも残り8000万を抱え、逃げようと考えた鈴木さんは、混乱のなか1週間、めちゃイケの会議を欠席してしまいました。
連絡がないことを心配した片岡飛鳥さんに電話で事情を話すと、返ってきたのは意外な言葉でした。
お前それおもしれえなって。人が体験できてないことをさあ、体験できてすげえじゃねえかよって。
鈴木さんは、この反応が高校時代の「しまうまじゃん」と同じ構造だと気づきます。次の会議で、飛鳥さんは朝4時に「修から面白い発表があります」と鈴木さんに話をさせました。
借金話が付加価値に変わる。「金は天下の回りもの」を知った日
鈴木さんが父の借金の1週間を明るく話すと、みんなが笑い、肩を叩いて「頑張れよ」と言ってくれました。話し終えると、気持ちがすっきりと清々しくなったといいます。
翌日には噂が広まり、SMAP×SMAPのプロデューサーも声をかけてくれます。お金は貸せないが才能があるから仕事を振る、と言われ、鈴木さんは寝ないで働きまくりました。
俺には二十五歳にして一億円の借金を返している作家っていう付加価値が生まれたんですよ。
23、24歳でSMAPと仕事をしていれば普通は嫉妬されるところ、ガチで借金を返していたことがみんなの共感を呼びました。この経験を通して鈴木さんは、お金は本当に天下の回りものだと感じるようになります。
作家の報酬は、番組ごとに会社へ振り込まれる仕組みでした。1本あたりの単価は安くても、数を重ねれば大きな額になり、鈴木さんは29歳ごろに闇金と商工ローンを返し終え、銀行の分だけになったといいます。
借金が返せると寂しくなる。ドラマで感じた「筆の力」の壁
借金が減ってくると、鈴木さんは逆に寂しさを感じるようになります。返済という目標があったから頑張れていたのに、アドレナリンが出なくなっていったのです。
29歳ごろには銀行への返済の目処も立ち、余裕が出てきた鈴木さんは、実家近くの別荘を二千万ほどで購入します。仕事も当時20本ほど抱え、SMAPの躍進とともに歩んでいました。
一方、30歳で始めたドラマでは、自分の力が通用しないという壁にぶつかります。『人にやさしく』は当たったものの、鈴木さん自身の脚本が周囲に迷惑をかけたと感じていました。
自分がこんなにもまだ筆の力がないんだっていうことを感じて。
この悔しさから、鈴木さんは30代で自分の筆の力をつけると決意します。それが29歳の終わりのことでした。
吉本の芸人と劇団を旗揚げ。そして森三中・大島との交際0日婚
自分で書ける力をつけるため、鈴木さんは吉本の若手芸人と劇団を旗揚げします。人気がないためチケットは売れず、泣きなどの「対価」を入れて初めて売れ始めることに気づきました。
その芸人たちと毎週飲み会をするなかで、鈴木さんは森三中の大島美幸さんに会いたいと言います。上裸でサウナに入る芸を見て、ニュータイプの芸人が現れたと感じたからです。
なかなか来なかった大島さんが飲み会に現れたとき、鈴木さんは会って早々に「結婚しよう」と言い放ちます。
(大島さんに会って)爆速でね、結婚しようって言うんですよ。言えば受けるのもわかるし。
大島さんも芸人として「いいっすよ」と返し、その掛け合いを毎週繰り返すようになります。2ヶ月ほど経ったころ、森三中の村上さんと黒沢さんから「女芸人をバカにしてるだけ」と喧嘩を売られました。
売り言葉に買い言葉で、鈴木さんは当時の彼女と別れ、10日後の日曜に大島さんの実家へ挨拶に行く約束をしてしまいます。付き合ってもいない状態でした。
那須の実家で正座するお父さん。断れなくなった結婚
鈴木さんは、大島さんや芸人仲間とバスで栃木県那須の実家へ向かいます。金髪の自分は殴られると覚悟していたといいます。
玄関を開けると、消防員だという父が走ってきました。しかし返ってきたのは、予想と正反対の言葉でした。
みゆきをもらってくれてありがとうございます!って(正座して言われた)。
当時22歳の大島さんの父の言葉で、鈴木さんは断れなくなります。その場で婚姻届に記入してもらい、宴が開かれました。帰り道で、自分の親に伝えていないことに気づいたといいます。
そして婚姻届を出す10月10日、世田谷区役所で二人は初めて二人きりになります。
最初の一言が大島さんがですよ、なんか気まずいねって。
交際ゼロ日婚、ガチの交際ゼロ日婚です。
鈴木さんは、奥さんを芸人として絶対的に面白いと心からリスペクトしていると語ります。一緒に暮らすなかで呼び方や敬語が変わり、社会の常識を知らない自分が注意されながら、だんだん本物の夫婦になっていったといいます。
「どうせ離婚する」から始まった結婚。土屋敏男の一日100円
鈴木さんは、自分が結婚に不向きで、結婚しても2年で離婚すると分かっていたといいます。それでも、先が見えないものだったからこそ大島さんとの結婚にベットしました。
どうせ離婚するし一回やっとくか、こういうのみたいな感じなんですか?
『電波少年』の土屋敏男さんは、二人の結婚を「面白いけどそのうち離婚するだろう」と見て、一日100円、年間3万6500円を口座に振り込み続けたといいます。
二十年経って土屋さんがもうギブだって言って、そこで一回終わるんですけど。
結婚生活は今も続き、当時30歳だった鈴木さんは50代半ばになりました。若い人と飲むのは、若さではなく面白い人と飲みたいからだといいます。
外食×バラエティを開拓。頭の中を「検索エンジン」にする方法
30代の鈴木さんは、SMAPやフジテレビ以外の仕事も当てたいと考え、外食産業をバラエティの企画に取り込んでいきます。テレビにお金がなくなり始めた時期に、外食とテレビを組み合わせる発想でした。
企画や台本がどう生まれるのかについて、鈴木さんは頭の中に良質な情報を詰め込むことが大事だと語ります。業界に入ったとき、毎日映画を見ろと言われた話を挙げます。
鈴木さんは人に好きな映画のベスト3を聞き、それを見るようにしていました。見て感想を伝えると、相手はありがとうと言ってくれ、その人の性格まで分かったといいます。
自分の中の頭の中って検索エンジンと一緒で最初空っぽじゃない?だけど、それにどうやって良質なデータを詰め込んでいくかっていうのがめっちゃ大事。
サイバーエージェントとの衝撃の出会い。ドラマと連動するホストゲーム
40歳の2011年、鈴木さんはサイバーエージェントと衝撃的な出会いをします。テレビ朝日との仕事で「私のホストちゃん」というガラケーゲームを実写ドラマ化する企画でした。
このドラマは、携帯ゲームの売上がドラマの展開に影響していくという仕組みでした。売上の低いホスト役はドラマからクビになるのです。
大晦日24時にゲームが締まると、結果をもとに鈴木さんが脚本を一気に書き、クビになる役者が泣き崩れる場面を撮って放送しました。今のNetflixシリーズのような仕組みを地上波深夜で実現していたのです。
この企画を作っていたサイバーエージェントの横山さんは、当時24〜25歳の女性でした。後に『ガールフレンド(仮)』やABEMAの『オオカミちゃん』など3作を当てる人物です。
あ、マジで時代変わるなと思ったんですよ。こんな若い子に打席立たして全振りさせて結果出させるって。
当時プロデューサーは30代後半から40代が普通でした。24歳の若者に全振りさせて結果を出させるサイバーの文化に、鈴木さんは時代の変化を感じます。
「スマホが来る」と言い続けた狼少年。社員が出演するCMを企画
藤田さんの信頼を得た鈴木さんは、スマホ移行のキャンペーン「アメーバスマホ」のCM制作を任されます。何十億という規模のキャンペーンでした。
当時、雑誌でサイバー女子がモテるというムーブメントが起きていました。鈴木さんは、タレントではなくサイバーエージェントの社員自身が顔と年齢を出して出演するCMを提案します。
タレントは誰ですか?って言われたんで、いや、サイバーエージェントの社員ですって言って。
藤田さんはこの案を採用し、社員が大量に出演するCMが評判になりました。鈴木さんは「ネットが来る」「ABEMAが来る」と言い続けましたが、当時は狼少年扱いだったといいます。
テレビ人との酒をやめ、ネットとホストと相撲へ。情報源を変えた40代
40歳を境に、鈴木さんはテレビ関係者と飲みに行くのをやめ、限られた人以外とは会わなくなります。会議場でも飲み場でもテレビの話しか出てこないからでした。
その分、サイバーエージェントの人たち、ホスト、相撲取りといった、それまで接点のなかった人々と付き合うようになります。ホストの番号が100人ほど入っていた時期もあったといいます。
(彼らは)話がめっちゃ面白いから入ってくる情報が違うわけ。
鈴木さんは、世の中が変わり始めている本当の情報は、意外とネットには出てこないと考えています。ABEMAができた2015年以降はその仕事に注力し、2016年ごろにはUUUMの顧問も3年間務めました。
UUUMではYouTuberたちと毎月食事をし、水溜りボンドとは今も交流があるといいます。YouTubeという媒体を早い段階でど真ん中で捉えられたことが、鈴木さんにはありがたかったと振り返ります。
YouTuberとホラーを撮り、大ヤンキー展を当てる。仮説を潰す楽しさ
鈴木さんは、新しい世界で自分の感覚や仮説を試すことに喜びを感じます。水溜りボンドに頼み、名前を出さずに自作のホラー動画を撮り、通用するか確かめたこともあります。
投資家となった今も同じで、投資先とともにイベント会社を作り、「大ヤンキー展」を仕掛けました。数年前からヤンキーブームが来ると仮説を立てていたといいます。
大宮マルイでの「大ヤンキー展」は、漢字で「よろしく」と書かれたグッズなどを用意し、案の定ヤンキー層がライターを10個単位で買っていったといいます。最終日は880人が来場し、300万円を売り上げました。
自分の仮説が合ってるか知りたいわけって思った時にラブジョーとのブームが来るじゃない。うわぁ、来たみたいな。
鈴木さんは、SMAPという確実なベースがあった時代と違い、ゼロから当てた実感が得られることに燃えると語ります。
シェアオフィスから投資家へ。山下達郎の曲で決めた放送作家引退
投資に至る過程には、2010年に青葉台に買った事務所がありました。家を建てるつもりが奥さんに反対され、ABEMAの谷口さんの勧めでシェアオフィスにしたのです。
そのシェアオフィスに若い起業家が集まり、鈴木さんはエンジェル投資も始めます。太田映司さんや空詩土さんらが、そこでさまざまな挑戦を始めていきました。
一方、2016年のSMAP解散前後には嫌なことが続き、鈴木さんはアドレナリンが出なくなっていきます。そんなとき、山下達郎さんのライブで「RIDE ON TIME」ならぬ「LAST STEP」という曲を聴いて、ひらめきが訪れました。
やめればいいんだと思った。放送作家を辞めちまえばいいんだ。
48〜49歳ごろのことでしたが、50になったら辞めようと考えた矢先にコロナが来て、話は一旦立ち消えます。しかし2022年、コロナが去りつつあるなかで再び「同じことをやるのか」と自問し、自信がなくなって引退を決意しました。
何が向いているか相談した鈴木さんに、知人の後藤さんが「なぜ本気で投資家をやらないのか」と言います。それだと思った鈴木さんは、ファンドをやることを決めました。
散々世話したテレビ局は出さない。ファンドレイズで知った起業家の気持ち
ファンドを始めると決めた鈴木さんは、まず藤田さんに伝えます。藤田さんは痛手だとしながらも応援し、最初のアンカーとして出資してくれました。
最終的に集まったファンドサイズは23億円ほどで、個人のファンドとしてはかなりの規模です。しかし途中は苦戦したといいます。
散々お世話したテレビ局のやつとか全然出してくんなかったとか。
昔からの知り合いが偉くなり、「いいですね」と言いながら連絡が途絶える。鈴木さんは、ここで初めて資金調達に回る起業家の気持ちが分かったといいます。心が折れそうになったこともありました。
一方で、一緒に仕事をしてきた芸能事務所や博報堂の人たちが「水臭い」と声をかけ、次々と出資が決まっていきます。最初は15億で御の字と思っていた額は、23億円まで膨らみました。
自分でIPを作りに行く投資家。猫の爪とぎに賭けた理由
鈴木さんのファンドは現在30社ほどに投資し、多くは三千万から五千万で10%ほどを取ることを目安にしています。事業責任者を募集して一緒に作るなど、普通のファンドがやらないことにも挑みます。
鈴木さんは今も漫画の原作を手掛けています。IPという言葉ばかりが飛び交うことへの反発から、自分で作って検証しようという狙いがあるといいます。
IPブームという中に、やっぱお前ら本当舐めんなよって思うところがあって、その中で自分で一個ずつ線を潰してる。
自分でIPを作れば、投資先に貸すこともできるという発想もあります。他のVCのような数字は読めなくても、自分の経験や体験値でアシストできると鈴木さんは考えています。
俺は経験値もあるんで、零一は多分みんなに平等なんです。だけど一まで行った時のそこのもうスパンと上げるのは多分自分はかなり得意なんで。
投資先の一つに、猫の爪とぎに特化した会社があります。100人面談で出会った、東大の建築学部出身の起業家が手掛けるものです。
鈴木さんは放送作家時代に「猫」を扱うと必ずトレンド入りすることに気づいており、猫は「ペット」ではなく「推し」だと分析しています。猫の市場は2.4兆円ほどあり、2万円ほどの爪とぎは家に置いて1〜2年で買い替えられる商材として有望だと見ました。
ペットはペットで猫は推しだっていうふうに思ったんです。
振り切れないテレビへの本音。フジの一件はチャンスだと思う
鈴木さんのファンドには、本田圭佑さんや、名前は明かせない超人気芸人がLPとして参加しています。放送作家業ではなく、投資家としてLPから頼まれた仕事はやると決めているといいます。
スタートアップ投資が確実に選択肢の一つになったと鈴木さんは感じています。10歳の息子にも早く起業してほしいと語り、起業は言い訳ができない点が価値だと考えています。
なんか高校とかさ、大学行ってさ、なんか色々やったら言い訳になるじゃん。だけどやっぱ起業って言い訳ができないんで。
鈴木さんは、10代の投資家がやがて出てくるだろうと予感します。知人の娘が小学生から投資を始め、NVIDIA株などで11歳にして5000万円を築いた例を挙げました。
テレビ業界については、Netflixやチューバーに押されお金が集まりにくくなるなか、本気でやらなければならないタイミングだと鈴木さんは見ています。フジテレビの一件も、逆にチャンスだと語ります。
もうあそこまで来ちゃったんだから、ビジネスとしてね。なんかもう振り切ればいいのにって思うところがあるんだけど。
鈴木さんは、投げ銭バラエティのような思い切ったことをやるべきだと考えています。同時に、テレビが認知度を得る力は今も大きく、大ヤンキー展もフジの情報番組で取り上げられたことが集客につながったといいます。
「しんどい時のもう一杯」が生んだ企画。出会いから広がる仕事の作り方
鈴木さんは、自分が聞いてアドレナリンが出れば危ない話でも会いに行くといいます。ちゃんこ屋を経て開いた居酒屋も、出会いのきっかけになっています。
Netflixの『極悪女王』は、店で働く元プロレスラーのジャンボ堀さんを通じてダンプ松本さんに取材できたことから生まれました。人のつながりが企画を形にしたのです。
ジャンボ堀さんがうちの店で働いてなければ極悪女王は生まれてなかったかもしれない。
『THIS IS AI』の企画も、LDHのオーディション後の夜に生まれました。テンションが上がった鈴木さんは、このまま帰っていいのかと梅田の交差点でスマホを開きます。
Googleでバースペース面白いって入れたんです。
たまたま見つけたバー「ドンガマワールド」で、はるな愛さんの性別適合手術を担当したワダ先生の話になります。そこで教わった書籍『ペニスカッター』を読み、はるな愛さんの人生と組み合わせて企画にした結果、Netflixで映画化されました。
しんどい時のもう一杯、しんどい時のもう一軒って、このしんどい時に何かもう一個粘ることによって、何かそここそ出会いがあったり。
鈴木さんは、しんどい時にもう一軒粘ることが出会いを生むと語ります。この日の夜のこと、そして「ドンガマワールド」という店の名前を、今も思い出すといいます。
フリースタイルダンジョンとBAD HOP。最後の青春だったヒップホップ
鈴木さんとヒップホップの関わりは、フリースタイルダンジョンから始まります。藤田さんの依頼でZeebraさんのもとを訪ね、ラッパーがメイクマネーする企画を聞きました。
テレビでやる難易度は高く、言ってはいけない言葉が多い問題がありました。鈴木さんは、当時使われ始めていた「コンプライアンス」を略した「コンプラ」という表現を提案します。
コンプラコンプラコンプラっていうピーがダサいからコンプラにしようっていうのを作ったりとか。
番組は回を重ねるごとに話題になり、般若さんの登場や、SHINGO☆西成さんがR-指定さんに勝った瞬間の空気は伝説になったといいます。
俺昔殺し合いってこういう空気だったんじゃないかなっていう。
鈴木さんは、一番怖い人と先に仲良くなろうと考え、元力士の仲間を連れてKANさんと飲みに行き、関係を築いていきました。そのなかでBAD HOPの人気が出てきたとき、ABEMAで「1週間1000万円生活」の企画を投げます。
当時はきっかけがなく実現しませんでしたが、後にBAD HOPの解散を機に、知人の増井さんを通じて彼らから相談を受けることになります。ヒップホップとの関わりは、鈴木さんにとって最後の青春のような時間でした。
まとめ
千葉の田舎で漫画に囲まれて育った鈴木おさむさんは、「振り向かせること」を武器にテレビ全盛期の中心へと駆け上がり、33年の放送作家人生を経てVCへと転身しました。付加価値のない自分をどう見せるか、という20歳の問いが、キャリア全体を貫いています。
- 鈴木さんの原点は「ライフイズエンターテイメント」。ボコボコにされた過去も「しまうまじゃん」の一言で即日思い出に変えた
- 付加価値のない自分を振り向かせるため、SMクラブに行き、宿題を10個持っていくなど、注目を集める工夫と実力を磨く努力を両立させた
- 父の借金1億円という危機も、明るく語ることで「借金を返す作家」という付加価値に変え、金は天下の回りものだと実感した
- 40歳からテレビ人との酒をやめ、ネット・ホスト・相撲へと情報源を変えたことが、サイバーやYouTubeを早く捉える力になった
- 投資家となった今も「大ヤンキー展」や漫画原作で自ら仮説を検証し、経験値で起業家をアシストする独自のスタイルを取る





