10項目の「牛との距離感診断」とは
この日は研修生がお休みで、代わりに農業高校生がお手伝いに来ていました。そこで川上さんは、以前Twitterに投稿した「酪農従業員向け 酪農・牛との距離感診断」を高校生にテストしてもらうことにします。
診断は次の10項目で構成されています。一般の人に聞くと「無理です」と言われそうな項目が並んでいるのが特徴です。
| No. | 項目 |
|---|---|
| 1 | 牛が可愛いと思う |
| 2 | 牛と一緒にお風呂に入れる |
| 3 | 作業着・手袋を着用していればネズミやゴキブリも触れる |
| 4 | 牛という共通言語があれば誰とでも仲良く話せる自信がある |
| 5 | 単純作業の連続でも牛がいれば楽しい |
| 6 | 乳用種・肉用種、ホルスタイン・黒毛和牛の差を一般人に説明できる |
| 7 | 休みの日でも視察や牧場見学に行きたい |
| 8 | 病気の牛がいたら原因を知りたくなる |
| 9 | 牛の分娩を初めて見た時のことを人に話せる |
| 10 | 酪農という仕事は自分に向いていると思う |
高校生の診断結果と2つのNO
高校生に診断をやってもらったところ、ほとんどの項目が「YES」という結果になりました。川上さんは思わず「ちょっとやべえやつ」と笑いながら評します。
YESだったのは1・3・5・6・7・8・9・10。NOだったのは2番「牛と一緒にお風呂に入れる」と、4番「牛という共通言語があれば誰とでも仲良く話せる自信がある」の2つでした。
「牛とお風呂に入れる人なんているわけない」と思うかもしれませんが、川上さんいわく酪農業界には本当にいるとのこと。牛を溺愛し、いわば「リミッターが外れている」タイプの人です。一方4番は、コミュニケーションが得意でない人でも「牛の話題ならなんとか話せる」という感覚を確認する項目です。高校生はそこが少し苦手だと答えました。
正直、川上さんもそんな感じだから。同窓会で普通の同級生と話せる会話がないもんね。引き出しがないもん。
診断が目指すのは「向き・不向き」ではない
川上さんがこの診断で伝えたいのは、「あなたは酪農に向いている・向いていない」というジャッジではありません。牧場にはさまざまなスタイルがあり、自分のタイプに合った場所を選べばいい、という考え方です。
たとえばコミュニケーションが苦手な人が、人付き合いの多い牧場に無理して行く必要はありません。また「牛が可愛い」というより「牛という生き物そのもの」に興味がある人もいます。改良や遺伝子、反芻して草を消化する仕組みなどに惹かれるタイプです。そういう人ばかりが集まる牧場もあります。
| タイプ | 合いそうな場所 |
|---|---|
| 牛という生き物・改良や遺伝子に興味 | 研究志向の強い牧場 |
| 牛は好きだが作業が苦手 | 餌屋さん、精液の販売会社など |
| とにかく牛とずっと一緒にいたい | 観光牧場 |
川上さんは、今すでに従業員として働いていて「牧場が合わない」「牛がかわいそう」「もっと牛と触れ合いたい」とモヤモヤしている人が、この診断をきっかけに相談してくれれば、合う場所を手助けできる、と診断の狙いを語ります。
リミッターが外れた人の強みと弱み
「牛と一緒にお風呂に入れる」ほど牛を溺愛する、いわゆる「リミッターが外れた人」には、はっきりとした強みがあります。何があっても牛のことだけを考えられるため、夜中の分娩でも大きな手術でも、自分の体がボロボロになっても牛に尽くせる素質を持っている、と川上さんは言います。
ふつうの人なら牛に蹴られると「痛い」「距離を離したい」「むかつく」と感じます。川上さん自身もそう思うそうです。しかしリミッターが外れた人は愛情が上回るため、蹴られても平気で牛に接することができます。導入したばかりで慣れていない牛の世話や、初産牛をパーラーに慣らす作業などは、まさにこうした人にこそ向いています。
ただし、この強みは弱みにもなります。可愛がっている牛が廃用(経済性の観点から飼育をやめる判断)になるとき、きっぱり割り切れなくなるのです。川上さん自身も「経営に悪いと思っていても、こいつは残したい、種付けしたいという気持ちが勝ってしまう」と打ち明け、「経営者としては全然向いていない」と苦笑します。
理想は「付かず離れず」の物理的距離感
ここまでは「精神的な距離感」の話でしたが、川上さんは物理的な距離感の重要性についても語ります。社長が牛を溺愛しすぎると、牛が搾乳中に舐めてきたり、体をスリスリして甘えてくるようになります。おとなしいのは良いのですが、つなぎ牛舎ではミルカーを引っ張られたり、餌やりや掃除中に乗りかかってこられたりと、作業上のトラブルにつながることがあります。
川上さんが理想としているのは、手を伸ばすと牛が2〜3歩後ろで待機し、じっと待っていると少しずつ寄ってきて手を舐める——そんな距離感です。握り拳を出すと寄ってきて、拳に触れた瞬間に手を開くとサッと下がる。この「付かず離れず」の関係が最も飼いやすいといいます。
手を伸ばす
牛は2〜3歩後ろで待機している
じっと待つ
牛が少しずつ近づいてくる
拳に触れる → 手を開く
牛がサッと下がる。この付かず離れずが飼いやすい
この信頼関係の距離感がうまくできていると、初産で生まれた牛でもロープで縛ったり足掛けをしたりする必要がほとんどなくなります。牛が飼いやすくなれば、牛も人もお互いに楽になるというわけです。
ミルカー壊されたらイラッとしちゃうんだよ。一瞬で50万とか飛んでくんだよ。横浜行けるくらいのお金を一瞬で壊していく。でも可愛い。
川上さんは、社長が牛と一定の距離を取るのは金銭感覚が関わっているからだと説明します。従業員に給料を払わなければならず、「あの社長の牛の扱い方はダメだ」と思っても、その裏にはいろいろな事情があるのです。
牛は「写真」で記憶する
距離感の話は、牛の記憶の仕組みにもつながります。子牛の時にベタベタ可愛がって刷り込むと、その関係が永久に続いてしまいます。だからこそ、序格(角の除去)や離乳、移動のタイミングを作業体系のなかでどう組むかが重要になります。
川上さんによれば、人間は物事を「動画」のように連続で覚えていくのに対し、牛は「写真」で記憶するといいます。つまり衝撃的な出来事が起きた瞬間の一枚の写真が、いつまでも強く残り続けるのです。人工授精も捕まえ方次第では牛が嫌がる体験になり、それだけで人間が「恐怖を与える対象」として記憶されてしまいます。
「動画」のように連続で覚えていく
「写真」で記憶する。衝撃的な瞬間が強く残り続ける
この記憶の消しにくさを踏まえ、川上さんは「なるべく衝撃を与えない飼い方」を心がけていると言います。序格の際に目隠しをして何が起きているかわからないようにしたり、移動のときも目隠しをして記憶が刷り込まれないよう緩和したりする工夫です。ストレスを一度にまとめて与えるか、期間を空けて分散させるかも、農場によって考え方が分かれる部分だと語ります。
社長と従業員の距離感が合わないとき
牧場では、社長の考え方に基づいて牛が飼われています。その牛たちを、それぞれ違う距離感を持った従業員が世話をすることになります。もし社長と大きく異なる距離感を持った従業員がその牧場で働くと、やはり苦しくなりがちだと川上さんは指摘します。
「距離感を変えなさい」と言っても、牛も人もそう簡単には変えられません。だからこそ、自分に合った牧場を選ぶことが大切になります。今は合わなくても、数年経てば牛は更新されていくので、そこからスタートするという選択肢もあります。飼い方によって、自分に合った距離感の牛が生まれてくるかもしれないからです。
最後に川上さんは、「自分に合った牧場は全国どこにでもある。どこでもいいという人なら、合う方に行った方が酪農は楽しいし、うまくいく」と締めくくりました。
まとめ
今回の配信は、川上さんが作った「牛との距離感診断」を軸に、酪農の仕事とのつき合い方を語る内容でした。診断のねらいは向き・不向きを断じることではなく、自分のタイプに合った牧場や職場を見つける手助けをすることにあります。
牛を溺愛する「リミッターが外れた人」には牛に尽くせる強みがある一方、廃用の判断で割り切れないという弱みもあります。物理的には「付かず離れず」の距離感が最も飼いやすく、牛が「写真」で記憶する特性を踏まえたストレスの少ない飼い方が重要だと語られました。社長と従業員の距離感が合わないなら、無理に変えるより合う場所を探す方がよい——酪農の現場感覚に根ざした、実践的なトークでした。
- 「牛との距離感診断」10項目のねらいは、向き・不向きの判定ではなく、自分に合った牧場や職場を見つけること
- 牛を溺愛する人は牛に尽くせる強みを持つが、廃用の判断で割り切れなくなる弱みもある
- 物理的には、手を伸ばすと少しずつ寄ってくる「付かず離れず」の距離感が最も飼いやすい
- 牛は「写真」のように衝撃的な瞬間を記憶するため、目隠しなどで衝撃を減らす飼い方が有効
- 社長と距離感が合わないなら無理に変えず、自分に合った牧場を探す方が酪農は楽しくうまくいく
