最新の動向を見ると心がザワザワする
リスナーから「最近気になっているトレンドやエンタメはありますか」という便りが届きました。それに対するもりさんの答えは、単純なものではありませんでした。
トレンドが追えていないわけでも、興味がないわけでもない。ただ、最新の世の中の動向を見ると心がザワザワしてしまうと言います。
最新の世の中の動向を見ると、すごい心がザワザワするっていうか、それはあんまり僕としてはいい感情ではないんですよね。
たとえばAIの進化がその典型です。ChatGPTが出てきて区別もつかぬうちにGeminiが登場し、結論が出ないうちにClaudeが出てくる。その速さに、置いていかれる感覚を覚える人は多いはずだと話します。
ただし、もりさんの感覚は「流行りものなんて」と毛嫌いする態度とは違うと強調します。AIに人間味がないから嫌だ、というわけでもない。ただ、ザワザワするのだと言います。
好きな曲も2〜3年置いてから聴く
その感覚は、日常の行動にもあらわれています。どんなに好きなミュージシャンの最新曲でも、すぐには聴けないと言うのです。
自分がどんなに好きなミュージシャンの最新曲でもすぐには聴けない。2、3年置いてからこっそり一人で聴くみたいな。
芸能ニュースで取り上げられるのは、その時代のメインストリームの人たちです。話題のドラマ「VIVANT」も、もりさんは見る気にならないと言います。
とはいえ、それは流行りものへの反発でも、今から見て間に合うかという焦りでもありません。もっとシンプルな、自分の行動としての感覚だと語ります。
割と本心でみんなと同じものを同じタイミングで見ていても、まあ面白くないかなって。それはVIVANTが面白くないって意味じゃなくて、自分の行動として面白くない。
みんなと同じものを見れば、同じ情報を持つだけになってしまう。学校で「昨日VIVANT見た?」と盛り上がるのも面白いけれど、それをそのまま語っても本質的ではないと感じるようです。
真正面から勝負しない、子ずるい生き方
では何が面白いのか。もりさんが挙げたのは、誰も見ていない80年代の隠れた名作映画のような存在です。優れているという意味ではなく、比較すればそちらのほうが少し良いのではないか、という感覚です。
古ければいいわけでもありません。レコードやキャンプの流行も、みんながそちらを向くなら面白くないと感じます。大事なのは、お互いに相手の知らないことを知っている状態だと言います。
相手は自分の知らないことを知ってるで、自分は相手が知らないことを知ってるみたいな、そこに面白さがあるかなみたいな。
最新情報をいち早く得ることに心血を注ぐ人もいますが、それはレッドオーシャンだと言います。だからこそ、苦労せずに「知りませんでした」と言われる領域を攻める。語学がその例です。
ハングルやタイ文字、アラビア文字の読み方は、10年後も10年前も、日本人にとっては目新しい情報です。一方でVIVANTの情報は、今この瞬間だけのものだと対比します。
今この瞬間だけ価値を持つ。最新性を得ることに喜びを感じる人向け
広く普遍的で半永久的に続く。10年経っても目新しさを保つ
この姿勢は、人生全体を通じてそうだと振り返ります。5教科でしっかり点を取るべき場面で、妙に家庭科で本気を出してみるような感覚だと言います。
結果として、流行を毛嫌いする人と同じに見えるかもしれない。理由はどうあれ、最新のものを避けているとも言える、と自分でも認めます。
心の平和を守るために距離を置く
「気になる」という言葉にも、もりさんは二つの意味を見出します。好意的な興味だけでなく、「気がかり」という意味での気になり方もあると言います。
AIが嫌いだけれど、これからどうなるのか気がかりだ。そういう意味では、最新のニュースはあまり見ないようにしていると打ち明けます。
自分の心の中の平和を保とうとしてますね。本当に外的要因に結構持っていかれがちで。
その日の朝の話も例に挙げます。同居する家主が不機嫌だと、どうしようもなく震えて待つしかない。外的要因に左右されたくない、という気持ちがそこにあります。
一見別物に思える社会のトレンドも、AIが怖い人にとっては同じことだと言います。家主の不機嫌も、AIの急速な発展も、「早く落ち着いてくれないか」と願う点で同じだ、という見立てです。
アイスブレイクを俯瞰してしまう自分
人付き合いの場面でも、この感覚は影を落とします。沈黙が訪れたとき、天気の話のようにVIVANTの話題になる。けれど見ていないので気まずいと言います。
だからといって、会話のために見ようというのは最も盛り上がらない動機だと感じます。仮に見ても、相手は同じ会話を大勢としてきたのだろう、と申し訳なさを覚えてしまうのです。
結局見たとしても、多分この人同じような会話を他の人とも大量にしてきたんだろうなっていう申し訳なさというか、自分も多分同じ会話を何度もすることになるし。
アイスブレイクを無駄だと思ってしまう。それが自分の人付き合いの下手さに出ているのかもしれない、ともりさんは省みます。
自分は殻に閉じこもり本心を出さないのに、殻を開くための天気やドラマの話も俯瞰してしまう。「これから殻を破ろうとしているんだな」と眺めてしまう自分に、悪人感がありすぎると苦笑します。
人生は「通行人B」として登場する一本の映画
そして話は、より根本的なところへ向かいます。「人生は自分が主人公の映画だ」という例え話について、もりさんは自分の感覚を語り始めます。
一般的なその例えは、一人ひとりに映画のタイトルがあり、それぞれが自分の映画で主人公を演じているというイメージだと解釈します。
けれど、もりさんの感覚は違います。世界に映画は一本しかない。地球という映画が、恐竜のいた頃からずっと上映されている、というのです。
世界に映画は一本しかない、地球に映画が流れてると。この時代、紀元前から2026年まで映画が続いてる、そこに登場する通行人Bだなっていう自覚なんですよね。
これは謙遜ではないと念を押します。ルフィではなくウソップだ、という器の話ではなく、視点がどこにあるかという感覚の話だと言います。
何が違うのか。もりさんは、大いなる力への感受性が違うのだと説明します。自分が主人公という視点は、社会から独立したミクロな視点を持っていることだと考えます。
通行人Bにも意思はある、という受動的な感覚
ただし、大いなる流れにすべて従うわけではない、とも言います。通行人Bとしての意思や主観は持っている。そこが伝わるかが肝心だと繰り返します。
物語を左右できるかというと、それはできない。キリスト教の「すべて神が決めている」という感覚に近いかもしれないと例えます。ただ、もりさんはそれを神とは呼びません。
人々が作り出す社会というものが、必然的にそういう流れを作るとは思ってますけど。石油がそこに湧いたのであればこういう風になるだろうなとか、地震が起こったのならこうなるだろうなとか。
その必然の集積が「地球という映画」であり、日本という場所に通行人Bとしているのが自分だ、という感覚です。積立NISAでトランプ氏の動きにグラフが反応するのを見て、そんな感覚になると言います。
イーロン・マスクさえ、自分が主人公とは思っていないだろうと推し量ります。宇宙に行きたいからテスラで儲けてロケットを飛ばす。それはすべて外的要因に従っているように見えるからです。
主人公になろうとすると、ある意味ものすごい平坦的なところにいなければいけなくて。だからクラスの中で主人公とかになれると思うんですよ。要はジャイアンですよね。
この感覚は意図したものではなく、物心ついた時からのものだと言います。むしろ「どうせ長いものに巻かれるだけ」という諦めに近いのかもしれない、と自己分析します。
家主が不機嫌なだけで黙ってしまう。自分では場の雰囲気を動かせない、という思いが根っこにあるのだろうと語ります。
自分どうこうでこの場の雰囲気は動かせないよなっていうのが、まあ根っこにあるのかもしれないですね。
最後に、この感覚を人と議論してみたいと締めくくります。「わかります」という人がいたら嬉しい、というアウトプットとしての回でした。
まとめ
流行に心がザワつく理由をたどるうちに、話は「人生は自分が主人公の映画か」という自己認識へと深まりました。もりさんは、一本の「地球という映画」に登場する通行人Bとして自分を捉えており、その受動的でありながら主観を持つ感覚を、リスナーと分かち合いたいと語りました。
- 最新の動向はザワザワして落ち着かず、好きな曲でも2〜3年置いてから聴くことがある
- 流行を毛嫌いするのではなく、真正面から勝負せず誰も知らない領域を攻める「子ずるい」姿勢を好む
- 最新情報の争奪はレッドオーシャンだが、語学のような普遍的な情報は10年経っても目新しさを保つ
- アイスブレイクを俯瞰してしまい、人付き合いの難しさを自覚している
- 人生は自分が主人公ではなく、一本の「地球という映画」に登場する通行人Bという受動的な感覚を持っている
